男爵令嬢、婚約破棄されかける
王都へ来て半年もせず、私はロクサス・ミラマーレ伯爵と婚約。今はまだ家族だけが知る非公式な状態。来週、婚約発表をすると言われている。それで、半年後に結婚式。六年間、婚約者の筈だったのに「既に同居していて、六年も婚約なんて世間体が悪いから結婚しなさい」という、ユース王子の一声があったとか、なかったとか。オリビアやスヴェンが「もう一緒に住んでるから、とっとと結婚しないと、シャーロットさんは愛人と呼ばれる」と、言ったとか言わないとか。エトワール妃が「アルタイル小聖堂の使用許可を取りました」と、結婚式の日付を勝手に決めたとか、決めないとか。
色々噂が耳に入ってきたけど、私はロクサス卿の「とても待てそうもなくて」という照れ笑いしながらの一言を信じている。熱い眼差しや、もどかしい頬っぺたへのキスに、六年も待てなさそうなのは私なので、心の中で踊っている。
ただ、突然幸せがやってきたように、不幸も突如として襲ってくるらしい。夕食を済ませた後、いつものようにそのまま食堂でロクサス卿と雑談のはずが、空気が重い。彼の隣に座ったオリビアとスヴェンの、気まずそうな表情が、余計に不安を煽る。オリビアは泣きそうな怒り顔。スヴェンは不満げな拗ね顔。
「シャーロットさん、大変申し訳ないのだが、アリスさんと一緒に引っ越しをして欲しい」
「引っ越しですか?」
つい三日前まで、夫婦の寝室はどこにするか? という話をしていた。それで、部屋数が足りないからどうするか皆で話し合い。それが一転、アリスと引っ越し。
「先日、カーナヴォン伯爵のご息女エブリーヌ令嬢が、私と待ち合わせ中に切りつけられた、と言うんだ」
苦虫を噛み潰したような表情。ロクサス卿は深いため息を吐いた。エブリーヌって、古語朗読会で会った、あの嫌味を言ってきたエブリーヌ?
「お兄様に責任を取れと。入院までして、大袈裟に騒いでいるの。紙で切ったくらいの傷なのに。腹裂きジャックに襲われたなんて、絶対嘘よ」
「オリビア、そこまで疑うのは良くない。あれだけの包帯を巻いていただろう?」
「だって、イザベルは全然心配してないもの。あの子、シスコンなのに、むしろウキウキしているわ」
「シャーロットさん、兄上がきちんと対応するので、一時避難して欲しいという事です」
「カーナヴォン伯爵は同じ政党で、世話になっている」
目の前が真っ暗になるとはこの事。婚約したと思ったら、婚約披露会の前にもう婚約破棄。
「お兄様、ちょっと、今の発言は訂正して」
「そうだよ兄さん。今の台詞、仕事に支障をきたすから、君と結婚しないっていう意味になるぞ」
「えっ? いや、そ、そんなつもりは。発言力のあるカーナヴォン伯爵に、格下の俺が睨まれて、下手な噂を流されると、シャーロットやアリスさんへ風当たりが強くなるからという意味で」
「なら、そう言わないと。兄上は言葉足らずになるから、気をつけた方が良い」
「お兄様は、シャーロットさんとアリスさんの為に、引っ越しを頼むということよ。シャーロットさん、誤解しないで」
真っ直ぐに私を見据えると、ロクサス卿は胸を張った。
「必ず誹謗中傷から守り、絶対にこの屋敷へ帰ってこれるようにします」
そう言うと、ロクサス卿は上着の内ポケットから何かを出した。小さな白い箱。ピンク色のリボンが掛けられている。両手で差し出され、私も両手で受け取った。開けられる雰囲気ではない。
「まあ、真面目や素直さが取り柄のお兄様に、人あしらいとか謀略なんて無理! 私に任せて」
「真面目が取り柄の兄さんは、こういう時に頼りにならない。向こうが姑息なので、こちらも権力を盾に戦う。いや、剣だ。フィラント様を召喚する」
ゲホゲホッ! ロクサス卿が咳を出した。
「それは絶対にダメだと話したよな? スヴェン!」
「もう遣いを出してある」
「奇遇ねスヴェン。私もエトワール様に手紙を書いたわ」
「お二人にご迷惑をかけるな! 自分の事は自分でどうにかする!」
「いつも濡れ衣を着せられたり、手柄を横取りされる、お人好しで押しの弱いお兄様には無理よ!」
「そうだそうだ! 今回だって、最初からキッパリ断らないで、カーナヴォン伯爵に良い顔をしようとしたからだろう?」
