空と恋と愛の旅 9
秋の楓のように染まる、ユース王子を眺める。
「気持ち、悪い……」
そう呟くと、ユース王子は両手で口元を覆い、しゃがんだ。赤かったのに、急に真っ青。近寄って、膝をつき、ユース王子の背中に手を回す。
「大丈夫ですか?」
「飲み過ぎた。気持ちが悪い。サー・ミリエル、ロクサス卿を呼んできてくれ。吐くから早く!」
叫んだユース王子が、私の首に腕を回す。体勢を崩したら、腕の中に閉じ込められた。
「えっ? あの……」
「察しの悪い奴は好まない。推測力が無いなら、せめて言われた通りに動け!」
戸惑うサー・ミリエルの声に、低くて怖い声が重なる。遠ざかる靴音。ミリエルを止める為に声を出そうとしたら、口を塞がれた。
ユース王子の腕の中でもがく。ちっとも抜け出せない。今のが全部演技⁈
「誤解だ誤解。子供達が聞いたのは、会話の途中だ」
くるり、と視界が反転する。ユース王子の足の上で仰向け。口を解放された。
「誤解?」
「そうだ。向こうも君の心が離れている。そう思っている。より良い男になり、数多の男から選んでもらうと、息巻いていたぞ」
慰めるような、優しげな眼差し。掌が頬に当てられて、親指でそっと肌を撫でられた。夜色の瞳が、戸惑いで揺れている。何に、戸惑っているのだろう? 嘘をついている?
「ユース様……。嘘ですか?」
「嘘なんてついていない」
しかし、嘘くさい笑顔だ。目がちっとも笑っていない。最近あまり見なかった、私の苦手な笑い方。とても悲しげ。
「私がまためそめそ、めそめそ泣くからですか? 顔に嘘だって描いてあります……」
「はあ……。ったく、本心を読むな。何故そうすぐに暴く。嘘は別の事だ。ロクサスの事ではない」
「別の事って、何ですか?」
ニコリ、と笑うとユース王子は首を横に振った。
「さあ? 君に教えたい内容ではない」
拒絶されたら、もう聞けない。私は小さく頷いた。
「分かりました。誤解……。もう遅いです……」
「遅い?」
「はい……」
だって、私は諦める事を選んだ。ロクサス卿の気持ちを信じず、人から聞いた話を即座に受け入れて、自ら恋を捨ててしまった。
「仕方がないと……。そう思って、諦めてしまいましたもの……」
諦めた事に、後悔がない。胸は痛いし、悲しくて辛いけれど、アリス達から話を聞かなくても、いつか同じ事をしたと思ってしまう。
今の私と今のロクサス卿が笑い合う姿は、まるで想像出来ない。遠慮し合って、距離を保って、愛想笑いを浮かべる私達しか脳裏に浮かばない。時が過ぎて、その溝は埋まるどころか、より広がる。そうとしか思えない。
——恋は求めるもの
私は求めないで、手放してしまった。愛は与えるもの。その言葉を盾に、逃げ出した。
「レティア?」
「信じることは難しい……。ユース様、以前そう言っていましたね……。私もロクサス卿も、二人してお互いを疑って、背中を向けてしまったのです……。もう選ばれているのに、選ばれたいなんて、おかしな話ですもの……」
ユース王子から返事は無い。慈しみの満ちた目をして、私を眺めてくれている。
「そうか……。なら、君達の行く末は、ロクサス卿に委ねるということだな」
移動していないのに、急に逆光になり、ユース王子の顔が見えなくなった。彼の背後は、展望室の丸い窓。夕焼けが始まっている。点在する雲が、紅と薄紫に染められ、まるで花が咲いているみたい。
「綺麗……」
思わず、呟いていた。この美しい異国の空を、ロクサス卿とゆっくりと見たかった。そうは思う。けれども、今から彼の元に走って、胸に飛び込んで、そうしたいとは思えない。
あの遠慮の強い、拒絶の空気を纏った苦笑はもう見たくない。セルペンスに向ける、恐る恐るという目線もそう。
私の目尻から、涙が溢れて、頬を伝った。
「レティア?」
暗さに目が慣れてきた。ユース王子が怪訝そうに眉根を寄せる。足音と人の気配がして、ユース王子は私から視線を離した。私もその目線を追った。
展望室の出入口に、ロクサス卿の姿。彼は目を丸め、それから私達に、くるりと背を向けた。足早に遠ざかっていく。
「おい、ロクサス。待て! この七面倒なお姫様を連れていけ!」
ユース王子は私を抱えて立ち上がり、駆け出した。
「ロクサス! 私は一度だって友や部下の女に手を出した事は無い! そのくらい、知っているだろう!」
廊下の途中で、ロクサス卿は止まっていた。こちらを向いて、苦笑している。
「すみません。つい……」
「ついとは何だ。ったく。いらないならもらうぞ」
