男爵令嬢、逃げる
丸まって座り、どのくらいの時間が過ぎたのだろう? 私はふと、ダフィから手紙を受け取った事を思い出した。ロクサス卿から私宛ての手紙は初。彼は私に、何て綴ったのだろう? しかし、窓一つない部屋は暗く、こんなところでは手紙は読めない。
ガタガタッという音。私はビクリと体を竦めた。
「おい、どうなってる? 何故居ない?」
「まさか、そんな訳あるか!」
四角い灯りが部屋へ注いだ。覗き窓? 男性の声がした後、錆びついた音を立てて、扉が開く。日の出のように、部屋が明るくなる。廊下の灯りが部屋を照らして、急に明るくなったので目が眩んだ。出入り口にある人影は二つ。
「魔女か? 有り得ない!」
え? いや、私はここにいるけど。私は指輪を嵌めている手を、右手で握りしめた。逃げるなら、扉が開いたこの隙だ。動け、動け、私の体。チャンスがあれば、直ぐに動かないと。
「俺は報告に行く」
「分かった。俺は抜け道がないか確認しよう」
一人去った。残り一人が部屋の中央へ向かっていく。彼が振り返ったら、私を見つけるだろう。今しかない。部屋の外、廊下がどうなっているか分からないけれど、逃げるなら今だ。
私は震える手足に力を入れ、這いつくばるように立ち、音を立てないように慎重に扉の外へ出た。石造りの廊下に、松明が点在。鉄製の扉も等間隔で並ぶ。牢屋? 誘拐犯なのに牢屋って、集団で誘拐を生業としている?
すぐに捕まりそうだけど、もう戻るに戻れない。私は足音を立てないように慎重かつ、早足で歩いた。足がガタガタするので、太腿を抓る。階段がある方へと移動した。自分の心臓の音ばかりする。
段数の少ない階段を登りきると、小部屋だった。机に椅子、ソファがある。それに本棚。見張り部屋だろう。背後から足音がして、私は机の陰に隠れた。
「くそっ! 密室からどうやって逃げたんだ! ドヤされる!」
小部屋を黒い法衣を着た者が通り過ぎた。集団誘拐犯なら、何人も仲間がいるのだろう。このまま上に行ってもすぐ捕まりそう。逃げた相手に、寄ってたかって暴力を振るう。そんなの簡単に想像出来る。だからって先程の部屋に戻るのも……戻って大人しくしていたら、逃げたとは思われないから安全?
ぐるぐる、ぐるぐる、思考が回る。私は後戻りすることにした。部屋で丸まって、全然人が戻って来なければ、もうこの牢屋から誘拐犯達は去った、ということにして、もう一度勇気を出して逃げよう。なにせこの部屋より先に進んだら、大勢の男がいて、殴られたり犯されるかもという考えばかりが浮かび、先に進む勇気が出ない。
今のところ無事なのは、商品価値を保つ為の筈。それに「魔女」と言っていたので、見つかったらきっと魔女狩りされる。火炙りになんてされたくない。
私はよろめきながら、部屋へ戻った。同じ所へ腰を下ろす。暗闇は嫌なので、扉はほんの少し開けておいた。体を丸め、膝の上に顔を乗せる。人が戻ってきて、今の私の姿を見たら、逃げたなんて勘違いだったと気がつくだろう。
震えが徐々に治っていく。誰も現れない。時折廊下に顔を出してみたが、静まり返っている。
落ち着いてきて、私は「そうだ」と思い至った。集団誘拐犯なら、他の部屋にも誰か閉じ込められているのではないか? 扉は外から閂で閉ざす造りなので、今の私なら開けられる。同じように拐われた女性がいるなら、助けないと。味方がいれば、逃げる勇気も出るだろう。
——黙って耐えていても人生は好転しない
そうだ。ユース王子はそう言っていた。怖気付いて戻ってきてしまったけれど、ここにいたって不幸が訪れるだけ。私は指輪を指でなぞった。このままでは、二度とロクサス卿に会えないかもしれない。そんなのは嫌だ。まだ、彼からの手紙も読めていない。
私はよろよろと立ち上がった。まずは向かいの部屋だと、足を進める。閂に手を掛けた。持ち上げれば外れる造りだが、かなり重い。思いっきり持ち上げると、閂はなんとか外れた。重くて、閂は私の手から床へと、滑り落ち、大きな音を立てた。慌てたけれど、誰も来ない。
それにしてもこんなに厳重な造りの牢屋なのに、先程の男達は、何故私が逃げられたと思ったのだろう?
「もし……」
部屋を覗いて、声を掛ける。誰も居ない。残りの部屋は四つ。今度は閂が落ちないように気を配りながら順番に扉を開けた。三つの部屋に人は居なかった。私、誘拐一人目? それともやはり私怨?
最後の部屋を開ける。すると、風が私の体を優しく撫でた。扉の正面の壁が壊れていて、草むらが見える。
「風の神様……?」
こんな幸運、あるのか。私は思わず走り出した。ドレスの裾を踏んづけ、よろめく。何とか体制を立て直して進んだ。草むらへ出て周りを見渡すと森の中。振り返って確認すると、木々に囲まれ、隠されるような建物。ここは何処で、街はどっち?
