はんざき
ぼくとしては長い短編小説です。
原稿用紙33枚程度。
ぜひ読んでみてください。
車内のアナウンスを聞いて熊木は電車を降りるべきだったのかもしれない。
だが熊木はほど良い陽気に促されすっかり寝入ってしまっていた。
注意喚起のアナウンスを聞き逃した。
電車はそのまま扉を閉じて出発した。
車掌に肩を揺すられて熊木は目を覚ます。
「終点ですよ」
その言葉に慌てて電車を降りる。
随分と寝入ってしまったようだと大あくびをしながら改札を通り、駅を出た。
そこは閑散とした風景。
人も車も建物もない。
だが熊木は驚かない。
彼が求めてきたのはこんな場所だからだ。
〇県の辺境ともいえる田舎の村。猪本。そこに伝わる幻の酒。その名も「猪酔い」。
自然に発酵してできた酒に猪が集まるだとか、その酒を介して猪と人間が宴をしただとか、そんな昔ばなしとともに紹介された地酒。
そもそもその地では猪が神の使いとして神聖視されており、年に一度「猪祭り」が開催される。そのときに振舞われるのが「猪酔い」。村人でさえそれを口にできるのはその祭りの時期だけで、それが外に出ることはないとされる。
祭りの時期にその地を訪れれば飲むことができるかもしれない。
ネットの小さな記事だったが興味をそそられた。
大の酒好きというわけではないが、レアものということでその地を訪れてみることにしたのだ。
祭りが行われるとされている10月の中旬。休みを利用して○○線の電車に乗り、終点「猪本」へ。
はるばるやってきた彼の地を熊木は一人歩く。
さすがに〇県の辺境といわれるだけあってどこまでも閑散としている。
歩けども歩けども車も通っていなければ、人も歩いていない。
やっとのことで村人を発見して訪ねてみる。
するとその口髭の村人は目を丸くして答えた。
「ここは猪本ではないよ。はんざきだ」
今度目を丸くしたのは熊木の方だった。
「どういうことです。確か終点だと。僕は猪本行きの電車に乗ったのですが」
口髭の男は首を横に振る。
「ああ。まいった。たまにこういうことが起こる。通常は猪本が終点だ。だがさらに奥のはんざきまでの特別列車がある。それに乗っていたのに気づかずに猪本で降りなかった」
「そうだったのですか。実は寝過ごしまして。車掌に起こされた次第です」
熊木は引き返すことにした。
「ああ。待って」
と口髭の村人が何かいっていたが、思わぬミスで時間を浪費してしまったと熊木は駅まで走った。
駅に着き、スマホで時間を確認する。
現在12時23分。
田舎は電車の本数が極めて少ないことは承知しているが、いったい何分後に来るのかと時刻表を探す。
だが見当たらない。
そんなはずはない。
駅に時刻表。わかりにくいところにあるはずがない。
もう一度見渡す。やはり見当たらない。
何故ともう一度見渡そうとして、熊木は改札口の前の立て看板を目にした。
『次の電車は12時10分発です』
大きくそう表示してある。
なんだこれは。
熊木は唖然とする。
この看板が意味するのは今日の電車はもうないということだ。よくて今夜。深夜零時。
祭りがおこなわれているのならそれを見て過ごせばいいが、それもない田舎でどう過ごせばいいのか。
大失敗じゃないか。と、途方に暮れる熊木のところに先ほどの口髭の村人がやって来た。
「ああ、ちょうどよかった。教えていただきたいのですが、あれは今日は電車はもうないということでしょうか」
熊木は立て看板を指さしていう。
違うという回答を期待して。
口髭の村人は首を横に振る。
熊木は安堵した。
さすがにどんな田舎だろうと昼で電車が終わりなんてことはないだろう。
口髭の村人はいう。
「よく見なさい看板を。旅の方。あなたは明日になれば電車が来ると思っているのだろう。そうではないよ」
村人の緊張の表情に、熊木は恐ろしささえ感じてもう一度看板を見てみる。
『次の電車は12時10分発です』
さっきはそう読んだ。
だがそうではなかった。
『次の電車は・・・
