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婚約破棄されたので「終わってる土地」で温泉掘ります!湯治した元暗殺者が美貌の最強番頭に覚醒して溺愛されました。〜凍える元婚約者は「温泉をよこせ」と騒いでますが、源泉掛け流しライフが忙しいのでお断り!〜

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/04

 

「アメリス! 貴様との婚約は破棄だ! これ以上、貴様のような『土臭い女』を側に置いておけるか!」


 王城の大広間。


 王太子ジェスターの金切り声が、優雅なワルツの旋律を暴力的に断ち切った。


 集まっていた貴族たちが、汚いものを見るような目で一斉に距離を取る。


 その視線の中心で、私は――ドレスの裾を強く握りしめ、震えていた。


 悲しみで? 絶望で?


 いいえ。


 (……キタッ! ついにキタわ! 計画通りッ!)


 笑いが込み上げてくるのを、必死に奥歯で噛み殺しているのだ。


 私の私室から、大量の「謎の石」と「異臭を放つ液体」が発見されたのが昨日のこと。


 ジェスターは勝ち誇った顔で、テーブルの上に並べられた証拠品を指差した。


「貴様の部屋のクローゼットから出てきた、あの大量の泥と石ころは何だ!? それに、あの腐った卵のような酷い悪臭のする小瓶は! 黒魔術の儀式に使っていたのだろう!」


「ヒッ……!」


 周囲の令嬢たちが、ハンカチで鼻を覆って悲鳴を上げる。


 確かに臭う。


 鼻腔を突き刺すような、独特の腐卵臭。


 ちょっとだけ、訂正させてほしい。


 石ころに見えるのは、私が10年かけて、お小遣いの全てを冒険者ギルドへの依頼費に突っ込んで収集させた「アルター地方の地層ボーリングコア」。


 悪臭と言われた液体は、命知らずの行商人を雇って地下水脈から採取させた「高濃度硫黄泉の成分濃縮サンプル」だ。


 私にとっては、どんな宝石よりも輝く原石であり、どんな高級香水よりも脳髄を痺れさせる、極上のアロマなのだが……。


 まあ、週に一度たらいの水で体を拭くだけの、入浴文化未開の地に住む彼らに、この「湯」の素晴らしさは理解できまい。


 もしここで真実を話せば、「資源調査か?」「王家の土地を狙っているのか?」と勘繰られ、私の『隠居計画』が潰えてしまう。


 (なら、魔女の汚名を被ったままでいい。むしろ好都合! これを待ってた!)


 私は前世、「秘湯専門の温泉ライター」だった。


 地図にない湯を求めて崖を登り、熊と戦い、最後は幻の間欠泉を取材中に滑落死した、筋金入りの温泉マニアだ。


 この不潔で寒い世界に転生して以来、私の悲願はただ一つ。


 自分だけの、極上の温泉リゾートを作ること。


「……おっしゃる通りでございます」


 私は表情筋を絶滅させ、無表情で答えた。


「私の趣味嗜好が、殿下の清らかな御心を傷つけてしまったのなら、致し方ありません」


「み、認めるのか! やはり呪いのアイテムだったのか!」


「ご想像にお任せします。それで、婚約破棄は決定事項ということでよろしいですね?」


 私が一歩踏み出すと、ジェスターは「ひっ」と情けない声を上げて後ずさった。


 私が懐に手を入れたからだ。


 呪いの札でも出されると思ったのか?


 私が取り出したのは、一枚の古びた羊皮紙だった。


「では、手切れ金の話をしましょう」


「か、金だと? 貴様、自分の立場が分かっていないのか!? 処刑されないだけ有り難いと思うだろう! そこは!」


「ええ、ですので、金銭は不要です。私が手切れ金代わりに欲しいのは、王家の長年の赤字案件となっている『不要なゴミ』です。それを私が引き取りましょう」


 私は羊皮紙を突きつけた。


「王家直轄領の北端、アルター地方。あそこの譲渡をお願いします」


 その瞬間、会場が水を打ったように静まり返った。


 アルター地方。


 万年雪に閉ざされ、作物は育たず、強力な魔獣が跋扈する、『終わってる土地』として有名な場所。


 王家ですら管理費の赤字に苦しみ、放棄しかけている超お荷物エリアだ。


「は……? あんな場所を? 貴様、気が狂ったのか?」


「ええ。私のような薄気味悪い女には、あのような土地がお似合いでしょう? そこで大人しく、雪に埋もれて惨めな最期を迎えましょう」


 私はニヤリと、わざと邪悪に見えるように口角を吊り上げた。


 これは演技ではない。


 あそこの地下数百メートルに眠る大陸最大級の『龍脈(マグマ溜まり)』と、そこから湧き出る未知の泉質を想像して、自然と涎が出そうになったのだ。


 ジェスターは私を見て、本気で気味悪そうに身震いした。


「正気か……いや、狂っている……。いいだろう、くれてやる! 二度と私の前に顔を見せるな! この狂人が!」


「ありがとうございます。サインはこちらに。あ、拇印もお願いしますね。公的文書ですので」


「くそっ、とっとと消えろ!」


 ジェスターは引ったくるようにペンを取り、殴り書きでサインをした。


 契約成立!


