婚約破棄の件、しかと承りました。もともと祖父の遺言に従った政略結婚ですもの、破りたくもなるわよね。でも、困るのは貴方ですよ?どうなっても知りませんから。どうぞ転落の人生をお楽しみくださいませ。
◆1
アーチ王国の王立トロン学園は、貴族だけが通う学園だ。
その学園の敷地中央に位置付く舞踏会場で、今夜、卒業パーティーが開かれていた。
ダンスを終えて、皆が立食パーティー形式で歓談する。
そろそろ舞踏会もお開きかと思われた。
そんなとき、パーティー主催者の生徒会長の澄んだ声が、会場全体に鳴り響いた。
「皆、パーティーが終了する前に、ぜひ聞いてもらいたい!」
卒業生の皆が目を向けると、壇上に、生徒会役員六人が勢揃いしていた。
その中央に立っているのが、成績トップの生徒会会長プルート・ヴィターー整った黒髪、灰色の瞳が涼やかな男性である。
彼こそが、私が生まれたときから決められていた婚約者だ。
彼、プルート生徒会長は、隣にいた副会長アローナ・コモン子爵令嬢を、胸元まで抱き寄せて大声をあげた。
「僕、王立トロン学園第三十二代生徒会会長プルート・ヴィタは宣言する。
レオナ・マハル公爵令嬢との婚約を破棄する、と!」
いきなり婚約破棄宣言である。
「レオナ・マハル公爵令嬢」とは、私のことだ。
会場にいた何十人もの貴族家の令嬢、令息の視線が、一斉に私に向けて集まる。
私は金髪をなびかせつつ、壇上に立つ生徒会役員たちのすぐ真下にまで歩を進める。
そして、婚約者プルートに対して、閉じた扇子を差し向けた。
「会長。理由をお聞かせください」
壇上のプルート生徒会長は、左右に向けて、顎をしゃくる。
「生徒会役員の発言を、聞いてもらえればわかる」
生徒会長プルートと副会長アローナ、彼ら二人の傍らに立つ男女四人が、一歩前へと進み出る。
まずは男性陣、書記ラルフ・アザーズ子爵令息と、会計トゥルク・エブリ男爵令息が、発言した。
「レオナ・マハル公爵令嬢!
貴女は生徒会の活動に非協力的なうえに、お茶会ばかりしている!」
「後輩から貢物も受けた、と聞いているぞ!」
私、レオナは、バッと扇子を広げて、抗弁する。
「それは私がスイーツ好きだったり、小物集めが趣味なものですから、後輩たちが気を遣ってくれてーー」
だが、みなまで言わせてくれない。
今度は女性陣、グニス・ピーポ男爵令嬢、エルサ・エンド騎士爵令嬢が、前に進み出て、言葉をかぶせてくる。
「レオナ様は、いつも中庭のテーブルで、高位貴族家の令嬢同士集まっては、お茶を飲んで、お喋りばかりしてたじゃない?」
「レオナ嬢が、
『生徒会役員には、私たちのような家柄の者には相応しくない』
と、おっしゃったと聞いてますよ!」
私、レオナ・マハル公爵令嬢は、碧色の瞳を細めて笑う。
「すみませんね。
お茶するの、好きなもので。
つい友達同士でお喋りが過ぎるのよ。
でも、私たち、高位貴族は生徒会役員から距離を取らせていただいてますの。なぜならーー」
またも、最後まで語らせてくれない。
今度は婚約者プルート・ヴィタ生徒会長が、灰色の瞳を輝かせて、私を睨み付けた。
「単なるお喋りというには、その中身が問題だ。
副会長のアローナ嬢によれば、君は、ホロウ・ルール侯爵令嬢や、エミュレ・レグル伯爵令嬢などを扇動して、高位貴族家の令嬢、令息らを、生徒会役員に立候補させなくしているそうじゃないか!」
「それは事実です。
ですが、言いがかりでもありますわ。
そもそもーー」
私、レオナが扇子を閉じて、説明をしようとしたが、怒声が遮った。
婚約者のプルート・ヴィタが癇癪を起こしたのだ。
「黙れ!
ああ言えば、こう言う。
そういった、減らず口を叩くのが、気に入らないんだ!」
私の婚約者は、普段は涼やかで冷静なのに、気に入らないことがあると、すぐ顔を真っ赤にする。
今も黒髪を掻きむしっていた。
「君との婚約は、親同士が勝手に決めたことだ!
貴女に愛情を感じたことはなかった。
だから僕は副会長のアローナ嬢との『真実の愛』に目覚めたんだ!」
衆人環視の場で愛を語られたアローナ・コモン子爵令嬢は、褐色の瞳でジッと私、レオナを見下ろしている。
始終、口を利かなかったが、彼女が黒幕なのは想像が付く。
勝ち誇った笑みを浮かべていたからだ。
私、レオナ・マハル公爵令嬢は、片膝を立て、プルート生徒会長に向けてお辞儀をした。
「プルート生徒会長様。
婚約破棄の件、しかと承りました。
もともと祖父の遺言に従った政略結婚ですものね。
私、レオナ・マハルは、なんとも思ってません。
ただ、プルート様。
婚約の際に付随された契約に、貴方に貸した、このトロン学園への入学や、貴族家の令息としての体裁を揃えるために使った、その他諸々の費用は、婚約が破棄された場合には、即、全額返済させてもらうことになっていますから、そのことはお忘れなく」
「?? そんなこと、聞いてないぞ!」
生徒会長プルートは、傍らの副会長を押し除け、壇上のギリギリまでツンのめる。
私は再び扇子を大きく開いて、口許を隠す。
「あら、ご存知ではなかったのですか?
お互いが十五歳になった折に、改めて確認した際、婚約証書に添えた契約書に書いてあったでしょう?
貴方は婚約という大事な取り決めについても、書類に目を通さなかったのですか?
貴族というものは契約を守るものですのに。
雑ですね。
お父様のタイト様とは大違い。
それに、私と貴方の婚約を決めたのは、親ではありませんよ。
互いの家の祖父です。
でも、そんな事情は、もはやどうでも良くなりました。
私は過去のしがらみから解き放たれたのです。
ありがとうございました」
私、レオナ・マハル公爵令嬢は、再び片膝を折ってお辞儀をすると、クルリと背を向け、舞踏会場から立ち去っていった。
ざわざわーー。
舞踏会場に残された人々の間で、喧騒が広がる。
学園卒業生の貴族家の面々は、身近にいる者同士、互いに顔を見合わせながら囁き合った。
「貴族家の令息としての体裁を揃えるため?」
「諸々の費用の返済って、要するに、借金ってことか?」
「祖父の代からのしがらみ?」
「どういうことかしら?」
壇上に立つ生徒会役員の面々の間にも、動揺が広がっていた。
やがて、彼らは思い出す。
レオナの実家、マハル公爵家は、アーチ王国三大公爵家の一角を占める、王家に次いで強大な権力を有する家柄だということを。
生徒会役員たちは、少し不安になる。
「大丈夫よね?」
副会長アローナ・コモン子爵令嬢が、上目遣いで恋人に問いかける。
生徒会長プルート・ヴィタは、
「ああ、任せろ!」
と言って、厚い胸板をドンと叩いた。
だが、灰色の瞳を左右に細かに動かし、内心ではビクビクしていた。
プルートの実家は、ヴィタ準男爵家だった。
父タイトの代で、どうにか貴族に成り上がった家柄で、俗に言う「一代貴族」である。
父は男爵に準ずる存在として、なんとか貴族扱いにしてもらえているが、その息子であるプルートは本来なら平民のままの身分だ。
プルートが真の貴族になるためには、本来なら、独力で業績を上げ、男爵位に相応しいと王家から認められなければならない。
それは、耳にタコができるほど、父タイトから聞かされてきた。
だからこそ、息子のプルートが貴族の一員と認められるために、手っ取り早く王国三大公爵の筆頭であるマハル公爵家の令嬢レオナとの縁談を、遣り手の父が取り付けてきた、とばかり思っていた。
学園入学や、幼少時からの様々な習い事、さらには、すでに学園卒業間近だからと、自分の名義で進められてきた、乾物、衣服などの物流を仲介する新規事業などを始める費用もすべて、大商会のランブル商会会頭あがりの父タイトが出しているものと信じていた。
それなのに、まさかすべてレオナ嬢の実家、マハル公爵家の信用で賄われていたのか?
