女好き王子は逃げたい 4
「大丈夫です。すぐ温まりますよ」
レティアは私から手を離し、立ち上がった。名残惜しい、と感じてしまった気持ちに呻きそうになる。疲労による気の迷いだ、と自分に言い聞かせて、レティアから顔を背ける。
ちょうど、そこに窓があり、外の景色が見える。まだ真昼間。寝るには早いが、体調不良と思われている。このまま横になっていよう。
山積みの書類は、適当な相手に振り分ける。急な仕事ばかりで、采配が面倒だったが、仕事を適切な相手に分けるのが、そもそもの私の役目。それを忘れていたなんて、方々から疲れていると指摘されるのも頷ける。
パタン、と扉が閉じる音がした。レティアが部屋から出て行ったようだ。残念、そして寂しいと感じたことと、誰か代わりを探そうと思わなかった事に再度慄く。
雲の形を眺めていたが、そのうちゾフィの旦那、ラーズバール伯爵一派の事が気になってきた。収賄はまだしも、人身売買に噛んでいるとは、徹底的に潰さないとならない。
まあ、もう兄上が私の隠密部下から事情を聞き出して、誰かを采配しただろう。ゾフィ……何も知らない世間知らずのご夫人。浮気の罪で王都社交界から追放、にして夫と引き離してやるつもりだったのに、宰相暗殺未遂罪に愛のない男と一蓮托生か……。
何かしてやりたいけれど、暗殺未遂を握り潰すには、目撃者が多過ぎる。
「失礼します」
ノック音と共に、レティアが戻ってきた。かなり時間が経っていて、もう戻ってこないと思っていた。なので、つい、胸が弾んで体を起こしていた。またしても、自分にうんざりする。顔を見れただけで浮かれるな、と自分に言い聞かせる。
隣に立つのは女騎士のアテナ。レティアは手にお盆を持っていて、上には皿が置かれている。アテナは手にチェック柄の包みを手にしていた。
「起きていらっしゃったのですか? 肩が冷えます」
レティアはむすっとしながら、近寄ってきた。
「いや、人が来たら起きるさ」
「なら、先程までは休んでいたのですね。良かった」
にこり、と微笑まれて、内臓を掴まれたような気分になる。締め付けられているのに、痛くない。甘いため息が出そうな幸福感に飲み込まれそうになる。何度瞬きしても、首を少し横に振っても、レティアは微かに光ってみえる。
駄目だ。私は本当にイカレた。
何故レティア。いつだ。昨夜だ。それは間違いない。何がキッカケだ? 慰めるのに、抱きしめたりなんてしたからか? それだけで?
溺愛する弟の信頼のおける部下から簒奪なんて、絶対にしない。そのような裏切りをするなら、城の最上階から飛び降りて死ぬ。
今の気持ちは、マリーに対するものとは少し違う。彼女は私にとって、憧れと諦めの象徴だった。どちらかというと、まだ十歳程の頃の、フローラへの初恋を思い出す。あれはとても甘酸っぱい思い出だ。彼女が笑うだけで嬉しくて、目が合うだけで幸せで、胸がいっぱいだった。
三十歳手前の、それも女性関係にだらしのない男が、十代の女性に対して、初恋並みに胸をときめかすって……気持ち悪っ! 気持ち悪い!
