空と恋と愛の旅 6
部屋で書類に手を付けながら、ロクサス卿の背中を押すか、静観するか悩んでいた。自分の為にではなく、レティアの為に、何が一番なのか、判断が難しい。つついて藪蛇になると困る。
手と目が疲れてきたな、と思った時にダグラスが現れた、アクイラ宰相が展望室で大酒飲んで、酔い潰れた、という報告だった。そして、相手をしていたレティアも、飲まされ続けて寝てしまったという。
展望室まで来てみると、アクイラ宰相はワインボトルを握ったまま、サー・マルクの膝の上に頭を乗せて、ソファに大の字。なんて自由な男だ。
サー・マルクはうんざりした顔で、ぼんやりしていたが、私を見て、キリリと顔を引き締めた。
二人のいる向かい側のソファで、レティアが気持ち良さそうに、スヤスヤ眠っている。実に可愛い寝姿で、むにゃむにゃ何か言っている。
「何故、こうなった。こうなるまで放置した。あと、何故サー・マルクがいる」
「アクイラ宰相がレティア様をお誘いして、大変機嫌良かったので。サー・マルクも、アクイラ宰相が誘いました」
それは、仕方が無い……のか? アクイラ宰相は、娘同様に自由で頭が痛い人だな。
「デュラン卿とこのダグラスで、隣室から会話を聞いて、書き留めてあります。役に立つような話は無かったですけれど」
ノートを渡されたので受け取る。展望室と呼んでいるが、戦時ならここは見張り用の部屋。連絡が取れるように、他の部屋とパイプで繋がる作りになっている。
「ええっ⁈ 全部聞かれていたのですか⁈」
サー・マルクが素っ頓狂な声を出した。
「何だ、君は聞かれてはいけない話でもしていたのか?」
「いえ、まさか」
「壁に耳あり、扉に目ありという。良かったな、油断しなくて」
ダグラスが淡々とした声を出す。サー・マルクは青ざめたが、ダグラスのこの話方だと悪い話はしていないのだろう。デュラン卿も、サー・マルクの動揺ぶりに、微笑ましいというようにクスクス笑いを堪えている。
私はアクイラ宰相に近寄り、彼の体を揺すった。
「アクイラ様、アクイラ様。このような所では、風邪を引かれます」
弱めの力では、起きなかった。少し力を入れる。それでも無駄だったので、更に強く揺すり、声も大きくした。
「アクイラ様」
「ん? ああ、すまない。飲み過ぎたようで……。飲む量を制限する子煩い妻がいないので、つい」
体を起こし、大きく伸びをすると、アクイラ宰相はほうっと小さな息を吐いた。
「健気で可愛いので、つい付き合って、それに酔いで赤らんだ顔も美しいので、飲ませ過ぎてしまいました。すみません」
謝罪されたので、首を横に振る。
「いえ。健気とは、何か相談でもされました? ご迷惑をお掛けしていたら、すみません」
「いやいや、懸命に、そして真面目に取り入ろうとしている姿がいじらしいというか、な! 君達もそのつもりで放置したのだろう? 生憎、娘より若い女性には手を出さない主義だ」
ウインクされて、食えない男だな、と心の中で毒づく。当然、顔には笑顔を貼り付ける。
「流石にそこまでは。貴方の機嫌を取ってもらって、国王陛下や王妃様への橋渡しをしてもらおうという意図はありましたけど」
自分の策ではないが、仕方が無い。私のレティアに何をさせる、と思って、自分にうんざりした。私のレティア。おい、レティアがいつ私のものになった。私はやっぱりおかしい。
「潔くて宜しい。ここで誤魔化したり、部下のせいにする男は信用ならん。やはり、私は君が好ましいのだがな……。カールに恋人かあ。エトワール様や君には悪いが、婚約話は白紙だな」
思ってもいなかった台詞に、えっ? と声を出しそうになった。慌てて口を結ぶ。
思わぬ所で、願いが叶った。しかし、交易の話に影響が出ると困る。
「まあ、交易の話とは別問題なので気にするな。見合い話はついでで、フィズ様からは交易経路のアストライア街の治安状態や、政治状態の確認を頼まれていただけだ。フィズ様も市場を増やしたいと考えている。君が窓口になるなら、フィズ様はきっと良い契約を結ぶだろう」
色々見透かしているぞ、というような笑みを投げられ、狸親父と心の中で舌打ちした。
飄々として、自由人のように振り舞い、情報収集や観察か。
「レティア様も良い。中々複雑な生い立ちや立場なのに、奮い立つ。こういう娘を追い詰めるなら、我が国が貰うぞ。何の迷いも無く、自分の手柄を相手の手柄にするというのは、ティア様がとても好む性格です。神の寵愛までついてくる。全力で手に入れたい。なっ、マルク」