・・・12時10分発です』
なんだって。
熊木は信じられずにもう一度読む。
『次の電車は・・・
・・・12時10分発です』
信じられないので頭に入ってこない。その表記を受け入れることができない。
何度も読んでみる。
「どういうことです。電車でしょう。電車が。公共交通機関が」
熊木は口髭の村人に尋ねるも、彼は首を横に振るばかり。
「あの通り。あの看板の通りだよ」
「あの通りだって?2025年と書いてある。今年が2020年だから5年後ですよ」
「そうだよ。この地は5年に一度しか電車が来ない」
あまりのことに唖然としてしまうが、ここでどうしてといっていても仕方がないことに熊木は気づく。
次なる手段を考えなければならない。
「バスはあるでしょう」
「バスはない」
「ならばタクシーは」
熊木は口髭の村人に聞こうとして、自分で調べればいいとスマホを取り出す。
だが圏外。
スマホが単なる薄っぺらい物体になってしまった。こんな土地があるのかと愕然とするも立ち止まってはいられないのだ。
「タクシーがあるのなら使いたいのですが」
熊木は口髭の村人におそるおそる訊いた。
村人はうなずく。
熊木は少しだけ安堵するも、タクシーに乗るまでには20分歩くことになった。
口髭の村人に連れられてタクシー会社につくとその村人はそこにいる数名に何か話した。
一同はいっせいに憐みの表情をみせた。
眼鏡の初老の男が熊木のところに来る。
「旅の方。車でこの村を出ていきたいのですね」
「電車もバスもないのではタクシーで行くしかありません。お願いします」
「それが無理なのですよ。この村から出ることは車でも自転車でも歩きでも無理です。子供が大きくなってくると必ず挑戦するのですが無理です。私も車に乗ってますと今日はいけるんじゃないかとやってみたりするのですが、もう何度もやってますが無理です。この村から出ていけるのは唯一5年に一度の電車だけです」
「そんな馬鹿な。道が途中で塞がっているのですか」
「さあ。塞がっているというよりは戻って来てしまうといった方がいい。隣とはつながっていないのでしょう」
あまりのことに熊木は愕然としてしまう。
まさに陸の孤島。そんな地があるとは。
「鹿島さんのところへお連れしましょう」
眼鏡の初老の男がいう。
後ろで聞いていた一同も同意の声を出す。
「5年前にあなたと同じようにしてこのはんざきまで来た人です」
車が目的地に到着したとき、鹿島は薪割りをしている最中だった。
眼鏡の初老の男が熊木のことを話すと、彼は細い目をさらに細くして笑顔で迎え、縁側に座るように促される。
「大変なことになりましたね」
そういって鹿島は熊木にお茶を出した。
驚くことばかりで熊木は自分が喉が乾ききっていることに気づく。
礼をいって口をつけると一気に飲み干してしまった。
「ははは。どうです。うまいでしょう」
「ええ」
返事をしながらなんていい匂いのするお茶だと思う。
「水がいいからですよ」
鹿島は熊木に再度お茶を出して、話し始めた。
「僕は都会育ちでね。仕事も****に勤めていました」
****といえば有数のIT企業だ。
エリートじゃないかと熊木は思う。
「そんな僕の趣味は田舎巡りで、地方の田舎に行ってはそのクソ田舎度を楽しんでいました。
そんな中でネットで猪本村のことを見つけて興味を持ちました」
熊木は自分がこのはんざきまで来た過程を話す。
「ははは。なんだ。僕と熊木さんは同じ情報で動いたんですね。奇遇だな」
鹿島は話を続ける。
「でも僕は自分の意志でこのはんざきに来ました。猪本村に来る途中の車内アナウンスで自分が今乗っている電車が特別列車であることは聞いていました。猪本が終点だけど、そこで電車が切り離されて一番前の車両だけがその先のはんざきに行く。僕はそれを聞いたときとてもわくわくしました。さらなる辺境の地に足を踏み入れることができるとよろこんだのです」
