不忍の出会い、丸の想い
――寺島海里――
空はまだどこか冬の色を残していたけれど、
陽が射せばほんの少しだけ春の匂いがする――そんな早朝。
不忍池の縁に立った海里は、胸の内で何度も言葉を繰り返していた。
「勇気を出すんだよ、海里」
赤い布で丁寧に包まれた串団子。白あんと桜あんの二色仕立て。
まだ出来たてで、ほんのり温かかった。
ほんの数日前、千里さんが最近、上野の山で稽古してるってお父っつぁんから聞いた。
きっと、今朝も来ている――そんな根拠のない自信を頼りに、
早起きして着物の裾をさばきながらここまで来た。
そしてその姿はあっさり見つかった。纏を肩にかけ、じっと池を見つめている。
(いた……)
でも、声が出ない。鼓動の音が耳に響き、足もその場にすくんだまま。
まるで、団子よりも自分のほうが蒸しあがってしまいそうだった。
そのときだった。千里の前に、一人の少女が近づいていく。
結い上げた黒髪が風に揺れ、濃紺の着物の襟元から白いうなじが覗く。
凛とした立ち姿。決して派手さはないが、目を引く存在感があった。
何より、彼女の歩いてくるその背後――桜の枝の合間に差し込む斜陽が、その姿を縁取るように見えた。
陽の輪郭がやわらかく髪にふれ、風に揺れた袴の裾が池の水面に映る。
(すごく綺麗な人。誰だろう……)
その髪の揺れ方、足取り、眼差し――どこを切り取っても柔らかいのに、
なぜか背筋がぴんとするような、緊張感が走った。
(あの人、剣を握る人だ)
知らないはずなのにそう思った。言葉ではなく、肌で感じた。
姿勢の美しさではない。動作の軽やかさでもない。
もっと根のほう、体の芯に宿っている“何か”が、風に乗ってこちらへ届いたのだ。
まるで、刀の鍔が打ち鳴らされる前の静けさ。
あるいは、鞘のなかでわずかに息づく刃のような匂い。
向かい合って言葉を交わす二人を見ていると、肌がぴり、と粟立った。
(嫌だ)
私は千里さんの前に立つだけでも、胸がぎゅうってなるのに。
あんな人が並んで立っていたら、きっともう、入りこむ隙なんて……
その時、ふっと風が吹いて甘い匂いが香った。その香りに、胸の奥がふわりと緩んだ。
お団子の香り。脳裏に浮かんだのは、あの夏のお祭りの夜。
迷子だったあたしの手を取ってくれた、あの人の手の温度。
提灯が揺れて、鈴の音が遠くで響いていた、あの夕暮れ――。
祭囃子が町に流れていた。浴衣の裾が踊り、屋台の明かりが紙風船のように揺れる。
諏方神社の夏祭りは、谷中の子供たちにとって一年で一番心躍る夜だった。
けれど、十歳の海里はそのとき、泣きべそをかいて小さく震えていた。
(お父っつぁん、どこ……?)
ほんの一瞬、手を離しただけだった。屋台に目を奪われて、気がつけば人混みに飲まれていた。
周囲は知らない顔ばかりで、提灯の灯りすら眩しくて滲んでいた。
「――おう、迷子か?」
ぶっきらぼうな、けれど優しい声が背後から届いた。
振り向いた先にいたのは、ひとりの男の子。
額に汗が滲み、肩に「丸に剣大」模様の手ぬぐいをかけていた。
「迷ったのか?」
海里はうなずくだけで精一杯だった。
男の子――彼は、身をかがめて目線を合わせてくれた。
そして、はにかんで言った。
「じゃあ、俺と一緒に探すか。きっと近くにいるだろう。ほら、手――」
差し出されたその手は、大人のように大きくて温かかった。
柔らかい団子のような温もりとは違う、まるで炎の芯のような、頼りがいのある手。
手を引かれて歩く道すがら、千里は言った。
「名前は?どこの町内の子だ?」
「……海里。寺島海里。善光寺前町、菊月の……」
彼はふっと驚いた顔をして、それから目を細めた。
「なんでえ、菊月の娘さんかい。あそこの団子、形は悪いがうめえんだよな」
そのひと言に、息が止まりそうになった。
喉の奥が、きゅっと熱くなる。聞き違いじゃない。
この少年の舌が覚えていたのは、菊月の団子――その中の一本。
(きっと、あたしが握ったやつだ)
和菓子屋に生まれたからといって、すぐに和菓子を作らせてもらえるわけじゃない。
練切も、羊羹も、水を計る手つきも、すべては職人の“名”を持つ大人の世界で、
海里のような子どもが触っていいものなんて決まっていた。
――だから、団子だけ。
米の粉を練る感触、蒸しあがった丸い塊の湯気、串に通すときの軽い抵抗。
「練切はまだ早え。団子なら、仕込みの端っこを任せてやる」
そう言って父が許したのは、粉を練り、蒸した塊を握り、串に刺すところまで。
焼きは職人がやる。たれもつけさせてもらえない。けれど、それでも――
(これは、あたしの手から始まる味なんだ)
海里はそう思っていた。 白く粉をはたいた手のひらで、形を整える。
柔らかくて、でも芯のある団子にするには、手早さと加減がいる。
雑にすれば、誰の目にも見抜かれる。
それははたから見れば、“本当の和菓子仕事”ではないのかもしれない。
でも彼女にとっては、胸を張って自分のものと言える、唯一の手仕事だった。
だからこそ――今、自分の名も知らないこの少年が、
あの味を「うまい」と覚えていてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
(あたしの仕事が、ちゃんと誰かに届いていたんだ)
ついさっきまで泣きべそをかいていたのに、すっかり元気を取り戻していた。
狭く人が溢れかえる参道を抜け御殿坂へ出ると、提灯の灯りの先に父の姿があった。
額に汗をにじませて、心配そうにあたしを探している。
「あの親父さん、おめえのお父っつぁんだろ。ほら、行ってやんな」
そう言って少年はそっと手を放した。
さっきまでしっかりと引かれていた手が離れる。
振り向けばもう背を向けていた。
人混みにまぎれるように、小さな背中が遠ざかっていく。
私はその場に立ち尽くすだけで、結局ろくにお礼も言えなかった。
何か言いたいのに、喉が詰まって声が出なかった。
ただ、その背中が遠ざかっていくたびに、胸の中で何かがぽっと灯ったことを覚えてる。
それから私は、彼のためだけの団子作りを始めた。
言えない言葉を、そっと包み込むように。
千里さんにとっては、たぶん、何でもない味かもしれない。
でも私の大事な想いが詰まってる。
うまく笑えなかった日も、うまく話せなかった日も。
あの手の温もりを、あの背中の記憶を、ひと串に込めて――今日も私は、また団子を握る。
(誰だか知らないけど、千里さんを想う気持ちなら、誰にも負けない)
小さく深呼吸をして、団子の包みをきゅっと胸に抱きしめる。
足取りはぎこちないけれど、ちゃんと前を向いた。
「……あ、あのっ……千里さん!」
ふたりの視線が、同時に自分に向けられる。
心臓が跳ねた。でも、言葉は止まらなかった。
「よかったら、これ……召し上がりませんか。新作です。千里さんが好きな味だと思います」
千里の顔に、ふっと笑みが浮かぶ。
その表情を見ただけで、団子の甘みが胸の奥にじんわり広がるようだった。
それでも、隣の黒髪の彼女の姿が目に焼きついて離れない――初めて味わう、苦くて苦しい感じ。
この日、不忍池で三人の影が並んだ。
始まりの音は静かだったけれど、海里の心には、確かに火が灯っていた。