【幕間】 真冬の過去の夢
寒さで眠りが浅い。
甘い薔薇の匂いがする——……。
好きに、自由に生きろ——……。
★
【十数年前】
アルタイル城の小庭園。フローラ伯爵令嬢は、俺に大粒の涙を見せた。まるで、流星群のように、彼女の涙が地面へ吸い込まれていく。
「お願い、ユース。私、このままでは結婚させられてしまいます」
彼女に似合う白い薔薇を、ダークブランドの髪に飾り、そっと撫でたい。俺は拳を握り、顔の筋肉に力を入れた。
「いや、おめでとうフローラ。噂で聞いた。グラフトン公爵の甥だろう?」
彼女との年の差二十歳。あの男はロリコンクソ野郎。絶対に結婚させるか。
「おめでとう……?」
「まさか、君、おとぎ話みたいに逃げようって言われるのを期待していた?」
吐き気に胸痛を抑えて笑う。フローラの顔がみるみる青ざめていった。
「ねえ、ユース! エイブ・グラフトンよ! よりにもよって!」
悲痛、というようにフローラが叫ぶ。隠し通路から続く、この秘密の庭園で、彼女の涙や悲鳴を聞く者はいない。俺以外には。
「そりゃあ可哀想だけど、相手が悪い。君を足掛かりに後ろ盾を得るつもりだったのに……」
背を向ける時、身が引き裂かれたような錯覚がした。
「待って……ユース……」
消えそうな声に、思わず振り返る。手を伸ばして、手を繋ぎ、そのままこの城を、王都を出てしまいたい。しかし、俺は一生この国へ何もかもを捧げる。そう自分に誓っている。
「温室育ちの俺達が、手を取り合って逃げて、幸せになれると思うか? 世の中はある意味不公平だ。政略結婚させられるのは、贅沢の代わりさ」
伸びてきた手を振り払う。白くて滑らか、ささくれ一つない手に触れた時、火傷したような痛みを感じた。手も、胸も、ジンジンと熱で膿んだみたい。この手があれば、俺は何も要らない。底辺暮らしだって良い。しかし、彼女にそんな人生を歩ませたくない。俺も自分への誓いを果たせない。
数日後、フローラは宰相になったカンタベリ公爵の息子、レグルス・カンタベリと婚約。俺とフローラの幼馴染。俺の乳兄弟。手を回したことを、レグルスやフローラに悟られないようにするのには苦労した。何処からか何か勘付かれたのか、別件なのか、代わり、というように、俺はルクス領地の国境線戦へと出征させられた。
★
【数年前】
急遽駆け込んだ教会の一室。今夜は凍えそうな程に寒い。マリーに掛けられるものは、薄い毛布と自分の上着しかない。
「マリー、すまない……」
短くなってしまった髪を、そっと撫でる。それから、彼女に額にキスをした。まるで、死体とのキスのように冷たい。彼女の体は氷のよう。それに赤い斑点。多分、もう手遅れ。
「ねえ、フェンリス……。何故、貴方が謝るの?」
鎖骨が浮かび上がり、頬もこけてしまった。握りしめている手もまるで骸骨。二ヶ月で人はこんなにも変わってしまうものなのか。
「忙しくて様子を見に来られなくて、悪かった」
「自業自得よ……。貴方を信じられなかったから……」
首を横に振ると、マリーは力無く笑った。
「今からでも間に合う。絶対に守るから……」
「ダメよ……立派な王子様には……素敵な……。ふふっ、さっき裏路地に現れた時、天国かと思った。ううん……天使ね……。さよならを言うためよ、きっと。運命的よね……見つけてくれてありがとう……」
市民の動向を様子見するのに、偽名で王都の一部の通りに出入りするうちに、勝ち気な娼婦と親しくなった。頭の回転が良くて話し上手。生まれが違っていたら、マリーは社交界で大輪の花を咲かせただろう。フローラへの初恋が破れて傷ついていたせいなのか、マリーの魅力そのものに強く惹かれたのか、今でも分からない。妻は無理でも、どうにか城へと思ったが、身分を明かしたら強く拒否された。
