蛇の生殺しは人を咬む
とある日。レティア姫が夫ユース王子に胸を触られて、彼を突き飛ばした日から約数週間後のこと。
レティア姫はカール令嬢とアリス、オリビアの4人で巷で噂の「ふわふわパンケーキ」を食べに、お忍びで城下街のとあるカフェを訪れていた。
秋の薔薇が咲く庭が見える個室。まばらな雲しかない青空に美しい庭園を眺めながらスイーツを口にする予定。
レティア姫はアリスとオリビアを待ちながら窓の外をぼんやりと見つめ、小さなため息吐いた。
「レティア様。ここのところため息が多いですが何か困り事でも?」
ハーブティーを飲みながら、カール令嬢が尋ねる。
「えっ? ため息が多いです? それはすみません」
「謝ることではありませんよ。私には相談しにくい事です?」
「いえ、あの。大した事ではないのです。そんなにため息が増えていたなんて……。最近、ユース様はお忙しいようで、その、あまり話しをしていなくて……」
レティア姫が俯きそうになると、カール令嬢はニコリと微笑んだ。
「寂しいのですね。本人に寂しいと伝えれば解決ですよ」
この発言に、レティア姫は顔をしかめ、首を小さく横に振った。
「いえ。あの、私が照れ屋過ぎて……。傷つけたか怒らせたかもしれなくて……」
膝の上で重ねた手を握り締めると、レティア姫は苦笑いを浮かべた。
「それなのに優しく笑って、気にしていないよという態度で、距離を保ってくれているユース様に……」
レティア姫は込み上げてくる涙を堪えようと、唇をキュッと結び、目に力を入れた。
「寂しいなんて言えない? どうせユース王子ならそのお気持ちを見抜いてます。傷つけたなんて、大して気にしていませんよ。私にこの店の予約をさせ、アリスやオリビアに声を掛けるなど、少々解決法を間違えていますけど」
カール令嬢はティーカップを置き、ジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、レティア姫へと差し出した。
「ユース様がこの店の予約を?」
レティア姫は感謝の言葉を告げてから、ハンカチを受け取った。
「もちろん、レティア様がここのところ元気がないので、私もお誘いしようとは思っていました。傷つけたか怒らせたと不安なら、何か贈って謝ってみてはどうです? 相手が気にしていないようだから戸惑って日にちが過ぎてしまったのですよね?」
「はい! そうなのです。それで皆でパンケーキを食べたら買い物に行きたいと思っています。ただ、何を買えば良いのか分からず……。物で済ませるのもどうなのかと……」
大丈夫、というように歯を見せて笑うカール令嬢に、レティア姫は小さな笑みを返した。
「クヨクヨしているよりも行動ですね」
「ええ、そうです」
「そうですお姉様! 作戦を考えましょう」
「オリビア、カール様に任せれば大丈夫だからやめようよ」
背後からアリスとオリビアの声がして、レティア姫は振り向いた。レティア姫の護衛騎士団員の1人、サー・マルクがアリスとオリビアの後ろに控えている。
「ご苦労マルク。下がって扉前で……」
「サー・マルク! そうですサー・マルク。男性として、少々意見をいただけますか?」
立ち上がったレティア姫がカール令嬢の台詞を遮る。サー・マルクはわりとつぶらな瞳をまん丸にした。
過去にレティア姫を通り魔から救出したことのある近衛騎士は、レティア姫にとても信頼されている。
本人は、主の真っ直ぐな信頼の瞳を少々苦手にしている。まるで宝石のように煌く瞳に滲む好意が「恋慕」ではないと理解していても、うっかり勘違いしそうになる上に、可憐な笑顔に惚けてしまいそうになるからだ。
日に焼けた頬は赤らんでも分かりにくい。しかし、つい泳ぐ視線は誤魔化せない。
だがレティア姫は鈍感なので、この彷徨う視線を「迷惑」だと捉えた。
「すみません突然。何のことか分かりませんよね? それに勤務中に、私的な相談など……」
「マルク、この店の店員からディナーで良く出るワイン、女性客が好むワインを聞いてこい。それから1、2時間後にレティア様がそれなりの酒屋へ買い物に行けるように手配しろ。その酒屋で人気のワインと女性にオススメのワインを聞いておけ。上官に私から命じられたと伝えてからだ」
