「Parade」
この小説は大沼パセリさんの楽曲「Parade」に着想を得ています。
「Parade」
ばたん、と家の玄関の扉を閉め鍵をかける。
今日も、あの場所へ行くために。
真夜中の街をひとり歩く。白い長髪に白いワンピースのひときわ目立つわたしを見たら、大抵の人は幽霊だと思うだろう。
けれど、けっして誰もわたしを見つけはしない。
なぜかって?
それは、わたしがあの場所に招待されたからだ。
あれは一昨日のことだった。わたしの家に一通の手紙が届いた。宛名はわたし宛で、差出人の名前はなかった。
星空で彩られた濃紺の封筒を開けると、そこにはチケットが1枚
遊園地のチケットだった。
わたしは驚いた。そこに書いてある遊園地の名前は
数年前に廃園になった、近所でも有名な心霊スポットの名前だったからだ。
もともと夜の散歩が好きなわたしは、好奇心からその夜、遊園地に行ってみることにした。
闇に包まれ、陰気な雰囲気を醸し出す遊園地の正門の前。
今日も、彼は立っている。
濃紺の夜空のような燕尾服をまとい、白い仮面を着けた背の高い男性。わたしは彼を心の中で「ピエロさん」と呼んでいる。
ここに最初に来たとき―――つまり一昨日の夜も彼は正門の前にいた。
離れた所から様子を伺ったところ、その人が異様な格好をしていることに気づいた。
燕尾服に、仮面。片手にステッキ。どう考えても普通ではない。
やっぱり帰ろうと踵を返しかけたその時、
「こんばんは、よい月夜ですね。お嬢さん」
すぐ背後から声がした。
わたしは悲鳴をあげて振り向いた。そこにいたのは一瞬前まではだいぶ離れた場所にいたはずの仮面の男だった。
わたしが恐怖で固まっていると、彼は目の前で優雅に一礼した。
「私どもの招待に応じてくださり、誠にありがとうございます」
「あなたは?」
わたしはしかたなく口を訊いた。
「わたくしはこの遊園地の案内人をしている者です」
「名前は何ていうの?」
「名前は昔はありましたが今はありません。お好きにお呼びください」
言っていることの意味がわからない。
「手紙を送ったのはあなたなの?」
「その通り。お嬢さん、あなたを夢の世界にご案内いたします」
「え?」
彼はそう言うと、止める間もなくわたしの右手を恭しくすくいあげた。
そして、わたしが思わずまばたきをすると
そこはさっきまでいた廃墟から一変していた。
まぶしい
視界一杯を彩るネオンライト。
色とりどりの風船。
能天気な音楽。
そこはごくありふれた営業中の遊園地だった。
「ようこそ!!」
「ようこそ!!」
マスコットキャラの着ぐるみたちが口々に叫び、私の手に風船を押し付ける。
彼は喜劇の仮面で言った。
「ようこそ。こちらがわたくしどもの夢によって象られた場所」
「クオリアパークです」
「ちょっと待って。どういうこと?」
「遊べばわかりますから。さあ行きましょう」
「え?」
彼は私の手を引きながら振り返った。
「高い所は大丈夫ですか?」
その日はもう、さんざん遊んだ。その遊園地はありえないくらい広くて、一日ではまるで遊び切れない量のアトラクションがあった。
わたしは最初は彼に抵抗し、元の場所に戻してと何度も言ったのだけれど、彼はまるで聞き入れようとしなかった。
「まあまあ、そう言わずに。ひとつだけでも乗ってみてください」
しぶしぶ、案内されたジェットコースターに乗ってみたら、わたしの気分は一変した。
まっ逆さまに落ちる時のふわふわとした心地。
眼下に広がる眩い光が、ぐるぐると回転する。
なぜかはわからないが、今まで乗ったどんなアトラクションよりもとても楽しかった。
わたしはついつい他の所にも行きたくなってしまい、結局は遊び倒してしまったのだった。
そして気がついた時には家のベッドの上にいた。
ワンピースのポケットには新しいチケットと、「特製シフォンケーキ無料券」が入っていた。
またお越しくださいという彼の声が耳に残っていた。
あんな気分になったのはいつぶりだろう。夢のように楽しくて、幸せで。
怖いものなんて、もうこの世にないみたいな。
桜の匂いがむせかえる空気に、当てられてしまっていたのだろうか。
遊園地でのできごとが忘れられなかった私は、一日空けて、またここに訪れたというわけだ。昨日は本当に平凡な一日だったので、一昨日のことが本当に現実なのかまるで自信が持てなかったけれど、彼がここにいるということはやっぱり、現実だったのだ。
「こんばんは、また会えて光栄です」
「こんばんは。こないだはありがとう。…『ピエロさん』って、呼んでもいい?」
「ご自由に」
「今日も、お願いしたくて」
「もちろん。私はそのためにおりますから」
「そう」
彼が私の手に触れる。
「そしてお嬢さん、あなたもここに来るべくして来たのです」
視界が変わる。
橙色の灯りが照らすその仮面からは、表情がまったく読み取れなかった。
「それって、」
「一昨日に園内は大体案内しましたから、今日はお嬢さんだけで少し回られるとよいでしょう」
「あと2時間ほどするとパレードの時刻となりますので、その時にまたご案内します」
「ご質問があるときは、私は花の広場前にいますのでそちらか、お近くのキグルミにどうぞ」
「よろしいですか?」
「勝手に決めないでよ…まあ、いいけど」
「それでは、ごゆっくり」
離れる後ろ姿を眺める。
彼はいったい、何を考えているのだろう。
そしてこの場所は、何なのだろう?