それに他にも、レオナ嬢の捨て台詞からは、自分が知らない事情が、自分の背景にはある、と推察された。
(全額返済? 祖父の代からの契約?
なんだよ? どういうことだ?)
性急に婚約破棄を宣言したことが、なんだかヤバい気がしてきた。
プルートは親指の爪を噛む。
だが、覆水盆に返らず。
新しい恋人と、生徒会の仲間や後輩に煽られた結果、気軽に長年の婚約者との婚約破棄を宣言したばかりに、プルート生徒会長は、崖の淵に立たされてしまっていたのだった。
◆2
帰宅後、プルート・ヴィタ生徒会長は、さっそく父親のタイト・ヴィタ準男爵から、
「なんてことをしてくれたんだ!」
と怒鳴られた。
父タイトは、自らを落ち着かせようとして、片眼鏡を外し、布地でレンズを磨く。
だが、その指は震え、怒りの感情を抑えることはできなかった。
「この愚か者めが、自らの首を絞めおって!
いくら成績優秀、生徒会長だといっても、一歩、学園の外に出たら、おまえは一般人も同然なのだ。
言っておいたはずだぞ。
我がヴィタ家は、今のままでは一代貴族だと。
おとなしく レオナ・マハル公爵令嬢と結婚すれば、おまえは貴族になれた。
それなのに、婚約破棄したことで、おまえは自分で業績を立てないと、貴族になれなくなったのだ。
それだけではない。
金はどうする!?
レオナ公爵令嬢との結婚が前提で借り入れたお金が、幾らあると思っているんだ!?」
プルートは目を丸くする。
我がヴィタ家が、準男爵という貴族の最低位にあることは承知していた。
だが、父親は一代で富を築き上げたお金持ちで、ランブル商会の会頭をしていた前歴もある。
まさか借入金の返済を気にするような事態に陥るとは、思いもしていなかった。
「どういうことですか、父上。
僕の名義で、数多くの融資を受けてきたことは存じておりますが、それもこれも僕の前途、そして父上の元ランブル商会会頭としての経歴を、出資者の方々が信用してくれた結果でしょう。
いくら僕がレオナ嬢と婚約破棄したからといって、急に返済を要求することにはならないでしょう。
それに返すとなったら、返せば良いだけのこと。
それぐらいの金銭的ゆとりぐらいはあるかと……」
父タイト準男爵は、ダン! と床を踏み鳴らす。
「だから、おまえは愚か者だと言っておるのだ!
いくら我が家の羽振りが良く見えていても、それはすべてマハル公爵家の後ろ盾があってこそなのだ。
おまえに貴族のマナーを叩き込むために家庭教師を雇うのだってお金がかかったし、貴族の学校に入れることができたのも、全部マハル公爵家の承認あってのこと。
本来なら準男爵家の令息であるおまえは平民だ。
それなのに貴族専門のトロン学園に入学できたのは、マハル公爵家のお墨付きがあったからだ。
おまえが最近、始めた新規事業にしたところで、おまえが近いうちに、レオナ・マハル公爵令嬢と結婚して、マハル公爵家の縁戚になるということだから、派閥の傘下貴族家が共同出資してくれたおかげで始められたのだぞ。
それらの融資はすべて、本来なら返済を十年以上は待ってもらえる契約ばかりだから、事業で採算が取れた後に、余裕をもって返済できると、俺も考えていた。
ところがどうだ。
おまえがレオナ嬢との婚約を破棄したおかげで、一気に返済を迫られるぞ!
しかも、全額だ。
その借金を、おまえは返済できるのか!?」
プルートは自分が平民に毛が生えた程度の身分で、王立トロン学園に通うことによって、ようやく貴族社会に潜り込むことができたことは知っていた。
だが、学園内では分け隔てない、能力に基づいた評価がなされるよう、あえて実家の爵位について言及しないしきたりになっていた。
おかげで、自分の実家が一代貴族の準男爵家であることを隠し通すことができた。
プルートは男爵令息だと皆から思われ、試験が優秀なことで生徒会長にまで抜擢された努力の人と思われたまま、卒業することができた。
このまま貴族然とした生活を送れるものと当然視し、新規事業の展開を学生の身分で始めたこともあり、これからますます羽振りが良くなっていくと、プルートは予想していた。
結果、三大公爵家の令嬢といった、気後れを感じる相手ではない、より身分が近くて、親しみが持てるアローナ・コモン子爵令嬢に気移りしたのだ。
彼女と一緒に生徒会活動を通じて接していくうちに、他の生徒会役員の後輩たちから囃し立てられたこともあり、盛り上がってしまい、彼女に良い格好をして、立派な四頭馬車や宝石なども買ってしまっていた。
本来の婚約者レオナ・マハル公爵令嬢に婚約破棄を言い渡したのは、そういった浮かれた行動の締め括りみたいなものだった。
だが、父親のタイト・ヴィタ準男爵は、そういった息子プルートの動きも、とうに察知していて、数日前にも、
「歴とした三大公爵家のご令嬢と婚約していながら、生徒会活動だとうそぶいて、四頭馬車や宝石などを買い込みおって。
無駄遣いをしてどうするんだ!」
と言って、息子を叱責したばかりだった。
だが、さすがの締まり屋タイト準男爵も、まさか息子プルートが、レオナ・マハル公爵令嬢との婚約破棄を宣言するとは思わなかった。
しかも、卒業式後の舞踏会場という、衆人環視の舞台で。
すでに学園卒業生から、親へ、さらには派閥関係者へと話が伝わり、大いに噂になっていることだろう。
だが、もう、取り返しが付かない。
タイト・ヴィタ準男爵は、頭を抱える。
「当座の問題は、突然、発生してしまった借金をどうするか、だ」
貴族社会に入り込めたのも、新規事業を展開できたのも、資金が豊かにあればこそ。
そして、その資金のすべてが、レオナ・マハル公爵令嬢との結婚が前提の投資であった。
レオナ嬢と婚約しているがゆえの豊かさだった。
だが、それをわからず、レオナ嬢に婚約破棄を言い渡し、その場面を生徒会役員のみならず、会場にいた同期卒業生ーーつまりは貴族の令嬢、令息らが見守っていた。
もはやプルートがレオナ嬢との婚約を破棄したことは既定事実として、事態は進んでいくだろう。
今まで新規事業に参加してくれた出資者たちも、これからは力を貸してくれはしないだろう。
プルートがマハル公爵家のレオナ嬢との結婚を反故にしたから。
しかも、新たに婚約しようとしているアローナ嬢の実家、コモン子爵家は、マハル公爵家の派閥には属していない。
別派閥の貴族家である。
それに、その派閥全体を動かして、プルートを支援する力は、コモン子爵家も、ヴィタ準男爵家にもない。
所詮、派閥の下位に属するだけの子爵家や準男爵家には無理な注文なのだ。
だから、レオナ嬢との婚約破棄の結果、明日にでも発生する借金の利子分を支払う必要が生じたのだった。
「でも、元ランブル商会会頭の父上なら、難なく支払えるのでしょう?」
縋るような目つきで、息子が問う。
父は深く吐息を漏らしながら、首を横に振る。
「無理だ。
もちろん、今でも俺の傘下であるランブル商会を動かせば、金額的には、返済が無理な金額ではない。
が、様々な契約は、マハル公爵家と縁付くことを前提にして交わしている。
その大前提を破ったからには、契約違反の責はすべてこちら側、ヴィタ準男爵家にある。
契約破棄による損害の債権はすべてアナウト・マハル公爵にある。
破棄した、我らの側にはない。
つまり、我がヴィタ準男爵家が、マハル公爵家に莫大な借金を抱えたも同然で、しかもその借金の取り立てる権利も、全面的に向こう側にあることになる。
すぐに金を返せば、それで済む、という問題ではない。
マハル公爵家が、実際に使った金額では納得せず、婚約破棄や諸々の契約不履行に対する慰謝料込みで、何倍もの金額を寄越せ、と言ったら、我々は従わざるを得ない。
我らは一代貴族の準男爵家、平民も同然だ。
一方、相手は、我がアーチ王国でも最大の門閥貴族であるマハル公爵家。
もとより対等な立場で、契約を結べるわけがない。
貴族を相手にするとは、そういうことなのだ」
「そんな、理不尽な。
だったら、今の僕に出来ることは……」
涙目になって詰め寄ってくる息子を、父は大声で叱り付けた。
「今すぐ、レオナ・マハル公爵令嬢に対して、頭を下げて、謝りに行ってこい!
