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男爵令嬢、押し倒される

 可愛らしい部屋。豊富な服飾品。美味しいご飯。温かい布団。家族より優しい人達と過ごす日々。大変なのは水仕事と厳しい家庭教師による教養のレッスンくらい。それから、いつ何時か分からない、ユース王子の襲来。ユース王子には辟易させられているけれど、それ以外、ロクサス・ミラマーレ伯爵邸での生活は天国だ。


 夕日の橙色が窓から差し込んでくる。今日はまだ、ユース王子は現れていない。談話室で、家庭教師ヴィクトリアとソファで向かい合って着席中。玄関ホールの呼び鈴が鳴らないかが、ずっと気になっている。


「朗読の速さは良いです。しかし、シャーロットさん。指は揃えて離さない。基本中の基本です。それから、常に背筋を伸ばすように。日頃の癖は直ぐに出ます」

「はい、ヴィクトリア先生」


 母親よりも年上の家庭教師ヴィクトリアは細かい。そして小煩い。課題も多い。雑談をしないし、見た目からしてキツめなので、正直かなり苦手。


「では、次の一節で最後にします」

「地に強い草の葉の冬を越すごとく冬を越す。その下からやがてよき春の立ちあがれと雪が降るでしょう」


 古語の音読は苦手。訳しながら読むって難しい。


「速いです。それに抑揚。それから発音も、先程と同じところが甘いです。まあ、読めるだけでも感心です」


 あれ? 今、褒められた? 向かい側のソファで、ヴィクトリアはほんの少し笑っていた。


「オリビアさん、アリスさん、今のが翻訳結果です。特に直しはありません。今のページ、シャーロットさんから学んでおくように」

「はい、ヴィクトリア先生!」

「はい、先生!」


 私の隣で、オリビアとアリスが元気一杯の返事をした。


「先生、氷姫の続きは持ってきて下さいました?」

「ええ、預かってきましたよ」


 オリビアの問いかけに、ヴィクトリアが鞄から本を出す。出したのは、古ぼけた茶色い革表紙の本。


「良いですか、オリビア」

「オホン、エトワール妃殿下の私物ですから決して紛失してはいけません」


 オリビアはヴィクトリアの声真似をして、にこやかに笑った。妃の私物?


「シャーロットさん、これは極秘なのですがヴィクトリアは……」

「オリビア、自慢話は時に攻撃の的になりますよ。学校でもイジメにあったと聞きましたが」

「そんなもの、蹴散らしてやりました。私には、うんと味方がいますもの。めそめそしつつ、根回しです」

「私が援護射撃しました!」


 はあ、と小さなため息。なのに、ヴィクトリアはニヤリと口角を上げた。見た目も、普段の様子も、清楚可憐な令嬢のオリビアは気の強い娘だったらしい。驚き。アリスは学校で、上手くやっていると言っていたけど、援護射撃って誰かとトラブルにならない? 大丈夫かな?


「宜しい、社交界を渡り歩きたいなら、そのくらい図太くないと。では、また来週」

「また来週よろしくお願いします、先生! シャーロットさん、来月のアルタイル大聖堂での古語朗読会で成果を披露したいそうです」


 ぶほっ。私は思わず変な声を出しそうになった。そんな事、一言も口にしていない!


「あ、あの、オリビア様……」

「ね、シャーロットさん。お兄様の名誉を押し上げて下さいますよね?」

「そのくらいやる気があるとは結構。元王室教養講師の生徒ですから、私としてもそのくらいしてもらわないと、今後の仕事に差し支えあります」


 ()()()()()()()。茫然としていたら、ヴィクトリアは立ち上がり、サッと談話室を後にした。オリビアとアリスがお見送りしているので、慌てて追いかける。17時を告げる鐘の音が響き渡った。玄関前に、ヴィクトリアの帰宅に合わたように、もう馬車が止まっている。毎度のことながら、感心してしまう。


「本日もありがとうございました」

「本日もありがとうございました」

「ありがとうございました」


 玄関前でお見送りの挨拶。


「シャーロットさん、角度。では、失礼致します」


 私だけ会釈を最後まで注意された。ヴィクトリアは、オリビアとアリスよりも、私に対して厳しくて細かく注意してくる。従者が馬車の扉を開いた。


「シャーロット令嬢!」


 弾むような声と共に、ユース王子が馬車の中から登場。これは、予想外。


「やあ、ヴィクトリア、ご苦労様。フォンと相乗りしてきた」

「お褒めに預かり光栄です」

「おい、私との会話を拒否するな。今、私が君を褒めたか?」

「噂話は耳に入っていますよね? 戯れもほどほどになさって下さい」


 品のある会釈をすると、ヴィクトリアは澄まし顔で馬車に乗り込んだ。ユース王子を残して、馬車が動き出す。えっ、王子が1人? 良いの?