私は俯き、呻きそうになった。
「カール様がエトワール様と料理人と料理をしてくださいました。温かいスープを飲めば、内側から温かくなるでしょう」
サイドテーブルにお盆を置くと、レティアはアテナから包みを受け取った。
「やはり、酷くお疲れなのですね。飲めますか?」
レティアは私の俯きを、体調不良と捉えたらしい。寝台に腰掛け、私の背中に手を回し、反対側の手でお盆を私の膝の上においた。
スープをすくったスプーンをはい、と差し出されて、動揺する。私に向けられているのが、柄じゃない。
「な……なに? か、甲斐甲斐しく、はい、あーんって、せ、世話をしてくれるのか?」
自分らしく軽口、と思ったのに、どもった。最悪。こんなの、照れていると丸分かりだ。
レティアは目を大きく見開き、頬を染めて「すみません」とクスクス笑った。
「アリスの時の癖で」
「へえ、そう。妹の看病の……」
助かった。そうだ、レティアは鈍感だ。
「良くなってくると放置していたので。死ななきゃ良い、くらいの態度です」
誰が、とは言わないけれど、誰の事かすぐに分かる。レティアは寂しそうにスプーンを下げて、スープの中に戻した。
「面倒だと森に捨てる親もいる。それなりの愛情はあっただろう。それ以上に君が甲斐甲斐しく世話をしてくれて、アリス令嬢は幸せ者さ。良い子だと聞いているが、君のおかげだろう」
褒めたら笑うかと思ったのに、レティアは遠い目になった。
「ありがとうございます。アリス……良く風邪を引くのです。元気かしら……」
「元気さ。学校でも家でも精力的。見張りが付いているので、そんなに心配しなくて良い」
「見張り?」
「心配のあまり、君が城を抜け出して、迷子になったり拐われると困るからな」
嘘も方便。実際は、人質かつ監視だ。レティア王女の妹という地位でのさばろうとしたら、狩るつもり。地方に飛ばして、二度と王都に入れない。本人の心掛け次第だ。
「どっかの誰かが脱走して面倒な事になるくらいなら、彼女を付き人研修とかそういう名目で、君の近くに配属する方がうんと楽。多分、そうなる」
そんなつもりないのに、レティアがあまりにも寂しそうなので、つい、口にしていた。
口にしたからには、手配しないといけない。制度を作るところから、最初からだから、疲れそう。
しかし、それで義理の姉妹が仲良く笑い合うなら、いやレティアが笑うなら、苦労をする価値はある。
優秀な女学生を、最初から王家に囲っておいたり、事前に調査対象にするのは、良い案か? 人を集めて会議をしてみるか。
「優秀な女学生は、王家の女性の元で学べると、意欲的になるだろう。なんて話があるので、まあ、絡めれば」
「多分って……。そうしてくださるのですね。ユース様、ありがとうございます。あの、そうやって疲れが溜まってしまったのですよね? 余計な仕事が増えるから……」
妹と会える、だから心配するな、笑うと良い、なんて気持ちだったのにレティアはしょんぼりとしてしまった。
「いや……」
「私、早くお荷物から脱却して、一人前になって、働きますね! 出来そうな事は、何でも言ってください。自分でも探します」
再度、はい、どうぞ、あーんというようにスプーンを差し出される。満面の笑顔付き。可愛い。元々、顔立ちは良い女性だ。出会った頃はビクビク、おどおどしていて可愛くなかったけれど、人並みに笑えば、人並み以上に可愛らしい。
はい、あーんには乗るな、乗るな、乗るな。彼女に触るな、触るな、触るな、と自分に念じながら、レティアの指を避けてスプーンの柄を掴む。
スプーンを口に運び、レティアと目を合わせないようにして、スープ皿を受け取った。
心臓が煩い。轟音だ。この私が、まるで純情乙女。おかしい。私は本当におかしくなっている。
「別に頑張る必要なんてない。私がいる……」
口にしてから、この台詞、昨夜も言ったな? と思い出す。
「荷物ではない。宝だ……」
ポロリと言葉が漏れて、慌てて唇を結んだ。頬が引きつる。
「たから……?」
ポカンと口を開くと、レティアはボンヤリと私を見つめた。瞬きを繰り返している。その後は「ありがとうございます」とはにかみ笑い。
言い訳を口にしようとした気持ちが、ポキリと折れた。揶揄いや皮肉を言うと、この素敵な笑みが消えてしまう。
「国王陛下やフィラント様一家の役に立つからですよね。期待に応えられるように、頑張ります」
日頃の行いは大事。レティアは困り笑いを浮かべた。お世辞をありがとうという様子。
「だから、頑張る必要なんてない」
「え?」
