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男爵令嬢、もやもやする

 ユース王子と文通を初めて一ヶ月。王都に来てニヶ月が経過。私もアリスも、新しい生活に少し慣れてきた。辛いのは水仕事。本格的に冬が到来。なので、寒くてならない。しかし、水仕事は元々していた事。なのに、なんと、水が染みてこない革手袋をロクサス卿が買ってきてくれた。私の赤切れた手を見たらしい。ロクサス卿はカシムに「今まで気がつかなくて悪かった」とも言ったとか。私も謝られた。革手袋は洗濯物や、食器洗いをする人の共用物。水仕事が一気に楽になった。


 オリビア曰く「やっと周りが見えるようになった」らしい。ロクサス卿は多忙で、色々な事に気が回らない、という。確かに、旦那様はいつも忙しそう。朝早く出かけ、夜遅くに帰宅。時折、お茶を運んだり、掃除に入る書斎には本が山積み。鍵付きの箱が沢山あり、重要書類が入っているから触らないように、と指示されている。


 今夜も、ロクサス卿の帰宅は遅かった。その時間は、真夜中の鐘が鳴った直後である。玄関扉の鈴の音が微かに聞こえて、私はテーブルに読みかけの本を置いて、談話室から出た。カシム不在で、夜の出迎えは初。


「おかえりなさい旦那様」


 近寄り、帽子を受け取ろうとした。ロクサス卿と目が合う。彼は少し目を丸めた。目の下に少し隈。カシムから聞いた話だと、半年前に責任のある仕事を任されてから、より多忙になったという。ロクサス卿はフィラント王子側近らしいけれど、仕事内容が何なのか、私は知らない。同じ屋根の下で暮らしていても、私とロクサス卿の距離は、他の住人とは違って、そんなに縮んでいない。


「ああ……ただいま」


 帽子、コート、と順に受け取る。ロクサス卿の目はまだ丸い。


「お食事はお済みですか?」

「ええ、上司にご馳走になりました」

「それなら良かったです。カシムさんと交代したのです」


 あまり歓迎されていなさそう。私の心臓がバクバクと嫌な音を立て始めた。


「ありがとう。しかし、終業時間は夜の礼拝の、最初の鐘が鳴った時だ」

「あの、いえ、本当は単に読書のついでです。カシムさんにも最初、断られました」


 気心知れているカシムの方が良かったのだろう。私は帽子とコートをポールハンガーに掛けて、ロクサス卿に会釈をした。談話室に置いたまままの本を取り、部屋に帰ろう。談話室だって、好意で使わせてもらっている。そう思って体を動かしたら、隣に並んで、談話室に入るような形になった。


「彼にも気にしなくて良いと言っているから、気にしなくて良い。よく働いてくれているのだから、よく休まないと」


 微笑みかけられて、ドキリとした。よく働いていると、そう褒められたのが、こんなに嬉しいなんて不思議。同時に、よく働いているロクサス卿はいつ休むのか? という疑問が湧いてきた。


「あの……」

「暗い部屋で読書をしていたんだな。遠慮せず、蝋燭ではなくて、ランプを使って構わない。ん? 何だい?」


 オイルランプをつけたロクサス卿が振り返る。


「何か困り事があったか? 不足しているとか……ああ、もしかしてまたユース王子が?」


 ランプを手に持ったロクサス卿に、顔を覗き込まれる。


「いえ、ユース王子殿下はいらっしゃいません。手紙は毎日来ますけど……」

「そうか。それなら良かった。フィラント様にも相談して、過剰に口説くのを控えるように頼んだ。勿論、君が嫌でないなら応援するけれど」


 ロクサス卿の眉尻が下がった。


「ありがとうございます。嫌とかではなく、身分が違い過ぎて……信じられませんし、何も考えられないのです」


 ユース王子は素直で良いと言っている。だから、これが私の気持ちだ。ユース王子は私を駒だと言っている。彼の気持ちは、私には全くない。その前提があるからか、羞恥や照れはあっても、どうもユース王子に恋をする、なんて事態にはならない。まあ、恋なんて、本でしか知らないけれど、多分私はユース王子に恋い焦がれてはいない。