呆れるほど広い園内は、うるさいほど鳴っている能天気な音楽を除けば音はない。
人はいるのだが、客よりは従業員の着ぐるみや物売り、曲芸師なんかの方がずっと多い。
それに数少ない客とおぼしき人も、なぜだかすぐ見失ってしまう。少し前までテラスで腰かけていた人が、次に目を向けると消えていたり。
なんだか何もかもに現実感がない。
「やっぱりおかしいよね…今更だけど」
しかし、わたしは今日は楽しむために来たのだ。
この場所の謎を解明するためではない。
割り切ることにしたわたしは非日常感を堪能しながら歩いた。
そして目についた『ミラージュ』と看板が出ている紫と緑の建物に入ることにした。外観は大きな魔女の帽子のようになっている。
入り口を抜けて一歩入ると、驚いた。
合せ鏡の通路。鏡に写ったわたしが無限に続いている。ここはミラーハウスだったようだ。
何度も迷いながら通路を進んでいくと、やがて円形に鏡が並んだスペースに着いた。ここがゴールということだろうか。
「新入りかい。生きている子が来るなんて珍しいね」
鏡に写ったわたしが急に喋りだしたので、わたしは仰天して鏡から飛び退いた。
しかし鏡のわたしは構わず話を続ける。
「悪いことは言わない。もうここには来ない方がいいよ」
「まったくあいつも困ったもんだ、見さかいなく連れ込んじまって」
わたしは必死で呼吸を整え、頭を整理した。大丈夫、ここ自体が意味のわからない奇妙な場所なんだから、鏡のわたしがわたしの真似をやめたって何も不思議な事はない。無理矢理そういう事にしておく。
「えっと、あなたは?」
「ここの古株さ。もう30年になる」
「え?そんな前からここってあるの?」
「あんたの知ってる廃園になってる遊園地と、この場所は違うんだ」
「そうなの」
「とにかくここにはもう来ない方がいい。親切で言ってるんだよ」
「どうして?」
わたしが聞くと、鏡のわたしは口ごもった。それが気になって、わたしは問い詰めるように言った。
「ねえ、教えてよ。どうしてなのよ」
「ああもう、うるさいね。それはね、この場所は『ここにしか居場所がない者』が来るところだからだよ」
「まだあんたは引き返す場所があるだろ。私達みたいに拠りどころがひとつもないわけじゃない」
「手遅れになる前になんとかしな」
引き返す場所?