秘密の逢瀬。それで十分だと、俺も彼女もそんな判断をしなければ良かった。現実は無情。職業病、婦女暴行、そして私の不在と、立て続けに彼女は不幸に襲われて、仕事が出来なった。髪を売り、歯を売り、それでも金が無くなって浮浪者の仲間入り。家の無い病人が、冬を越せるような国では無い。視野を広げろという名目で、政敵にしばらく王都から追い出されていた。短期間で、こんな悲惨な事になるなんて……。
「髪……売らなければ良かった……。いつも褒めてくれて……」
「いいや、好きだ。短いのも可愛い。見たかったから嬉しい。なあ、マリー……」
「ありがとう……。お願いだから……触らないで……」
お別れのキス。最後くらい、そう思ったのにまた拒否。「娼婦じゃなければ良かった。そうしたら、隠れてコソコソしながらでも、腕の中に飛び込める」それが、マリーの拒絶文句だった。嘘なのか、本心なのか、遠慮なのか、卑下なのか、確かめる勇気はいつも無かった。
それきり、彼女は眠りについて、無縁墓地へ埋葬された。
娼婦なのに抱くことを許してくれなかった、それどころかキスすらさせてくれない恋人だった。でも、人生で恋人と呼んだのはマリーだけだ。
愛した人の残したのは、小さな女の子。知らない男の子供だけど、マリーの宝物。当時の俺に、引き取る権力なんて無かった。
★
【夢から覚めた日、職人通り】
アルタイル城下街、小さなパン屋ハーメニー。職人通りにあるそこは、そこそこ繁盛している。切り盛りしているのは店主夫婦。最近の朝は、アルバイトのコゼットが通りに出て、パンを売り捌く。亜麻色の髪をおさげにしたコゼットは、今日も笑顔を振りまいて、焼きたてのパンを売る。彼女の隣には小さなテーブル。お金を入れる箱と、本日のスープと書いてある紙と鍋。
「おはようございます! 今日のお買い得品は新作のふわふわミルクパンです! お妃エトワール様が好むというパンを再現しました!」
行き交う人々に、小さく切ったパンを配り、食べさせ、購買意欲を掻き立てる。市民の味方エトワール妃を宣伝文句にして、さらにお買い得宣言。人気の新作を、ほんの僅かに値下げしたのだろう。香ばしい匂いは食欲を唆る。忙しい朝に、店に入らないでその場でサッと買えるし、愛嬌のある可愛い女の子が売り子。「買います、買います」とパンは飛ぶように売れていく。ハーメニーパン屋の経営者夫婦は、賢い商売人だ。
「おはようコゼット。俺にも一つ」
「あら、フローズさん。お久し振りですね。貴方のその体、一つで足ります?」
銅貨を差し出すと、コゼットはトングでパンを渡してきた。テーブルの上の鍋を手で示される。商売だと分かっているのに、悪戯っぽい表情は憎めない。小生意気だけど、可愛らしい。瞳が大きくて、白目が小さいので、小動物みたいだから、庇護欲を掻き立てられるからだろう。私の場合、そこにマリーの存在が乗っかっている。
「弁当箱を忘れたからスープは買えない」
なので、買うパンを増やそう。そう言う前に、コゼットが口を開いた。
「そんな貴方には、何と、店内飲食サービスが出来ました。三名様までですよ」
満面の笑顔で、店内を示される。
「相変わらず商売上手だな、リトルオーナー」
「褒めてくれて、ありがとうございます」
「実は腹が減っていない。今日はパンだけで良い」
「それは残念です。でも、いつでもどうぞ」
そう言うと、コゼットはもう私に興味がないというように、次の客を接客し始めた。購入したパンを頬張りながら、彼女から離れる。酒場の前に置いてある樽に腰掛けて、ぼんやりとコゼットを眺めた。十四歳になるコゼット・バルジャンは、マリーの生き写しみたいだ。日に日にマリーに似ていく。朝はパン屋でアルバイト。昼間は養父母が営む帽子屋の手伝い。夜も多分、帽子作りを手伝っているだろう。貧しいけれど、食うには困っていなさそうな暮らしぶり。学校には通えないけれど、養父母の帽子屋を継げるだろう。