サー・マルクは「かしこまりました」と返事をして会釈をして部屋から退室。
「カールさん?」
「相変わらず命令に慣れないようですね。それに可愛い笑顔を振り撒くとやきもち焼きの夫が拗ねますよ。2人で晩酌。酔ったふりか、本当に酔って甘えれば満点。さあさあ、早くパンケーキを選びましょう! 私は我慢の限界です!」
カール令嬢はアリスとオリビアを手招きして、テーブル上に置いてある2つのメニュー表を手に取った。そのうち片方のメニュー表を開いてレティア姫へと差し出す。
「ユース様は嫉妬で拗ねたりなんてしません。可愛い笑顔とはありがとうございます」
メニュー表を受け取ると、レティア姫は着席した。レティア姫の左右の席にアリスとオリビアも座る。
「お世辞ではないですよ。恩人のサー・マルクが大好きだと顔に描いてあります。みっともなく鼻の下を伸ばして惚けていたので、後で根性を叩き直しておきます」
「まあ、そのような言い掛かり……」
「カール様、ユース様は嫉妬深いのですか?」
「拗ねるって、あのユース様がですか?」
アリスとオリビアが興味津々という表情でカール令嬢へ上半身を近づける。
「男は見栄を張る生き物。よってレティア様は知らない姿だ。可愛がられている小娘達も知るべきではない。そんなことよりパンケーキだ。成長期なので3種類選べ。私のと合わせて3人で4種類をシェアだ」
カール令嬢が早く選べとメニュー表をアリスとオリビアへ見せる。
(なんだかカールさんの方がユース様を分かってそう……)
「レティア様、私が見られる世界と貴女様が見られる世界が違うだけです。買うワインは貴女様が選んでこそ価値が生まれるというだけです。他の物でも良いのです。ただ、酔ったら甘え下手なレティア様も甘え易くなると思いました」
「私が選ぶと?」
甘え下手という自覚はあるので、レティア姫はそのことについては何も口にしなかった。
「そりゃあそうですよ。私だってレティア様に贈られたワインと、父上から贈られるワインでは嬉しさが違います」
サラッと告げると、カール令嬢はアリスとオリビアに「どのパンケーキにする」と選択を急かし始め、更にはレティア姫にも早く注文したいと言い出した。
☆★ その日の夜 ☆★
レティア姫は昼間購入したワインボトルの入った袋を背中側に持ち、夫ユース宰相の背後をなるべく足音を立てないようにちょろちょろしている。
(ユース様は今夜も忙しそう。晩酌しましょうって雰囲気ではないけれど、せっかく買ったし……。最近ずっとろくに話もしていないし……)
対するユース宰相は妻の気配に気がついていないフリをして、書類修正に勤しんでいる。
(レティア、19日目にしてついに我慢出来なくなったか。私はとっくに限界なのに、遅かったな)
うーむ、と仕事で悩んでいる風の声を出すと、ユース宰相は頬杖をついた。
右手で持っている万年筆の先をインクの容器の縁に軽く当てる。
レティア姫がそろそろとユース宰相へ近寄る。しかし後一歩というところで遠ざかった。
(お仕事の邪魔は良くないわ。終わるまで待っていよう)
レティア姫はソファへ移動して腰掛けた。手に持っていた紙袋を隣に置いて俯く。
(待つよりも私も働くべきね。カールさんの言う通りユース様は気にしていないわ。心が広くて察し上手だもの。自分が寂しいからって仕事の邪魔は良くない。寂しいのは暇だからよ。暇なのはやるべき事を蔑ろにしている証拠ね)
よしっ! とレティア姫は立ち上がった。
「ユース様、先日はすみませんでした。その、あの、突き飛ばしたりなんかして。お詫びと思って用意したので、良かったらこちらを受け取って欲しいです」
ユース宰相は、ん? と小首を傾げながらレティア姫の方へ体を向けた。続けて彼女がテーブルに置いたワインボトルに視線を移動。
「黄昏国の収穫祭で披露する演奏と歌の練習をしてきます。毎晩大変そうですが、たまには息抜きをしたりご自愛下さい」
会釈をすると、レティア姫は部屋の隅に置いてあるベビーハープのケースを手に取って、脱兎の如く部屋から逃亡。
(あれっ? なぜ逃げる?)