「あー、いや、まあ……張り切るとこうなる。息切れして、誰かの世話になる事になる。今の私を、反面教師にしなさい」
なんだか、疲れてきた。本音が勝手に出てくるから、誤魔化すたびに神経がすり減っていく。
もう黙っていよう。喋らなければ、ボロは出ない。私はひたすらスープを口に運んだ。
「お湯を入れた筒を包んであります。布団の中に入れておくと、より温かいので入れておきますね」
黙って私を見ていたレティアが、アテナからチェック柄の布の包みを受け取り、布団の中に入れた。
「暑かったら抜いてください」
「ありがとう」
レティアの顔が見れない。視線は窓の外に固定。大雨が去ったからか、清々しいほどの晴天である。
「ユース様、レティア様、私は外で控えております」
え? アテナが敬礼後に退室した。何故、急に? 荷物持ちが終わったからか? カール令嬢のように私の気持ちを見抜いたから、だったら最悪。絶対にディオクに告げ口される。ミネーヴァとアテナは今はエトワール付きだが、元々はディオク——というかレティア姫——の忠臣。弱味を握らせてはいけない。
「私も、失礼しますね」
レティアが私から空のスープ皿とスプーンを受け取り、立ち上がった。
「……ああ。ありがとう」
名残惜しくてならないが、私はレティアに手を振った。
「ゆっくりお休み下さい」
レティアは笑顔と優雅な会釈を返してくれた。そのままゆっくりとした足取りで、部屋から出ていく。ペネロピー夫人とヴィクトリア夫人のレッスンは、実に順調のようだ。
「はあ……疲れた……」
私は枕にもたれかかり、そのままズルズルと布団の中に体を入れた。スープを飲んだし、布団の中もとても温かいので、あっという間に睡魔に襲われる。
レティアを……私の中から……追い出さなければ……。レティアはフィラントのお気に入りの部下の……。横恋慕なんて……フィラントへの裏切り行為……。
—— 君がユースだ。しっかりしろ。
——今度こっそり街へ行こう。
——今の季節の星空は、それもアルタイル大聖堂から眺める夜空は最高だ
懐かしい、昔のユース王子との夢だ。今のフィラントは戦時外傷による記憶障害で、この頃の記憶をほぼ失っている。
——知っているか? 流星に願うと叶うと言うが、叶えた星は死んでしまうそうだ
——それなら、願いは祈りではなく、努力で叶えるべきだ。星が無くて、闇夜だと、この世の生き物は生きていけない。星に祈れなんて、変な話だよな?
——ユース、君の願いや祈りは何だ? 俺は、たった一人くらい、守り通したい。それは、誠の友である君が良い
言葉通り、守り続けてもらった。今も、フィラントの存在は心の支えだ。エトワールとクラウスまで増やしてくれた。だから、寂しい事なんてない。
私は、この世に生まれ落ちた人間の中で、頂点にいるのではないかというくらい、持つ側の人間だ。
「きらめく星よ……」
微かな歌声。この旋律は、カール令嬢が口ずさんでいた。私はそっと瞼を動かし、薄目になった。
ほんの僅かに顔の向きを変える。寝台脇に椅子が置かれ、レティアが編み物をしている。サイドテーブルには本が山積み。
彼女の肩の上で、セルペンスが背を伸ばし、ゆらゆらと左右に揺れている。楽しそうに。
「叶えて欲しい……」
異国の歌。カール令嬢から教わったのだろう。
「あの子の願い……誰かの想い……」
レティアがふふっと、小さく笑った。
「願いで生まれた幸福で星はまた生まれる? それなら、叶える願いは選ばないとなりませんね。私? 私は……」
セルペンスと話せると知らないと、妙な独り言である。それにしても、彼女はもうセルペンス自体は受け入れているのか。
「沢山あるけれど、そうね……。誰かの幸せを作れる人が、この世で最も幸福になりますように、とか? 流星達こそ、幸せになるべき……貴方達の幸せもね。昔から、ずっとこの国の人々を守ってくれていたのですもの」
そういう思考か。これが彼女の本質。
願いが沢山ある、か。レティアは何を望んでいるのだろう? 私の知る限り、親しい人の皆の安全や幸せだ。彼女の私欲については、何も知らない。
そういえば、ロクサス卿がボヤいていた。いや、あれは惚気だ。贈り物を買うと、嬉しそうに笑ってはくれるが、申し訳なさそうに縮こまっている、なんて話。
欲が少なくて、奉仕心に溢れていて、自己犠牲的なところが、フィラントに似ている。それか……レティアが私の心を掻っ攫った理由は……。他にもあるか? 今の状態だと、何もかもが好ましく感じてしまう。このイカレた状態では、冷静な考察は無理だな。
私はレティアの歌に聞き惚れながら、再び眠りに落ちた。