「そうか。その話もフィラント様にしておくよ。ただ、ユース様は、君みたいな女性を揶揄って楽しむ人では無いよ」


 そうだろうか? ユース王子は会うたびに、私をおちょくって楽しんでいた。今は手紙になったので、少し気が楽。


「まあ、いや、揶揄うし、おちょくるのだが……酷く傷つけるような事はしない。相手の事をよく見ている」


 思わぬ返答。何故だか、私の手が急に冷えた。ジクジク、と胸の奥が妙に苦しい。ロクサス卿の小動物みたいなつぶらな目が、私の腕の中にある本を捉えた


「それは、ユース王子に色良い返事を、という事ですか?」

「いや、それは君の気持ち次第……シャーロットさん?」

「はい、何でしょう?」

「具合、悪いです?」

「いえ、特に」


 急に何だろう? ロクサス卿が首を傾げた。


「少しすまない」


 ん? と思ったらロクサス卿の手が伸びてきた。彼の手の甲が額に触れる。


「熱はないか。辛そうな顔をしているので……疲れているのだろう。寝た方が良い」

「熱なんてないです。むしろ少し寒いくらいです。でも、悪寒ではありません。元気です」


 疲れ切った顔をしているのだろうか? 私は目一杯笑ってみせた。


「そうか? まあ、もう遅い。ゆっくり休みなさい」

「お気遣いありがとうございます。お休みなさいませ」


 読みかけの本を手に取り、会釈をした。しかし、なんだか眠くない。屋根裏部屋へ向かう足元はふわふわしていた。発熱の前触れ?


 翌日、別に至って普通だった。風邪なんて引いていない。夜、いつものように仕事を終え、談話室で読書をしているとロクサス卿が早く帰宅した。客人かと思ったら、まさかの旦那様。こんな早く帰宅した事は初めて。おまけに、玄関での出迎えを待たずに、コートと帽子を身に付けたままま談話室に現れた。手にはいつもの黒革の鞄。それから、白い紙袋。


「なんだ、また蝋燭か。ランプの方が見やすいぞ」

「いえ、十分明るいです。ありがとうございます。おかえりなさいませ」


 予想外の帰宅。私は慌ててソファから立ち上がった。本をテーブルに置いて移動。鞄とコートを受け取らないと。


「少しすまない」


 ロクサス卿の腕が私に向かったゆっくりと伸びてくる。昨夜と同じく、手の甲を額に当てられた。


「んー、やはり微熱のような気がするけどな……」

「微熱? 元気です。ありがとうございます」

「無理をしなくて良い。最近、急に冷えてきたせいだろう」


 そう言うと、ロクサス卿は私に紙袋を差し出した。受け取ると、少し重かった。


「こちらの品は書斎へ運べば宜しいでしょうか?」


 次は鞄やコートも受け取らないと、と手を伸ばす。しかし、ロクサス卿は私に帽子もコート、鞄も渡さない。


「書斎? いや、ああ、言いそびれた。それは君へだ」

「私にですか?」


 紙袋の中身は赤いチェック柄の布。触ってみると、少しふわふわして温かい。毛布? それにしては小さそう。出すのを躊躇っていたら、ロクサス卿が紙袋を私からそっと奪い、中身の布を出した。


「この大きさ、膝掛けか肩掛けになるだろう」


 確かに、寝具の半分くらいの大きさ。ロクサス卿は私の肩に毛布を掛けてくれた。温かい。


「有り難いのですが、いただく理由がありません」

「理由? 良く働いてくれている。女性は男より寒さに弱いと聞いてな。オリビアやアリスさんの分は、今度の休日に買物へ行こうかと。シャーロットさんは、先に風邪を引きそうだったから」


 優しげな笑みと、予想もしていなかった事態に、言葉が出てこない。嬉しくて泣きそう。こんなこと、親だってしてくれたことがない。


「これは保温筒と言って、お湯を入れても蓋を閉めると漏れないそうだ。布で巻いて、火傷しないように気をつけて使いなさい。膝掛けの中に入れると良いらし……」


 紙袋から鈍色の筒を出すロクサス卿と目が合う。


「ほら、やはり体調が優れないのではないか」

「いえ、あまりにも嬉しくて……」

「えっ?」


 ポタリ、と私の涙が床に落ちた。慌ててハンカチを出して、涙を拭う。


「大袈裟にされると照れくさいな。喜んでくれて良かった」


 ふわりと笑ったとき、ぎゅうっと胸が痛くなった。あれ、ロクサス卿の言う通り体調不良?


「お兄様、おかえりなさいませ。シャーロットさんに何をしたのですか⁈」


 オリビアが駆け寄ってきて、私とロクサス卿の間に入った。


「何を?」

「女を泣かせるような男に育てた覚えはありません!」


 オリビアは妹で、年の差は十以上ありそうなのに、育てたは面白い発言。つい、クスリと笑ってしまった。


「オリビア様。旦那様が私を気遣って、このような素敵なものを買ってきてくださったのです」


 オリビアが振り返る。


「感激して涙が出てきただけですよ。庇ってくれて、ありがとう」


 私は肩に掛けてもらった毛布を摘んだ。それから、ロクサス卿の手元にある、保温筒を掌で示した。


「女性は男より寒さに弱いと聞いたんだ。オリビアとアリスさんの分は、今度の休日にでも買いに行く」

「お兄様、ブランケットに保温筒とはまあ……珍しく散財されましたね……。しかも、仕事を切り上げて?」

「散財? 必要経費だ。仕事は、持ち帰ってきただけ」


 ロクサス卿はオリビアにコートと帽子を渡して、談話室から出て行った。


「まあ、侍女がいるのに私になんて。それに、持ち帰ってきた、ねえ」


 クスクス、クスクス笑いながらオリビアは帽子やコートを片付けに玄関ホールへと向かっていった。保温筒をテーブルに置き、慌てて追いかける。オリビアではなく、私の仕事だ。


「良いの、シャーロットさん。この家は、本来何もかも自分でするの。没落しても雑草みたいに逞しく生きていくためにね」


 そう言いながら、オリビアは私の頭にロクサス卿の帽子をかぶせた。何で?


