嵐は突然訪れる
大雨で王都の西側、街に隣接するように流れるセヌ川が氾濫。災害対策の総指揮を取ったのは私。国王陛下からの勅命、とする予定が、カール令に引きずられて、馬に乗せられて強制連行された。
彼女は割と役に立っている。この国の指揮系統や、災害対策について知らないはずなのに、指揮官の一人として振る舞い、見事に指揮官となれている。
崖上に張ったテントから、土嚢を積み上げるカール令嬢や騎士、市民男性達を眺める。
区画ごとに配置した指揮官から報告があるたびに、テーブルに広げている地図に印を加えている。
「ユース様、カール令嬢を止めなくても良いのですか? 戦力になってくださるのは大変有り難いですが、怪我でもされたら困りますよね?」
「その通り。しかし、彼女は私の言うことを全く聞かない。自由人だ」
副秘書官のヘイムダルの問いかけに首を横に振る。自然とため息が出た。ヘイムダルは少し白髪混じりの口髭を弄りながら、珍しい、と言いたげな表情。
「この私が珍しいだろう?」
「ええ。まあ、随分と変わった方のようですし」
ヘイルダムが苦笑した。
「とてもご令嬢には見えません。まあ、ユース様もです。このような前線までいらっしゃるとは、困った方だ」
その通り、と私は無言で首を縦に振った。
「市民派としてのパフォーマンスさ。少々体を張っておくのは大事。私はそれだが、彼女の意図は不明」
「風がどんどん強くなっていますので、もう少ししたら、小屋の方へ移動しましょう。カール令嬢も連れてです」
カール令嬢は男達と同じように土嚢を担いで運ぶという勇ましい姿を見せてくれている。
「連れて行ければ良いのだが。困ったじゃじゃ馬娘だ。乗りこなしたら、さぞかし楽しいのだろうが、今のところビジョンが見えない。あんなのが私の妻になる予定とは、人生は奇妙だな。女性全員に対する接触禁止令を出された」
思わず、ため息が出た。
「接触禁止令?」
「破るとアクイラ宰相に告げ口されて、この国ごとペチャンコにされるだろう。流星国はともかく、煌国に潰されたら最悪だ。女性に触るななんて、拷問以外の何物でもない」
「刺される心配がなくなるので、良い事です」
「例の話、もう誰かに聞いたのか?」
「ええ。説教して欲しいと、陛下に頼まれましたけど、必要ありませんね。奥様以外に対する接触禁止令が出たのなら」
「妻にも触るな、だそうだ。この私に男色家になれと言うんだ。あり得ない」
楽しげなヘイルダムを、思わず睨んでいた。醜聞がもうリチャード国王の耳にまで届いてしまったとは、気が重い。ということは、ゾフィの処分はもう終わっているだろう。
かなり線を引いていた筈だが、あの有様。罪悪感で胸が満たされる。
「例の方には……、それなりの対応をするそうです」
「そうか……。まあ、兄上が関与したならそこまで悪い事にもなるまい」
「ええ。それにしても、ユース様がついに落ち着かれるとは、感慨深いです」
「まさか。全力で抗う予定だ」
「まだ懲りず……うおっ」
「わっ!」
衝撃的な事に、急にテントが崩れた。同時にドオオオオオンという衝撃音。丈夫そうな木の枝に布を張っただけの、簡易テントが壊れるとは、まさか大木が倒れた? 予想外の出来事である。
落下してきた布に押されるように、倒れる。左半身にべちゃりと泥の感触。次は右足に激痛。重いので、何かに潰されたようだ。一瞬、儚げに微笑むマリーの姿が脳裏によぎった。滅多に夢にも現れてくれない、懐かしくて、狂おしい程愛しい微笑む彼女の姿。
一瞬、死ぬのも悪くないな、と思ってしまった。引きこもりだった恩人リチャード王子は、今や立派な国王の卵。信頼出来る兄弟と側近が彼を囲っている。
もう一人の恩人フィラントも、出征させられて、精神の壊れた一兵士から、今は温かい家庭を持つ英雄王子。
この世に私が絶対に必要だ、という者は居ない。今の私には、お前じゃないと嫌だ、離れないでくれ、という者もいない。私を失って打ちひしがれても、誰も彼もが、その穴を他の者で埋められる。
……随分と感傷的。馬鹿らしい。死にそうにもないので、痛くない範囲でもがいてみた。布は重たく、身動きが取れない。暗くて何も見えない。
「ユース様!」
あちこちから名を呼ばれる。
「ここだ! 怪我人はいないか⁈」