頭の中に何かがよぎった気がしたが、わたしはあえてそれを無視した。
「手遅れになるとどうなるの?」
「ここで緩慢に歪んでいくしかないのさ」
「歪んでいく?」
「ここに来る子は大体ある程度はもともと歪んでるんだけどね」
「この場所は永い時間をかけてそれを致命的なものにする」
「そしてある日頭のネジが飛ぶ。壊れたラジオは二度と動かない」
さすがにわたしもここまで聞くと、危機感を感じた。もしかして知らない内にわたしは、蟻地獄のようなものに囚われてしまったのではないか。
見かけは美しく良い香りがする食虫植物に、囚われようとしている虫。そんなイメージが浮かんだ。
わたしは指先が冷えているのに気づき、手を擦り合わせた。
「ここは…恐ろしい場所なの?」
「まったく質問の多い子だね。…まあ、ある意味合いにおいてはね。ただここはもともとそういう場所としてできた訳じゃない。」
「ここは逃げ場所なんだ。辛いことや苦しいことから、永遠に逃れるためのね」
「でも結局は、そうやって逃げたはずなのに、自分で自分をだめにしちまう」
「あなたは大丈夫なのね」
鏡のわたしは口角を釣り上げた。
わたしが決してすることのない表情だ。
「とっくに死んでるからね」
「え?」
「こうなりたくないならとっととここから出ていきな。ほら、出口はあちら」
鏡のわたしが指すほうを見ると、たしかに円形に並んだ鏡の一枚が扉になっていた。
そして目の前の鏡に向き直ると、そこには、わたしと同じ動きをする普段通りの虚像しかいなかった。
「ちょっと!!待ってよ!!」
呼び掛けても返事が帰ってくることはもうないようだったので、わたしは諦めて外に出た。
近くにあったメリーゴーランドに乗りながら、わたしはさっきのミラーハウスでのことを考えた。
間違いなく、鏡のわたしは警告をしていた。
ここにいると、歪んで壊れていく。それか、死ぬ。
随分と恐ろしいことを聞いたのにも関わらず、わたしはここからすぐ逃げる気にはなれなかった。戻るにはピエロさんにそう言わなければならないこともその原因の一つだった。
一昨日ピエロさんに聞いたところによれば、ピエロさんに触れなければ元の場所には戻れないらしい。一昨日、一度自力で外に出ようとしてみたが、出口は見つからなかった。延々と遊園地が続いていて、次第に霧が濃くなっていくばかり。前後が見えなくなる前にわたしは進むのをあきらめたのだ。
そもそもあの鏡のわたしの言っていることをそのまま信じていいのだろうか?
ふと、ピエロさんが言っていた言葉が脳裏によみがえる。
『お嬢さん、あなたもここに来るべくして来たのです』
どういう意味だろう?そして、ここが恐ろしい場所だというなら、ここにわたしを導いたピエロさんの目的はいったい、何なのだろう。
ここから出るにしろ、真意について聞くにしろ、とりあえずピエロさんに会うしかない。
メリーゴーランドの愉快な音楽に、一瞬不協和音が混ざった気がした。
花の広場に向かうと、相変わらず彼はそこに立っていた。今はステッキを持っていない。
わたしは不安げにピエロさんを見上げた。
遠くからトランペットのような音が聞こえる。
「そろそろ時間ですので、ご案内致します」
そう言ってピエロさんは歩き出した。わたしは少し迷ったけれど、結局ピエロさんの後を追った。
そうしてわたしたちはパレードの行われる花の広場に着いた。
この広場は(わたしが見た範囲では)遊園地の中で一番広くて、大通りが二本交差するところにある。
ベンチでぐるりと囲まれた広場には、思ったより大勢の人が集まってきていた。パレードの始まりを待つそわそわとした雰囲気があたりに漂っている。
「さて」
わたしたちが広場の真ん中あたりに来たところで、ピエロさんはおもむろにわたしの方に向き直った。
そして膝を折り、流れるような動作ですっと手を差し出した。
「私と踊りませんか?」
わたしは面食らって言った。
「踊る?」
「そうです」
「踊ったことなんてないわ」
「ご心配には及びません。ここは誰かの夢の世界。つまり」
「あなたが望めば、好きに踊れます」
わたしは考えたことを言ってみた。
「じゃあ飛ぼうと思ったら飛べるの?」
「もちろん。実際にやってみるのは、落ちると危ないのでおすすめしませんが」