なんとしても婚約破棄を、なかったことにしろ。
我が家の存亡が掛かっているんだ。走れ!」
ゼンマイ仕掛けのオモチャが突然、弾けるように、プルートは玄関へと走った。
買ったばかりの四頭馬車を、御者に操縦させる。
だが、プルートがまず向かったのは、元婚約者のレオナ嬢が住まうマハル公爵邸ではなかった。
新たに婚約を結ぼうとしていた、アローナ嬢がいるコモン子爵邸であった。
プルートは、往生際が悪く、かつまたプライドが高かった。
一度、宣言した婚約破棄を撤回するのは、生徒会役員やその他の卒業生たちの手前、恥ずかしくて、やりたくなかった。
そして何より、アローナ嬢との甘やかな時間を過ごすことが、何よりも楽しいと思っていたのだ。
副会長のアローナ・コモン子爵令嬢は、亜麻色の髪が美しい薫り立つ女性だ。
それと同時に、頭も切れる。
抜け目がない。
プルートの名義で乾物や衣服を商う新規事業を起こすよう提案したのも彼女だった。
現に、ほんの半年前に始めた事業なのに、収益が月極めで四万レムルも入っている。
これからも増益すると見込まれて、プルートは浮かれていた。
功労者であるアローナ嬢を喜ばせるために、赤や青の宝石を買ってあげたし、彼女と遠出するために四頭馬車も購入した。
彼女と婚約を急いだのも、女性と馬車に同席するためには、その女性と婚約か結婚をしていないといけない、という慣例があったからだ。
とにかく、プルートはアローナ嬢を、自分の助け手として、心底、信頼していた。
だから父親タイトが話した現状を正直に話して、今後の対策を一緒に立てようと思った。
(これから夫婦になるんだ。
僕の苦境を知ると、一緒に頑張って、幸せになる道を模索してくれるに違いない……)
プルートはアローナ・コモン子爵令嬢の、自分への愛情と献身を信じ切っていた。
コモン子爵邸に馬車で乗り付け、顔パスで廊下を進み、応接間で面会する。
いつも通り、生徒会の仲間同士になったとき以来、慣れ親しんだ行動だった。
だが、この日は、いつもとは違ってしまった。
プルートが来訪した事情を口にして、今後の対策を検討しようと持ちかけると、初めは笑みを浮かべていたアローナの顔が、次第に曇っていき、最後には眉間に深い縦皺を寄せるほどになってしまった。
彼女は、声を喉の奥から絞り出すように言った。
「つまり、レオナ嬢との婚約を破棄したら、貴方は貴族ではなくなる、と?」
プルートは新しい恋人に、現在の窮状を理解してもらいたかったから、正直に話した。
「生まれたときから、父上は貴族だったから、気付かなかったんだ……」
ずっと年長のパイル子爵やレモンド伯爵までが、自分に丁寧に接してくれていた。
もちろん父タイトが、元ランブル商会の会頭であるという意味合いもあったろう。
だが、今思えば、すべてが、筆頭貴族家のマハル公爵家に縁付く人物だと、自分が思われていたからの厚遇だったのだ。
プルートはティーカップを皿に置き、しみじみと語る。
「僕自身、すっかり自分のことを貴族だと思っていたけれど、違うことがわかった。
業績を立てないと貴族になれない。
でもさらなる事業を起こそうにも、今までの出資者もマハル公爵家との婚姻を反故にしたから協力を得られない。
今までの融資すら、取りやめて、資金を引き上げるかもしれない。
そうなると、せっかく君と始めた新規事業も、これからは立ち行かなくなる。
悪くすれば、明日にでも発生する借財の利子分を支払う、借金生活になる……」
アローナ・コモン子爵令嬢は、バン! とテーブルを叩き、亜麻色の髪を振り乱した。
「ふざけないでよ!
王立トロン学園には貴族の令嬢、令息しか通っていないってのは常識なの。
貴方は、そのトロンの生徒会長をやってたのよ!
当然、貴族家の令息と思ってたから、略奪したのに。
貴方、実家は男爵家だって言ってたじゃない?
まさか、平民だったなんて!」
プルート・ヴィタ準男爵令息は、灰色の瞳を伏せがちにして、
「準男爵……」
と呟く。
が、アローナの金切り声が、覆いかぶさる。
「そんなの、貴族家とは言えない!
私のお父様も、絶対、貴方との結婚に反対なさるわ。
『平民の男に、我がコモン子爵家の家督を継がせられるものか!』
とお怒りになるに決まってる」
プルート元生徒会長は、両手を広げて訴える。
「だったら、家督は君が相続して、僕は婿にでも収まれば……」
アローナ子爵令嬢は、褐色の瞳で睨み付ける。
「ふざけないで。
新婚早々、借金生活になるなんて、ゴメンだわ!」
プルートは口を開けて、呆然とする。
今後の対策を共に考えようと思っていたのに、結婚どころか婚約すら不可能と突っぱねられた。
その事実を、プルートは認めたくなかった。
アローナとの仲に「真実の愛」があると、信じたかった。
「でも、僕たちの仲は、生徒会役員の総意で作り上げたものだ。
アローナ嬢。君は、僕と別れようって言うのかい?
そんなこと、生徒会の仲間には……」
「言えるわけないじゃない。
恥ずかしい!」
アローナ・コモン子爵令嬢は、吐き捨てる。
もちろん、彼女が「恥ずかしい」と思っているのは、「別れた」ことを伝えることではない。
知らなかったとはいえ、「平民同然の男と付き合って、婚約しようとしていた」という事実そのものだった。
「でも、これで合点が入ったわ。
どうしてレオナ公爵令嬢が、生徒会に入ろうとしなかったのか。
貴方が平民に毛の生えた程度のオトコだったからよ。
私だって、コモン子爵家の娘よ。
気安く声をかけないで!」
アローナ嬢が手をたたくと、彼女に仕える執事たちが現れて、プルートを屋敷の外へと追い立てる。
プルートは特に抵抗をしなかった。
大人しく両手を上げ、抵抗しないさまを示したあと、自ら玄関の外に出て、四頭馬車に乗り込む。
そして、御者にマハル公爵邸へと向かうよう命じた。
窓の外に、遠ざかっていくコモン子爵邸を眺めながら、プルート・ヴィタ準男爵令息は、黒髪を掻きむしった。
自分に強く言い聞かせながら。
(でも、これで良かったんだ。
うん、これで良かった。
あとはレオナと縒りを戻しさえすれば……!)
◆3
プルート・ヴィタ準男爵令息は、マハル公爵邸の門前に馬車で乗り付け、侍女の案内で玄関から応接間に入った。
すると、正面ソファに元婚約者レオナが脚を組んで座っていたので、即座に、床に手をついて土下座した。
「許してくれ。
婚約破棄は早まった決断だった。
もう、アローナ嬢とは縁を切ったから、問題ない。
卒業パーティーでの僕の発言は、無かったことにしてくれ。
なんなら、あの時の参加者をすべて集めて、釈明しても良い」
ひたすら地に額を擦りつけて、謝り続けた。
レオナ・マハル公爵令嬢は、金髪を片手で振り解いて言う。
「顔をお上げください。
そんなみっともないマネまでは、してもらいたくありません。
貴方は仮にも長年、私、レオナ・マハルの婚約者だったのですから。
ほんとに、せめて私の前では止めてください」
プルート・ヴィタ準男爵令息は、顔を上げて灰色の瞳に光を宿す。
(これは、脈あり、か!?)
一方のレオナは扇子を広げて、口許を隠す。
脚は組んだままだった。
「貴方は、私と縒りを戻したいと言うのですね?
承知いたしました。
だって、双方の祖父が勝手に決めた政略結婚ですもの。
私はなんとも思ってません。
ただし、貴方の抱えた借財と、新たに婚約し直す結納金を合わせて、一括で支払ってもらいたいわ。
我がマハル公爵家を信用して、ヴィタ準男爵家の息子と取引したのに、いきなり関係解消では、こちらが融資しただけ無駄になった、とお怒りになった派閥の方々が、大勢おりましたもの。
言うまでもございませんが、貴族家は信用で成り立ちます。
儲けが出たから、それで良いというわけではないのです。
ーーそうそう。
プルート様は、いつの間にか、我がマハル公爵家の名を使って、商売を始めていたのですね。
その融資についての保証を我が家に求めて、幾つもの貴族家や商会が、半年以上前から、私や父上に面会を求めて来ていましたよ。
その折に保証した融資額についても、こちらへ弁済していただけるとありがたいわ。
だって、あのアローナ嬢なんでしょ?