「シャーロットさん、お兄様に夕食とお茶を。仕事を持ち帰ったなんて、夕食を食べに下りてくるとは思えないわ」

「かしこまりました」

 

 ロクサス卿の帽子を脱いだ時、スヴェンとダフィが階段を降りてきた。


「信じられないだろう? ダフィ、兄上はまた断った。まあ、向こうからも断られたらしいけど」

「旦那様の条件はほら、スヴェンとオリビアが自立するまではずっと婚約とか、財産使用に制限とかさ、難しいからな」

「いいや、単に仕事の話ばっかりするからだ」

「それならお金や地位目的で群がってくる」

「そういうのは、フィラント様が追い払ってくれているらしい。あとオリビア。兄上はボンクラだから、変な虫ばっかり寄ってくる。自分で選べばマシだろうけど、あと六年は銅像だろうな」


 スヴェン、ダフィの二人と目が合う。ロクサス卿がお見合いをしたなんて、知らなかった。


「シャーロットさん、紅茶を淹れて欲しいです」

「はい、かしこまりました」


 オリビアに命じられたし、スヴェンにも頼まれた。私は今聞いた話を、ぐるぐる頭の中で考えながら厨房へ向かった。そうか、ロクサス卿お見合いとかするんだ。六年銅像とは……六年後は、オリビアが成人になる年。何故か両親のいないこの家で、ロクサス卿はスヴェンとオリビアの保護者だ。だから? 妹が成人になるまで、結婚しないということ? 興味津々だけど、ロクサス卿のお見合いとか縁談とか、聞きたくない気もする。王子側近だから、きっと、良家のご令嬢ばかりに違いない。先にスヴェンとダフィの紅茶を淹れた。二人は談話室のソファで、チェスを始めている。


「お待たせしました」

「ありがとうございます、シャーロットさん。いやあ、美人が世話してくれるって最高。な、ダフィ」

「だから最近、シャーロットさん、シャーロットさん、なのか。スヴェン、おい。ドサクサに紛れてやり直しするな」


 この二人は仲良しの友人みたいな関係。私やアリスに軽口を叩くスヴェンと、諌めるダフィはいつもの光景。オリビア曰く、母親に甘えられなかったスヴェンは、その分私に甘えている、らしい。そのオリビアも、割と私に甘えてきているような気がする。この家では誰も母親の話はしない。父親の事はたまに聞く。優しくて、お人好しだった。ある朝倒れていた。そんな話。


「美人とはありがとうございます」

「だからさ、ニコニコ笑っていた方が良いですよ。眉間の皺、伸ばして下さい」


 二人に指摘されて、おでこを触る。本当だ。私はしかめっ面をしていたらしい。


「兄上の縁談話、嫌でした?」

「おい、スヴェン。やめておけ。こういうのは……シャーロットさん。旦那様に夕食と紅茶を頼まれてましたよね? 疲れていそうなので、早く済ませて、休んだ方が良いです」

「嫌? まさか。ただ、きっと素敵な方ばかりなんだろうなあ、と。旦那様と同じく、私とは住む世界が違う方々だろうなって」

「住む世界が違う? 同じ家に住んでるのに? まあ、その話はまた今度。兄上、仕事を始めると何もかも忘れるから、早くお願いします」


 スヴェンに促され、私は挨拶を残し、厨房へ戻った。夕食のシチューを温め直し、紅茶も用意。旦那様の書斎へ向かう。ノックして声を掛け、返事を待って入室。いつもの穏やかな微笑ではなく、真剣な眼差しで、本を片手に羽根ペンを走らせる姿にドキリとした。知らない人みたい。顔を上げたロクサス卿は、目が合うと「ありがとう。置いておいてくれ」とくしゃりと笑ってくれた。ありがとうは魔法の言葉。私は、ロクサス卿に些細なことで感謝されるたびに、とても嬉しいので、見習うことにしている。会釈をして書斎を出て、談話室に戻った。買ってきてくれた、保温筒を使ってみよう。お湯を入れて布団の中、と言っていた。


 その晩、保温筒で益々温かくなった布団の中で、私は熟睡した。ただ、夜明け頃、夢を見た。私の夢に美女——何処と無くエトワール妃似の特上の美女——と笑い合うロクサス卿が出て来て、目が覚めたとき、胃もたれみたいにモヤモヤした。

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