わたしは笑って、彼の手をとった。この場所は本当に、なんでもあり得る。
パレードが始まり、広場にいる人たちは踊りだした。曲はわたしでも聞いたことがあった―――Sing,Sing,Singだ。
「1,2,3,4」
おぼつかないながら、ピエロさんにリードされステップを踏む。速いテンポにワンピースのスカートが揺れる。
正直に言えば踊っているというより、ピエロさんにくるくる振り回されているのに近いけれど。
踊りながらけっこうなスピードで移動しているのに、誰にもぶつからないのが不思議だ。
管楽団が演奏しながら行進していく。けっこう難しそうな曲なのに、リズムに合わせてとても楽しそうに揺れていたり、ポーズをとったりしていた。
しばらくすると曲が変わり、ゆったりとしたテンポのブルースになった。わたしはなんとか息をととのえたが、鼓動はまだだいぶ速かった。
「上手ですね」
「全然」
「さっきもスウィングを感じるのが上手かった」
「息が切れちゃう」
「ふふ」
わたしは踊りながらピエロさんの仮面を見つめた。彼が笑ったような素振りをしたのは始めてだった。しかしいくら見てもやっぱり、その表情は伺い知れない。
彼の腕に体を預けながら、何となくわたしは、彼とこのままずっと踊っていられたら、と考えた。
そうしたら、
幸せなんだろうな。
そう考えて、同時に強い虚無感を感じた。ここでいくら楽しい思いをしたって、結局は夢の中。現実ではないのだ。
数曲を踊った後、広場の人たちは踊るのをやめ、今度はパレードの行進を見物し始めた。パレードでは音楽に合わせた曲芸が披露されている。どうやらインターバルの時間のようだ。
わたしは疲れきってベンチにへたり込んだ。
「疲れたわ。こんなに…動いたのは、久しぶりで。」
「そうですか」
ピエロさんはまったく息を切らしていない様子で隣に腰掛けた。
「楽しかったですか?」
「ええ、それは、とても」
「それは良かった」
少しして、ピエロさんは口を開いた。
「答えづらかったら答えなくて良いのですが―――」
「あなたの髪が白いのは、生まれつきですか?」
「その通りよ」
彼は納得したように頷いた。
「道理で。美しい髪ですね」
わたしは恥ずかしくなった。さらりとそういう事を言う。この人は本当にキザったらしい。
「そういう風に言われたのは始めてよ」
「そうなのですか?」
「わたしはもっと、普通に生まれたかった」
わたしはため息をついた。
疲れもあって、睡魔が襲ってきた。わたしは次第に、意識を手放していった。
「…、普通ですか」
「私は普通に生まれたはずなのですけどね、駄目になってしまいました」
「人生とは難しいものです」
「おやすみなさい。…良い夢を」
「あ」
目が覚めて、わたしは絶望した。現実に戻ってきてしまった。
誰もいない部屋で、無意識にタイツに包まれた脚をさすった。この下にあるたくさんの痣はわたしに保証してくれている。
わたしは確かに、「あそこにしか居場所がない者」であると。
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ミラーハウスでの警告を忘れてはいなかったけれど、わたしは結局次の日もこの場所に通ってしまっていた。
周りを見回し、今日は観覧車に乗ってみることに決めた。遊園地のどこにいても存在感があるほど大きな観覧車なのに、まだ乗ったことがなかったからだ。
受付のキグルミにチケットを見せ、観覧車に乗り込む。キグルミは観覧車の扉を外からしっかりとロックした。何となくキグルミの目のあたりを見てみたが、キグルミはわたしにはひとかけらの興味もないようだった。
観覧車はゆっくりと上昇を続けた。上から眺めると、たくさんのアトラクションとそこにいる人々が一望でき、なかなかの眺めだった。
しかし、この遊園地がどこまで広いのか、上から見てもいまいちわからなかった。遠くは霧にけむったようになっていて、その向こうが見えない。しかし、わたしは直感的にその霧の向こうには闇しかないのだろうと感じた。
観覧車が中天に差し掛かろうとした時、ふとコーヒーカップのそばにピエロさんの姿を見つけた。そしてはっと、息が詰まった。