掻っ攫って、王宮侍女にするのは、躊躇われる。コゼットが孤児院へ預けられた時、私は肩身の狭い立場で身動きが取れなかった。何処かの貴族の養女にしてやりたかったけれど、手を回せず、コゼットは子を亡くしたバルジャン帽子屋の養女となった。不幸ではなさそうだと、そのまま見守ってした。今なら色々してやれるのに、その必要は無さそうに思える。バルジャン一家は幸せそうな一般市民。九年間、ずっとそう見える。
「久し振りだなフローズ」
「ああ、ジル。少々忙しくてさ」
声を掛けてきた巡回騎士ジルの手にも、ハーメニーパン屋の新作ふわふわミルクパン。この下っ端騎士は、何年経っても私の正体に気が付かない。丸メガネだし、帽子や服装も市民丸出しだが、彼は王子護衛をしたことがある。それなのに、だ。私としては助かるが、騎士の教育不足には頭を悩まされる。今日も、護衛を振り切れたこともそう。
「聞いたか? あのクラリス、結婚だと。何でも超玉の輿らしい」
ブホッ。私は思わず頬張っていたパンを噴き出しそうになった。
「玉の輿?」
「通い詰めていた子爵に口説き落とされたらしい」
「ふーん……」
酒場の踊り子クラリスは、私の遊び相手の一人。私の他に数人の男がいる。
「ふーんって悔しくないのか? お前の恋人だろう? そのうち結婚するつもりだろうと思っていたけど違うのか?」
恋人ではない。何度か遊んだだけ。向こうもそう。いや、クラリスは「将来は医者のフローズ」を自分の男達の最上位に置いていた。フローズといつか結婚すると、吹聴して周りから囲おうとしていたのだろう。しかし、子爵が現れたのでポイっと、フローズをナンバーワンから蹴落とした。そんなところだろう。
「求めれば壊れる。欲すれば失う。人生とはそんなものさ」
「まーたそんなことを。いくら、その歳になっても試験に受からない貧乏医学浪人生でもなあ、こう、何だ? 恋人を横取りされて試合放棄っていうのも……」
バシンッと背中を叩かれて、私は苦笑いを浮かべた。それが「恋人にポイ捨てされたフローズ」に相応しい態度。
「ん? あれ、王室の馬車だよな? 朝早くに職人通りなんかに何だ?」
ジルの言葉と視線で確認をすると、確かに王室の馬車が職人通りの手前に止まっている。扉を開いたのが女騎士ミネーヴァで、誰が登場するのか直ぐに分かった。女騎士が護衛に付くのは、今この国には一人しかいない。私の可愛い義妹エトワール。
「嘘だろう? おい、あれ、エトワール様じゃないか?」
「俺に聞かれても、お妃様なんて噂でしか知らない」
「あの馬車、それに女騎士は妃付き。絶対にそうだ。俺も式典で遠くから見たことしかないけど、うおっ……」
ジルがうっとり、というように鼻の下を伸ばした。まあ、気持ちは分かる。彼女はかなりの美人だ。質素な灰色のドレスや帽子は、病院慰問用の服。白いエプロンといい、馬車と女騎士がなければ、妃とはバレないだろう。
しかし、まあ、実に優雅かつ可憐。流石、私が選んだ教育係に厳しく鍛えさせただけある。普段は貴族に囲まれていて消えているけれど、こうして庶民の中に混じると彼女の存在感は半端ない。あっ、転んだ。正確には転びそうになり、騎士ミネーヴァに助けられた。あの転び癖は本当に直して欲しい。
「エトワール様が職人通りなんかに何の用だ? しかもこんな早朝に。格好はお忍びだけど、王室馬車だし、堂々としているな」
「さあ?」
それは私こそ知りたい。エトワールは時折想像もつかない行動に出る。嫌な予感がした。