⑨
数日後には領地へ発つため、山積みの書類に手をかけ、漸く一息ついたボイティの母は、すっかり冷え切った紅茶に手を伸ばす。
「本当に仕方のない人ね…。」
そのカップはあの日に出された時と同じ物で、眉を下げ泣きそうな表情を浮かべていた自分の伴侶の顔を鮮明に思い出し、苦笑を漏らす。
(大事な物や人に心を砕くのがあの人の美点だもの。私が不在では、止める者が誰もいなかったのは仕方がないとして…。)
予定が終わり屋敷に戻ると聞かされた、ファトゥからの話に、即座に誰かの策略に嵌ったのだと悟ったが、自分が手を下すには既に時が遅すぎ、痛む頭を抱えるしかなかった。
(…それも計算だったのかしらね?)
実行者かあるいは協力者なのか、あの日、見送りを終えて向かった先で、既にもぬけの殻になっていた部屋に居た筈の侍女の顔が頭を過ぎる。
(出来れば彼女に理由を問い質したかったけれど、全く所在が掴めないのだから難しいでしょうね。)
誰が何を企み、ラヴーシュカにオクラドヴァニアと接触させたのか、あの日から手掛かりを探させてはいるが、形跡を何一つ残さず消えた彼女に、フロワエイスは内心途方に暮れていた。
(それにしても、エレミタが挑発した時に真実を伝えやすくした筈なのに、上手く別の話であの場の雰囲気を変えたのだから、さすがファーレと言うべきかしら…。)
ボイティの卒業祝に戻ったエレミタには万が一に備えての策を伝えてあった。
エレミタ《息子》は、意図を汲み取りファトゥにわざとらしく話しかけに行き、ボイティが焦るように動いたはずだった。
(本当に…やり方がよく似てるわ。)
だが、思いもよらない発言で、あの場を支配したファーレのやり方は、自分が良く知る彼の父である現スヘスティー公将家家長を彷彿とさせた。
あの若さでと冷静に感心しながらも、これは正面から抗うよりも策に頼るほかないと確信し、時間が過ぎるほどにフロワエイスは心が冷え込んでいくのを感じた。
(それに、あの場で力尽くで止めていれば、あの子は今どうなっていたか分からなかった…。)
ファトゥが最後、ボイティに投げかけた問いかけに、ファーレが見せたこの場でボイティを亡き者にし兼ねない視線には流石に、言葉を失った。
(あの場で一度、話が纏まって正解だったのかもしれない。ただ…)
今思い出しても“ゾッ”と背中が凍るのを感じるが、それでも。
「…どんな手を使っても、あなたに娘を渡す訳にはいかないのよ…。」
目を伏せ事務机の引き出しを、開けることなく指先でそっと優しく撫でると、頭の中に懐かしい声が響き渡った。
『フロワエイス!!』
それは、幼い自分を呼ぶ、明るく幸せに満ちた女性の声。
引き出しから手を離し、振り返ると、窓の外には雲一つない青空が広がっていた。
遠い目をしながら景色を映していたフロワエイスの瞳は、悲しげな色が滲んでいた。
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「くれぐれも粗相の無いようにするのだぞ!」