下にいるピエロさんは誰かと話をしていた。しかし、わたしがピエロさんを見つけてすぐ、ピエロさんはわたしを見たのだ。
わたしがいるのは観覧車のてっぺん。下から見てわたしの姿が見えるはずはない。ただ観覧車を見ているだけに違いない。
それでもわたしの心臓は跳ね上がり、ばくばくと忙しなく音を立てた。
目をそらすことが、できない。
次の瞬間、ピエロさんは膝を軽く折り、流れるような動作ですっと下から手を差し出した
昨日、「踊りませんか。」と言ったときと寸分違わない動作で。
頭が真っ白になった。
気づくと体が勝手に動いて、片手を彼に向けて預ける動作をしていた。
彼はそれを認めると、体を起こし、照れたように頭の後ろに手をやってから、視線を外してまた会話に戻った。
急に身体が鉛のように重たくなり、わたしは座席にもたれかかると、目を閉じた。
自分の身体が自分のものじゃないような心地がした。頭の中が、シャチに襲われた小魚の群れみたいに混乱している。
見られていた。彼を観覧車の中から見つめていたわたしを。彼と目が合って心臓を跳ねさせていたわたしを。
わたしは上がった体温を落ち着かせるように、観覧車の窓から夜空を睨んだ。
そして、今まで見て見ぬふりをしていたことが、もう目を背けきれないほどになってしまったことを悟った。
私はピエロさんに恋をしている。しかもとても強く。
ふらふらと観覧車を降りると、わたしはふと観覧車の根元近くに変わったものを見つけた。変わった、といってもこの遊園地の中では変わっているけれど、この場所でなかったらむしろありふれたものだ。
そこにあったのは乗用車だった。車に詳しくないわたしには何という車かまではわからないが、あまり高そうではない、ごく普通の車だ。
わたしは気になってその車に近づいてみた。すると中には人が乗っていた。見た目は40~50代といったところだろうか、中年の髭がぼうぼうのおじさんだった。ところどころ白髪も目立つ。
「やあお嬢ちゃん」
「こんばんは。いい月夜ね」
「だいぶ霞がかってるけど」
「幻想的じゃない?」
「まあそうとも言えるか」
「あなたはここの人?」
「そうだよ、君はまだ来てすぐかな?」
「…まあそんな感じ」
「そうか。」
少しの間、沈黙がわたしたちの間に流れた。
「僕は、」
「僕はここに来る前は、ずっと車の中で暮らしてたんだ」
わたしは思わず彼の顔を見た。ここの人間が過去を語ったのを今まで見たことがなかったからだ。
「車の中で?」
「そう。道の駅の駐車場を点々としながら、日雇いのバイトして生活してた。したくてしてたわけじゃないけど」
「家が無かったってこと?」
「そのとおり。部屋借りると赤字になっちゃってさ。持病があるから限られたバイトしかできない。もともといた会社もそのせいで辞めた」
わたしは言葉が見つからなくなったので、じっとその先を待った。
「この場所に来たのは偶然だ。この遊園地の駐車場に、特になんの理由もなく停めたんだ」
「もしかしたら、人の暖かみのようなものを感じたかったのかもしれない。楽しそうな人達を遠くからでも見たかったのかもしれない」
「そのころは普段コンビニの無機質な顔をした人しかお目にかかってなかったからね」
「夜になったら遊園地は閉まってしまうから、それまでいようと思ってた」
「でも変なことが起きてね」
「変なこと?」
わたしはようやく声を取り戻した。
「遊園地に来て何時間かしたころに、僕の姿が誰にも見えていないことに気づいたんだ」
「見えないって」
「言葉通りの意味さ。最初は単に誰も僕に興味ないだけだと思ってた。それが普通だから最初は全然気づかなかった」
「でも僕が駐車場に来た人の目の前数センチで手を振り回しても、耳もとで大声で叫んでも、彼らは驚かないし気づかなかった。ぴくりともしないんだ」
「それは…大変ね」
「本当に。困ったことになったなと思った。急に透明人間になるなんて、そんなことあってたまるか。そうだろう?」
わたしは頷いて同意した。
そんな話は聞いたこともない。人がしょっちゅう透明になったりしていたら世の中は非常にややこしいことになる。
「それで、しょうがなくとりあえずそこに留まったんだ。だって透明人間が車を運転してたら、運転席には誰もいないのに車が走ってるように見えるってことだろ。周りの車が事故りそうじゃないか」