 これで、あの土地は、地下資源も含めて全て私のものだ。


「では、さようなら。皆様も、どうぞその薄ら寒い生活をお続けください」


 私はドレスの裾を翻した。


 背後で「悪魔だ」「魔女だ」「狂人だ」と囁く声が聞こえる。


 お好きにどうぞ。なんでも言いなさいな。


 一生、冷たいシーツに震え、垢まみれの体で過ごせばいい。


 私はこれから、毎日源泉掛け流しに浸かるのだから!


 (くぅ〜! 待っててね私の極楽浄土! いますぐ掘り起こしてあげるからぁッ! やば、楽しみすぎてヨダレ出てきた)


 私は足早に、けれどスキップしそうなほど弾む足取りで、鼻歌を歌いながら王城を後にした。




 ◇◆◇




 数日後。


 北へと向かう馬車は、視界ゼロの猛吹雪の中にあった。


 窓の外はホワイトアウト。天地の境目すらわからない。


 雇った御者は、途中の宿場で「これ以上は死ぬ! あんた人間じゃねぇ! こんなとこに連れてきやがって! 人の心持ってねぇのかよ!? ちょっと可愛いからって調子乗りやがってよ! 狂人が!」と。


 私を罵倒しまくった挙句、泣いて逃げ出したため、私が自分で手綱を握ってここまで来た。


 生活魔法で強化した馬車は、雪の壁を砕きながら進む。


 温泉のためなら、雪山ドライブなど近所のコンビニへ行くようなものだ。


 この寒さ、険しさを乗り越えて辿り着くことに意味があるというのに。


 根性のない奴らばっかりだ。腑抜けが。


「……見えた」


 吹雪の切れ間に、黒々とした石造りの屋敷が亡霊のように浮かび上がった。


 かつての領主の館だが、今は「終わった土地」の管理人が一人で住んでいるはずだ。


 私は馬車から雪上へと軽やかに飛び降りた。


 が。


 ズボッ、と膝まで雪に埋まる。


「寒ッ……!」


 鼻の中の水分が一瞬で凍る。


 頬をナイフで切り裂くような風。まつ毛に氷柱ができるほどの冷気。


 普通なら絶望して泣き崩れる環境だ。


 だが、私は歓喜で打ち震えた。


「最高……これこれ! この『冷え』こそが最高のスパイスなのよ! くぅ〜! たまらん!」


 サウナの後の水風呂が至高であるように。


 キンキンに冷えたビールがあるからこそ、枝豆が美味いように。


 極限まで冷え切った体があるからこそ、熱い湯に浸かった瞬間の、あの脳髄が溶けるような快感が生まれる。


 私は荷台から、特注の「ミスリル製ツルハシ(対岩盤用カスタム)」を担ぎ出した。


 ドレスなどとうに脱ぎ捨てた。


 動きやすい作業着に、厚手のダウンコート(魔獣の毛皮製)というガチ装備だ。


「ごめんくださーい! 新しいオーナーのアメリスでーす! 入りますよー!」


 返事を待たずに、私は凍りついた屋敷の扉を蹴り開けた。


 蝶番が錆びついていたので、少し力を入れたら扉ごと内側に倒れてしまった。


「オンボロ屋敷かい」


 ドォォォン!!