街中で、乾物や衣服を売る店舗を幾つも展開させようだなんて。
そういった細かい商売で利益を得ようとする企画を立てたのは?
貴方も彼女も、どちらも商人を祖先に持つ家の子孫だけあって、利に聡いと感心いたしました。
ですが、我がマハル公爵家では、そのような商売を致しませんので、私と婚約し直すとあらば、その事業を中止させてもらいますので、その際に発生する保証金の弁済もしていただきたく思いますわ。
ですから、合計すると、貴方の教育関係に使った費用の、ザッと三倍は支払っていただくことになります。
それができましたら、私は再び貴方と婚約いたしましょう」
プルート・ヴィタ準男爵令息は、いきなり立ち上がって、大声を上げた。
「僕の学費絡みですら、返すのに納得いかないのに、事業で受けた融資の分まで支払えって、おかしいだろ!?
三倍払えって?
僕だけの力じゃ返せないと思って、馬鹿にしやがって。
この冷酷女!
おまえは、僕に恥をかかす気か!」
喚き狂う元婚約者に対して、レオナ・マハル公爵令嬢は座った状態のまま、パチンと扇子を閉じ、碧色の瞳で見上げながら、冷静な口調で言い渡した。
「貴族というものは地位も財力もあるがゆえに、名誉を重んじます。
それゆえ、爵位に見合った栄誉を獲得するためには、個人の嗜好を超えた、お家の事情で政略結婚も致します。
そうした事情を飲み込んでいるのが貴族なんです。
嫌いな相手でも、従わなきゃいけないときには従うし、結婚するときには結婚する。
そういう矜持を持って、生きているのです。
貴方のように、ちょっと羽振りが良いからといっては無駄な乱費をしたり、好きな女ができたからといっては婚約を破棄したり、自分がまずい立場になったからといっては地に額をつけて土下座するーーそんなみっともない男は、駄目です。
貴族家の者とは認められません。
たしかに、いきなり莫大な借金を抱えるのは、お辛いでしょう。
ですが、これは貴方が行った軽率な判断に対しての処罰です。
この程度の苦境を覆すほどの才覚や器量がおありでしたら、その所業に対しては目をつぶってあげます、と言っているのです。
ですが、そうした力量もないとなると、私には貴方を遇する方法を知りません。
それに、いくら自分の思い通りににならないからといって、気が狂ったように大声を上げて、感情のままに喚き散らしてーー。
今まで貴方が私の前で晒した態度は、貴族として、まったく相応しくありません。
私に婚約破棄を宣言したときから、アローナなる女性に唆されて、延々と醜態を晒しているーーそんなことにも気付かないから、貴方は駄目なのです。
心根の部分で、貴族にはなれません。
これで貴方の正体が、はっきりしました。
私は貴方とは今後一切合わないし、関係修復の申し出も受け入れません。
さようなら」
レオナ・マハル公爵令嬢は、扇子をサッと左右に振る。
すると、屈強な身体付きをしたマハル公爵家の従者が四人も現れ、プルート・ヴィタ準男爵令息の腕を強引に後ろにまわした。
そして、あたかも犯罪人を追い払うかのように、応接間から引き摺り出して行ったのだった。
◇◇◇
プルート・ヴィタ準男爵令息を屋敷から追い出してすぐ、レオナ・マハル公爵令嬢は二階の執務室に顔を出した。
机を前にして、父親アナウト・マハル公爵が腕を組んで座っていた。
「何やら、応接間の方で騒ぎがあったようだが」
父の問いかけに対して、娘は金髪を片手でいじりながら微笑み、立ったままで語らう。
「つい先だってまで婚約者だった男を、追い払っただけですわ」
父親は決まり悪そうに両手を組んで、溜息をつく。
「結婚式も間近であったが、結婚しなくて良かった、というべきかな。
早々に馬脚を現してくれて」
娘は腰に手を当て、胸を張る。
「学園で生徒会長まで務めていたのですがーーくだらない男でしたわ。
たしかに成績だけは良かったようですが、自分がどうして今の立場にいられるか、という基本的な洞察力がない。
目の前に出された課題に応じるだけ。
有能な使用人にすらなれない。
試験に応える力だけの人」
「すまない」
と低い声で謝り、アナウト・マハル公爵は眉を八の字にする。
レオナ嬢は机に両手を突いて身を乗り出す。
「婚約者の人となりが悪かったことは、お父様が謝ることではございませんわ。
私に謝るべき人物がいるとしたら、婚約者のプルート様ご本人と、私、レオナの縁談を、私が生まれる前から勝手に決めたスタボロお祖父様です」
レオナの祖父、アナウトの父であるスタボロ・マハル公爵が奇妙な遺言を残していた。
『我がマハル公爵家の名誉にかけて、馬の口取りであったアグリーの子孫を全面的に支援せよ。貴族に押し上げ、孫の代には婚姻を結ぶように』と。
スタボロは多くを語りたがらなかったが、どうやら隣国との大戦に一軍の将として出陣した際、かなりのミスをしたらしく、味方の多くを犠牲にしてしまった挙句、危うく敵の槍に突かれて死ぬところだったらしい。
だが、その際、馬の口取りをしていた下人アグリーの機転によって、戦場から逃げることに成功した。
つまり、戦場において、馬の口取り役の下人に、生命を救われたことがあったらしい。
なんとか生き延びたスタボロ・マハル公爵は、生命の恩人である、馬の口取り役のアグリーに、
「報奨を与える。何なりと申してみよ」
と言ったところ、短躯の髭面男はニンマリと笑って、次のように語ったという。
「オラには目立った報奨なんぞ、なくとも良いですだ。
マハル公爵家の名誉を守るためでもありますんで。
でも、我が息子タイトを、どうか貴族に取り立ててくだされ。
そして孫の代には、子供同士を結婚させるよう、お願いしますだ」
大戦には我がアーチ王国は実質的に敗れていたので、戦後になって、馬の口取りが公的に褒美が与えられると、その理由が問われ、その理由がスタボロ公爵がなした不名誉な何かが露わになる。
それでは不都合だろう、と読み切って、アグリーは、一時的な戦後報奨よりもはるかに見入りの良い密約をマハル公爵家と交わすことに成功したのだ。
その結果、今現在も、マハル公爵家とヴィタ準男爵家には、祖父が密約した『アグリーの子孫を全面的に支援する』という旨を記した契約書がある。
しっかりと、祖父スタボロ・マハル公爵のサインと紋章を象った実印も押されている。
アナウト・マハル公爵は、机に肘を付けて手を組み、肩を落とす。
「貴族たるもの、たとえ平民相手であろうとも、契約を遵守するしかなかった……」
幸い、祖父スタボロ・マハル公爵がアグリーに融資をしたら、息子タイトに商才があったようで、次第に財を成していき、ランブル商会を興すことに成功した。
さらに、祖父スタボロからアグリー家との契約を受け継いだアナウト・マハル公爵が仲介して、王家へ多額の献金をさせた結果、平民のタイトをヴィタ準男爵家の当主に取り立てることに成功した。
一代貴族の、タイト・ヴィタ準男爵の誕生である。
あと問題となるのは、祖父の代に契約を結んだ、孫同士の結婚であった。
幸い、マハル公爵家には、レオナの弟シェワドが跡取り息子としているから、アグリーの孫に家督を取られる心配はない。
一方で、ヴィタ準男爵家には娘がいなくて、息子プルートが一人いるだけ。
結果、娘のレオナを、ヴィタ準男爵家に嫁がせるしかなかった。
でも、これでは順当にいっても、娘レオナが「男爵夫人」となってしまう。
頭を抱えたアナウトは、祖父の遺言通り、アグリーの子孫を全面的に支援するしかなかった。
少しでも、公爵令嬢たる娘のお相手に相応しい男になるよう、プルート・ヴィタ準男爵令息の教育環境を整えたのだ。
幸い、幼少の頃からプルートのペーパーテストの成績は優秀で、その結果、王立トロン学園に強引に準貴族の令息ながらねじ込むことができ、彼本人は生徒会長にまでなれた。
これなら学園卒業後に、王宮での職を斡旋して、功績を挙げれば、男爵位を超えて子爵ぐらいには押し上げることができるかも。
そうなれば、娘のレオナを嫁がせても良いかと思われた。
何やら商売めいた事業を王都で始めたことも承知していたが、少しでも業績になりそうなら融資の保証人ぐらいにはなってやろう、という心算だった。
ところが、こうした厚遇が、プルートを増長させることになった。
マハル公爵はフンと鼻息を吐いて、椅子の背もたれに深くもたれかかる。
「それにしても、ヴィタ家の若造め。
公爵令嬢たる、我が娘を振るとは、たいした度胸だ。
まさか、我が娘を袖にして、他所の、しかも格下の子爵令嬢ごときに横恋慕して、我がマハル公爵家に恥を掻かせるとは。
長年に渡る、祖父の代からの、婚約の契約を、反故にしたのだ。
多額の融資を受けていたにもかかわらず。
おのれ、馬の口取り上がりの分際でーー!」
父親のタイトは才覚があって一代で大商人になった。
が、その能力は息子プルートには継がれていないようだ。
レオナ・マハル公爵令嬢は机から手を離して、腰に当てる。
「貴族でもよくありますよ。
父に似ない息子なんて。
逆に、鳶が鷹を産む場合も。
ですから、その能力を見極めるために、貴族家が代々伝える作法や技術の躾があるのです。
そうした躾を受けてから、契約で自らを律するーーそれが貴族家に生まれた者の矜持というものですわ」
父親のアナウトは背筋を伸ばして、娘レオナに問う。
「どうする?
