女好き王子は逃げたい 3
カール令嬢とのチェスは白熱し、話をするどころではなかった。そして、惜敗。カール令嬢に初めて本気で負けた。
「今日は接待ではなかったですね」
「ええ。初日より、随分と戦法が変わりましたね」
「レティア様が鍛えてくださっています」
カール令嬢は自慢げに白い歯を見せて笑い、ソファの背もたれに寄り掛かった。優雅な手つきでワイングラスを持ち、グッと呷る。
本来なら、私の好みは彼女のような、気の強そうで色気のある女性だ。自分が一番というような、太々しさのある自意識の高い美女が好き。それでいて、優雅な物腰で博識だとなお良い。そういう女性を掌の上で転がして、屈服させて、可愛らしくするのが楽しい。ただし、全部、遊びの範囲での話だ。
カール令嬢は粗暴に振る舞っているが、ご令嬢として大事に育てられた故の、付け焼き刃ではない品がある。胸は豊か。腕や足が筋肉質なのは嫌だが、割と肉厚的。転がせたら、さぞ楽しいだろう。
それなのに、レティア。何故レティア。どうしてレティアだ。駆け引きとか、転がすとか、殆ど必要のない素直な娘だ。色気も皆無。
恋とか愛とか、そういう物は大事なものを守る為に邪魔になるから、捨て去った。それから、私の妻の座は冷たい土の中で眠るマリー。
なのに、レティア。どうしてだ? まあ、良い。別に何かをする訳でもない。
「名前を聞いただけで、ニヤニヤ照れ笑いとは……あはははは」
「はい? ニヤニヤ?」
「自覚が無いとは、愉快だな」
クスクス笑うと、カール令嬢は赤ワインのおかわりを要求してきた。素直に酌をする。
自覚が無い? 無意識にニヤニヤしていたなら、最悪である。疲れで頭がいかれたのか?
「多分、疲れのせいです。私の事はおいておいて、レティアの事です。大聖堂で不思議な男性と会ったと」
朝から食事もしないで酒を飲んでいるので、胸焼けしてきた。いや、嫉妬か? レティアと男という組み合わせだけで、苛々しだすとは、今の私はおかしい。
「不思議な? ああ、その男と私が関係ありそう、ということですか?」
「ええ。あの蛇と語らえるようだったと。流星国の王太子エリニス王子殿下は、海蛇を従えている、と聞いた事がありまして」
エリニス王子は神で、大蛇連合国を厄災から救って、役目を果たして神の国へ帰った。その噂が引っかかっている。
この国に目を付けた何者か。それは、エリニス王子ではないか? という疑惑を抱いている。理由は思い至らないけれど、蛇というと、今のところ、彼しか出てこない。
「エリニス王子……。我が国にはもういません。仮初の姿だったようで……。海蛇を従えていません。二匹の海蛇は、彼の親友で、世話役で、四六時中彼と共にありました。」
カール令嬢はワイングラスをテーブルに置き、かわりに白いキングの駒を手に取った。ぼんやりと眺め始める。
「エリニース様に戻り……去りました。城程もある巨大な蛇だそうです。信じられます? 私は見ていないので、信じられません。しかし、十八年もの間、近くで一緒に成長してきたので……信じそうではあります。彼は人とは大きく違いました。エリニス王子はいつだって特別だった……」
カール令嬢は、遠い目をした。
エリニースとは、西の地に伝わる始祖神だ。地上で民を導いた聖騎士エリニースは大蛇の化身で、氷れる大地を自らの身で耕し、人々に国を与えた、という神話がある。
「特別だった?」
「あらゆる才能に秀でていました。中でも運動神経。生後一ヶ月で歩き、二ヶ月で走り回り、三ヶ月からは大人の身長以上の高さまで一足飛び。力も強く……。まあ、大きくなられてからは控えていましたけれど」
「それは……確かに特別ですね」
それは、人間だったのか? と思わず口にしそうになった。カール令嬢が続ける。
「秀でた身体能力、威風凛々とした立ち振る舞い、万物の声を聞いていたようで天候を詠み、多くの者を惹きつける。エリニス王子は、王の中の王、流星国は安泰と言われていました。多くの王太子を従え、本国の現国王を大親友と呼び、流星国どころか、西の王者となる勢いでした」
私は神なんて信じない。しかし、この世界には、特殊な人間は確かにいる。レティアも、いやアルタイル一族もエリニス王子と同じ種類の人間なのか?
レティアはセルペンスと会話し、クラウスは三歳児なのに、運動神経が飛び抜けている。
かつて、ルシル王妃は予言と雨乞いにて、夫を押し除けてまるで女王のように君臨していたという。女性に王位を得る権利があれば、彼女こそが正真正銘の王だったという話だ。
「エリニス王子は人の姿は仮初。そう言って消えたのです。私が国を離れている間に……」
しょんぼりと俯くと、カール令嬢はキングの駒を指で弄くり回した。
「そうか……。レティア様はエリニース様の遣いに選ばれて……。会ったのか……」
「よーう、騎士姫。そんなに寂しがるな。たまーに、可愛い奴だな」
突然、私の目の前、カール令嬢の隣に暗い灰色の法衣を纏った者が現れた。足を組んで座り、ソファの背もたれに両手を広げている。フードで顔は見えない。
物音も気配もしなかったのに、どこから現れた?