 盛大な音と共に、雪崩のように屋敷へ侵入する。


「……何事だ」


 奥の闇から、地を這うような低い声――殺気が響いた。


 現れたのは、一人の男。


 長身痩躯。


 ボサボサに伸びた黒髪は脂と煤で汚れ、顔の左半分には、火傷のように爛れた赤黒い痣が広がっている。


 右目は獣のように鋭く光り、手には刃こぼれした錆びた短剣が握られていた。


 レムオン。


 元・王家の影(暗殺者)。


 王家の汚れ仕事を一手に引き受け、最後は「知りすぎた」として使い潰され、この死地に捨てられた、いわくつきの男だ。


(ふーむ。コワモテ。でも、なんか雰囲気が……)


 彼は倒れた扉と、巨大なツルハシを担いだ私を見て、一瞬だけ呆気にとられた顔をした。


 だが、すぐに喉元に刃を向けてくる。


「貴族の女か……死に場所を間違えたな。ここは貴様のような人間が来ていい場所じゃ……」


「……パーフェクト」


 私は彼の言葉を遮り、思わずうっとりと声を漏らした。


「……は?」


「その無駄のない広背筋、そして雪道を長時間歩いてもブレない強靭な大腿四頭筋……! 栄養状態は最悪なのに、体幹が完璧ッ!」


 私は彼を凝視した。


 服の上からでも分かる。


 暗殺者として極限まで鍛え上げられた筋肉は、重機のないこの世界において国宝級の動力源だ。


 岩盤破砕の即戦力として、これ以上の人材はいない。


「貴様……何を言っている?」


「あ、すみません。挨拶が遅れました。今日からここを『温泉リゾート・アルター』にします、オーナーのアメリスです。ども」


「リゾート……? 寒さで頭が湧いたのか?」


「湧くのはお湯です! さあレムオンさん、立ち話もなんですし、掘りに行きますよ。善は急げです!」


「掘る? 墓穴をか?」


「いいえ、源泉を!」


 私は有無を言わさず、レムオンの手首をガシッと掴んだ。


 ビクリ、と彼の体が強張る。


「……ッ、触るな!」


 彼は手を振り払おうとしたが、その手があまりに冷たいことに私は気づいた。


 氷のような冷たさだ。


 暗殺者としての過酷な酷使と、この極寒の環境で、彼の体はボロボロになっている。


 血行不良、神経痛、古傷の痛み……触れただけで、その体が悲鳴を上げているのが伝わってきた。


「……痛いんでしょう? その左顔の痣も」


 私は手袋を外し、そっと彼に近づいた。


 そして、躊躇うことなくその焼け爛れた頬に触れる。


「ッ……!?」


 レムオンが驚愕に目を見開き、反射的に身を引こうとした。


 誰もが悲鳴を上げて逃げ出す、呪いの刻印。


 けれど、私は手を離さなかった。


 ザラザラとした皮膚の感触。冷えきって硬くなっている。


「ひどく冷えている……。これじゃあ、傷も疼くはずです」


「……怖くないのか。これは呪いだぞ。王家の影として殺しすぎた報い……一生消えない」


「いいえ、消えます。それに呪いなんかじゃありません。ただの鬱血と、魔素の沈着です」


「……医者にも見放されたんだ。治るわけがない」


「治せます。薬も魔法もいりません。必要なのは、スコップと情熱、そして……大地の恵みだけ!」


 私はニカッと笑い、予備のスコップを彼の胸に押し付けた。


「私を信じて手伝ってください。報酬は、一生分の『温もり』で支払いますから!」


「温もり……」


 レムオンは、スコップと私を交互に見た。


 こいつは正気か、という目だ。


 だが、私の目に一切の迷いがないこと、そして「温もり」という言葉に、捨て犬のような瞳がわずかに揺れた。


 この極寒の地で、彼が最も渇望していたもの。


 うんうん。わかるよ、わかる。


 寒いもんね。あったか〜い、お湯の温もり、求めちゃうよね!


「……本当に温もりをくれるんだな……? 嘘をついたら、雪に埋めるぞ」


「どうぞどうぞご自由に。でも、温泉を掘り当てたら一緒に入りますよ?」


「そ……それは、断る!」


 レムオンは渋々といった様子でついてきた。


 やはり、根は真面目な男だ。


 場所は屋敷の中庭。


 私は前世の知識と、独自開発した『魔力探知羅針盤』を取り出した。


 針が狂ったように回転し、一点を指し示す。


「ここよ……! この真下に、火の精霊たちが封じ込められている!」


 そう、この地が寒いのは呪いではない。


 地下のマグマ溜まり(龍脈)が地殻変動で詰まり、行き場を失った火の魔力が地熱を奪っていたのだ。


 ニキビのように詰まったこの一点を貫けば……。


「レムオンさん、あそこを全力で突いて! ムカつくやつを殺す気で!」


「……わけが分からんが、やればいいんだな!」


 レムオンが跳躍した。


 暗殺術で鍛え抜かれた筋肉と、魔力が込められた一撃が、凍てつく大地を穿つ。


 ガガンッ!!


 硬い岩盤を砕く音。


 亀裂が走り、次の瞬間。


 ドシュゥゥゥゥ――ッ!!