肩に手を回されたサー・マルクが固まる。
「何か言え。というか、ここでレティア様を褒めろ。手柄を与えられたことに感謝しろ。そもそも、悟られるような態度しか出来ないなら、その場で素直に白状しろ。減点だ減点。オルゴに言いつけるぞ」
アクイラ宰相がサー・マルクに説教を始めた。少々呂律が回っていないので、酔っ払っているのだろう。「大体お前は昔から……」と続いた。誰かと混同しているようだ。これも酔っている証拠。
「アクイラ様、年長者からの折角の有り難いお言葉は、是非彼個人だけではなく、他の者にも。異国の考え方で、良い方向に目覚める者は多いでしょう」
さあさあ、どうぞ、とアクイラ宰相を立たせてデュラン卿に目配せする。というより、目で命令した。
「あの、ユース様、報復はおやめ下さい。ユース様だって、同じ事をしましたよね?」
ダグラスに耳打ちされ、つい睨んだ。確かにその通り。普通の私なら、そうした。ただ、今はレティアに関する事だと少々頭がおかしい。怒りが抑えられない。
「まだ飲めるようでしたら、私もアクイラ様と飲み交わしたいです」
ダグラスは一瞬不服そうな表情になったが、素直に引いた。
「サー・ダグラス。ミネーヴァかミリエルを呼んできて、レティア様を部屋に運ばせろ。ユース様、では参りましょう」
当然、というようなデュラン卿に、否定の首振りをする。私をよく知るダグラスは、さりげなく動かない。返事はしたが、私の出方を待っている。
「ユース様?」
「君達に任せた。ヘイルダム卿も呼ぶと良い」
怪訝そうな表情のデュラン卿は、首を傾けながら、私に背を向けた。付き合いの浅い、能力で選んだ側近では、私の思考は読めない。
「そんなに気に入られたのですね。まあ、乗船した時点で、そうだと思いましたけど。これで確信しました」
ダグラスに囁かれて、自分に呆れた。全く隠せていないらしい。
「まあ、分かります。エトワール様のあの可愛がりよう。可愛い妹が出来たって、最早口癖ですからね。ユース様はエトワール様に本当に弱いですね。告げ口がそんなに怖いのですか? 彼女、告げ口とか、しなさそうですけど」
何か、勘違いしてもらえた。助かった。かなり年下の幼い娘に、心を掻っ攫われ、おかしくなっているなんて見抜かれるのは最悪。
確かに、私はエトワールに弱い。フィラントが溺愛しているし、私も恩がある。その上、かなり懐かれている。だから弱々。それはそれで、情け無いか。
ッチという、小さな舌打を残して、ダグラスはデュラン卿を追いかけ始めた。常に忠実。そして他の者よりも面倒事をこなしているのだから、少しの読み間違いくらい許せ、といわんばかりの態度。
彼の舌打ちだけでの主張は、至極真っ当だと思う。
「サー・ダグラス」
振り返ったダグラスが、ニヤリと笑った。私は肩を竦めて、それを回答にした。
「レティアを部屋まで運ぶので、手伝ってくれ」
もう部屋に他の者が居ないので、ダグラスは嬉々として戻ってきた。
「妻と娘に土産を買いたいので、休暇も下さいます?」
「はいはい。なるべくそうする」
ダグラスがレティアを抱き上げようとしたので、先に手を出した。他の男に触らせたくない。
「ユース様?」
「扉を開けたりしてくれ」
「カール令嬢から逃げられたから、レティア様で地位固めですか? 陛下はともかく、ディオク様はそうしたいようですしね」
「それも悪くない。偽王子が本物になれる。見た目良しで、神の加護付き。偽装結婚なら、遊び放題だしな」
話を合わせてみたものの、意外に傷ついた。信頼している男に、自己保身に走ると思われているのは悲しい。
「心にも無い事は言わなくて良いです。この織り交ぜ方、時々本気か嘘か分からなくなります」
「さあ? 本心かもよ」
「はいはい。それで、どうします? いつ、何を頼まれるかと思っていたんですけど、ディオク様の動きに気がついていませんでした? ロクサス卿と元婚約者が接近中という話の事、まさか知りません? 絶対にディオク様の糸引きですよ」
「あー、そのまさかだ。良い情報をありがとう。ディオクなら、そういうことをしそう……」
動揺で声が裏返りそうになった。放っておくと、レティアは本当に失恋だ。急に天上人になったレティアと、長年婚約だけで中々結婚に至らないからと、親に引き裂かれた元婚約者。ロクサス卿の立場になって天秤にかけると、どう傾くんだ?
