彼女の病が治りませんように
意地悪な王妃が、世界で一番美しいものを訊ねたように、もしも魔法の鏡があったなら、私にはどうしても訊きたいことがある。
鏡よ鏡、私の心の醜さを、あなたはどれほど見透かしていますか?
世界で一番醜いのは、私ですか?
半分冗談、半分恨めしく、明日の退院を控えた同室の彼女に、次の言葉を贈った。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
「『永訣の朝』?また、大袈裟な」
宮沢賢治の詩の、有名な一節だ。いよいよ死を迎える病弱な妹が、最愛の兄に雪を食べたいとねだる言葉、詩を愛する彼女なら、分からぬはずがない。今の私が言うのは、さぞ笑えないジョークに聞こえたことだろう。
彼女はずいぶん困った様子で、落とし所として「ジュースくらいなら奢ってあげる」と、腰掛けていたベッドから立ち上がった。病室の出口へと進む彼女の軽やかな足取りに、改めて彼女の完治を見せつけられる。
「ちょっと待って」
手すりを頼りに体を捻りながら、重い上半身をなんとか床から起こして、備え付けの引き出しの一段目を開いた。引き出しの一段目は小さな鍵付きなのだけど、いつも私は施錠せず、常に開けっぱなしだ。どうせどこも行かないのだから問題ない。中から小銭入れを取り出すと、山なりに彼女に投げた。
「餞別代わりに、私が奢るよ。退院おめでとう」
「お、サンキュー」
踵を返し病室を後にする彼女を見送る。軽い足取りに合わせて、ふわりと踊る長い黒髪が美しい。パジャマ姿に薄手のカーディガンを羽織っただけのモサイ格好で、堂々と病棟を徘徊する彼女だが、髪の手入れは怠らなかった。正確には髪だけじゃないか、コンタクトと化粧も毎日バッチリだった。いわゆる、彼女はギャルなのだ。陽キャさんと言うほうが、今風かもしれない。
就寝前は大変で、スッピンにメガネを掛けた姿は、本人曰く、裸を見られるより恥ずかしいらしく、同性の私に対しても「見ないでー!」と仕切りのカーテンを開くのを拒んだ。
なら、パジャマ姿も恥ずかしかろうと思うが、どうやらそちらはどうでもいいらしい。ちなみに、下着姿を見られるのも全く平気のようだ。同年齢なのに、陽キャさんのことはサッパリ分からない。
まあ、サッパリ分からない彼女と友達になれたのだから、それはついてない私の人生において、ラッキーなことだったのかもしれない。
「あれ、来てくれたの!退院明日だよー。
気が早いよー」
「タキナのパジャマ見れんの最後だし、ここ超涼しいしー」
病室前が騒がしい。どうやらジュースを買い終えた彼女が、帰路で友人に捕まったらしい。
カラフルな髪の人たちに囲まれて、嬉しそうに彼女ははしゃぐ。
他の患者の迷惑じゃないかな。そう思った矢先、やっぱり看護師さんに注意されて、そそくさと場所を移動していく。悪びれる様子もなく、嬉しそうな笑い声をあげて。
「あ、ちょっと待ってて!」
いちいち響く彼女の声が、廊下から漏れてきた。同時に駆け足の音が大きくなり、滑り込みで彼女が入ってきた。
「はいジュース、ごちそうさま。
ちょっとトモダチ来てるから会ってくるね」
こちらが答える間もなく彼女は駆け去っていく。
「本当に病人だったんだろうか」
置いてけぼりにされた私は、苦笑混じりに独り言を言う。
ジュースは指定すればよかった。私が炭酸苦手なの知ってるくせに、あえて選択するんだもの。
しかも、よりにもよって、炭酸強めのキリンレモンの缶。いっきに飲み干せと。今飲まないと、温くなるとまずいしな。
プルタブに指をかけ、ゆっくりと開封する。彼女が振ったもんだから、豪快にプシュルルと音を立てて、ガスが逃げていく。
いいよ、いいよ。炭酸全部抜けちゃえ。そう思いながら一口含めば、新鮮な痛みが喉を突き刺す。
キリンレモン、缶は好きなんだけどな。見ようによってはビールに見えるから。まあ、飲んだことないけど。
青空の下で飲むビールは格別らしい。しらなきゃ人生の半分を損すると、親戚のおじさんが言ってたっけ。どうやら私は半分損しそうだ。
彼女は、いや、彼女たちはどこまで行ったんだろう。多少騒いでも怒らない場所、中庭か、屋上かな。
この痛みしか感じない炭酸も、屋上で飲めば、青空を吸収して美味しくなるのだろうか。窓の外の小さな青空が歪むの見て、ようやく自分が泣いていることに気がついた。パジャマの袖で乱暴に拭き取る。シュワシュワと缶の中で音を立てるジュースは、どうやらもう、飲み干せそうにない。
結局彼女は面会時間ギリギリまで帰ってはこなかった。少し腹立たしいので、夕食以降は素気なくしてみる。
「ねー、ほったらかしにしたの怒ってるの?