アヤツの教育費や融資の債権は、すべて私が押さえている。
通常ならば、アヤツの親であるタイトに、多少の色を付けて買い取らせるのだが……」
実際、ヴィタ準男爵家の当主タイトは、息子のプルートがやって来るより先に、マハル公爵邸に上がり込み、この執務室において平伏していた。
息子がアローナ嬢を相手に振られていたときに、くだらない面子を気にする息子の傾向を読み、先に手を打っておこうと動いていたのだ。
タイト準男爵は、片眼鏡を曇らせるほどに涙を流し、アナウト・マハル公爵に懇願した。
「我が息子プルートのヤツが、マハル公爵家のご令嬢に対し、まことに無礼で、お恥ずかしい振る舞いを致しましたようで。
父親の私も、面喰らっております。
是非とも、婚約破棄の件、無かったことにしていただきたく。
ご迷惑をおかけしたお詫びに、今までマハル公爵家の仲介によって得てきた資金について、こちらから即座に、全額、お支払い致します。
無論、派閥貴族家の方々からいただいた様々な融資の分も受け持ちます。
債権をすべて買い取らせていただきたいのです。
足りなければ、相談させてください。
お願い致しまする」と。
アナウトは、
「色々と確認したいことがあるから、三日後に面会に来て欲しい」
と伝えて、タイトを下がらせた。
彼の息子プルートが四頭馬車でマハル公爵邸にやって来て、レオナの前で土下座したのは、それから半刻後のことである。
だが、プルートの父親タイトが「債権をすべて買い取る」という申し出に、レオナ・マハル公爵令嬢は、まったく応じるつもりはなかった。
レオナは金髪を片手で後ろへと払ってから、碧色の瞳を輝かせた。
「私たちはお祖父様の遺言に従い、努力して参りました。
ところが、相手側の、アグリーの子孫をが契約を破ったのです。
これで、我がマハル公爵家の側に、契約を守る必要がなくなったはず。
でしたら、お父様、その債権、そっくり私に任せてくださいますわよね?」
娘の瞳に復讐の炎が煌めいている。
こうなっては止めようがない。
娘の苛烈な性格を誰よりも知っているアナウト・マハル公爵は、再び両肘を机に付き、やれやれ、といった表情で、
「良かろう」
とだけ答えた。
(ヴィタ家の若造の命運も、これで尽きたな……)
と確信して、マハル公爵家の当主は、天井を振り仰いで瞑目した。
◆4
プルートの父親タイト・ヴィタ準男爵が、予定された面会日に、マハル公爵邸に馬車で出向いた。
タイトは昨夜になって、息子プルートから、ようやくレオナ嬢との面会をした際の出来事のあらましを聞かされた。
それによればーー。
プルートがレオナ嬢に、婚約破棄をしたことを謝罪し、復縁を迫ったが、その際、自分にかかった様々な借財の三倍もの金額を支払わないと、関係を断つと宣言された。
あまりに連れない態度に腹が立ったので、思わず怒声を張り上げたら、屋敷から追い出された、と。
父は青褪め、即座に使用人どもに命じて、ランブル商会の金庫からありったけの財を引っ張り出させ、馬車に積ませた。
次いで、自身が馬車に乗り込むと、タイト準男爵は、爪を噛みながら苛立つ。
(プルートのヤツ、くだらん見栄を張りおって。
金ならば、幾ら提示されようと、ありがたく条件を呑めば良かったものを。
レオナ公爵令嬢と結婚できさえすれば、貴族ーーそれも三大貴族家の一角に潜り込めた。
我が父アグリーの宿願を果たせたものを!)
息子の交渉下手に不甲斐なさを感じていると、いきなり馬車の動きが止まった。
御者が馬の動きを急止させたのだ。
渋滞に巻き込まれたのかと、タイトは窓の外を見る。
すると、多くの馬車が前に連なっていた。
馬車の列の先には、マハル公爵邸の表門が聳えている。
どうやら何十台もの馬車が、自分の向かう先と同じ屋敷を目的地にしているようだ。
やがて、見知った顔の、マハル公爵家の執事が、
「列にお並びください」
と声を張り上げながら、タイトが乗っている馬車にも、近づいてくる。
馬車の窓を開いて、タイトが、
「アナウト公爵閣下との面会を……」
と口にするが、執事にキッパリと言われた。
「アナウト公爵閣下は、現在、外出中です。
でも、債権の買い取りは、中庭に設置された特設会場にて、行われます。
貴方も、マハル公爵家が所有する債権を買い取りに来たのでしょう?」
「まさか、この馬車の列は……」
片眼鏡を嵌め直しながら息を呑むタイトに、執事が得意げに胸を張って応えた。
「そうです。
マハル公爵家が所有する債権を放出するというのですから、話題にもなりますよ」
他の貴族、他国の商人、傭兵団など、雑多な人々が、マハル公爵家が放出する債権を買い付けに殺到していたのだ。
マハル公爵邸の広大な中庭が、債権買取りの会場になっていた。
椅子が何十脚も用意されていたが、全員座り切れず、大勢の人々が立ったままで集まっていた。
屋敷をバックにした位置に高い演壇が設けられ、そこに大量の債権証書を抱えた執事が二人で立っている。
そこへ金髪をなびかせながら、レオナ・マハル公爵令嬢が壇上に昇り、買い付けに来た群衆に向かって宣言した。
「こちらに用意した債権は、すべてヴィタ準男爵家の嫡男プルート様の名義でなされた融資に関して、我がマハル公爵家が保証人となって手にしたものです。
これら債権証書を買い取った者は、プルート・ヴィタ男爵令息から借金を取り立てる権利を手に入れることになります。
借金のカタに彼の身柄を拘束するのも良し、彼を人質にして、親である元ランブル商会会頭のタイト・ヴィタ準男爵と交渉するのも良し。
使い方は買い取った方の自由です。
買い取り価格は、オープンの競りにいたします。
奮ってご参加を!」
「そんな……」
タイト・ヴィタ準男爵は、片眼鏡を地に落として、絶句する。
その一方で、わあああ! と周囲は大歓声に包まれた。
「貴族の坊ちゃんの身柄を買えるのなら、安いものだ!」
「準男爵が貴族と言えるのか?」
「王立学校で生徒会長まで務めたというじゃないか。
貴族の作法はバッチリだろう。
ウチはマナーを教えることができる使用人が欲しいんだ」
「俺たち傭兵団は、人質として、実家のヴィタ家、それが無理ならアーチ王家を相手に捕虜交換、もしくは身代金を出すよう、交渉するつもりだ」
「最近、坊ちゃんの名前で展開した王都の店舗も、手に入るぞ!」
「でも、相手は元ランブル商会の会頭だぞ。
全部、買い取られたら……」
「たとえタイト会頭本人がいても、この場で債権を買われなかったら、コッチのもんだ。
買取り金額の何倍もの金額にして、全資産を吐き出させてやれば良い」
「そうだ、そうだ。
ヤツら、マハル公爵家のご威光を笠に来て商売を広げやがったから、これを機に吐き出させてやれ!」
熱狂が会場に渦巻く。
アーチ王国の法定金利はあってなきが如しで、事実上、契約者同士で決めた取り決めで、金利も返済期限も自由に設定できる。
その契約を反故にすると、名誉を失い、その後の金銭契約がほとんどできなくなってしまう。信用が失われるからだ。
そして金銭を貸与する担保は、最終的にはその契約者自身の身柄とすることが一般的であり、借金を取り立てる権利を有する債権者は、借金を取り立てられないと、その債務者を自由にすることができるとされていた。
従って、アーチ王国では制度としての奴隷制は廃止されているが、それは表向きのことで、個人所有や貴族家所有の奴隷は、下男下女のさらに下位に位置付く労務者として黙認されている。