 大地が咆哮を上げた。


 真っ白な蒸気が空高く吹き上がり、周囲の雪を一瞬で溶かしていく。


 視界が真っ白に染まる中、風に乗って漂ってきたのは、腐った卵の匂い――いいえ、芳醇で濃厚な硫黄の香り!


「な、なんだこれは!? 熱い!? 煙か!?」


 レムオンが狼狽える。


「当たりぃぃぃぃ!! うっひょー!!」


 私は歓喜の叫びを上げた。


 溢れ出したのは、エメラルドグリーンに輝く極上の硫黄泉。


 詰まりが取れたことで、地下の熱エネルギーが屋敷の床下全体へと奔流となって駆け巡る。


「レムオンさん、急いで岩を並べて! 湯船を作るのよ! ああっ、お湯が逃げる! もったいない! 早く!」


「……熱い」


 レムオンが呆然と呟いた。

 飛び散ったお湯が、彼の凍りついた頬にかかったのだ。


「痛くない……。冷え切っていた傷が、溶かされていくようだ」


 彼は震える手で、溢れ出る源泉に触れた。


「俺は……ずっと凍えていたんだな」


 湯気の中で、彼の方から一筋の雫が零れ落ちたのが見えた気がした。


 それが温泉のしずくなのか、涙なのかは分からなかったけれど。


「ちょっと! そういうの後でいいから! 早く!」




 ◇◆◇




 翌朝。


 目が覚めると、そこは天国のように温かかった。


 窓の外は相変わらず、世界を白く塗りつぶすような猛吹雪だ。


 けれど、部屋の中は春の陽だまりのよう。


 床下を循環する温泉水が放熱し、石造りの冷たい床を天然のオンドル(床暖房)へと変えているおかげだ。


 湿気を含んだ温かい空気が、乾燥した肌に染み渡る。


「……よく眠れたか」


 部屋の扉が開き、レムオンが入ってきた。


 彼は私が無理やり勧めた『朝風呂』を浴びてきたらしい。


 湯気を纏い、濡れた髪をタオルで拭いている。


 私は寝ぼけ眼をこすりながら彼を見て――そして、思考を停止させた。


「……んー……おは…………。え? 誰?」


 思わず、警戒して布団を引き上げる。


 不法侵入者かと思った。


 昨日までのレムオンは、泥と煤にまみれ、殺気と哀愁に塗れた「悲しき手負いの野獣です」って感じだった。


 でも、今、目の前に立っている男は?


 強酸性の硫黄泉によって古い角質と汚れが落ちた肌は、生まれたての赤子のように、むきたてのゆで卵のようにプルンプルンで透き通っている。


 痩せこけて見るからにやばい色をしていた頬には血色が戻り、健康的な艶を帯びている。


 何より劇的なのは、あの呪いとか言っていた痣だ。


 温泉成分による殺菌と、血行促進、そして『火の魔力』の浄化作用+ファンタジー効能だろうか。


 赤黒く腫れ上がっていた皮膚が落ち着き、薄紅色に変化している。


 消えてはいない。


 だが、その薄紅の痕跡が、彼の涼やかな目元に、妖艶とも言える色気を添えていた。


 まるで、桜の花びらが頬に舞い落ちたような、儚くも美しい「紋様」。


 一種の芸術にさえ見える。


 濡れた黒髪が、白いうなじに張り付いている様など、直視できないほどの破壊力だ。


「……俺だ、レムオンだ。寝ぼけているのか?」


 彼が不思議そうに首を傾げる。


 その仕草すらも、無条件に美しい。


 (嘘でしょ……原石どころか、研磨済みのブラックダイヤモンドじゃん!)