レティアについて話し合いをした時の、ディオクの妙な大人しさはこれか。
「レティア様にミネーヴァの接近も許しているから、心配でしたが……。ここのところ、色々ありましたしね」
言われてみれば確かに。しかし、女騎士はことごとく元レティア姫と接している。誰も彼も、ディオクと関係がある。それで、要らない人材は、政権交代の際に、ディオクに軒並み追い出された。だから、今残っている女騎士は、ディオクの息がかかった者ばかり。
「ディオクもお節介だな。私は今の立場で、そんなに不自由ではない」
「政権交代の際に大分怨みも買いましたから、心配されているのですよ」
「それなら、この可哀想な娘の事は無下にするのか?」
「そこは、ほら、ユース様が何かしてやると思っているのでしょう」
その通りだろうな、と自分でも思う。私はレティアの顔を盗み見した。無防備で安らかな寝顔。ずっと眺めていても飽きないかも。
「そうやってディオクは私の仕事を増やす。だから嫌いだ」
「ははっ。この間、楽しそうに酒盛りしていたじゃないですか。ディオク様のお気持ちは分かりますが、偽装結婚なんてしないで、落ち着いてくれれば満足です。女性を乗せて、刺し殺されるなんて、許しませんからね」
この言い方は、ゾフィの話だ。
「いやあ、あはは。そんなに想われてるなんて、思ってもいなくてな。だって、かなり冷たく扱っていたし、そんなに会っていなかったんだぞ」
「はいはい。側近や近衛兵、それにエトワール様にあちこちから不平不満が入っていますよ。ユース様はいつ社交場にいらっしゃいますか? とね。ご夫人達から!」
咎めるように告げられ、首が竦む。
「昔と違って、情報収集はもう他に手があるのですから、今の手は控えて下さい。まあ、貴方の女好きは知っていますけど、ついでなのは分かっています」
「説教するなら、アクイラ宰相の所へ送れば良かった」
「今のユース様には、貴方の目の届かない所まで見張れる優秀な駒がおります。増やしました。かつてのようには、なりません」
これを言いたくて、ディオクの話をしたのか。確かに、昔よりも、味方は増えている。
「検討はする……。仕事抜きで口説く、ねえ」
「いいえ、それとは別の一夜の火遊びも減らして下さい。先代国王のように、隠し子問題なんて、面倒ですから」
「はいはい。検討しますよー。ったく、近衛兵の癖に煩いな。いつだって私は誘っていない。誘われるから、喜んでいただいているだけだ。君だって妻が分裂して迫ってきたら、どちらにも手を付けるだろう? それと同じ。私には、みんな同じなだけだ」
軽口にダグラスが呆れ顔を浮かべた。もう一度レティアの寝顔を盗み見して、火遊びは減るというか、無くなるかも、と感じたりもした。
彼女に軽蔑の目で見られたら、酷く嫌だ。いや、どうせもう知られているか。私の女癖の悪さは、多分王都中に知れ渡っている。
流星国の舞踏会で、誰かに誘われて全然食指が伸びなかったら……レティアへのうっかりは、本物かもしれない。
それにしても軽いな。レティアは軽すぎる。彼女の部屋に到着して、寝台に寝かせるまでそこそこ距離があったが、非力な私でもちっとも疲れなかった。
部屋から子供達を追い出し、ダグラスにランプの灯りを減らさせる。このまま快眠させてやりたい。
彼女の胸の上に、セルペンスが丸まる。まるで、守護者というように。おまけに、どこにいたのか、何匹も現れて、レティアの周りで次々と丸まったり、布団に潜り込む。十匹はいた。
それを見て、ダグラスは少し怯えて畏れるように離れた。おまけに、祈るように手を握り、片膝まで付いている。
セルペンスの毛羽立ったような鉛銀色の鱗に、ランプの灯りが乱反射して、レティアを照らす。天蓋付きの寝台で、安らかに眠る美少女は、確かに神聖さを感じさせる。この雰囲気は中々近寄り難く、手を出すのは恐れ多い。ロクサス卿の怯みっぷりは、これだな。
ダグラスが何かを祈り続けるので、これ幸いにと私はレティアの寝顔を見続けた。
気持ち良さそうな寝顔を眺めるだけで満足出来るとは、とても不思議。
足首に、もぞもぞっとした感覚がして、鳥肌が立つ。見下ろすと、セルペンスが一匹、私の足に巻きついていた。
薄暗い部屋に、深い青色の二つの瞳が、まるでサファイアのような輝きを放つ。それが、ほんの僅かな時間だけ若草色に変化し、消えた。
目の色が変わった男、神の遣いを騙る人外生物のエリニースに見張られているのではないか。そんな錯覚がした。