「戯れだって。心外。シャーロット令嬢、私はこんなに誰かに惹かれた事は無い」


 そう言うと、ユース王子は上着の内側に手を入れた。


「君が好きそうだな、とこれを見つけて会いたくなった」


 出てきたのは繊細な青い刺繍の施された、純白のハンカチ。可愛い……。手渡され、手を握られた。そのまま屋敷内へと引っ張られる。玄関ホール内に入るなり、抱きしめられ、頬にキスされた。この演技には、本当に辟易する。バクバク煩い心臓、軽い目眩。毎日、毎日、毎日、嘘だと知らなかったらキャア、キャアはしゃぐ自信がある。王子様に口説かれる。そんなの、本来なら上級貴族令嬢の特権だ。しかもユース王子は見目麗しい。


「ユース様、このオリビアにご挨拶はありませんの?」

「ああ、リトル・プリンセス。今日は会えて嬉しいよ」


 オリビアが差し出した手を、ユース王子がそっと取る。ユース王子は片膝をついて、オリビアの手の甲に唇を寄せた。その後、ユース王子は立ち上がり、オリビアの髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。ユース王子はアリスにも同じことをした。


「ちょっ……ユース様!」

「では、オリビア。それからアリス。お邪魔虫だから引っ込みなさい」


 ユース王子が階段の方に向かって、オリビアの背中を押す。アリスが私をチラチラ見ながら、オリビアについていく。


「淑女は盗み見をしない」

「はーい」


 不服そうに唇を尖らせ、オリビアは素直に階段を登っていった。アリスも続く。後で「お姉様は変。王子様と結婚して!」と言われるのだろう。ユース王子の態度は全部嘘、とは言えない。


 王子にユース王子と目が合う。ウインクが飛んできて、私は思わず後退した。悪戯っぽい笑い方、絶対に何か企んでいる。


「さて、シャーロットちゃん。別のレッスンの時間だ」


 ツカツカツカ、と近寄られて、私は思わず背を向けた。正確には、向けようとした、だ。完全に背中を見せる前に、抱き竦められた。次はそのまま抱き上げられた。


「ひっ」

「なんでこう、君はうっとりしないで、悲鳴を上げる。顔は真っ赤で、どう見ても照れているのに。可愛げが無い。だから、レッスンだ」


 近い、近い、近い! 鼻と鼻がぶつかる。と思ったら、ユース王子は私の額にキスをした。その次は耳元に顔を寄せられる。またこれ。毎日、毎日、止めて欲しい。私を揶揄うのは「うんと楽しい」らしい。


「額へのキスは娘への挨拶の場所だ」

「あの、それはどういう意味です?」


 つまり、私は娘?


「ああ、演技ですから……」

「そう? 一途に恋い慕う相手役に選んだけど、遊ばないとは言っていないよ? ガッカリするなんて、可愛いね」


 ガッカリ? したかも。こんな格好良い王子様が私を本気で好きだったら、きっと嬉しい。でも、ユース王子の目はいつも笑っていない。だから、どちらかというと怖い。


「へっ? ひっ!」


 頬にキスされて、また小さな悲鳴が出た。クスクス笑うとユース王子は私を抱き上げて歩き出した。お姫様抱っこなんて、ここまでのこと、この1ヶ月無かった。ソファに降ろされたが、ユース王子は離れない。寧ろ、覆い被さるように近付いてくる。彼の手が私の髪に触れた。くるくると指で弄りながら、その手は私の頬に触り、後頭部へと進む。


「私はこの色がとても好きだ」


 髪飾りを取られて、あっという間に髪が解かれた。


「纏めて無いと少しは色っぽいな」


 目と目が合う。徐々に動悸がおさまっていく。少し赤い黒紫色の瞳の冷たさ。この人は、私の何かを試しているだけ。


「虐げられるとさ、人の顔色を伺うようになる。まあ、だから君を選んだ。他にも面談したけど、君が一番勘違いしなさそうだった」


 この台詞、演技に本気になられては困る、という意味だろう。


「あの……。はい。身分相応に、勘違いや誤解なんてしません」

「いいや、勘違いしても良いぞ。それならそれで、それなりの結末を用意する。シャーロット、あまり私の腹の底を探ろうとするな」


 体を倒され、ソファに寝るような状態になった。ユース王子はすぐ目の前。彼の親指が私の唇をなぞった。かなりゆっくりで、動きに合わせて、ザワザワした。一気に全身が熱くなる。また心臓が暴れる。