 私はガバっと布団から起き上がった。


「レムオンさん! ちょっとそこに座ってください!」


「な、なんだ急に」


「いいから!」


 私は彼を椅子に座らせると、手持ちの櫛を取り出し、彼の髪を梳いた。


 ボサボサだった髪を整え、前髪を軽く流し、サイドを耳にかける。


 これだけで、彼の隠されていた美貌が完全に露わになる。


「おおぅ……」


 私は思わず唸った。


 鏡を見せると、レムオン自身が息を呑んだ。


「これが……俺、なのか……?」


 彼は震える指で、頬の薄紅色の痕に触れた。


「痛くない……。あんなに疼いていた傷が、熱を持っているのに、痛くないんだ」


「ええ。昨日の『野獣』はどこへやら。誰もが振り返る『傾国の美男子』の誕生ですよ」


「……からかうな」


「からかってません!」


 私は鏡の中の彼と目を合わせ、ニヤリと笑った。


「……この顔は金になります。最強の看板ですよ」


「かんばん……?」


「ええ。『呪われた傷も癒える奇跡の湯』。その生きた証拠があなた! さあ、そうと決まれば忙しくなりますよ! この屋敷を、大陸一のリゾート地に改装します!」


「……お前、本当にブレないな」


 レムオンは呆れたように、けれど初めて、穏やかな瞳で私を見た。




 ◇◆◇




 それからの日々は、まさに開拓戦争だった。


「レムオンさん、この廊下の雑巾がけをお願いします。端から端まで、チリ一つ残さず!」


「……分かった」


 レムオンが雑巾を構える。


 次の瞬間、彼の姿がブレた。


 ヒュンッ!


 風切り音と共に、彼は廊下の向こう側へ移動していた。


 その軌跡には、鏡のように磨き上げられた床が輝いている。


「わお! すごい! それが噂の暗殺歩法『縮地』ですか!」


「……まさか、こんな掃除に使わされるとは思わなかったがな」


 レムオンは複雑そうな顔をしながらも、綺麗になった床を見て満足げだ。


 続いて、露天風呂の拡張工事。


「あそこの木材、浴槽の縁に使うので綺麗に切ってください」


「任せろ」


 彼が腰に差していた短剣を抜く。


 銀閃が走る。


 硬い鉄木が、定規で測ったかのように滑らかな断面で切断された。


 カンナ掛けすら不要なほどの、神業的な断面だ。


「完璧です! あなた、暗殺者より大工の棟梁のほうが向いてますよ!」


「……人を殺すための剣技が、人を癒やす風呂を作るのに役立つとはな」


 レムオンは短剣を鞘に納め、ふっと自嘲気味に、しかし優しく笑った。


 この笑顔の破壊力たるや、雪女も溶けて裸足で逃げ出すレベルだわ。


 守りたい、この笑顔。




 ◇◆◇




 そうして数週間後。


 廃屋同然だった屋敷は、見違えるような「温泉宿」へと生まれ変わった。


 資金源となったのは、やはりこの地の資源だ。


 レムオンが害獣駆除のついでに狩ってくる、高ランク魔獣の素材。


 そして、私が掘り出した希少鉱石。


 これらを行商人に無理やり高値で売りつけ、代わりに最高級の食材やリネンを買い付けたのだ。


 玄関には「アルター温泉郷・本館」と書かれた看板(レムオン直筆・達筆)が掲げられ、館内はどこもかしこもポカポカだ。


 最初のお客様は、遭難しかけた行商人たちだった。


「ひぃっ! 『死の地』の管理人……! く、喰われる……!」


 彼らは扉を開けたレムオンを見て悲鳴を上げたが、すぐに目を丸くした。


「いらっしゃいませ。外は寒かったでしょう。さあ、中へ」


 そこに立っているのは、噂の化け物ではなく、湯上がりの良い香りをさせた絶世の美青年だったからだ。


「えっ……び、美男子……?」



 ◇◆◇



「ご、極楽ぅぅぅ……!」


 冷え切った体に、42度の硫黄泉がトロトロと絡みつく。


 指先の感覚が戻り、芯まで冷え切った骨が解凍されていく快感。


 行商人たちは湯船の中で、涙を流して喜んだ。


 大の大人が。


 湯上がりには、私が開発した『温泉卵』と『魔獣肉のしゃぶしゃぶ』。


 彼らは「天国はここにあったのか」と拝みながら帰っていった。


 行商人の口は、吟遊詩人の歌よりも早かった。


「北に極楽があるらしい」


「死の地には、月の精霊のような美青年がいるそうだ」


 そして何より、商人たちを驚かせたのは『道』だった。


 活性化した地下の龍脈が、屋敷へと続く街道の雪を下から溶かし、天然のロードヒーティングとなっていたのだ。


 猛吹雪の中でも、そこだけはぽっかりと安全な一本道が開けている。


 最早、この大地さえもが、私のリゾート計画を祝福してくれているのだ!!


