㊾
「……はぁ。」
「……。」
「分かりました、お引き受けします。」
「君なら、そう言ってくれると思っていたよ。」
眼鏡をかけた華奢な壮年の男性は、濃茶色に少し白髪が混じる自分の生え際を指で掻き、テーブルをはさみ向かい側に座る同年代の男性に向かって諦めたように溜息を吐き、肩を落としてみせる。
その様子をうけて、下の方で緩く結んだ黒髪を横に流した相手は満足そうに微笑んだ。
「……他にご用件がなければ、私はこれで下がらせて頂きますが。」
「ああ、構わない。じゃあ頼んだよ。」
「……。」
飄々とした微笑みを崩さなくなった男性の言葉を受け、返答せずに眼鏡を指で押し上げて直すと、椅子から立ち上がり相手に背を向け部屋の扉に向かう。
ーーパタン。
閉ざされた音と共に一人が去ると、それまで互いが醸し出していた芝居がかった重苦しさは霧散し、部屋は本来の朗らかな光を取り戻した。
「さて、これで準備は整ったけれど……。」
部屋に一人きりになった男性もゆっくりした動作で椅子から立ち上がると、部屋に設置された大きな窓の方におもむろに近づいていく。
「これからどう動けば、君は変わるのだろうね……?」
横に流した長い黒髪を後ろへ弾くと、薄い緑の瞳を外に向け、鮮やかな青い空に浮かぶ金橙色の大木を眺め、男性は静かに微笑んだ。
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ーーー
ーー
「随分と面白い内容の報せが送られて来ました。エレミタ、貴方は知っていたのですか?」
手紙で指定された人目を忍ぶような荒屋の中に入ると、送り主である母が既に待っていた。
そして冷え冷えとする瞳に頗る機嫌のよさそうな笑みを浮かべながら、視線を集中させるようにゆっくりとした手付きで一通の手紙をテーブルの上に乗せたのは、ボイティが妹では無くなったちょうど一ヶ月後のことだった。
(とても機嫌が悪そうだな……。一体この手紙に何が……)
何の紋様もない封蝋が外された真っ白な封筒から取り出した差出人不明の手紙を、恐る恐る手に取り読み進めていくとそこには、信じられないような一節が記されていた。
ーー婚約取り消しにおいて不備の内容があったと指摘し、ビッダウ国から謝罪を受けたはずのスピーア国で、数日前、公の場には姿を現さない第二王太子の婚約式が秘密裏に執り行われたーー
「…………何ですかこれは?!」
「本当に知らなかったのですね……。」
「ええ、全く。…………」
最後まで読み終えた瞬間、情報量が多い得体が知れない内容の手紙に表情を取り繕えないほどの激しい頭痛に襲われ、手紙を落とすようにテーブルに置くと両手で頭を抱えこんでしまう。
そんな俺を見て、母はいつもの真顔に戻していた。
「ここに書かれている第二王太子とは一体……。」
「……西の大陸では以前色々ありましたから、東の大陸のように顔を出さないのは安全策としてでしょうね……。」
(東の大陸と言う事はパフィーレン姫様と同じ幻華呪…………。いや駄目だ、現状は何も変わらないだろ!)
眉を顰めながら話す母に目眩さえ覚えてきた。
このまま倒れてしまいたくなる現実に、問題の手紙から目を逸らすと、どうにか意識を保ち続ける。
「……あちらには四、五年と伝えたのですよね?」
「……はい。」
問いかけの意味を即座に察し、もっと短い期間を伝えておけば良かったと悔しさに唇を噛みしめる。
「……もう少し急がねばならないようですね……。」
「……。」
(あの契約内容ではこんな状況になりようがないはずだが、何処で交渉を間違えた……?)
彼らがやって来る前に屋敷へと帰って行った母から聞いた計画を穏便に進めていくには、どんなに早く見積もってもそれ位の年月が必要だった。
「エレミタ、当日まで悩んでいた返事を、最後は私が貴方に任せたのですから、そんなに落ち込む必要は無いですよ。ただ……貴方と子が生まれてからは、アイチーにも少し無理をさせます。協力してもらえますか?」
「それは大丈夫です。……むしろ、母上が今より更に無理を重ねて、倒れてしまわないかが心配です。」
多忙を極め屋敷にも戻っていないという久々に会った顔の色が悪い母にこれ以上はと伝えたかった。
しかし、そうする以外の方法が見当たらない状況に、あの時に、もう少し依頼を煮詰めておけば良かったと次から次に押し寄せる後悔に、俯いていく顔を手で覆う。
「ありがとう。……そう言えば、ヴィルカーチ侯将家のご子息にはお会いしましたか?」
「……ええ。葬儀の後に何度か顔を合わせております。」
変わった話題に何とか顔を上げ、母を見つめ返事をする。
「彼から入手先は聞けましたか?」
問いかける母の視線が鋭いものに変わった。