いるだろう。現に私の右足は痛い。こういう時に、何も出来ないとは情けない。頭脳には自信があるが、物理的な腕力や体力というものには恵まれていない。
「私は無事なので後回しにして、返事が無い者から救助しろ! ヘイルダム! ダグラス! ゲオルグ! ウェイン!」
次々と返事が聞こえて安堵。死人はいないらしい。
「ユース様! 今助け……うおっ」
ウェインの声がした後、視界が開けた。薄暗い世界に、人の手の影。
「ユース王子!」
カール令嬢の声がして、背中に手を回され、体を持ち上げられた。
「良かった、ご無事で……」
「っ痛」
負傷した右足に激痛が走る。
「すみません。気がつかなくて」
再び右足に痛みを感じたが、代わりに重みが消えた。
「いや、ありがとう」
抱き上げられ、驚く。成人男性を軽々と抱くとはなんとも逞しい。
「軽い地盤沈下で倒木のようです。完全に油断していました」
「それは私もだ。風が少ないので、甘く考えていた」
「幸い、人が居ないところに倒れたようです。これ以上の対策は危険ですので、撤収して城へ帰りましょう」
私が返事をする前に、カール令嬢は「撤収!」と叫んだ。それから、走り出す。
「急げ! これ以上は危険だ! 命を最優先にしろ!」
私が告げるべき台詞を簒奪とは、腹立たしい。
「ユース王子殿下は怪我で声が上手く出ない! 代理で命じる! 撤収!」
私を肩に担ぎ、ヒラリと馬に乗ると、カール令嬢は自分の前に私を座らせた。ピイイイイイと甲高い指笛の音が響き渡る。
「ユース王子殿下は怪我で声が上手く出ない! 代理で命じる! 撤収! 死人を出すな! サー・ゲオルグ! 誘導しろ! 」
女性なのに、なんとも勇ましい。感心していたら、馬が走り出した。
「全くもって、声は出る。まあ、色々ありがとうございますカール令嬢」
「いや、すみませんでした。もっと観察眼を磨かねば」
悔しそうな声色の返事。本当に妙な女性。手駒にしたいのに、恩を与えてしまった。
「しかし、驚きました」
「ああ、倒木とは……」
「違います。私は無事だがら、後回しにしろ。その事です。緊急時に、本性が現れるものです」
少し好意的な声色。チラリと振り返ると、フードで隠れて目元は見えにくいが、口元は綻んでいるように見える。
「大怪我なら助けてと大絶叫していたさ」
「そうは思いません。酷い顔色ですよ」
それは私が死に憧れていると、気がついてしまったせい。とは流石に口に出来なかった。自分でも、こんなに精神的に消耗しているとは思っていなかった。
——心配しているのです
仁王立ちして、私に詰め寄ってきたエトワールのことを思い出す。本当に見抜き上手な女性。多分、だから、生きた死体みたいだったフィラントはエトワールに心を開いた。
何故こんな考察をしているのだろう? 私は本当に侘しいらしい。運命の相手を真剣に探せ……か……。そう思える人は、暗くて冷たい土の中。
カール令嬢と私は無言のまま、城へと到着。彼女は玄関ホールで私をウェインに引き渡し、何も言わずに立ち去っていった。
彼女を城付き侍女に労わせるようにダグラスに命じ、医務室で右足の治療を受けた。打撲と擦り傷。足を洗われ、薬を塗られ、包帯を巻かれる。怪我なんて、何年ぶりだろう。
従者に見守ってもらいながら、杖を使って歩き、政務室へと戻った。休めと言われたが、今日無理をして、明日楽をしたいと断る。
ゾフィの事は気になるが、書類の山だし、足は痛いし体も重い。それなりの地位のある伯爵の妻を、いきなり投獄したりもしないのも推測出来る。
椅子に腰掛け、羽ペンを手に持った。書きかけの、交易契約書の第五版の続きに取り掛かる。流星国が、何版なら了承するのか、今はまだ想像もつかない。
「あの、ユース様……」
突然部屋に聞こえたのは、意外な事にレティアの声。小さい震え声。
部屋に監禁している筈。おまけに、隠し通路を使える?
不可解だが、それよりもあまりに寄る辺のない声色に、胸の奥がザワザワした。
「レティア? どうした?」
隠し扉に手を掛けて、開く。そこにレティアの姿は無かった。
「良かった……。外出から帰ってきたと言うので……」
彼女の声は、隠し扉のすぐ近くから聞こえる。
「誰かに何か聞いたのか?」
「蛇が……いえ……セルペンスが……」
蛇? セルペンス? なんの話だ? それで、彼女は何処にいる?