「確かにそうね」
「それで閉園時間になって、警備員が来たけど僕と僕の車には目もくれずにさっさと門を閉めてしまった。僕の車もどうやら見えていないようだった」
「そして夜中に、彼がやって来てこう言ったのさ。『お待たせしました。ようこそ、クオリアパークへ』ってね」
彼というのは聞くまでもなくわかった。ピエロさんだ。
「そうして僕と、僕の車はここに移動してきた。あれからどれくらいたったかはよく分からないけど、数年は経ってるんだろうね、たぶん。そういうの詳しい人もいるんだけど、僕はあまり興味なくて」
「戻りたいと思う?」
「いや、戻る場所がないからそもそも戻れない。僕はこの車の中にいるしかないから」
「じゃあ、出たいとは思わないの?」
「うーん」
彼は少し考え込んだ。
「特に出たくはないかな。この夢の中はなかなかに居心地いいし。人によるかもしれないけど僕はこれで満足さ。ここには苦しさとか辛さはない。…そういうものから永遠に逃れるためにできた場所だから。」
「あのままだったら遅かれ早かれ、僕は生き続ける苦しみのせいで命を絶っていただろう。」
「それに多分、僕は出ることも不可能だ」
「どうして?」
「僕はもう生きてはいないと思うからね」
わたしは驚く。
「死んでるの?」
彼は困った顔をした。
「いや、死んだ覚えはないから死んではいないと思うんだけど…説明が難しいな。とにかく僕は『透明になった』時に、現実世界にはもう存在しなくなったんだろう。何故かわからないけどそこで分水嶺を越えちゃったんだ。僕が『生きる』ことはもう無理だ」
わたしは彼の言ったことの意味について考える。でも、結局は考えるのをあきらめる。ここで起こることや起こったことは考えるだけ無駄だ。なにしろ誰かの夢の中なのだから。
わたしは最後に質問をする。
「誰かを好きになったことはある?」
「そりゃあるよ。けっこう長く生きてたから」
「愛ってどういうものなの?」
彼は少し微笑んだ。
「それは難しいな。君の質問がざっくりしすぎているのもあるし、限定されたとしても難しい質問だ」
「まあ君はたぶん、恋愛的な愛について聞きたいんだろう、年齢と状況から考えても」
私は頬が熱くなる。この人は思ったより鋭いようだ。
「恋愛っていうのはけっこうやっかいなものではある。あまり良いことばかりとは言えない。恋に落ちるのは台風とかと似てるかもね、それは君の力ではどうしようもないことだ」
「それによって君は自分を曝け出す。それは時には危険を伴う。場合によっては修復不可能なほど君が壊されて、失われてしまうかもしれない。そしてその後一生戻らないかもしれない。まあそれは最悪の場合だけど」
「自分の中にどうしようもなく醜い感情を見つけたり、選びようのない状況に置かれたりすることになる」
「でもこれだけは覚えていてくれ。運が良ければ君は相手を満たすことができる。そして相手によって満たされることができる。」
「それによって、欠けた自分の一部を見つけることができる。遠い昔に失った自分の一部を」
「だから相手に対しては、じっくりと時間をかけて、君に打ち明けてくれるのを待つんだ。そして相手の中にあるものを、壊れものを扱うようにひとつひとつ丁寧に、大切に共有していくんだ」
「大変だけどね」
「…わかった。ありがとう」
正直わたしには高度すぎてさっぱりだったが、励まされた感じはした。私は彼に別れを告げ、観覧車の下から立ち去ることにした。最後に彼は付け加えた。
「機会を逃さないようにね。タイミングが大事だ」
私は笑って手を振った。今度は分かりやすいアドバイスだった。
そしてわたしはもちろん、パレードへと駆けていった。
彼とさっきしたばかりの約束を果たすために。
ーーーーーーーー
ここに通い始めて、1週間ばかり経った。
これだけ時間が経って、わたしにも何となくこの場所の中毒性のようなものが分かってきた。
正直に言って出たくなくなってきたのだ。ここなら誰もわたしを傷つけないし、楽しいことばかり考えていられる。飽きることも今のところはない。
でもわたしは必ず、こちらで眠ったときに現実に戻っている。
それは、ピエロさんがそうしているからに違いない。
彼は何をしたいのだろう?