「あの道を進めば、万病を治す『黄金の湯』にたどり着ける」


 そんな噂が、瞬く間に王都全域へと広がっていった。




 ◇◆◇




 そして、その噂はついに、王城で寒さに震えるアホな男の耳にも届くこととなる。


「……なんだと? 北の地に、楽園だと?」


 王太子ジェスターは、毛布を三枚被り、ガチガチと歯を鳴らしながら報告を聞いていた。


 今年の冬は異常気象で、王都もかつてない寒波に襲われていた。


 薪は底をつき、魔法石もエネルギー切れ。暖炉の前でも吐く息が白い。


 ジェスターの手足はしもやけで赤く腫れ上がり、鼻水が止まらない。


「アメリスが追放された場所だぞ。あるのは絶望と氷だけのはずだ」


「し、しかし、多くの商人が証言しております。『黄金の湯』に浸かり、『絶世の美男子』に歓待されたと……」


「美男子……?」


 ジェスターの脳裏に、どす黒い嫉妬が渦巻いた。


 あのアメリスが、自分以外の男と、その「楽園」でぬくぬくと幸せに暮らしている?


 しかも、自分たちがこの寒波に苦しんでいる間に?


「……ゆ、許せん!」


 ジェスターはドカッと椅子を蹴り飛ばした。


「い、いてっ!!」


 つま先が痛んで、涙目になる。


「ちょ、調査だ! ……いや、私が直接行く! その楽園とやらが本当なら、王家が没収してやる! 温かい場所は王族のものだ!」


 それは調査という名の、単なる嫉妬と強奪の宣言だった。




 ◇◆◇




 一週間後。


 アルター温泉郷は、予想を遥かに超える賑わいを見せていた。


「まあ! なんて素敵なの!」


「外はこんなに寒いのに、中は春みたい!」


 ロビーでは、お忍びで訪れた貴族の奥様方が歓声を上げている。


 彼女たちの視線の先には、優雅に特製フルーツ牛乳(レムオンが捕まえて私が調教してペットにしたミノタウロスのお乳産。ギリ牛)を運ぶレムオンの姿があった。


「ようこそお越しくださいました。足元にお気をつけください」


 彼が涼やかな微笑みを浮かべると、奥様方は「きゃあ!」と頬を染めて倒れそうになる。


 かつて「王家の影」として培った気配りや身のこなしが、まさか「最高級のホスピタリティ」として開花するとは、誰も予想しなかっただろう。


 私はカウンターの奥で、分厚い売上帳を見ながらほくそ笑んだ。


 (完璧ね。リピート率九割超え。関連グッズの『レムオン印の入浴剤』も飛ぶように売れてるわ)


 まさに順風満帆。


 しかし。


 そんな平和な昼下がり、不協和音は唐突に響き渡った。


 ドカァッ!!


 入り口の扉が、乱暴に蹴破られた。


 冷気と共に、雪が吹き込む。


「ひぃっ!?」


 客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。


 現れたのは、重装備の騎士団。


 そして、その中央で最高級の毛皮に身を包み、それでも鼻水を垂らしてガチガチと震えているダサい男。


「さ、さ、寒い……! なんだここは!? な、なぜこんなに暖かいぃっ!?」


 見間違えるはずもない。


 元婚約者、王太子ジェスターだ。


 寒さで顔色は真っ青、唇は紫色。王太子の威厳など欠片もない。死にかけの姿。


 彼は周囲を見回し、私を見つけると、血走った目で指差した。


「アメリス! 貴様、ここで何をしている!」


「何って、経営ですが?」


 私は帳簿を閉じて、冷静に答えた。


「いらっしゃいませ、ジェスター殿下。ご予約されていませんよね? あいにく満室でして。お引き取りを」


「ふ、ふざけるな! 予約など知るか! この私が来たのだぞ! 一番良い部屋と風呂を用意しろ! 今すぐにだ!」


 ジェスターは土足でピカピカの床を踏み荒らし、ズカズカと入ってきた。


 靴の裏についた泥が、レムオンが磨き上げた床を汚していく。


 私は眉をひそめた。


「……お客様。土足は厳禁です。特に、お客様のような汚い方は困りますねぇ」


「うるさい! なんだその他人行儀な態度は! お客様などと呼ぶな! そしてなんだ……この天国のような場所は!?」


 ジェスターは呆然とロビーを見渡した。


 オンドルで温められた空気。


 漂ってくる出汁と硫黄の香り。


 そして、肌艶の良い客たちの幸せそうな顔。


 王城で寒さと空腹に震えていた彼にとって、ここは許しがたいほどの「楽園」だった。


「……許せん。没収だ」


 ジェスターが低い声で呟いた。


「は?」


「没収だと言ったのだ! この土地は王家直轄領! 貴様には貸してやっただけだ! 返還を命じる! 今すぐ出ていけ! 今日からここは私の別荘だ!」


「はあ? お断りします」


 私は懐から、彼がサインした譲渡契約書を取り出した。


「ここには『永久譲渡』と書かれています。あなたのサイン入りでね」


「黙れ! そんな紙切れ、破り捨ててやる! これは王命だぞ!」


「おや、ご存知ありませんでしたか? この羊皮紙、ただの紙ではありませんよ」


 私はニッコリと笑って、契約書の端に浮かび上がった魔法陣を見せつけた。


「これは王家の宝物庫に眠っていた『竜皮の絶対契約書』。一度サインしたら、たとえ国王陛下でも破棄できません。……無理に破れば、契約者の心臓が止まる。そういう『呪い』付きの代物です」