その結果、奴隷の半分は敵国の敗残兵、残り半分は債務奴隷だと言われている。
しかもその債権を第三者が買い取るなどして権利譲渡が行われた場合、その第三者が新たな条件(金利の上乗せや担保設定の変更など)を課すことができる。
それぐらい、アーチ王国では、債権者の権利が絶大な法規定となっているのだ。
明らかに、この場に、片眼鏡のタイト・ヴィタ準男爵がいることを承知している者が、大勢、競りに参加しているのだろう。
ヴィタ家のランブル商会への罵声が、会場で鳴り響く。
そんな中、タイトは、片眼鏡を拾い、嵌め直して、頑張った。
積極的に競りに参加したのである。
債権を手に入れないと、息子が奴隷落ちになりかねないのだ。
必死だった。
だから、息子プルートの全教育費、事業展開への融資、それらを合わせた金額の三倍までも提示した。
ところが、最終的に、プルートに関わる全債権を落札したのは、諸外国を股にかける興行主でもあり、奴隷商人でもある男バランであった。
興行主バランは、父親タイトが提示した額の二倍もの金額を、債権の買取価格として出したのである。
父親のタイトは唇を咬んだ。
「あの馬鹿が。
レオナ嬢が三倍の返済を要求したときに呑んでいれば、奴隷に落ちることもなかったものを……」
レオナ・マハル公爵令嬢が、微笑みをうかべながら、壇上で債権を奴隷商人に手渡している。
その姿を遠目で眺めてから、片眼鏡を外す。
これ以上の出費は不可能だ。
ランブル商会もヴィタ準男爵家も、倒れてしまう。
明らかに採算を度外視した、買い取り価格だった。
噂では、債権を買い取ったバランは、貴族をいたぶる趣味があって、その趣味のためなら、浪費も厭わないという人物だった。
このアーチ王国では奴隷が黙認されているが、好まれてはいないし、他国には奴隷売買や使用を、明確に禁止しているところもある。
だから、バランなる興行主は、官警に取り締まられないように、方々を転々と移動する生活を送る流浪の奴隷商人でもあったのだ。
子供の頃の息子プルートの笑顔、綺麗な黒髪、つぶらな灰色の瞳を頭に思い浮かべながら、タイトは涙を流す。
息子を産んですぐに亡くなった妻の面影を想起しながら、唇を咬んだ。
「残念だ、母さん。
俺たちの息子を、貴族にし損ねた。
親父の宿願まで、あと一歩のところだったものを。
魔が差したとしか思えん……」
タイト準男爵は深く嘆息し、会場から背を向けた。
父が息子を見捨てた瞬間であった。
◇◇◇
マハル公爵家が、プルートに関する債権書類を、大勢の商人らを前にして競りに出してから、一週間後ーー。
王都貴族街近くの喫茶店で、元会長プルートと元副会長アローナを除いた、王立トロン学園の元生徒会役員たち四人が勢揃いしていた。
代が替わって、かつて書記だったラルフ・アザーズ子爵令息が生徒会長、会計だったグニス・ピーポ男爵令嬢が副会長になっていたが、彼らは先代の会長と副会長のカップルの行末を案じていた。
会長プルートが、我がアーチ王国の筆頭公爵家の令嬢レオナと婚約していたのは承知していたが、会長と副会長が仲良く活動をしているのを見ているうちに、お二人が付き合うべきだ、と盛り上がって、ついに卒業パーティーでの生徒会長プルートによる婚約破棄宣言にまで持っていくことができた。
が、それ以降、二人の婚約も、結婚も、耳にしていない。
結局、会長と副会長とが別れたとの噂すら、社交界では流れていた。
生徒会役員たちは、戸惑っていた。
「どうして?」
「やはり、レオナ公爵令嬢の捨て台詞に絡む問題が、何かあったのだろうか?」
「諸々の費用の返済とか」
「祖父の代からのしがらみ、とかも口にしていた」
「応援していたのに……」
黒髪の生徒会長プルート・ヴィタと、亜麻色の髪が美しい副会長アローナ・コモン子爵令嬢が仲睦まじく、生徒会を執り仕切っていた頃の思い出が、忘れられない。
ラルフ子爵令息、トゥルク男爵令息、グニス男爵令嬢、エルサ騎士爵令嬢の四人は、額を突き合わせて議論した結果、
「元婚約者のレオナ・マハル公爵令嬢は、筆頭公爵家のご令嬢だ。
権力に物を言わせて、会長と副会長の仲を割いたに違いない」
と結論づけ、結局、要らぬお世話と百も承知していながら、マハル公爵邸へとクレームをつけにいくことにした。
二時間後ーー。
金髪のレオナ・マハル公爵令嬢は、碧色の瞳を細めて、不躾とも言える後輩の来訪を、優しく迎え入れた。
応接間でテーブルを挟んでお茶をしながら、生徒会役員たちに語りかける。
「あら。私は何もしておりませんよ。
私は、プルート会長による一方的な婚約破棄宣言を、受け入れただけです。
現在の彼は、どうしてるかって?
知りませんよ。
元婚約者の現状なんて。
貴方がたの希望通り、私はもう会長とは他人になってますから。
アローナ副会長?
ますます、存じ上げませんよ。
アローナ嬢が会長と別れた?
はあ、そうですか。
だとしても、それは会長ご自身の判断によるものでしょうから、私の方からは何とも。
私はあの卒業パーティーで、婚約を破棄されただけですからね」
レオナ公爵令嬢は、ティーカップを皿に置き、居住まいを正した。
「あ、そうそう。
この際ですから、あの卒業パーティーの際、貴方がたが私を非難した内容の幾つかを正しておきましょう。
まず、生徒会役員の貴方がたは、勘違いしておられます。
私が生徒会の活動に非協力的なうえに、ホロウ・ルール侯爵令嬢やエミュレ・レグル伯爵令嬢などの方々を扇動して、生徒会役員に立候補させなくしている、とおっしゃいましたよね?
それは、ほんとうに酷い言いがかりです。
私の振る舞いは、王立トロン学園の伝統に即してのことなんですよ。
伯爵以上の家柄ーー特に公爵や侯爵の爵位がある家の令息、令嬢、あるいは王族などが、生徒会に入るのは、伝統的に忌避されているのです。
ご存知でした?
高位貴族家の者の間では、ごく普通の常識でしたけど。
実家の権威で、学園を支配するようになることを、望ましくないと、アーチ王家が判断しておられるからです。
学園内において、家柄によらない、学業による評価を徹底させるためです。
私がお茶会を頻繁に開いていたのは、生徒会役員にならない高位貴族の令嬢たちをまとめるためでしたのよ。
生徒会の意向に対して、貴方たちより身分上の貴族令嬢、令息たちまでが、どうして積極的に協力してきたと思っているのですか?
私たちがお茶会で、高位貴族家の令嬢、令息の意向をたしかめ、意見をまとめていたからですよ。
貴方たち、生徒会の立場を尊重しようと、腐心して参りましたのに、あのような言いがかりは、非常に残念でしたわ」
微笑みながら窘める様子が返って恐ろしく、四人の役員たちは声も無く、うつむく。
一人、現生徒会長のラルフ・アザーズ子爵令息が顔を上げ、レオナ公爵令嬢に尋ねた。
「プルート会長が現在、何処におられるか、ご存知でしょうか?」
じつは個人的に、彼はプルートを、実家ヴィタ家に訪ねていた。
ヴィタ邸が、貴族家にしては柱が細く、質素な屋敷の造りをしていたことに、少し動揺しながらも、先代の生徒会を愛していた彼は、今後もプルートとお付き合いしたく思い、勝手に押しかけたのだ。
ところが、会長の姿はなく、お父上のタイト準男爵が玄関にまで顔を出して、片眼鏡を光らせ、
「なんだ?