「うっ……それはそうだが……。いいや、俺は変わる。この件は絶対に解決する」
「無理だね!」
「無理よ! たまには卑怯にならないとダメなの!」
兄弟喧嘩が始まった。スヴェンやオリビアが、過去の話を掘り返す。それで、ロクサス卿は、病死した父親が騙されて背負った借金を完済したとか、彼等の母親は男を作って蒸発したなんていう事実を知った。ロクサス卿、スヴェン、オリビアは全員立ち上がり、言い合いを続ける。私は肩を叩かれ、振り返った。
「シャーロットさん、長くなるので向こうでお茶でもどうぞ」
ダフィに優しく微笑まれた。
「いえ、でも……」
「旦那様は日頃の行いが良いので、味方が沢山いるいます。だから、心配しないで下さい」
さあ、と促されて私は談話室へと移動した。ダフィとソファに腰掛けると、カシムが紅茶を用意してくれた。
「俺、シャーロットさんとアリスの護衛役として隣の部屋に住むので、何でも言って下さい」
「護衛役?」
「旦那様の通勤経路に出来るし、知人もいるからと、シャーロットさんとアリスさんの引っ越し先は職人通りなんです。近いですしね」
職人通りには、たまにカシムと買い物に行く。ついこの間、ユース王子と行った帽子屋があるところ。ロクサス卿と朝食を食べたパン屋がある場所。確かに、職人通りはこの通りから三つ程しか離れていない。裏路地経由なら、アルタイル城方面へ抜けられる。
「夜は、少し治安が悪いのよね? でも夜は家から出ないし、護衛なんて必要無いと思うわ」
「旦那様が、それだけ心配しているってことです。引っ越し先は門があって、番もいるアパートです」
「シャーロットさん、息子はお二人の外出時は護衛しますし、夜も目を光らせます。その代わり、食事なんかの世話はよろしくお願いします」
カシムの発言に、私は思わず首を横に振っていた。
「そんな、ダフィ君にご迷惑は……」
「旦那様の手配には驚きました。アパートを二部屋も借りて、ダフィにあれこれ頼むなんて……しかし、それ程大切だということです。シャーロットさんを無下にするつもりはないんです。追い出すのではないと、どうか旦那様を信じて欲しいです」
カシムとダフィに頭を下げられた時、私はユース王子の言葉を思い出した。
——信じる事は難しいけれど、信じるという事は大切な事だ
——黙って耐えていても人生は好転しない
「あの、はい。私……」
そうだ。ユース王子だ。彼に相談してみたらどうか? 私はお役御免とは言われていない。きっと、ユース王子は私にまた会いに来る。そこが職人通りに変わっていた時の反応を見て、ロクサス卿や私の味方になってくれそうなら話をしてみよう。
「治安が悪いとは言いますけど、あの辺りには俺やスヴェンの顔見知りが何人もいるので、安心して下さい。腹裂きジャックも、真夜中に女性を狙う男みたいですから、夕方から外に出なければ無関係です」
「そうなの?」
「捜査状況を聞きました。職人通りで暮らす王宮騎士に、剣術とか色々教わっているんです。他にも色々」
「スヴェン坊ちゃんと息子は自由気ままというか、好き勝手していましてね。まあ、役に立つこともあるみたいなので……」
「好きに、自由に生きろ! 父さん、それが俺やスヴェンの座右の銘だ。世の中っていうのは、過程が大事。いきなり結果は生まれない。何事も積み重ねさ」
ニッと歯を見せて笑うダフィにつられて、私も思わず笑っていた。彼の考え方は、とても前向きになれる。
こうして、私とアリスは住み慣れてきたミラマーレ伯爵邸を出る事になった。新しい住居は、見た目は古いけれど、中は改装されたアパート。屋根裏部屋の家具はそのままで、新しい家具を買ってくれた。オリビアは「財布の紐がキツイお兄様は、シャーロットさんの事だとすぐお金を使う」と笑っていた。隣室で寝て、食事なんかは一緒にするダフィも、あれこれ買ってもらったらしい。彼はこのまま、一人暮らしを始めるんだとか。私の護衛はそのついでみたい。
私とアリスにちっとも不安は無い。アリスをそのまま学校に通わせてくれるから。ロクサス卿に贈られた指輪があるから。大きな粒のダイヤに、ルビーのついた婚約指輪。ロクサス卿を信じるのって簡単。態度に言動、彼は嘘をつけない。