「エリニス王子! いえ、エリニース様?」
カール令嬢は叫び、勢い良く立ち上がった。
「左様。エリニースである。エリニス、ティダ、龍神、風と鷲の神、テルム、シュナ、土の神、何でも良いぞ。で、こんにちは。ユース・セルウス宰相。私に会いたそうだったので、会いに来た」
ゆったりとしているが、ハッキリとしていて、重たい響きを持たせた喋り方。挨拶をしようとしたが、その前にエリニースが言葉を続けた。
「この土地の加護を失いたくなければ、今のようにアルタイル一族を人柱にして、この城へ住まわせておくが良い。まあ、歴史が証明しているので、理解出来るだろう。失われている祭事をいくつか蘇らせろ。国王が持つ書に記されている」
質問は沢山あるのに、声が出てこない。声だけで、こんなに強い威圧感を発する男は生まれて初めて。
「見張りは無数のセルペンスと気まぐれ屋の大狼である。下等生物は信用されていない。この世に神はいるが、好き嫌い激しく、選り好みするので、不平等さは諦めろ」
私が問いかけようとすると、エリニースはふっと息を吹きかけてきた。まるで、突風。私が喋れない間に、彼は言葉を続けた。
「この世に神なんて存在しない? いるさ。神が恵や加護を与える人間が、僅かしかいないってだけだ。目にかけないとならない生物は、他にもうんといる。だから、人ごときが何か祈っても、願っても、基本的には何も叶わない」
小馬鹿にしたような笑い声を出すと、エリニースと名乗る男はフードを脱いだ。妙なことに、思考を読まれているような気分。
輝き放つ黄金稲穂色の肩まである髪。獅子の鬣に似せているようで、品良く整えてある美しい艶やかな髪だ。それに、夏の澄んだ空を閉じ込めたような瞳。それが、深くて青いサファイアのような色に変わる。
まるで美術館に飾られる、彫刻像みたいに、整った顔である。計算して作られたような美。私は自分を中々の容姿だと思っているが、比較にもならない。
彼は美しいだけではなく、強い吸引力を放っている。酷く抗い難い、こういう感情は、時たまディオクに抱く。それよりも遥かに強い場の支配力に、全身の毛が逆立っている。
「私を信用しなくても構わない。単なる不審者だからな。しかし、可愛い鷲蛇姫はすぐに信用してくれた。あれは良い娘だ。可愛いし、見抜き上手。歌と踊りを学ばせ、定期的に海へ行かせろ。地下殿から続いている地下から行ける入江だ。家族の付き添いだけは許される。君はまあ、ギリギリだな」
あっと思ったら、私の目の前にエリニースが立っていた。彼の両手が私の肩を掴む。あまりの力の強さに驚愕した。身動き出来ない。
「この私が神ではなく、神の遣いでもなく、単なる人外生物だとしよう」
深い青色の瞳が、ゆらりと紫色になり赤みが強くなって、まるで炎のような色へと変わった。
「縁もゆかりもないこの地に祝福を与え、助言をし、幸福を祈った。何故か? この世の不公正さは減るべきだからだ。君の望む世界と通じるだろう?」
爽やかな笑顔で見下ろされ、鳥肌が止まらない。この私が、完全に喰われている。
「飢え死にしかけた際に、見つけたネズミは誰からの贈り物であっただろうか?」
エリニースの左手が肩から離れる。彼は私の胸に拳を突き立ててきた。トンと軽く叩かれる。
「銃弾が脳天をぶち壊そうとすると、微かに地が揺れて、軌道を逸らした。誰のおかげだろうか?」
再び胸を叩かれる。
「見ている者は見ている。君は自身の本質を隠し過ぎなので、誠実さをもっと表に出せ」
また胸を叩かれた。今度は痛くて、むせた。
「軟弱なのは仕方ねえ。人には生まれ持った才覚があり、それには差がある」
見つけたネズミ……幼い頃に捨てられた森で食ったのが最初で最後だ。
銃弾? 唯一出征した時のことか? 味方がいるはずの背後から撃たれた。幸い、こめかみをかすめただけで済んだ。
それが、作為的な救いだったと?
「英雄騎士ならもっとあるぞ。この世は因縁因果、生き様こそがすべて也。汝、まずは与えよ。信じることは難しいが信じろ。青二才よ、それを忘れるな。信頼して背を任せる。東は荒れる。西とくっついておけ。忠告を守るなら、二度と来ない予定だ」
バサリ、と法衣が翻る。かなり大袈裟な動きで、わざと音を出したのだと感じた。
「騎士姫よ、根無草はお前の噂を聞いて、間もなく来る。お転婆は程々にして眠り姫を囲う役目を全うせよ! まあ、飾る宝石を増やしたいというのは分からんでもない。人よ、好きに、自由に生きよ。私の掌の上でな!」
あはははは! と高笑いするといきなり突風が吹き荒れた。窓が開いたらしい。それで、エリニースの姿は消えてしまった。残ったのは、大量の木の葉、どんぐり、きのこ。
放心してしまった。彼は……人か?
