17話【違和感】
「一鉄さん……彼は人間よ……」
結月は、ゆっくりと立ち上がった。
肩が荒く上下している。
左腕はだらりと垂れ下がったまま。
それでも、気持ちで折れない。
「反逆者を処罰したまでだ」
綱が振り向く。
その眼差しは冷たい。
感情ではなく、規律だけで動いているような目だった。
「もう……奪わせない……」
結月はライトを構える。
唇を強く噛み締める。
怒りに飲まれれば終わる。
だから、押し殺す。
悲鳴も、憎しみも、焼けつくような過去も――すべて。
「弱くては、何も守れぬ」
綱が一歩、踏み出す。
空気が沈む。
白い光の中に、見えない重圧が満ちていく。
次の“執行”が始まる。
ギュイン!
空気を裂くホバーブーツの音が、外から響いた。
「!?」
綱の眉が、わずかに動く。
『まだ自分は動いていない。ならば、この音は何だ』
視線を鋭く走らせる。
砕け散った硝子片。
血溜まり。
その中心にあったはずの一鉄の姿が――消えていた。
巻き上がる砂塵だけが、そこに残っている。
『確かにホバーブーツの音がした』
綱の視線が周囲を探る。
血の跡が建物の裏へと続いていた。
結月は構えを崩さない。
『……音が、増えた……』
状況は分からない。
だが空気が変わった。
綱から僅かに焦りのにおいがする。
ザッ――!
結月がライトを横薙ぎに振るう。
キュイン。
綱は滑るようにそれを躱した。
だが――反撃がこない。
『ホバーブーツは、私の専用装具のはずだ』
綱の意識が明らかに揺れている。
違和感が頭から離れない。
結月を処分するべきか。
それとも、まず異常の正体を追うべきか。
その一瞬の迷いが、反撃を忘れさせた。
――建物の裏――
「まずい……」
朧は、一鉄の大きな身体を抱えたまま、膝をついた。
光統院の隊服は、血で重く濡れている。
潰れたヘルメットの顎紐を外す。
気道を確保する。
息がない。
意識もない。
だが――まだ温もりがある。
朧は首筋に指を当てた。
辛うじて。
本当に辛うじて、脈が打っている。
「……生きている」
すぐに鞄を開け、秘薬を取り出す。
瓶口を一鉄の口へ押し当てた。
ズズズ……
緑の液体が、まるで意思を持つかのように流れ込んでいく。
粘りつき、這い、喉の奥へ吸い込まれていく。
それは、薬というより生物に近かった。
続けて体に刺さった大きなガラス片を抜く。
血が溢れる。
手持ちの秘薬は残り二本。
ここで出し惜しみはできない。
朧は、秘薬を一鉄の傷口へ流す。
アメーバのように、傷へ染み込む。
プツッ。
プツッ。
細かなガラス片が体表へ押し出される。
グジュ……と肉が蠢き、裂けた傷を塞いでいく。
まるで、ミクロの医者が体内で働いているかのようだった。
「……あとは精神力だ」
朧は、一鉄をそっと地面へ横たえる。
「帰ってこい」
届かなくてもいい。
それでも、言わずにはいられなかった。
立ち上がる朧。
深く息を吸う。
『相手は綱……』
理解している。
油断も情けも通じない相手だ。
それでも。
朧はもう一度、覚悟を固めた。
――監視室――
迷いを断ち切るように、綱が意識を切り替える。
キュイン――
床を擦るような滑走音。
次の瞬間、綱は消えていた。
「――っ」
巻き起こる風に、結月は咄嗟に横へ跳ぶ。
だが、遅い。
ドゴッ!
左肩に拳がめり込んだ。
「うっ……!」
鈍い衝撃。
骨が軋む。
視界が白く弾ける。
そのまま――
バリンッ!!
結月の身体が、ひび割れたガラスを突き破った。
ガラス片が弾け飛ぶ。
監視室の外へ放り出される。
ドガンッ!!
給油機に叩きつけられる。
肺の奥の空気が一気に押し出された。
「軽い」
綱が吐き捨てる。
ガシャン。
窓枠を蹴破り、自らも外へ出る。
「怪人は確実に排除する」
柄へ手をかける。
ザッ――
引き抜かれた電子刀が赤熱を帯びる。
刃の周囲で空気が揺らいだ。
『熱気……』
結月は立ち上がれない。
全身に痛みが走る。
左腕は痺れ、感覚が鈍い。
「動いて!」
それでも、
立ち上がろうと、両足を必死に叩く。
ギュイィィ――ン!
ホバーブーツが唸り、一気に距離を詰める綱。
その瞬間、視界の端に影が飛び込む。
ギュインッ――!
「!?」
違和感の綱。
また音が重なった。
ホバーブーツが、二つ。
ガキンッ!!
綱の目が見開かれる。
振り下ろされた電子刀を――
黒鋼のクナイが受け止めた。
火花が散る。
空気が震える。
一瞬、時間が止まる。
綱の目前。
黒い忍装束。
ホバーブーツを履いた忍が、結月と綱の間に割って入ってきた。
ジュグ……
電子刀の熱で、クナイが熔け始める。
忍は即座に刃を払う。
前蹴り。
綱はキュインと短く滑って躱し、後方へ退いた。
「何奴!」
綱の怒号。
そこに、初めてはっきりとした焦りが混じる。
黒い装束。
黒い頭巾。
目元しか見えない。
忍は答えない。
代わりに、変形したクナイを綱に投げた。
キンッ!
綱が刀でそれを薙ぎ払う。
忍は新たなクナイを取り出す。
綱を見据えたまま、腰へ手を回し掴む。
黒地に金の鞘。
金の鍔。
脇差。
それが、後方の結月へと差し出される。
結月の額に、冷たい金属が触れた。
呼吸が一瞬止まる。
敵か。
味方か。
払うべきか。
受け取るべきか。
結月は感じ取る。
敵意のない人間のにおい。
静かだが強い意思。
迷いを抱えながらも、前へ進む者の気配。
恐る恐る柄を握る。
「……刀」
微かに呟く。
結月は顔を上げる。
「……あなたは?」
疲弊した声で尋ねる。
だが、その問いの答えは返らない。
ギュインッ――!
二つのホバーブーツが同時に唸った。
赤いスラスター光が交錯する。
ガキンッ!
バキンッ!
火花。
疾風。
高速の戦いが始まる。
刃が交わる音。
風を裂く圧。
踏み込む衝撃。
空気の乱れ。
結月は、視覚の代わりにそれらすべてを拾う。
『……綱に善戦!? 何者なの……』
ドゴンッ!
忍が地面へ叩きつけられる。
すぐに立ち上がる。
だが呼吸は荒い。
やはり相手は綱。
武人。
執行者。
光統院最強。
キュインッ!
再び激突。
熱風が渦巻く。
結月はふらつきながら、ようやく立ち上がった。
満身創痍の顔。
左腕は垂れたまま。
右手に脇差。
鞘を口に咥える。
『もう……私にできることは――』
ゆっくりと引き抜く。
スゥ――
刃が現れる。
カラン。
鞘が口から落ちた。
柄が手に馴染む。
初めて触れたはずなのに違和感がない。
地鉄には痣のような紋様。
月のようでもあり、目のようにも見える紋様。
濡れた闇のような光沢。
ギラリ。
脇差が妖しく光った。