「な、なんだと……ッ!?」


 ジェスターの顔から血の気が引いた。


 あの時、中身も読まずにサインした自分の愚かさを呪っているのだろう。


 お馬鹿ちゃん。


「ここはもう、王家の土地ではありません。正真正銘、私の国(リゾート)です」


 ジェスターがヒステリックに叫ぶ。


「おい、この狂ったバカ女を捕らえろ! そしてこの屋敷の権利書を全て探し出せ! 抵抗するなら殺しても構わん!」


 騎士たちが剣を抜き、私に向かって殺到しようとした。


(全く……しょうもないなぁ)


 その時だった。


 バシャッ!!


 熱いお湯が、先頭の騎士の顔面に浴びせられた。


「あつっ!?」


 騎士が驚いて足を止める。


 湯気の中から、黒い影がゆらりと現れた。


「……俺の主に、その汚い靴で近づくな」


 レムオンのこの場の全てを支配するような低い声。


 手には武器すら持っていない。


 ただ、掃除用のモップと、お湯の入ったバケツを持っているだけだ。


 だが、その立ち姿から放たれる威圧感は、騎士団全員を凍りつかせるのに十分だった。


「だ、誰だ貴様は……?」


 ジェスターが後ずさる。


「その顔……どこかの国の貴公子か? なぜアメリス如きを庇う!」


 ジェスターは気づいていない。


 目の前の美しい青年が、かつて自分が「汚らわしい」と言って使い捨てた暗殺者だということに。


 レムオンは冷ややかに、ゴミを見るような目でジェスターを見下ろした。


「俺を忘れたか? お前が『壊れた道具』としてゴミのように捨てた男だ」


「な……?」


「俺の名はレムオン。この地の管理人であり……アメリスの『番頭』だ」


「レムオン……だと……!?」


 ジェスターの目が限界まで見開かれた。


「馬鹿な! あいつは顔が半分焼けただれた化け物だったはずだ! こんな……こんな美しい男では……!」


「彼女が癒やしてくれたんだ。お前には作れなかった『温もり』でな」


 レムオンが一歩踏み出す。


 騎士たちが恐怖に駆られて後退する。


「ひ、怯むな! やれ! 殺せ! たかが一人だ! 武器も持っていないぞ!」


 ジェスターの命令で、騎士たちが一斉に襲いかかった。


 だが、それは戦いと呼べるものではなかった。


「床が濡れている。……滑るぞ?」


 レムオンがバケツの湯を床にぶちまけた。


 温泉成分を含んだ湯は、磨き上げられた石床の上でオイルのように滑る。


「あら、お客様方、足元にはお気をつけを」


「うわっ!?」


 勢いよく踏み込んだ騎士たちが、次々と足を滑らせて転倒する。


 ガチャガチャと重装備がぶつかり合い、団子状態になる。


「汚物掃除の時間だ」


 レムオンが動いた。


 濡れたモップが旋風のように振るわれる。


 バチンッ! ドカッ!