熊木は寝入ってしまってただ偶然にやって来てしまった。寝ていなければ。一番前の車両に乗っていなければと嘆く。
「ただ。降りたが最後。次が5年後だなんて誰が思う。僕も当初はずいぶんと嘆きましたよ。
仕事で大きなプロジェクトに関わっていましたしね。何度もこの村からの脱出を試みました。でも無駄だった」
鹿島は立ち上がる。
「熊木さんもこの状況を今は飲み込めないでしょう。いろいろと試してみるといい。車も自転車も自由に使っていいですよ。
あと。食事はうちで用意するし、住むところはいまから僕が部屋を一つ空けますよ」
鹿島は去って行った。
熊木は縁側に座り、まるで引退した老人のようにボーとした。
起きていることが理解できない。
この村に来てからの三人の登場人物がいったことが信じられない。
スマホが使えなくなった。
ここまではそういう土地はあるのだろうと考えが行き着く。アンテナが設置されていなければ電波はこない。この地がたまたま空白地帯になってしまっているのだろうと考えがいきつく。
しかし、道がつながっていないなどあるだろうか。
ここは陸地だ。海に覆われているわけではない。
何らかの方法があるのだろうと思うが、こんなときの一番の頼みの綱のナビが使えない。
やみくもに歩いたところで疲れるだけだ。
などということを繰り返し繰り返し思い浮かべながらも、起きたことに脱力してしまい体が動かない。
そのまま夕暮れを迎えた。
鹿島が風呂が用意できたというのでいわれるままに入り、用意されていた浴衣に袖を通す。
すでに夕餉が用意されていた。
そこで妻と紹介された女性の美しさにハッとする。なにより肌が美しい。
妻といっしょに二人の子供たちとも挨拶を交わした。
「こんなものしかありませんが」
と出された料理は味噌汁に鳥の照り焼きとおひたし。一見何の変哲もない献立だったが、ひと噛みするごとに広がる豊潤さには驚いた。
熊木が普段食べているものよりもはるかに品がいいことがわかる。
「ははは。旨いでしょう。水かいいからですよ。さあ。遠慮なさらずにどんどん召し上がってください」
思えば昼から何も食べてなかった。
鹿島に促されて、熊木はたらふく食べ、そのあとすぐに寝てしまった。
自分のために用意された部屋で熊木は目を覚ます。
まだ夜中だ。
飯の旨かったことを思い出す。空腹だったことを差し引いても旨かった。そしてこの浴衣の着心地。
まるで温泉旅館に来たかのようだ。
居心地がいい。
だが食事を得て、休息をとったら気持ちも前向きになった。
この地を出て行かなくては。
自分の服は枕元にきれいにたたまれて置かれている。
おそらくあの美人妻がしてくれたのだろう。
行く前にもう一度拝みたい。
その気持ちを抑えて、熊木は外へ出た。
明かりのない真っ暗な空間。だからこそ際立つ月の美しさ。
さあ行こう。
自転車がわかりやすいところに置いてある。
これを拝借し、熊木は漕ぎ出した。
駅へ。
駅に着き、改札口を乗り越え、熊木は線路へと下り立つ。
道路がつながっていないとしても、線路はつながっている。
自分は電車に乗って来たのだ。
だったらこの線路を進んで行けばこのはんざきから出て行けるはずだ。
どれだけかかるかはわからない。
しかし、五年もかかることはありえない。
熊木は歩き始めた。
日差しを感じて熊木は目を覚ます。
どうやら歩き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。
危ない危ないと思ってもそこはさすがに五年に一度しか電車が来ない土地。
本当に夜中にも一本も通ることはなかったようだ。
轢かれることなく自分は生きている。
熊木は体を起こした。
見るとホームの上。
そして
「ははは」
という聞き覚えのある声。
鹿島だった。
「やっぱりこうなるんだ」
どうして彼がと疑問を感じながらあたりを見渡す。
熊木は視線の先に「はんざき」と書かれた駅名標を発見する。
どういうことだ。
ここから随分と歩いたはずなのに。
