お母さんがプロポーズされました
「どうか、僕と結婚してもらえないだろうか? 毎朝、目が覚めた時に君のその美しい瞳の中に僕だけを映してほしいんだ」
「え……」
驚きのあまりに口を両手で抑えたのはわたしのお母さん。
お母さんの目の前には四十代半ばの美中年の男性。平民であるわたしたちからしたら雲の上のような存在である侯爵様だ。
高そうな服を着た彼は、まるでおとぎ話の騎士のように片膝をつき、そっとお母さんに一輪の赤いバラを差し出している。窓からは明るい日差しがまるで二人を包み込むように差し込んだ。
思わず息をのんでしまうほど、美しい光景。
これが小さなパン屋じゃなければ。
ここはわたしとお母さんが切り盛りする王都の下町にある小さなパン屋だ。二階が居住場所になっており、2部屋程ある。一つが寝室、一つがダイニングキッチンだ。お父さんが亡くなってしまっているので二人で慎ましやかに暮らしていた。
毎日パンを焼いて、そのパンを売る。パンの仕込み時間は朝日が昇る前、終わるのは夕方すぎ。
正直、大変な生活だ。わたしもできるところは手伝っているけど、パンをこねることはお母さんの仕事。お父さんが生きていた時はお父さんの仕事だったけど、3年前に死んでしまった後はお母さんがやることになった。
毎日毎日沢山のパン生地を作る作業はとても大変だ。重労働だとわかっているから、わたしはできることをする。
丁度お昼時から少し過ぎたところで、混雑を避けた常連さんが数人残っていた。突然始まった求婚に常連さんたちもぎょっとして二人を見つめる。
無意識に距離を置いているのが面白い。
お母さんは顔を真っ白にして固まっていた。完全に目が逝っちゃっている。お母さん、魂抜け過ぎ。
心配にはなるが、この出来上がってしまった舞台にわたしが割り込むのは悪手だろう。
無礼者、で斬られて終わりだ。
ハラハラ心配しながらも、二人を見ていればようやくお母さんが正気に戻った。ウルウルと瞳を潤ませて侯爵様の前に膝をつき、薔薇を差し出す彼の手を両手で包み込む。お母さんのウルウル瞳で見つめられて、目を逸らせる男はいない。
「お気持ちは嬉しいですわ。でも、わたしはパン屋の女将。とてもとても雲の上のような、王子さまのような、はたまた神様のような侯爵様のおそばにいるなど恐れ多くて」
お母さん、王子さまはないと思う。
せめて王様にしないと。
そして、神様は言いすぎ。こんな色ボケした神様なんて、絶対に崇めたくない。
お母さんの口走る台詞の可笑しさに気がつかず、侯爵はうっとりとするほど甘い笑みを浮かべた。
「何も心配することはない。君はただ僕の愛を受け止めてくれたらいいのだから」
「えっ、愛?!」
お母さんの魂がまた抜けそう。ぎょっとして顔をひきつらせている。
お母さんは確かに美人だ。もう32歳だけど、14歳の娘がいるとは思えないほど若々しい。
しみもしわもないつるりとした白い小さな顔には大きな零れ落ちそうなほどの潤んだ青い瞳、鼻筋は通っていて、唇は小さく赤く色ずいている。リボンで後ろに一本にまとめてしまっている髪はハニーブロンドで、豊かに波立ち、華やかだ。体も華奢だけど、出るところはすごい。
娘のわたしはよく知っている。お母さんのお胸は柔らかくて形がいいのだ。もちろん腰だってキュッとしていて、お尻もプリッとしている。早い話が男の人を寄せ付ける体をしていた。
「ですが、わたしには愛する亡き夫との子供がいます。あの子を捨て置いて、美しく殿上人のような天使のような太陽のような……えーと、えーと、晴れ男のような侯爵様の元に行くわけにはまいりませんわ」
だいぶいい加減になってきたよいしょのセリフに、常連さんがぶっふぉぉと吹いた。慌てて皆がその口を押えた。そろりと侯爵様を見れば全くこちらを見る気配がない。平民など塵芥なのかもしれない。それならば、お母さんにも目を付けなければいいのに。
やれやれと思いつつ、これは一体いつ終わるのだろうかと他人事のように二人を眺めていれば、突然侯爵様の視線がこちらに向いた。
ばっちりと目が合う。
その鋭い捕獲者の視線にぞくりと鳥肌が立った。観察するような目がわたしの全身をさっと見た。
「……ああ。心配いらない。君に似た娘ならば侯爵家に引き取ろう。私の子供たちと同じ教育と生活を約束する」
遠回しに断っていたお母さんが再び固まった。
まさか子供と一緒に引き取るなど言われるとは思っていなかったようだ。
わたしだってびっくりだ。驚きすぎて、口がぱかんと開いた。
侯爵様は「君に似た娘ならば」と言いやがった。
やだー!
もしかしてお母さんにそっくりだから、わたしもそういう対象?!
変態なの?!