呆れ顔を浮かべたあと、ユース王子は大きなため息を吐いた。
「いるとか、いらないとか、ものではありません。選ぶのは、レティア様です」
ロクサス卿はチラリと私を見て、諦めているような苦笑いを浮かべた。自分なんかは選ばれない。そういう態度。これが、とても辛い。
私が選ぶのは貴方ですと言って抱きつくか、このまま諦めるか。自問自答する。手紙を書いた時と、同じ考えしか出てこない。ロクサス卿に必要なのは、シャーロットのような相手で、レティア・アルタイルではない。
自己卑下、諦め、怯えを飛び越えて、ロクサス卿に縋る衝動も湧いてこない。
甘ったれの私は、ロクサス卿に飛び込んできて欲しいと思っていて、彼はそうしてくれないと諦めている。
「なら、いらないのだな。レティア、今夜は私と遊ぶか。骨抜きにしてやろう。せっかく見つけた、国の柱となる娘が、異国で恋に狂って帰りたくないとごねられては困る。失恋後というのは、絆されやすい」
にこやかに微笑み、そう口にすると、ユース王子は私を抱いたまま歩き出した。
「どういう意味ですか、ユース様!」
「偽王子、ごますり王子、ドブネズミ王子。あははははは! ロクサス、この私が本物の地位を得たら、目を白黒させて、青ざめる男達は山程いるだろう。そういうことさ」
何の話?
ふふふん、と鼻歌混じりで進むユース王子は、笑顔なのに目だけは怒っている。暖炉の中の火よりも強い、燃え上がるような炎が宿るような瞳。
この分かりやすい挑発に、ロクサス卿は乗った。ユース王子の肩を掴み、振り上げた拳を振り下ろす。私は思わずユース王子の首に腕を回した。
「ユース様はずっと私達を安じて下さいました! 今だって嘘をついて! 殴らないで!」
ドンッ、という鈍い音が廊下に響く。人を殴る音とは違う。苦悶の声はロクサス卿。そろそろと目を開くと、サー・ダグラスがロクサス卿の腕を捻り上げて、壁に押しつけていた。
「ったく。最初からそういう気概を見せろ。女性は面倒臭い生き物だ。不安になると、すぐ男を試す。上手く扱うと、可愛いくなって楽しいぞ。君は圧倒的な経験不足だな、ロクサス。宰相を痴話喧嘩に巻き込んで、あれこれ手間をかけさせるな」
軽やかな口調で告げると、ユース王子は顔でサー・ダグラスに離れるように指示を出した。
「ロクサス、挑発だと読めない愚かさ、私への不信という裏切り。その他、色々。全部許そう。君はフィラントの友だからな」
目は激怒、表情は笑顔で、ユース王子は私をロクサス卿へ差し出した。ロクサス卿は動かない。顔が真っ青。今にも俯きそうなのに、ユース王子からは目を離さない。唇が震えている。
「殴りかかるではなく、一旦引いて、子供達でも使ってレティアを盗む。必死さと愛を囁き、レティアの離れつつある心を取り戻す」
ユース王子は私を下ろし、立たせた。それから、ロクサス卿の胸を人差し指でつっついた。ユース王子の目はとても冷たい。見るだけで、身体の奥から指先まで冷えそうな、真冬の水に手を触れたみたいな感覚に陥る。
「外交中は四六時中、外交官秘書ですとレティアに張り付いて見張る。帰国後、即座にフィラントやエトワールへ告げ口して、私に説教をさせる。立ち回り、とはそういう風に行う」
ロクサス卿の肩を、ユース王子は軽く叩いた。笑っているけれど、やはり目には怒りが滲んでいる。
「策を練ると、君の評価は下がるどころか上げられるのに、この阿呆め。ついでに言うと、こう言えば済んだ。私達の為に、挑発はおやめください、ってな」
ユース王子は私の頭を撫でて、いきなり額にキスをした。触れられたおでこを手で押さえる。ここで私に子供へ挨拶をする仕草をする理由は、ロクサス卿の為。それで、私の為……。
「甘えん坊のお姫様、これで満足だろう?」
もう一度、頭を撫でられる。
「さっき、何かにぶつかったけれど気のせいか? ユース様、準備が整いましたので、宿泊先へとご案内します。レティア様はミネーヴァに呼びにいかせているところです」
「そっ。ダグラス、君は本当に察しが良くて助かる」
ユース王子に殴りかかろうとした者なんていなかった。サー・ダグラスはそういうように、一切ロクサス卿を見ないで、ユース王子の後ろを追っていく。
残された私達は非常に気まずい。私はそろそろとロクサス卿を見上げた。複雑、というようにユースの遠ざかる背中を見つめている。
ソファに寝そべって、酒瓶片手に疲れたとぼやいていたユース王子は、宿の部屋でも同じようになるのだろうか?