「あ、あの……戯れは……」

「そう、それ。日頃の行いが悪かったから、皆そう言う。一年くらい口説かないと信用されないだろう」

 

 顔が近付いてきて、ユース王子のサラサラの黒髪が顔に触れる。近いとより分かる、ユース王子の目の奥の冷淡さ。私はこの状況に戸惑い、羞恥に襲われているのに、彼は何とも思っていないらしい。


「今のは良い。その落胆はいじらしい。君に悪いから、一歩引いているのだけど、私と遊びたいか? 利用価値がある間は、夢を見られる」

「落胆? 夢を見られる?」

「喋れるとは、そろそろ口説かれ慣れてきたかな? 最初は固まってたもんね。レッスンそのニ、もし私が惚れている男なら、こう言うと良い」


 ユース王子がニッと笑った。


「お戯れは御勘弁下さい。お願いします。はい、言って。で、突き飛ばしなさい」

「えっ?」


 突然の命令。従わないとならない。


「ほらっ、早く。本当にキスするぞ。君、したことないだろう? 最初のキスを奪うぞ」

「お戯れは……」

「声が小さい」


 本当に唇が近寄ってくる。この訳の分からない、身勝手な王子様とキス……。見た目は良い。私の人生で、こんなに格好良い男とキス出来るチャンスってもうニ度とないだろう。しかも、彼は王子様だ。いやいや、そんな事を考えている場合ではない。命令違反をすると、ペチャンコに潰される。


「お戯れは御勘弁下さい。お願いします……」

 

 ユース王子の手が私の手首を掴む。瞬間、ユース王子は勢い良く私から離れ、体を起こした。まるで、私に突き飛ばされた、というように。良く良く見れば、ユース王子の白いシャツのボタンが外れている。それで、私のスカートも少しめくれていた。左膝が見える。


「き、きゃあ!」


 自分の膝が見えたことと、ユース王子があまりにも色っぽい、哀愁漂う様子で、ぼんやりしているので、つい声が出た。眩しくて、直視し難い。


「ロクサス、聞いたか? この私を袖にするって……信じられるか?」


 ロクサス? ロクサス卿⁈ 私は飛び上がり、談話室の入り口を見た。ロクサス卿の若草色の瞳を見た瞬間、急に涙が込み上げてきた。破廉恥極まりない場面を目撃されたショックだろう。慌ててスカートの裾をしっかりと下ろす。それから、他にだらしなくなっていないかを確認。他は大丈夫だった。


「帰る。いや、付き合えロクサス。この世に可愛い女性はうんといる。わざわざ、こんな妙な娘で無くても良い」


 ふらふらしながら、ユース王子はロクサス卿へと近寄っていった。ロクサス卿は目を丸めて私を見つめている。


「ユース様、これは……。地方官の任命変えに際して、娘まで没落させたくないから預かれ。そういうことでしたよね?」

「そうだ。でも、ほら、可愛いから」


 俯いて、肩を揺らし、ユース王子はロクサス卿の脇をすり抜けた。


「貴方とあろう人が、戯れ相手を見極められないなんて! それに彼女、怯えて泣いていますよ! ユース様、フィラント様の言う通り、少々おかしいです!」

「君と飲むのは止めだ。フィラントの権威を傘にして、私に説教するな」

「いいえ、します。ユース様がここに出入りしている件は、そのフィラント様から頼まれています」

「私の弱点を突くな。おかしい? そうかもな。嫌なのに結婚しろしろ言われ、ご夫人達と遊ぶのも禁止され、久々に真面目にときめいたご令嬢には拒絶される」


 ユース王子の声が少し震えている。


「すまないシャーロット令嬢……まさかこの私を嫌がるなんて……考えもしなかっただけだ……君の様子を見てなかったことを詫びる……」


 ユース王子が、とぼとぼ、と去っていく。まるで叱られた子供みたいに、背中が丸い。ロクサス卿がオロオロしだした。それで、ユース王子を追いかけていく。


 今のが、全部、演出、演技。ロクサス卿はグル? いや、そうは見えなかった。彼に目撃させる為だった? そう思える。この流れで、ユース王子は何をしたいのだろう?


 翌日からユース王子は現れなくなり、毎日花と手紙が届くようになった。内容は雑談。家族との日常話ばかり。最後に必ず、「追伸、聞かれたら熱烈なラブレターって言いふらしなさい」と綴られている。


 一方、ロクサス卿は元々優しかったのに、更に優しく、そしてうんと心配してくれるようになった。ユース王子の事は任せろ、嫌なら嫌と言っても大丈夫なように出来る。そう力強く、言ってくれた。


 何この生活。

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