「どうしましょう……ユース様……。私、間違えたらアリスやロクサス卿を酷い目に合わせて……魔女……っく」
震え声から泣き声。
「魔女? 魔女とは何だ? 君がルシル王妃のように預言者めいている件なら、君は聖女だ。国の柱にする為に、そうする。何処にいる? 隠し通路にいるなら入れ」
しばらく沈黙。隠し扉の左側の壁が、青白く光った。石に見せかけた木の扉ではなく、本物の石の扉が観音開き。
そこに、レティアがいた。多分、レティアだ。手で顔を覆っているので顔は見えないけれど、黒檀のような艶のある髪に乗せられた、光る青い薔薇の冠が、彼女だと示している。
レティアはすすり泣きしていた。触れたら壊れるのではないかという程、儚げに感じる。
足元がゾワゾワして、見下ろす。蛇。蛇だ。蛇の群れ。アルタイル大聖堂でレティアを抱えていた鷲のような蛇とそっくりな蛇。しかし、小さい。指一本分か、二本分しかない太さの蛇ばかり。
「やめてっ!」
いきなり叫ぶと、レティアは蹲り、両手で蛇の群を抑えるように動かした。
「この人を追い出さないで……下さい……」
掠れた小さな台詞に驚く。この娘は、蛇と話せるのか? それで、魔女か。
「ユース様……。アリス……助け……」
泣きながら、それも無秩序に話すので、要領を得ないけれど、レティアの話をまとめるとこうだ。
自分は「セルペンス」という、この城に巣食う蛇と話せる。おそらく、クラウスも。クラウスの言葉は、このセルペンスには通じない。セヌ川の氾濫のことは予言ではなく、セルペンスが教えてくれたらしい。
それから、謎の男の接触。自分はルシル王妃と間違えられて、愛されている分、セルペンスとやらは、過激にもなると告げられたらしい。
そして、それは既にもう起こったという。アリス令嬢を虐めていたご令嬢とその姉を「やっつけた」と聞かされたらしい。
「アリス……魔女狩りとか……」
しゃがんだまますすり泣くレティアの頭や腕を、撫でてあげる事は出来ない。セルペンスとやらが、彼女を囲い、気遣わしげに頭部を寄せていて、私がレティアに手を伸ばすと威嚇してくる。
「君は……自分の事よりも妹の事か……。セルペンスや謎の男の話は、他には誰にした?」
ブンブンと顔を横に振ると、レティアは俯くのをやめて、私を見上げた。悲しげなのに、何故か自慢げな微笑み。
「ユース様だけです。誰にも言い出せなくて……。自分の事より、ではなくて、私の事は、この国やフィラント様一家に害にならない限り、ユース様が助けてくださいますもの」
黒紫色の瞳に宿るのは、一粒の疑念のない、信頼の光。微かに体が震えた。そろそろ、とレティアの手が私に伸びてくる。立ち上がろうとするレティアとは反対に、吸い込まれるように、私は片膝をついた。レティアは立つのをやめた。
セルペンス達は私を威嚇しないで、それどころかレティアから少し離れて、ジッと見据える。
「酷い顔色です。忙しくて疲れているのに、夜分にすみませんでした。他の方にはどうしても……どうしてだか……頼れなくて……。言えなくて……」
レティアの手が私の頬に触れた。酷く冷たい。そして、細い。私の体はますます震えた。レティアは食が細いと報告を受けていたが、多分違う。環境の変化による心労で、食欲が低下していたのではないか?
ペネロピー夫人やヴィクトリア夫人からの報告は、いつも非難めいていた。その事に、今更思い至る。
「演技と演出ですよね? まずは自力で頑張ってみます。泣いたらスッキリしました。ありがとうございます。このセルペンス達とは話せるようなので……頼んでみます」
可憐に微笑み、私から手を離したレティアの手首を思わず握る。やはり、細い。顔色が悪いのは彼女の方だ。このままだと、ある日突然、倒れたりするんじゃないか?
「ユース様?」
私の名を呼んだ、レティアの表情は分からない。気がついたら、彼女を腕の中に閉じ込めていた。
——他の方にはどうしても……どうしてだか……頼れなくて……。言えなくて……
「別に頑張る必要なんてない。その為に……」
ガタガタ、ガタガタと音がする。きっと、窓を揺らす暴雨の音だ。次は、ガタンッと大きな音がした。
「私が……いる……」
ガラガラ、ガラガラ、ガラララララララ……。何かが壊れる音。おそらく、雷の音だろう……。私は、レティアの小さな肩を抱きしめながら、もう一度同じ台詞を小さく呟いた。