最後の夜なんだから、いい加減機嫌直してよー」
「別に怒ってない」
「怒ってるじゃん。怒ってる、怒っておられます」
「お怒りではございません。完治したタキナと違って、私は病人のままなんだから、夜は寝ます。おやすみー」
「そんな、つれないこと言わずに、今まで散々夜更かししたじゃん。
えーい、それならそっちのベッド行ってやる」
シャラリとカーテンが開かれて、隣から私のベッドへと、彼女が侵入してきた。思わず背を向けるも、お構いなしに布団へと潜り込んできた。
「わー、布団からチサトの匂いがする」
「キモい。いいの?スッピンメガネ見られるよ」
「いいよ、いいよ。もうチサトには何度も見られてるもの。最後ぐらい開き直るよ」
「そうだね。写真も撮ったし」
「撮ってんのかよ!それは消せよ!絶対消せよ!」
相変わらず病人扱いされず、体を揺すられ少しむせた。それを見た彼女が、慌ててはしゃぎ過ぎたと謝罪した。
「悪くないと思うよ。タキナのスッピンメガネ。十分可愛いと思う。
等身大に思えて、ほっとする」
「そお?化粧しないと、なんか自分じゃガキぽくなると言うか、好きじゃないな。
あ、チサトがガキとか、そんなことは言ってないよ?」
「面会の友達も、いつも派手だよね」
「あー、アイツらは、私以上に派手だね。あそこにいれば、黒髪の私は清純派みたいな?」
「面会の友達と私、どっちが好き?」
「それ訊くの?面倒臭い彼女かよ!……えーと、本気で答えるの?」
冗談で受け流そうとした彼女に分からせるため、真顔で向き合う。困り顔で目を泳がせた彼女が、意を決して言葉を出す。
「そりゃチサトがやっぱり特別だよ。だって長いこと寝るのも食べるのも一緒で、こうして夜を共にしてるわけじゃん?
スッピンも見られてることだしさ。
それにチサトに出会わなければ、一生、詩なんて興味なかったんじゃないかな。チサトが一番だよ」
「私も、タキナがいなかったら、少年誌は一生読んでないと思う」
「まだ本当のおすすめだしてないからね?とっておきがあるんだ。私の聖書だよ。
ところでチサトさんって、その、性的マイノリティというか、女の子が好きだったりする?」
「いや、ぜんぜん」
「全然かよ。本気でどうしようかと思ったわ」
これが恋だと言うなら、心に貯まるドス黒い塊も、いくらかいい訳ができるだろう。いっそのこと、彼女の恋していることにしてしまおうか。
でも、私は別に彼女を友人以上には思っていない。友人で、友達程度で、私は醜く呪いに等しい願望を、ずっと彼女に抱いている。
「あなたの病気、治らなきゃよかったのに」
ああ、言ってしまった。一度口からこぼれ落ちれば、もう歯止めが効かなくなる。堰き止めていた感情が、洪水のように押し寄せる。
「それは、ちょっと笑えない冗談かな」
「冗談じゃないよ。本気で思ってる。
本気だから困ってる。ごめんね」
「そう。それはちょっと、ショックだな」
妬み。違う、そうじゃない。彼女のように治りたいんじゃない。彼女と一緒に病んでいたいのだ。
隣のベッドで、カーテン越しに、変わらず彼女がいることを望んでいる。彼女の隣にいたい。彼女の特等席は私でなくては我慢できない。
まるで人形を愛でるように、相手の都合なんてお構いなしに、相手の気持ちなんて一雫も汲み取るこなく、ただ自分勝手に相手を支配しようとする。
いっその事、彼女の完治を妬むほうが、人としてはいくらか可愛げがある。ずるい、悔しい、なんで私だけ。そんな嫉妬心すら、私にはない。あるのは、ただただ、いつまでも変わらずにそばにいてほしいと言う独占欲のみ。ああ、いつの間に、私はこれ程醜い生き物になったのだろうか。
鏡よ、鏡。世界で一番醜いものは私ですか?
「ごめんね。素直に喜んであげたいのに出来なくて、本当にごめん」
背を向けていたから彼女の表情は分からないが、きっとずいぶん困らせたことだろう。彼女は無言のまま、自分のベッドへと戻っていく。
あめゆじゅとてちてけんじゃ
『雪を取ってきて』賢治の妹は、死の淵で、どんな気持ちでこの言葉を最愛の兄に送ったのだろう。最後のお願いが雪を食べたいなんて、なんとも健気な言葉だ。
きっと、何もしてやれないと自分を責める兄の気持ちを汲んだのだと、私は思う。お椀一杯の雪を拾う、最後の望みを叶えてあげられることが、最後の甘えを許してやることが、賢治にとってどれほどの救いになったろうか。死の淵ですら、相手を思いやる優しい言葉。なんて美しいのだろう。
あめゆじゅとてちてけんじゃ
私が彼女に送れない言葉、彼女の幸せを素直に喜べない醜さ。すべてがこの一言に詰まっている。
そう、私の心は、誰よりも醜い。
結局それからは、一言も言葉を交わさなかった。夜が明けて、簡単な検査の後、彼女のご両親が荷物を引き払いにきたとき、一言「じゃあ」と彼女が呟き、私も短く「うん」とだけ返した。
ひとりぼっちの病室で、窓の外の小さな青空を覗く。やはり今日も、空が少し歪んだ。無性に永訣の朝を読みたくなり、備え付けの引き出しの一番したの段を開く。鍵のない大きめの棚は、着替えを入れておく人が多いようだが、私は書庫として利用している。
中を見て驚いた。賢治も中也も、キーツもワーズワースも、一冊の詩集も残っていなかった。
代わりに、彼女がバイブルと言い切る海賊少年の漫画が詰め込まれている。
一巻にはノートの切れ端が挟んであり、こう綴られていた。
『二十巻置いていく。来週までに読んでおくように。ちなみに最新刊は102巻』
それは骨が折れそうだ。詩集を人質にとられたのでは仕方ない。まんまと彼女の策略にはまり、私は少年の長い長い冒険を見守ることにする。
キリンレモン買ってこようかな。正直歩くのは辛いし、どうせ半分も飲めないけれど。でも、必要なんだ。
旅はまだ始まったばかりのようだから。