⑳
「……そう言うと思った。」
「……。」
モイヒェルは一瞬軽く目を見張ったが、すぐにその表情は優しいものへと変わった。
「……一度はそれも考えたけど」
「……ええ。」
きつく瞼を閉じたモイヒェルから続く分かりきった言葉を、毛布を握りしめていた指の力を抜いて待つ。
「世の中にまだ未練があるから、断らせてくれオーナー。」
「……そう。」
モイヒェルが瞼を開くと私をまっすぐに見つめ、眉を寄せ自嘲するような顔で断ってきた。
その表情に彼を困らせてしまった罪悪感が湧いたけれど、同時に私をオーナーと告げる言葉から、関係は壊れなかったのだと安堵も覚えた。
(これで婚姻から逃れる術は全て無くなったわね…。)
下を向き、頷いてしまったあの時から、すでに手立てなど無かったのだと、無理やり納得をさせて息を一つ吐く。
これ以上モイヒェルを困らせる訳にはいかないと、唇に笑みを携えてから顔を上げると、拳をモイヒェルに向けて前に突き出した。
「分かったわ。ギリギリまで探してくれてありがとう。」
「どういたしまして、オーナー。ああ!それと、婚姻祝いを持って来た。よく眠れる香だから焚いて眠れよ。花嫁が不細工なのが、一番式を台無しにするからな。」
意図を汲み取ったモイヒェルは近づいてくると、足元のベッドの縁に腰をかけて軽く拳を合わせた。
そして、いつも通りの含み笑いで軽口を叩くと手に持っていた小さな白い布を手渡して来た。
「…本当に、こんな時まで失礼ね。じゃあそこの香炉で焚いてちょうだい。ベッドから降りたらもう眠れなくなりそうだから。」
急に重くなった心は目頭を熱くさせ、声が震えないように注意しながら、モイヒェルに少し遠い窓辺近くに置かれた香炉を指さすと、潤みだした瞳に気が付かれないようにベッドへと潜り込んだ。
「はいはい。焚いたら手でも握ってやるか?」
「いらないわよ。」
子供をあやすようなその言葉に、私の最後の意地に気がついているのが分かり断ると、モイヒェルは愉しそうに喉を鳴らしながら、持ってきた白い布から香を取り出す。
火を着けてから息を吹きかけて消すと、細い煙がゆらゆらと立ち上るのを確認してから香炉に入れていた。
(不思議な香りだわ……。)
モイヒェルのその様子を見つめてしばらくすると、今まで嗅いだ事のない爽やかな甘い香りが漂ってきた。
「どうだ?この香り苦手じゃないか?」
「ええ、大丈夫よ。」
「そうか…。」
私の返事に安堵した表情を浮かべたモイヒェルは、サイドテーブルから離れ、再びベッドの縁に腰をかけた。
「それは、良かった。」
「!?っなによ…。」
すると、隣に寝転び、先程とは違う優しげな表情を浮かべ至近距離で見つめてくるが、潤んでいる瞳を合わせないように反対側を向き鏡台を眺める。
「これで、明日のボイティー・レナ・エクソルツィスムスの最後は、誰からも忘れられないくらい、綺麗な姿で記憶に残れるな。」
「っ…そうね。式終了後…明後日…には…完全に…ボイティー・レ…ナ・スヘ…スティー…として生きていかな…きゃな……………」
モイヒェルの言葉に視界が益々滲んだが、気付かれないように、何か言葉を返さなくては、と声を絞り出す。
けれど、次第に瞼が重くなり言葉がたどたどしいものに変わっていく。
「………な。」
そして、意識が深い淵へと引き込まれ、沈みかけた時、遠のく意識の端でモイヒェルが何かを呟き、髪の先にそっと触れた気がした。
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穏やかな日差しの中で舞い散る様々な花弁の下。
微笑みを浮かべ寄り添う私と……
“カンッ!カンッ!”
「……ん?」
聞き馴染みのある硬い音が、夢に沈んでいた意識の底を叩いた。