「さあ、少なくとも共に育った時は、かなり特殊で特別な人間でした。今よりは、もっと人らしかったですけれど……」
心の声は漏れていたらしい。カール令嬢は私を見下ろし、しげしげと眺めた。
「ふーん。エリニース様が認める男か。信頼すれば背中を預ける……。よし、アンリエッタの事は任せる。レティア様が我が国を訪れてくださるのに、貴方は必要そうだし、一緒に行って来い」
カール令嬢に胸ぐらを掴まれた。
「誠実に、だ。嘘臭い演技めいた態度は我が国ではすぐ見抜かれる。この国では良いが、流星国内では止めろ」
「状況整理とか、考察する時間をくれると助かるのだが……」
「元々は、貴方かディオク王子とアンリエッタの縁談話だった。それで、代わりになってみたけれど、父上が浮かれすぎた。私が見合いの破壊魔神だったからだ。私の目的、アンリエッタの保護、貴方の目的、全部、うまくまとめろ。それに対する協力はする。人材確保の妥協もする」
あまり反対理由は無さそうなので、私は首を縦に振った。
「まあ、そうだな。その前に寝ろ。顔色が酷い。レティア様を悲しませてはなりません」
カール令嬢は私を担ぎ、応接室を出ると、客間へ向かった。部屋の外で護衛につくゲオルグと、見知らぬ若い近衛兵がついてきた。
近くの客間に勝手に入ると、カール令嬢は私を寝台に乗せ、無理矢理布団を被せた。珍事ばかりで、面倒なので、とりあえず私は目を瞑った。
余程疲れていたのか、眠りに落ちるのは一瞬だった。神はいない。いたとしても、姿なんて見せたりしないだろう。それなら、エリニス王子は人外生物だ。一国の王では足りない、ということか? それとも神はいるのか?
寒さで眠りが浅い。急遽駆け込んだ教会の一室。今夜は凍えそうな程に寒い。また、この夢か。随分久しぶりに見たら、封印を解かれたように、すぐに見るらしい。
どうせなら、骸骨のように痩せた、死の間際の青白いマリーではなく、酒場で快活に笑うマリーの姿なら良いのに。
痩せた頬に手を伸ばし、避けられる。売ってしまって短くなってしまった髪を少しだけ摘む。マリーの儚げな笑顔がぼやけて滲んでいった。
夢から抜け出していく、と自覚すると、どんどん悲しくなっていった。
「ユース様?」
目を開くと、レティアが私の顔を覗き込んでいた。冷えは額に乗せられた濡れたタオルらしい。
「カール様、看病慣れしてなくて、断られたと笑っていました。今、エトワール様から色々教わっています」
あんのお節介女、レティアを呼んだのか。
「雨風に晒された上に、足を怪我していたそうで……」
「運動神経は悪いが、体力はある。君の話くらい、いつでも聞く。話に来なくても、聞きにいく。何をしていても手を止めて聞くから遠慮するな。基本的に優先する」
考えるよりも先に言葉が出できた。レティアは目を丸めている。しまった、と思ったが、この後に「面倒事が増える前にそうしろ」と皮肉っぽく言えば……。
レティアの眼差しから感謝と安堵を感じ、私は押し黙ってしまった。
黙って澄ましていたり、遠くを見ている時は、小生意気そうで冷たい印象なのに、こういう時はあどけなくて丸い雰囲気。春の柔らかな日差しを思い出す。
「仕事の一環だ。この国の運営に必要な事は何でもする」
「はい、ありがとうございます。私もお役に立てるように頑張りますね!」
屈託の無い笑顔に、動悸と目眩がした。熱のせいだ、と勘違いされそうなのは助かる。
レティアに惹かれたのは、エトワールが懐に入ってきた理由と同じか? 一粒の疑いのない、信頼の目。少し前まで、私を不審がっていたのに、何故彼女はここまで私に信頼を寄せたんだ?
生き様こそ全て……か……。自分の何かで、レティアの信用を得た。それは素直に嬉しい。
しかし、私はこの純情で清楚可憐な乙女に手を出せるような人生は歩んでいない。ということは、触れてはいけない宝物か……。
マリーと同じようで違う。死者は永遠に胸の中なので触れない。胸を掻き毟っても、出てきてはくれない。しかし、生身の人間は違う。手を伸ばせば、触れてしまう。温もりがある。
私はレティアに手を伸ばしかけて、やめた。拳を握り、布団の中にしまう。すると、彼女は布団の中に手を入れて、「手が寒いのですね」と私の手を握り、さすってくれた。目敏いな……。
甘ったるいのに、酷く苦しい。
こんな気持ち……知りたくなかった……。