 モップの先が、的確に騎士たちの急所――喉、鳩尾、膝裏を打つ。


 水分を含んで重くなったモップは、レムオンの筋肉との相乗効果で鉄球のような威力を持っていた。


 レムオンの動きは、水のように滑らかで、それでいて岩のように重い。


 暗殺術と清掃術が融合した、究極の「ハウスキーピング無双」だ。


「おー。お見事」


 私は思わず感心して拍手をする。


「ぐわぁっ!」


「は、速すぎる……!」


 ものの数秒。


 30人の騎士は全員、床の上で伸びていた。


 湯気の中に倒れるその様は、まるで茹で上がった海老のようだ。


 立っているのは、モップを構えたレムオンと、私だけ。


「……な、な、な」


 ジェスターは腰を抜かし、床にへたり込んでいた。


 レムオンがゆっくりと彼に近づく。


 その美しく冷徹な瞳に見下ろされ、ジェスターは完全に萎縮していた。


 自分が捨てた女は、楽園の主となっていた。


 自分が捨てた男は、その楽園の最強の守護者となっていた。


 その圧倒的な「格の差」を、彼は骨の髄まで理解させられたのだ。


「ひぃっ! く、来るな! 私は王太子だぞ!」


「安心しろ。殺しはしない」


 レムオンは、ジェスターの鼻先に濡れたモップを突きつけた。


「だが、ここは『癒やしの場』だ。汚れを持ち込む客は歓迎しない」


「……ッ!」


「出ていけ。二度と、俺たちの楽園に足を踏み入れるな」


 レムオンの瞳に宿る、冷たくも熱い光。


 それに圧倒され、ジェスターは悲鳴を上げて這いずり回った。


「お、覚えていろ! こんな場所、くれてやる! うわぁぁぁぁ!」


 ジェスターは騎士たちを置き去りにして、雪の中へと逃げ出していった。


「あ、お客様ぁ〜。雪も滑るのでお気を付けを〜」


 私の忠告も虚しく、ジェスターは鼻水と涙を垂らしながら、何度も何度も転んでいた。


 転びすぎて全く先に進めていなくて、その姿がなんだか可哀想にすらなってきた。


 その情けな〜い背中はあまりにも小さく、そして寒そうだった。


 おそらく、あの寒空の下では、王都に帰り着く前に凍えるだろう。


「いいのか? あいつ、あのままでは凍死しそうだが……。クズではあるが死ぬほどではないような気もせんでもないが」


「え? 誰のこと?」


「…………え? ……い、いや、なんでもない」


「ふふ。あなたも冗談言うのね」


 私は拍手をした。


「さ! お見事です、レムオンさん。特別ボーナスが必要ですね」


 レムオンは振り返り、困ったように笑った。


「金はいらない。その代わり……」


 彼は私の方へ歩み寄り、そっと私の手を取った。


 その手は、戦いの後だというのに、とても温かかった。


「あんたが俺の凍った心を溶かしてくれた。……もう、アメリスの体温なしじゃ生きられない体なんだ……アメリスが俺を拾ってくれたように、今度は俺が守り続けたいんだ」


 それは、実質的なプロポーズだった。


 周りにいたお客様たちから、「キャー!」という黄色い歓声と拍手が巻き起こる。


 私は顔が熱くなるのを感じた。


 これはオンドルのせいじゃない。


 温泉のせいでもない。


 これまで彼と過ごした時間は本物だし、私も満更じゃない。


「……仕方ないですね。従業員契約、永久更新でお願いします」


「ほ、本当か!?」


「ええ。でも、しっかり働いてもらいますよ? 朝も、昼も……それから、夜も」


「任せろ! ……って、よ、夜も!?」


「ふふ」




 ◇◆◇




 それから数年後。


 アルター地方は、大陸一の温泉リゾートとしてその名を轟かせていた。


 王太子ジェスターは、あの後、寒さと心労で体調を崩し、リゾートからの帰還中に遭難しかけて奇跡的に保護され、そのまま廃嫡されたという噂だ。


 今は新しい王太子(無類の温泉好き)が即位し、私たちのリゾートを公認してくれている。


 というか、お忍びの常連様。


「ふああぁぁ……最っ高……」


 私は今日も、オーナー専用の露天風呂で極楽を味わっていた。


 雪見酒を片手に、満天の星空を見上げる。


「極楽極楽ぅ〜……」


 湯気の中に、白い息が溶けていく。


「飲み過ぎだぞ、アメリス」


 隣から、呆れたような、それでいて甘く優しい声が聞こえる。


 彼もまた、私の隣で湯に浸かっている。


 薄紅色の痣の痕跡は、今では彼のチャームポイントとなり、見る者を惹きつける色気となっていた。


 濡れた髪をかき上げる仕草と、この美しい筋肉だけで、私の心臓はいまだに高鳴ってしまう。


「いいじゃない。今日は記念日なんだし」


「ん? なんの記念日だ?」


「ここを掘り当てて、あなたを拾った日よ」


 私はニカッと笑い、彼にお猪口を差し出した。


 レムオンは苦笑しながら、自分のお猪口を合わせた。


 チン、と澄んだ音が雪夜に響く。


「ありがとう、アメリス。俺に生きる場所をくれて」


「こちらこそ。最高の温もりをありがとう」


 私たちは微笑み合い、熱いお湯と、それ以上に熱い幸せに身を委ねた。


「今夜は寝かさないから。レムオン」


「いつも寝かせてもらえないが? こっちも寝かせるつもりはないが」


 外は極寒の吹雪。


 けれど、ここにはいつまでも冷めることのない、愛と温もりが源泉かけ流しで満ちていた。


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