かつての後輩にまで、アイツは笑われるのか。
嘲りに来たのだろう、貴様も。
見たところ、子爵家あたりのボンボンか。
悪かったな、プルートのヤツは出来損ないで」
と、悪態をついた。
が、意味がわからず、
「いえ。嘲るだなんて、とんでもない。
尊敬しているんです、私は。
ところで、プルート様の居場所は……」
と、ラルフ現生徒会長は尋ねる。
すると、突然、プルート元生徒会長の父親は、怒鳴った。
「俺が知るか!
アイツはもう我が家にいない。
債権を盾にとって、拐われたんだ。
何処にいるかって?
俺は知りたくない。
知りたいんなら、マハル公爵家のご令嬢に訊いてみるんだな!」
と、タイトから吐き捨てるように言われたのだったーー。
ラルフ現生徒会長は、プルート元生徒会長の、涼やかな灰色の瞳を、懐かしく思いつつ、元婚約者のレオナ嬢に向かって、丁寧に頭を下げた。
「こちらで、お会いになれるものとばかり思っておりましたが……」
ラルフがそう口籠ると、他の面々も、悲しそうに肩を落とす。
その姿を見て同情したのか、レオナ公爵令嬢は五枚の紙切れを、ラルフに渡した。
「これは?」
とラルフが問うと、
「バランの見世物小屋の招待券ですわ。
個室タイプの貴賓席だそうですよ。
そうそう、こちらの興行主さんが、貴族の令嬢、令息の来店を強く希望していましてね。
貴方がたなら、ちょうどいいわ。
副会長のアローナさんでしたっけ?
彼女もお誘いして、三日後の開演にお出かけになったら?」
それぞれに招待券を手にしながらも、柔らかに微笑むレオナ公爵令嬢を見る。
すると、なぜか悪寒が背中に走る四人だった。
◆5
王都の外れに設営された『バランの見世物小屋』ーー。
その貴賓席に、五人の若き貴族令嬢、令息が招待されていた。
彼らはトロン学園の、元副会長アローナ・コモン子爵令嬢の他、元生徒会役員のラルフ子爵令息、トゥルク男爵令息、グニス男爵令嬢、エルサ騎士爵令嬢といった面々だった。
彼らがオペラグラスを片手に、舞台中央を見下ろすと、見せ物が始まった。
見慣れぬ動物や、大柄の人物、小さい人物などが引き出され、大きなボールの上に乗って会場をグルグル回ったり、柱と柱を繋いだロープの上を綱渡りしたりして、曲芸を披露していた。
そしてメインイベントが、ラッパを吹き鳴らす音とともに始まった。
ラッパ音に合わせて、ハイド密林に住まう蛮族の、乳房を露わにした巨漢女が登場した。
観客に向けて、彼女は丸い目玉をギョロつかせ、厚い唇を開けて吼える。
手には鞭を持っており、地面をバシッ、バシッ! と叩いては、砂埃を撒き散らす。
やがて、反対側のコーナーから、煌びやかに装飾された衣服をまとう、黒髪の男が現れた。
涼やかな灰色の瞳をしており、何やらブツブツと呟いている。
その姿を認めた生徒会役員たちは、思わず席を立った。
「あ、あれは!」
「まさか、会長!?」
舞台の上には、元生徒会長プルート・ヴィタの姿があった。
緑色の髪を振りかざす司会者が、肺活量いっぱいに息を吸い込んでから、喉を震わせる。
「この男は、自分のことを貴族と信じる、哀れな男です。
この憐れな『自称貴公子』が、今から野獣女のサベージと格闘します。
参ったと言うか、気絶するかしたら負けです。
さあ、張った張った!」
わあああ!
歓声があがると同時に、色とりどりのテープが舞台に投げ込まれる。
貴賓席より下、より舞台に近い場所を陣取る観客たちが、金を出し合って、どっちが勝つか賭け始める。
だがしかし、ほとんど賭けになっていないようだった。
誰もが、乳房丸出しながら筋骨隆々な、野獣女サベージが勝つと思っている。
だが、安易な勝ち筋に乗るだけでは、一攫千金は望めない。
それなりに長身で体格も良い「自称貴公子」に、手持ちの金を全額を賭けるギャンブラーも出てきていた。
カーン!
と鐘の音が響き、舞台中央で男女が、真正面からぶつかった。
やはり、巨漢女に体当たりされて、黒髪の貴公子は、あっさりと吹っ飛ばされた。
舞台の隅にまで転がった男はすぐに立ち上がったが、すでに足取りが覚束なくなっていた。
そこを女に猛追され、殴られたり、蹴られたりしまくった。
その間、貴公子もブンブン腕を振り回して抵抗するが、パンチが当たらず、一方的に責められまくっていて、顔を真っ赤に腫らしながら、
「僕は貴族なんだ!
貴族に向かってなんだ!」
と涙目になって、怒ることしかできない。
ぐったりとした男を、蛮族出身の巨漢女が、豊かな胸に抱き締めて、大声をあげた。
「アタシが三十勝したら、この優男と結婚できるって約束だあ。
みんな、応援しなよ!」
歯を剥き出しにした野蛮女が突然、胸元で伸びている男に、求愛宣言をする。
笑い声とともに、
「げえええ!」
「冗談じゃねえ!」
「おい、貴公子!
そんな野獣に押し切られるな!」
とヤジが飛ぶ。
それでも男に勝ち目はなかった。
胸元から突き飛ばされて、フラつくところを、巨漢女に殴られ、蹴られ、ついには地面に押し倒される。
観客たちは総出で立ち上がり、情けない男に向かって、罵声を浴びせかけた。
「何でそこでパンチもらうかね!?」
「お前が負けたら、破産だ!
死ぬ気で立て!」
「それでも貴族か!
恥を知れ!」
わあああ!
大きな歓声が場を圧する。
揶揄しながらも、ほとんどの観客が「自称貴公子」たるプルートを応援していた。
だが、勝てない。
力比べも負けるし、取っ組み合っても倒されるし、こうして地面に押し倒され、身体中に生傷が絶えなくなっていた。
最後には、プルートは黒髪を振り乱して土下座し、泣き喚く。
「どうして、こんなことに……。
僕は学園で、生徒会長を担った優等生だったんだ。
それなのにーー!」
灰色の瞳からは、大粒の涙が溢れる。
膝を折った状態で、わんわん泣きじゃくる。
「なんだよ、貴族、しっかりしろ!」
「立て! 馬鹿貴族!」
「いくらお作法が綺麗でも、野蛮な女のデカい尻に敷かれちまうぞ!」
アッハハハハ!
会場いっぱいに、侮蔑を込めた哄笑が響き渡る。
貴族を自称する若者が、野獣のような女に蹂躙されて泣き喚く。
これを好き放題に野次ることが、庶民を中心とした観客たちの間で、ウケまくっていた。
平民は、本来なら貴族相手に失礼な態度を取ることはできない。
うっかりすると、無礼討ちに遭って生命を落としても文句は言えない。
アーチ王国は、そういう国家だ。
でも、この見世物小屋の中だけでは、「自称貴族」(観客の誰もが、その立ち居振る舞いから、この男、プルートが、ホンモノの貴族家の令息だとわかっている)を相手に罵倒しても、怒号をぶつけても、罪にならない。
爽やかな解放感に満たされる。
罵声渦巻く最中で、プルートは生傷から血が流れ出る身体を、自身の腕で抱えながら、呻いている。
そこを、野獣女にビシバシと鞭で打たれる。
やがて、そのまま倒れ込み、気絶する。
そこを裸に剥いて、巨漢女がお姫様抱っこをして退場して行く。
おおおお!
ヒューー、ヒューー!
興奮の声が轟き、揶揄する口笛が鳴り響く中、見せ物のクライマックスは終わった。
貴族の若者を相手に罵倒することができるーーそれだけで庶民の快感を呼び起こし、見世物小屋として大儲けできること請け合いだった。
とはいえ、その収益が、身体を張って見せ物と化したプルートのものになることはない。
すべてが見世物小屋の主人の懐に入るだけ。
寝るところ、食べるところはある。
だが、それだけ。
今のプルート・ヴィタ元生徒会長は、奴隷として興行主に飼われるだけの身分だった。
以上の醜態を見て、
生徒会役員のある者は涙し、ある者は拳を握り締めて憤慨した。
「なんだよ、あの会長の姿は!」
「あそこまで落ちぶれて。
しかも、恥を晒して生きるなんて……」
「僕は観客どもが許せない。
面白半分に貴族を貶めやがって!」
ところが、かつてはプルートと恋仲であった副会長アローナ・コモン子爵令嬢は、扇子を広げて口許を隠しつつ、褐色の瞳に侮蔑の色を宿した。
「良いじゃない?