これから流星国と外交。疲労は増す。
「あの……レティア様……」
恐る恐る、というように私へ視線を向けた後、ロクサス卿は私の手首に巻き付くセルペンスをチラリと確認した。その瞳に映る畏れに、息が詰まりそう。
「誤解があるようなので、訂正させて下さい」
「はい……」
誤解ではない、と叫び出したい。ロクサス卿はあんまり嘘がつけない。私が好きだと丸わかりの旦那様は、大好きだったけれど、今のロクサス卿は正反対。
「情け無いことに、勝手に自信を無くして、まだいないライバルに引け目を感じていただけです。仕事で偉業を成して、正々堂々、胸を張って貴女様の隣に並ばねば、と考えていました」
貰った言葉に、涙が滲む。悲しげな表情と、目の下の薄い隈に、侘しげな声。私はセルペンスを撫でた。この子達は、おそらくずっと私に色々と与えてくれる。そういう確信がある。
「多分、ずっと、そういう気持ちを抱かれ続けると思います。私、奇妙な星の元に生まれたようで……神とは思いませんが……何かにとても慕われて、愛されています……。必要もないのに、気負って、疲弊する旦那様は見たくないです」
向かい合って、彼の顔を見上げる。
「ロクサス卿に必要なのは、家で甲斐甲斐しく貴方のお世話をして、寝食を忘れている事を注意する方だと思います。そのシャーロットは、もうどこにもいません」
「あの……」
「そうやって、言い訳をして貴方から逃げました。旦那様は私を畏れて怯えている。そう疑って、信じられなくて……。今もそうです。旦那様の為と言い訳して、私自身が逃げたいだけです。こんな不信感を抱いて、笑い合えると思えない……」
言葉にすると、絡まっていた糸が解けるように、自分の本心が良く理解出来た。
「ごめんなさい……旦那様……。私、ユース王子の指摘通り、甘ったれです。何にも心配ない。大丈夫、任せろって…。二人の関係は何も変わらないって……踏み込んできて、手を引いて欲しかった。婚約破棄騒動の時のように……。そう言わないで、勝手に諦めて、不信感を募らせたのは私の弱さです」
顔を見ないなんて不誠実。突き放すのは私だから、泣いてもいけない。
視界がぼやける。大好きだった筈の、若草色の瞳を見つめてられない。目に力を入れて、奥歯を噛む。
「だから、白紙にして下さい。もう一度、お互いが向き合って、同じ気持ちを抱けたら嬉しいです……」
誠意を込めて、と会釈をしたものの、私はいたたまれなさと申し訳なさ、自分への嫌悪に我慢出来なくて、走り出した。
廊下を駆け、曲がり、階段を上がる。それから、足を止めて振り返った。
やっぱり、追いかけてくれないのか、と落胆し、その甘えた思考に自嘲した。
——姫が嫌がる匂いを覚えた
ツンツン、と手首をつつかれて、セルペンスへ視線を落とす。深い青い目が、今は真っ赤。
「違うわ。とっても大事な人よ。そう覚えてくれる?」
問いかけに、セルペンスは頷くように頭部を縦に揺らした。まるでルビーのようだった瞳が、サアッと青く変色する。本当に、不思議な蛇。
——あいつはお魚食べる?
「魚? どうして?」
——また海から運ぶ。あいつが喜んだら姫は嬉しい。そうしたらセルペンスも嬉しい
「そう。ありがとう。そういえば、海から運ぶってどうやって? セルペンスは飛べないわよね?」
——あんまり話すと親に叱られる。
「そうなの。それなら聞かないわ。お魚も運ばなくて大丈夫。旦那様、ビックリしてしまうもの」
私はセルペンスの頭を撫でて、そっと頬に手首を寄せた。頬にセルペンスの冷たくて硬い頭部が触れる。
——姫に元気になって歌って欲しい
「優しい貴方がいるから元気よ。宿へ行ったら、歌うわ。約束する」
励ましと親愛に満ちたセルペンスの歌が良いだろう。何語か分からないから、ハミングのように旋律だけになるけれど、きっと感謝は伝わる。そう感じる。
この日の夜、宿泊先のホテルの窓辺の椅子に腰掛けて、夜空を見上げながら、小さく歌った。多分、祈り歌なので、どうか私が傷つけた旦那様へ幸あれと、そう願いを込める。傷つけて身勝手な話。そう思ったが、この矛盾する気持ちが本心だ。
気を遣わせて泣かせたアリスやオリビア、振り回して疲れさせたユース王子、そして慰めてくれるセルペンス達にも、どうか幸せが飛んできますように。
もっと、とせがまれる間は、雲一つない空に、川のように広がる星を眺めながら、歌い続けた。