二時間、三時間と歩いたというのに。
「僕もやりましたよ。でもね。ある地点まで行くと睡魔に襲われる。気づくとこのホームにいるのです」
熊木は息を飲む。
「当然の反応です。信じられません。ですから熊木さんの気が済むまで何度だってやってみるといい」
鹿島は弁当箱を熊木に渡した。
「妻が用意してくれました。これを食べて、力をつけ、また線路を歩いてみるといい。本当に電車は来ることがありませんから安心してください。僕も経験済ですから」
熊木はもらった弁当箱を見ると二人分だ。
だが鹿島はその場を去ろうとする。
「それは二つとも熊木さんの分です。朝と昼用です。何度でも挑戦してみるといい。
とても疲れるでしょうから車の方を置いていきますね。僕は自転車で帰ります」
鹿島の捨て台詞は彼が経験者だからこその配慮で、熊木は日が暮れるころそれを実感した。
熊木は線路を歩く生活を三日続けた。
結局目を覚ますとはんざきのホームだった。
「今日は行かないのですか」
鹿島は仕事の手を休め、縁側に座る熊木に声をかけた。
「足が痛くて。こんなに歩いたのははじめてでしょうね」
熊木は漏れるような声でいう。
「足を見せてください」
鹿島は熊木の足先に跪く。
「ああいけない」
熊木の足にはまめができて、それがつぶれて血が出ている。
鹿島は薬箱を取ってくると熊木の足を処置した。
「この辺りも痛いでしょう」
鹿島がふくらはぎや脛を触る。
痛みで熊木は思わず声を上げる。筋肉痛だけの痛みではない。
「よく効く軟膏です。はんざきに自生する薬草とこの地に伝わる秘伝で薬師がつくるものです」
鹿島は痛みを与えないように配慮しながら薬を塗り、包帯を巻く。
優しい男だと熊木は思う。その優しさに甘えて、踏み入った質問をしてみる気になった。
「あなたはなぜ、この村に留まっているのですか。僕が乗って来た電車に乗れば出て行くことができたのに」
「ははは。はじめはそう思っていましたよ。今のあなたと同じように何度も脱出を試みた。
なんといったって報道もされるような大きなプロジェクトに関わっていましたからね。
それが無駄だと分かったなら今度は五年後です。仕事は諦めました。なにせ連絡手段もないのですから。
決め手は子供でしょうか。妻と結婚し、二人の子供を授かった。家族とともにこの地で暮らすうちに、ここを出て行きたいという気持ちが消えていきました。
あなたが思うほどこの地は悪いものではありませんよ。人としての根本の生き方をしているという実感があります。
飯が旨いでしょう。水かいいからですよ。 ははは」
数日すると薬が効いたのか、足はすっかりよくなった。
それでも熊木は線路歩きを再開する気にはなれずにいた。
鹿島の話のせいだ。
みんなが知っている大企業に勤務し、報道されるような大きな仕事に関わっていた。
とても優秀な人だ。
かくゆう自分はといえば三流企業で大した役割も与えられていない。
帰りを待つ妻や彼女がいるわけでもない。
どうしても帰らなくてはならないことなどないのではないか。
元の都会での生活を取り戻すこともできたのに、それを捨てこの地に残ることにした鹿島の行動。
ここでの生活はそれほど価値があるということだ。
鹿島の親切なふるまいや、はつらつと働く様子も熊木が考えをまとめるのを後押しした。
熊木は鹿島とともに彼の師匠だとういう男のもとを訪ねた。
熊木は何か仕事をはじめてみることにしたのだ。
五年間はこの地から出て行くことができないのなら、ずっと鹿島の世話になっているわけにもいかない。そう決意した。
白髪を後ろになでつけた老人は熊木を見たときに驚いたような顔をした。
熊木も似たような顔をした。
鹿島はそれに気づいたが、それ以上のことがはじまらないので、気のせいだったかと思い熊木の事情を説明した。
師匠である常盤は黙ってそれを聞き、時折うなずいた。
そしてしばらく思案し、自分の仕事を手伝うことを提案した。
常盤は宮大工だった。
