『イルカ』
女のうめき声が聞こえる。ゾッと驚いてタバコの吸い殻をみる。いや、かけていた音楽のうめき声だ。ロックのそれは僕を変な気持ちにさせる。なんというか、天晴れな気持ちだ。ついこないだまで嫌っていたそれを僕は割り切って聴いていた。ゴミ箱にはまだ捨てられていない未練があった。まあ、なんというか。それはそれだ。そして引き出しをゆっくりと閉めてにやけた。
僕の口癖はよく「それ」って言うこと。リモコンを兄にとってもらう時も「それ」。店員さんにいつものカレーライスセットを頼む時も「それ」。高瀬さんとデートに行った時も「それ」って言ってイルカを見たことも。
その吸い殻に入れられる小さな黒の円柱のゴミ箱は綺麗でそれの写真が入ってるだけだった。僕は夏の吐息に汗を拭うと壊れたエアコンに何度も訳もなくリモコンをかざした。つくわけがない。案の定、つくわけはない。誰の真似をしてるんだろうか。
夜のとばりに鷹揚にも気持ちが何故か弾んできた。よくわからない。起業じゃないけど、新しいことをできる感覚がそれの写真の残骸を見て思うんだ。僕の手には収まりきれない残虐さ。僕は本当にそれと縁を切った。もっと言えば、縁というものもなかった。最初から出会わなければ、なんてね。
ゆっくりとハイになって、煙草を吸うと僕は椅子から立ち上がる。家のワンルームの部屋に精神科からもらった薬と病名:双極性障害と書かれた診断書をまたゴミ箱の捨てた。
「ケンジくん!みてよ!」
彼女は大きな水族館の一枚びらきのショーケースを見せると満面の笑みで僕の方に体を向けた。
「うん。綺麗だよ。」
僕はぎこちなく「高瀬さん」と言うと彼女は純粋な笑顔で「ミカでいいよ。」と手を繋ぐ。僕には有り余る余裕が、いや、演技をしてるんじゃないかって思えるんだ。自分が超人で、素晴らしい能力を持っていて、それを彼女の前でまだ見せていないだけじゃないかって。
「どうしたの?」
高瀬さんが僕の顔を覗き込む。
「いや、なんでもない。」
僕は彼女の前で初めて嘘をついた。
「行こう。」
高瀬さんは僕の手を引っ張る。そして、テラスから見えるプールからイルカの群泳を見た。
「みてよ。イルカさんだよ。かわいいね。」
「うん。かわいいよ。」
僕はまた嘘をついた。彼女がイルカという名前で裏で売れない男性アイドルと付き合ってることを僕は知っていた。彼女はなんていうか、意地悪なんだ。
友達はかつて「魔性の女じゃない?高瀬さんって。」
僕は彼女をまだ信じていた。
「ねえ、ケンジくん。これ、イルカさんが口で合図してる。」
「うん。そうだね。」
彼女はインスタントカメラを取り出し、僕の頬に「それ」をした。パシャリ写真を撮る。パシャリ。また写真を撮る。僕と彼女で「それ」を分けると僕は分割された瞬間に愛憎の文化を感じた。心の中で思ったんだ。(安い女がってね。)
園内にはk-popがかかっていた。鼻で笑ったそれを彼女は満足げに見ていた。
だから僕はローリングストーンズは好きじゃない。別にレッチリのShe’s only 18じゃないし。
まあ、好きなのはオールドスクールのラップ。名前はあげないけどね。
彼女は音楽が好きだった。僕の歌う曲。カラオケで。無理に流行りの曲を歌うと「無理しないで」って言う。
だから、僕は必死になって謙虚になった。腹をすかせた小人がそこにいるんだ。ソファの隣に、カーテンに隠れて、ドアの前でね。
まるでストーカーみたいだ。これは恋(故意)だったらをそう、末恐ろしいんだ。だから、「それ」と言う言葉を高瀬さんの前で使うようになったのはその時だ。そしてそれ(夜にする)をした時も。
「それがしたい。」なんて高瀬さんが言うもんだから、僕は絶世の美女を...なんて、あれはまるで記憶の片隅にある映画のワンシーンのようなものだった。キューブリックの映画みたいにね。
だから、僕は努力をした。必死に理解しようとした。彼女と遊園地に行った時だ。
「私って、観覧車見たい(みたい)。
「そうなんだ。」
「そう。だから、私っていいでしょ?」
僕は「高所恐怖症なんだ。」と遠目に見えるおどろおどろしい屋敷を、そして首元にはキスマーク。タトゥーは彼女の誕生日。
時間が経てば、きっと忘れられる。僕のいた記憶も、そしてその凡てをね。
僕が友人の「愛香」を抱いたのは昨日のことだ。彼女は統合失調症なんだ。僕の家に着いて茶を飲んだと思うと「聴こえるの。」と耳を塞ぐ。僕は彼女の「それ」に支配されていた。ベッドの上でどんどんと憑依されていく。僕は「それ」に解放された。思い切りの決断が動物的な部分から切り離される。そして、夜が明けた。
彼女は隣の部屋で、僕はパソコンを自室で「統合失調症 wiki」と調べて、やるせないんだ。囚われたままの手は情報の縋る。もうじきオンラインでミーティングがあるんだ。
彼女のいる部屋に行くと僕が撮っておいた高瀬さんとの写真を本棚の裏に隠してあった箱から取り出していた。「何よ、これ。」
キス写真泣き寝入り。彼女はまた「聴こえる。あんたのせいよ。私の最初を奪ったのは。」
気づくと彼女は血を流して倒れていた。
僕は初めて笑ったかもしれない。そして、オンラインのミーティングの前に灰皿を引き出しから取り出し、ピースを吸った。うめき声が聞こえる。
そして、僕はエンターキーを押した。zoomでのミーティング。相手は高瀬さんだった。
僕は引き出しの奥にしまったシャネルのマリッジリングを思い出した。ふと笑ったんだ。彼女のそれを真似したんだってね。