彼と会うたびに感じる、幸せと虚無感。
わたしは彼の目的を早く知るべきな気がしていた。なぜかはわからないけど、わたしに残された時間は少ないと感じていた。
でも、誰に聞いても彼のことについては明確な答えが得られなかった。
しかしついに今日、手がかりが得られた。数日前にコーヒーカップの近くで彼と話していた人に話を聞くことができたのだ。
「あーあいつか。僕はあいつのことをよくは知らないけど、花の広場からずっと西にいったところに、お化け屋敷がある。そこに、彼と似たやつがいるんだ。やつなら何か知ってるかもな」
「お化け屋敷?」
「そう。けっこう霧が濃くなってる所にあるから、行くなら気を付けなよ」
「ありがとう」
わたしは早速、その場所に足を向けた。
霧の中を歩く。時折、カラスの鳴き声やバサバサという音が聞こえ、とても不気味な様子だ。
気温も下がって肌寒く、わたしは肩を抱いて、軽くこすりながら歩いた。
もう進むのをあきらめようか、そう2,3回考えたところで、ようやくそれは表れた。
蔦がからまった大きな洋館。完全に、打ち捨てられて何年も経った廃虚のように見える。これが遊園地のアトラクションとして作られているのなら、なかなかクオリティが高い。
わたしは洋館の扉に手をかけた。ギイイイイという嫌な音とともに、その扉は開いた。わたしは少しためらったが、決心して中に足を踏み入れた。
大きな洋館だった。入ったエントランスには中央に広い階段があって、2階へと続いている。階段の左の方にはカウンターがある。豪華なホテルかなにかのようだ。照明がついていなくて、とても暗い。
敷き詰められたカビ臭い絨毯が、足音を吸いとる。
そのせいで、わたしはまるで気づかなかった。
「こんばんは。お化け屋敷へようこそ!」
悲鳴をあげて振り返ると、そこに、ピエロさんがいた。
いや、よくよく見るとピエロさんではない。ピエロさんの仮面は喜劇の仮面だが、この人の仮面は悲劇の仮面だった。
彼は持っていた燭台に火を灯すと、わたしに優雅に一礼した。
「歓迎しますよ、お嬢さん。こんな外れにあるせいか、ここには訪れる人がめったといない」
「申し遅れました、私はここの案内役のものです」
わたしはしばし絶句したが、あわてて言った。
「わたし、あなたと似た人を知っているのだけど」
「ああ、私は彼とそっくりでしょう。別々に存在するものの、ある意味では、私は彼の一部ですので」
「どういう意味?」
「説明しても理解が難しいことですので、気にしないでいいですよ。それよりも、この洋館を楽しんでいきませんか。恐ろしい、身の毛もよだつ呪われた逸話が、ここには沢山ありますよ」
わたしは困った。
もともとお化け屋敷は嫌いなのだ。それに、このピエロさんに似たそっくりさんは、なんだか好きになれない。最初から、なんとなく馬鹿にされているような気がする。
でも、彼についていくしかなかった。燭台を持っている彼といないと、真っ暗な中を歩くことになりかねない。それに、さすがにこの洋館で一人ぼっちになるのは嫌だった。
「…わかったわ」
わたしは頷いた。
ピエロさんについては、後でもう一度聞くことにしよう。
彼とのお化け屋敷は本当に最悪だった。
彼は執拗にわたしを怯えさせ、わたしが仕掛けにひっかかって悲鳴をあげるたびにけらけらと笑い、しょっちゅうわたしを置いてきぼりにした。
彼の姿を見失った直後にゾンビの手がわたしの足を掴んだときは死ぬかと思った。
何回か思わず彼にしがみついてしまったのも腹立たしかった。
道のりの最後の方になって、彼は言った。
「気分はいかがですか?」
わたしは憮然として言った。
「聞きたいの?」
彼はまた笑った。いやな笑いかただ。
ひとしきり笑うと彼は言った。
「面白いことを、教えてあげましょうか」
ちらちらと舞う燭台の炎のせいか、一瞬仮面の口もとが裂けたように見えた。
嫌な、予感がする。
「なに?」
わたしは声が震えないように返事をした。
「私にそっくりな彼のことですよ」
「彼のことを、知りたいんでしょう?」
「…」
わたしは黙りこむ。知りたくないと言えば嘘になった。
ある意味「彼の一部」であるらしいこのそっくりさんなら、彼のことをここの誰よりも知っているはずだ。
わたしの沈黙を肯定と取って、彼は語りだした。
「私は彼の罪を知っています。私は彼の、隠したい部分です」
「特に彼は、あなたにだけは知られたくない」
「どうして?」
「それは、私の口からは言えませんね。直接彼に聞いて下さい」
わたしはまた腹が立った。ならなんでそういうことを言うんだろう。
そっくりさんは、まるでわたしの心を読んだかのように、嬉しそうに続けた。
「彼は愛するものを殺した。」
「え?」
わたしは彼が何を言っているのかわからず、聞き返した。