常盤ははんざきの地に古くからの伝わる伝統技能の継承者だった。各地にある祠の修繕が主な仕事だ。その中でも一番大きな祠の遷宮が五年後に控えておりそのための人手が欲しい。それが熊木弟子入りを提案した理由だった。
宮大工として一人前になるには10年はかかる。その間厳しい修行に耐えなければならない。
熊木には頼るものがなく提案を受け入れた。
常盤は村人からとても信頼されている人物だった。祠の修繕が仕事のはずだが、様々なことを村人が相談に来る。
その一環で鹿島が連れてこられた経緯があったらしい。常盤は親身になって鹿島にここでの生活の仕方を教えた。
だから鹿島にとって常盤は師匠だ。しかし宮大工の仕事を教わったわけではなく、あくまでも農作物のつくり方などを教わったに過ぎないという。
なんでも宮大工の仕事は血統によって継承されるもので、常盤の仲間の10人は全員血のつながりがある親戚ばかりで構成されているという。その名も「常盤組」。
だから余所者であるはずの熊木が本来は就くことができない仕事だが、それが許されたのは遷宮に間に合わせるための特別処置だと解釈された。
常盤組棟梁常盤丈一郎の判断に異論を唱える者などいなかった。
「とても特別で名誉なことだからがんばって」
と熊木は鹿島に励まされる。
丈一郎の判断が間違いではなかったことはすぐに判明した。
大工道具など金づちやのこぎりを持ったことがある程度。小学生の授業で何かつくったことがあったなと記憶をたどる程度。
素人である。
そのはずが、様になっていたのだ。
「本当にはじめてか」
と兄弟子たちに何度訊かれたろうか。
その度に、そうだと答えると
「さすがだ」と返ってくる。
さすがはおかしいだろうと熊木は思うも、仕事が褒められるのがうれしく、さらに技能の習得が早まるのだった。
さすがの理由がわかるのは4年目のこと。
通常ならば10年はやっていないと任されることのない祠の修繕を一人任され、見事にやってのけたとき、丈一郎の弟である大三郎から語られた。
「棟梁には俺以外にも弟がいた。名前は範二郎。俺のもう一人の兄貴だ。俺たち三人兄弟は小さいころから親から宮大工の手ほどきを受けて育った。中でも範二郎の才能はずば抜けていた」
親は多いに喜び、将来は範二郎に棟梁を任せることに決めていた。
ところが当の本人は五年に一度来る電車に乗ってこの村から出て行き戻ることはなかった。
親は多いに嘆きここでの生活が嫌だったのかと落胆した。
だがそうではない。範二郎は兄に道を譲ったのだ。弟に抜かれても腐ることなく、寝る間も惜しんで修練する兄貴の姿を見ていたから。
「熊木よ。お前は範二郎にそっくりだなあ」
大三郎の言葉に熊木も合点がいく。
はじめて丈一郎を見たとき。そして「常盤組」の面々。自分と顔が似ている。
「仕事をする様がますますそっくりなんだ。間違いないよ。お前は範二郎の孫だ」
熊木は祖父の故郷に行ったことはないことを思い出す。
行ってみたいとせがんでも遠すぎて行けないといわれたこと。
祖父がこの村の出身だったとは。
「伴治って名前でした。本当は範二郎だったんですね」
「故郷は捨てても名前までは完全に捨てきれなかったようだな。宮大工の仕事していたのか」
「いえ。まったく。確か食品関係です。ただ器用な人でした。僕たち孫をたのしませようとよくおもちゃをつくってくれました。本当にあっという間につくってしまうんです」
「優しい兄貴らしいな。丈一郎も範二郎の気持ちがわかっているから丈一郎は範二郎を悪くいうことはなかった。むしろ自慢にしてすごい弟だったと弟子たちに話している。弟が孫を送り返してきたといっている」
そういって笑った。
それで「さすが」なのかと熊木の長年の疑問が晴れる。
自分がここに来たのはそんな因縁があってのことかと感慨深く思う。
熊木がはんざきに来て5年目の年が来た。
熊木は結婚していた。
相手は鹿島の妻の妹。姉と違わぬ美人妻だ。
だがその姉妹が特別というわけではない。本当にこの村は美人が多い。何より肌が美しい。