下賎な庶民には、相応しい娯楽じゃなくって?
それに、彼をーープルートを許してあげましょうよ。
生きていくにはいろいろあるのでしょうから。
実際、良い見せ物だと思いますわ」
アローナは扇子をパチンと閉じて強く握り締めると、勢い良く立ち上がる。
そして、踵を返すと、亜麻色の髪を風になびかせて、会場を後にした。
決して振り返ることはなかった。
「ほんと、みっともない。
あんな男に一時でも入れあげていただなんて!」
そう言い捨てた、彼女の決然とした背中を見て、生徒会役員たちは、「真実の愛」が、とうの昔に粉々に砕け散っていたことを、遅まきながら悟ったのであった。
◇◇◇
一年後ーー。
元副会長アローナ・コモン子爵令嬢は、厳しい状況に陥っていた。
アローナ嬢は貴族の令嬢でありながら、平民の男と婚約をして、いろんなものおねだりして買ってもらったうえに、無理な事業を展開させて潰した挙句、借金を支払うことなく逃亡したーーそういう噂が巷で蔓延してしまっていたからだ。
アローナ子爵令嬢は様々な舞踏会に参加しては、噂を打ち消すために、亜麻色の髪を振り乱して抗弁した。
「私が相手にしたのは、単なる平民男ではない。
一代貴族の息子なの。
それも、あのトロン学園で生徒会長を務めた、プルートよ。
貴女たちだって、知ってるでしょ!?」と。
だが逆効果だった。
「プルートは今や奴隷になって、異国を巡っているというではないか」
「落ちるところまで、落ちたな」
「成績も良く、首席卒業だったというではないか」
「だから、マハル公爵家で支援していたわけか」
「なのに、コモン子爵家のつれないこと。
レオナ・マハル公爵令嬢から婚約者を奪っておいて、その元婚約者と婚約も結婚もしないって言うんだから、なんて薄情な」
「アローナ。貴女、じつは筆頭公爵家のお嬢様から、彼氏を奪いたかっただけなんでしょ?」
「プルート様もお可哀想に。
レオナ嬢と結ばれて、これまで通りに筆頭公爵家の庇護下に入れたものを……アローナのような、欲深い女に唆されたせいで」
「生徒会の役員たちも何なんだ。
勝手に内輪で盛り上がって」
「やはり高位貴族家の令嬢や令息を、役員にすべきなんじゃないのか?」
「でも、そうなると、家柄が幅を利かせすぎて、公正な評価が出来なくなるかも。
王家の判断は正しいだろうな」
「要は、あの代の役員連中、ラルフ子爵令息、トゥルク男爵令息、グニス男爵令嬢、エルサ騎士爵令嬢に、問題があったということだな」
「ラルフとグニスが会長と副会長をやってるんだろ?
今の学園生も可哀想なことだ」
などと、学園の外で、学園OB、OGらから、こき下ろされる。
実際、プルートが見世物小屋で奴隷になっていることを声高に喧伝したのは、
「プルートが王国貴族の恥を振り撒いている!」
と憤慨したトゥルクと、エルサだった。
そのことによって、自分たちの評価が貶められるとは、思い及ばなかったらしい。
結局、任期途中で、彼らは生徒会役員を辞し、異例のことながら、生徒会役員選挙がやり直されることとなっていた。
プルートを含め、その代の生徒会役員はすべて、貴族社会での評判を落としまくっていた。
特に元副会長アローナ・コモン子爵令嬢は、「平民男に身も心も許して、得意になった、ふしだらな女」ということで傷物扱いとなり、貴族令息の誰からも相手にされなくなってしまった。
ここまで悪い評判が立ったのには、じつは理由があった。
プルートを唆して、レオナ公爵令嬢との婚約を破棄させたアローナを許せない男がいたからだ。
彼女、アローナは、ランブル商会の元会頭だったタイト・ヴィタ準男爵の激しい怒りを買っていたのである。
失うものがなくなったタイトは、もはやアローナの幸せを踏み潰すことのみを目的とした活動を始め、彼女に舞い込んだ縁談のことごとくを邪魔し、悪評を流す。
おまけに実家のコモン子爵家にも貸しを作ることに成功し、父娘ともども金銭的に追い詰めまくった。
その結果、三年後には、タイト・ヴィタ準男爵は強引にアローナを後添えとすることに成功したのであった。
息子に代わって、父親がアローナをゲットしたことになる。
プルートを唾棄して捨てたアローナが、その父親と結婚するという皮肉な結果となり、しかも、彼女が子を成しても、プルートと同じように功績を挙げなければ貴族になれない。
年老いた一代貴族家の奥方となった彼女は、すっかり陰気な女となってしまったという。
一方、一連の騒ぎの中心にいたレオナ・マハル公爵令嬢は、快適に過ごしていた。
常に金髪はツヤツヤと輝き、碧色の瞳も生き生きしている。
なぜなら、祖父の身勝手な契約に縛られた状態から解放されたうえに、元婚約者プルート・ヴィタ準男爵令息にまつわる債権を売ったことで、年齢にそぐわぬほどの大金を手に入れたからだ。
おまけに、婚約した相手もいなくなって、立場はフリーとなり、父親も彼女の自由な行動を許した。
今まで理不尽な契約で縛ったことに対する罪滅ぼしでもあった。
結果、レオナ公爵令嬢は、経済が発展しているサーロウ帝国への留学準備を始めた。
専攻は経済学で、特に商法に興味を持ち、とにかく元婚約者のような末路にはなりたくない、実務に携われず、いつの間にか契約で縛られがちな(祖父の身勝手な契約に縛られた私のような) 貴族令嬢に、具体的な助け船を出せる人物になりたい、と思っての専攻だった。
それに、帝国への留学には隠れた、しかし優先順位第一位の目的がある。
それは美味しいスイーツを堪能することだった。
帝国は美食の国としても有名で、アーチ王国の宮廷料理人はサーロウ帝国で修行することが当然視されているほどだ。
しかし、メインディッシュに関わる肉料理や魚料理、酒のツマミになるような、いかにも男性が喜ぶような料理法ばかりが伝来してきて、女性が好む甘いお菓子やデザート料理の製作法が、ほぼ手付かずで伝承されていない。
だから、少しでもたくさん味見して、できれば作り方も学びたいと思っていた。
留学して一ヶ月した頃、昼からスイーツ店巡りをしていたとき、甲高いラッパの音が響き渡り、「見世物小屋の興行が始まるよ!」と宣伝する連中と、レオナは街中で遭遇した。
サーロウ帝国にも、例のバランの見世物小屋が遠征してきたようだった。
飼い慣らされた象や獣を先頭に、曲芸師や軽業師、手品師などが一緒になって、帝都の目抜通りを進んで、ビラ配りをしていた。
その見せ物の一群の中に、唇が厚く、乳房を丸出しにした、筋骨隆々の蛮族女性が颯爽と歩いていて、その彼女が手にする鎖に、首輪を繋がれた男性がいた。
千々に乱れた黒髪と、どんよりと光を失った灰色の瞳をした彼は、レオナにとって見慣れた顔だったが、あたかも別人のように精気を失った相貌をしており、ほぼ全裸でトボトボと歩いていた。
その様子を見て、レオナは思い出した。
ハイド密林に住まう蛮族は、自分が可愛がっている伴侶やペットを、鎖で繋いで引き連れて見せびらかすという風習があるということを。
レオナは群衆から一歩、前に出て、奴隷男に近寄り、そっと、声をかける。
「どうやら、新たなお相手と結ばれるの、貴方に先を越されちゃったようね。
どうか、お幸せに」
だが、聞く耳がないようで、奴隷男はボーッとしたままだった。
巨漢女にグイッと鎖を引っ張られ、躓きそうになりながらも、前のめりになって、彼女の巨大な尻に顔を埋める。
そのさまを見て、群衆たちはゲラゲラと下品に笑った。
なんとも、みっともない姿だった。
(ほんと、人生は何が起こるか、わからないわ。
私も気を引き締めないと……)
レオナ・マハル公爵令嬢は両頬をパシンと叩いて、見世物小屋の宣伝部隊に背を向ける。
そして、目的のスイーツ店へと足を運ぶのだった。
(了)