「彼がここに来たのは一家心中をしたからです」
「自分が愛した妻を殺し、娘を殺した」
後ろから腕を掴まれて、私は振り返った。
ゾンビがすぐそこまで大勢迫っていて、わたしの動きを封じようとしていた。
「ちょっと、放してよ、」
「しかし彼だけは死にきれなかった。今も彼の肉体は病室に横たわり、中身だけがここにいるのです」
「彼は死んではいない。だから、この場所と現実を行き来できる」
「しかし彼の居場所など、この世界のどこにもない」
四肢を押さえつけるゾンビ達を振り払って逃げようとするが、うまくいかない。わたしは焦って手当たりしだいにゾンビを引っ掻いた。
そっくりさんがわたしに近づく。彼の悲劇の仮面がわたしの視界一杯に広がる。
ほとんど密着するような形で、彼は告げる。
「彼があなたを見つけたのは!あなたが彼の娘によく似ていたから」
やめて、その先は聞きたくない
「そしてあなたも、どこにも居場所がないからだ」
「やめて!!!!!!」
わたしは叫び、とっさに彼の仮面を剥ぎ取った。
とたんにつんざくような悲鳴が響いた。
スピーカーのハウリングのような、とんでもない悲鳴だった。
仮面を剥ぎ取られたそっくりさんは顔を押さえて苦しみ、服の裾から黒色の煙が出始めた。
ゾンビの腕の力が緩んだので、わたしはゾンビを振り切った。
「そっくりさん!!」
そっくりさんはのたうち回りながら煙になって消えていっていた。
わたしはぴくぴくと死にかけの動物のように痙攣するそっくりさんに、なんとかできないかと仮面を戻してみたり、さすったりしてみたが、すべては無駄なようだった。
ゾンビたちはただその光景を見ていた。辺りは静寂に包まれていた。
そしてそっくりさんはすっかり消えてしまった。後に残されたのは服と、わたしが剥ぎ取った仮面だけだった。
ゾンビたちはそれを見届けるとゆっくりと持ち場に戻っていった。
わたしは一人そこに座り込んだまま茫然とした。
なぜかがたがたと体が震える。
そっくりさんを、彼の一部を、消してしまった。
そんなことをして、彼は、彼は無事なのだろうか?
わたしは転がるように洋館を出て走り出した。
彼を、探さないと
とにかく必死に遊園地の中心部へと走る。わたしの腕や足に時折引っ掻いたような痛みがはしったが、気にしている場合ではない。
ピエロさんはいつも通り、花の広場にいた。今はパレードの時間も遠いので人気はあまりない。
「ピエロさん!!」
わたしはピエロさんに抱きついた。ピエロさんはびっくり仰天していた。
「どうしたのですか、そんな、傷だらけになって」
そしてピエロさんは、わたしが持っていた仮面を見つけた。
「どうしてそれを…、まさか」
「教えて」
わたしは抱き締める腕に力を込めた。
「何をしたの?」
ピエロさんははっと息をつめた。
仮面の奥の瞳が怯えている。
そして、わなわなと震える声でいった
「私は…っ、ゆるされないことを、した」
「君を愛する資格なんて、ないんだ」
「もう、わかってるから。言ってみて」
「妻をころした」
「うん」
「娘をころした」
「うん」
「そして、自分も死のうとした」
「うん」
「君が…、君が娘に似ていたんだ。その声が。」
「どこか、君を娘に重ねていたんだ。」
「私のこと、好きじゃないの?」
彼の仮面の奥の瞳が苦しそうに歪んだ。彼の手は縋るようにわたしのスカートを手繰った。
わたしはその仮面の奥を真っ直ぐに見つめた。
「聞いて」
「わたしは、」
「それでもあなたが、好きなの」
カツーン
彼の仮面が、地面に落ちた音が、大きく闇にこだました。
初めてみる彼の素顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「ああ…私はなんて、弱いのだろう」
「許してくれ」
彼の手がわたしの頬に触れる。
「許してくれ」
彼の顔がゆっくりと近づく。
鼻先が触れるほどの距離になったとき、彼は告げた。
「あいしている」
唇が、触れた。
はっと目が覚める。
朝の冷たい空気を突然感じ、わたしは身震いした。
そこは廃墟のベンチだった。
わたしはすぐ辺りを見回した。
彼はいない、彼の仮面も落ちてはいなかった。
でもわたしにはわかった。彼は現実世界に戻ったのだ。
今度はわたしが、彼を見つける番だ。
ーーーーーー
「天野さん、ご面会です」
「面会?警察以外にか」
「若い、高校生くらいの女の子です。天野さんの意識が2週間前に戻ったことをなぜかご存じで」
「でも、天野さんとのご関係について言おうとしないので、受付も通すかどうかで困っていたんです…面会されますか?」
「…その子、髪が白かったんじゃないか」
「ええその通りです。お知り合いですか?」
「…ああ。早く、通してくれ」
「わかりました」
Fin