それを鹿島にいうと
「ははは。水がいいからね」
と笑う。
その水がはんざきに災いをもたらす。
水が豊かな土地はときにそれを飽和させる。
数年に一度大規模な水害が起きる。
村の各所にある祠はその水害を鎮める意味と、被害者を慰霊する意味がある。
水害にはある程度の慣れと教訓を持っていた。
だが今年は桁が違った。
常盤組棟梁常盤丈一郎のもとに被害が報告されていた。
ときは10月。収穫の時期と重なりこれ以上の被害があれば、自給自足の生活をしているはんざきの人々は飢えるしかない。
遷宮を無事終え、新しく建った祠に常盤組が全員集まっていた。
「知っていよう。我らが常盤組の仕事は祠を作るだけにあらず」
「御意」
「水害を鎮める霊力を我々は古より継承する者」
「御意」
「今より祈祷をはじめる。念をすべて熊木に集めよ」
「御意」
弟子たちすべてが了解していることだったが、熊木はわからず丈一郎の顔を見る。
「我らが常盤一族には水害を鎮める霊力がある。そして数十年に一度強靭な霊力を持って生まれる者があるという。それが範二郎ではないかと両親がいっていた。俺もそう思う。
熊木よ。お前はその血を受け継いだ。お前が霊力の中心となり、村を救え。よいな」
それで村が救えるならば。
熊木は一心に祈った。
雨音が天井を叩き割るのではないかと思うほどの音。
風が壁を引き裂くのではないかと思うほどの音。
その音が次第に次第に静かになっていく。
祈るほどに静かになっていく。
やがて音が止んだ。
丈一郎が扉を開ける。
「見よ」
全員が外を見ると空を埋め尽くしていた真っ黒な雨雲が消え、青空が広がっていた。
祭りの中心は熊木だった。
妻とともに礼装をして人々を迎え入れる。
真に霊力を持ってこの世に現れた者を祭る「現人神祭」が急遽開かれていた。
村人一人ひとりが熊木のもとを訪れお礼の言葉と貢物を捧げにやって来る。
昨夜はなんと誇らしいことでしょうと妻に傅かれた。
自分が神様扱いだなんて照れ臭いと熊木は思う。
本当に水害を止められてよかったとも思う。
口髭の男が熊木の前に来る。
はんざきに来てはじめて声をかけた人がこの男だ。因縁を感じる。
「まさかあなたが現人神様だなんて」
「その節はお世話になりました」
「もったいないお言葉で」
「ちなみに今何時でしょう」
「11時40分でございます」
「少し休ませてください」
脇にいる丈一郎にいう。
「いいとも。一日中続くからそうするといい」
熊木は席を外し部屋から出る。
そのまま休憩室へ。事前に人払いしてある。
熊木はそこで用意しておいたバッグを取り出し、着替えをはじめた。その服ははんざきに来たその日に来ていたもの。
そして会場から飛び出す。
今日は2025年。五年ぶりに電車が来る日。
彼は駅まで走った。
駅に着こうかというころ、後ろから声がした。
「熊木様」
「熊木様」
「どうしてどうして行ってしまうのですか」
村人たちが口々に叫んでいる。
その中でもっとも悲痛な声がした。
妻の声だった。
「あなた。行かないで。お腹にはあなたの子が」
熊木の耳に確かに聞こえた。
だが熊木は立ち止まらなかった。
改札口を抜け、電車に乗る。
12時10分。
五年に一度しか来ない電車は出発した。
熊木は〇県の辺境の地はんざきで英雄となった。
数十年に一度の逸材といわれた。大きな仕事もやり遂げた。
人々を水害から救った。
現人神と崇められた。
美しい妻を得た。
子供も授かった。
彼が元のところに戻っても特になにもない。
五年もいないなら勤務先からは解雇だろう。
待っている妻も恋人もいない。
やるべきこともない。
どうしても戻らなければならない理由など何もないのだ。
それでも熊木は。
ずいぶんと昔の生活様式とはいえ、はんざきにいた方が待遇がいい。
それなのに、熊木はどうしてこんな選択をしたのでしょうか。
作者だけどよくわからない。
でも、そのあたりが気に入っています。