空だ。空が見えれば星の位置から少しは方角が分かる。私は背の高い草を掻き分けながら、木が少ない方へと移動することにした。
「馬の蹄の音?」
私は一度立ち止まった。犯人達?
「そこの! 手を挙げろ!」
男の大声。見上げると、バサリと紅の外套が翻った。騎士だ。またしても運が良い。いや、騎士の中にはならず者もいる。仲良くしてくれるサー・マルクや友人達から、騎士というだけで信用するな、と注意されている。
思い出したら、そして騎士が手に持つ剣を見て、体が震えた。木々の隙間から差し込む月明かりで、ギラリと光を放った剣の刃。切れ味鋭そう。反抗したら、刺されるか切られる。私はそろそろと手を挙げた。
「女?」
「は、はい……」
挙げた腕が震え、下がりそうになる。暗くて騎士の表情は見えない。
「名乗れ」
「シャ……シャーロットで……ござい……」
騎士が馬から飛び降りてきた。私は思わず身を竦め、後退りしそうになるのを耐えた。恐怖で目を閉じていたので、視界は真っ暗。……何もされない。そろそろと瞼を開くと、騎士は膝をついて、私を見上げていた。父親より少し若いくらいの男性。安堵、という表情。
「ああ、シャーロット令嬢。ご無事でなによりです。探していました」
寒いでしょう、と外套を肩にかけられる。優しい手付きで右手を取られ、その次は「失礼します」と片手で、子供を抱くように抱き上げられた。騎士は私を抱いたまま馬に乗り、私を前に横座りさせた。また「失礼します」とお腹に腕を回される。
「話は署で聞きます」
そう言うと、馬が歩き出した。ピイイイイイと甲高い笛の音が響く。騎士が笛を吹いたようだ。私の視線は足元の草。助かった、という安心感と、この騎士は嘘をついていてこの先には恐ろしい事が待っているのではなきか? という怯え。体が固まって動かない。頬に涙が伝った。泣いたってどうにもならない。しかし、気が抜けたのか、余計に怖くなったのか、涙は止まらない。馬の蹄の駆け足の音が近づいてくる。
「騎士が付いていながら、誘拐されるなどすみませんでした」
騎士はそう告げると、私にハンカチを差し出してくれた。見上げると、優しげな困り笑い。それで、ようやく安心した。この騎士は職務を全うしてくれた人で間違いない。私は保護された。
「ここ最近、ご令嬢の誘拐未遂が多発していたので注意していたのですが、すみません」
「い、いえ……。あの……向こうの建物……。集団の……」
声が震えて上手く説明出来ない。
「話は署で、落ち着いてからで大丈夫です」
私は小さく頷いた。馬に乗る騎士が何人も集まってきて、私を保護してくれた騎士が命令をした。私が口にした「向こうの建物」の調査、犯人探し。ユゴー隊長と呼ばれたので、私を見つけてくれた騎士の名前が分かった。これでお礼が言える。
「サー・ユゴーありがとうございます。皆様も……ありがとうございます」
ハンカチで涙を拭い、笑みを浮かべて声を出す。少し震えたけれど、きちんと話せた。
「ユゴー副隊長! シャーロット令嬢はこの私が署へお連れします!」
「いえ、この私が!」
「貴様ら、ふざけた事を言っていないで行け! これを機に女性を口説こうなどとは、後で覚えていろ!」
「うげっ、しまった。つい」
「私はケインのように、浮ついた気持ちからではありませんユゴー副隊長。単に犯人捕縛に副隊長が必要だと思っただけです」
「ぶわっはっは! 馬鹿な奴!」
「口の上手いやつ! でも可憐な笑顔にニヤついたぞ! 間抜け!」
騎士って……。私は苦笑いを隠そうと俯いた。サー・マルクが、騎士には女好きが多い。目を合わせたら口説かれる。知り合い以外は話しかけなくて良い。と言っていたのはこう言うことか。ユゴーは部下を怒鳴りつけた。連帯責任だと、軽口を口にしなかった者にまで、後で罰すると告げていた。私には紳士な態度をしてくれたけれど、怖い。
部下達が去ると、ユゴーはため息を吐いて、馬を走らせた。何かボヤいたが、聴き取れ無かった。
「少し雨ですね」
私には分からなかったけれど、ユゴーはいち早く気がついたらしく、私の肩に掛けてある外套を頭に移動させた。
「少し急ぎます。失礼します」
ユゴーの腕が私のお腹から、肩に移動した。引き寄せられる。そのせいで、何も見えなくなった。え? ワザと? 私、やっぱり保護された訳ではない? そう思ったら、また体は震えだした。
しかし、それは杞憂で、私はきちんと騎士本部署へ案内され、暖かな部屋へ通された。暖炉のある、割と広い、応接室のような部屋。ソファへ促されて腰を下ろすと、ようやく心の底から安心した。
筋書きが少し変わって、シャーロット令嬢の服は汚れ、更にはあちこち小さな怪我までしているので、ユゴー副隊長は大変お怒りになりました。部下に雷です。後日、再教育の名の下に厳しい集中特訓が開始。
シャーロット令嬢逃亡と保護の報告はダグラス隊長に行き、ユース王子へと伝わりました。三人クビです。(26話 王子様は策略家)