今夜こそ「レティア、寂しいの」と妻に甘えられると期待したユース宰相はガックリと肩を落とした。
立ち上がり、テーブルへと近寄りレティア姫が置いていったワインボトルを手に取る。
(ご機嫌取りにワインとはカールの入れ知恵だよな? 酔って甘えてみればとかそんな事を言っただろうに、なぜ逃げた)
ユース宰相は髪を掻き、小さなため息を吐いた。
☆★
レティア姫は城内小庭園の一つ、さえずりの庭で2時間程ベビーハープの演奏と歌の練習をすると部屋へ戻った。
「おかえりレティア」
机に向かっていたユース宰相が座ったまま書類片手に声を掛ける。彼は(さあ甘えてこい)と柔らかく微笑んだ。
「まあユース様、まだお仕事をしていたのですね。睡眠不足で体調を壊しては困ります。そろそろ寝ませんか?」
妻のこの発言と久々の困り顔ではない笑顔に、ユース宰相は(よっしゃあ、ついに来た!)と書類を机に置いた。
「ああ、そうだな。そうしよう」
「ユース様はちっとも眠くなさそうですね。私は体力が足りないのか眠くて仕方ないです。この国にもミラ姫の顔にも泥を塗るので失敗できません。もっと練習出来る様に明日から運動時間を増やそうと思います」
生あくびをすると、レティア姫は「おやすみなさい」と先に寝室へ消えた。彼女はすっかり「もっと働かないといけないモード」になっている。
ユース宰相は慌ててレティア姫の後を追いかけた。布団に潜り込もうとしたレティア姫の横に立つ。
「レティア、君は昼間だけで十分励んでいる」
「まさか。今日なんて呑気に美味しいパンケーキを食べて……。ああ、ユース様が気を回してくださったそうで。ありがとうございます」
ニコリと笑ったレティア姫に、ユース宰相はしかめっ面を返した。
「ユース様?」
「それは君が自分で自分を休ませたり、甘やかすのが下手だからだ」
レティア姫も眉間に皺を作った。
「それはユース様です。ここのところずっと書類と睨めっこ。顔色は悪くないですが……」
突然両手を取られたので、レティア姫は言葉を切った。
「私は毎晩君が後ろから抱きついてくれないか待ってただけ。寂しがらせたら甘えてこないかなって。なのに君と来たらちっともだ。毎日毎日何か仕事を探してさ。今夜はハープの練習か。あーあ、なんて冷たい」
両手を両手で包まれて、レティア姫の体温は急上昇。彼女はカチンと固まった。
「どこで練習していたんだ? 護衛に聞けば分かるか。体を冷やすと風邪を引く」
ユース宰相は「レティアに甘えてもらう作戦」を放棄し、ベッドに腰掛けてレティア姫を抱きしめた。
「あ、あの。ユース様……」
「ん? はあ。ほっぺたもこんなに冷たい」
頬にキスされて、レティア姫は体を竦めた。久しぶりの甘い雰囲気に戸惑い、照れ、動けない。
「お詫びにワインって、突き飛ばされたのは私が君のペースに足並みを揃えられなかっただけだろう? 私が謝り、君は許してくれた。なのにお詫びってどうした? まあよく分からないがせっかくなのでもらっておくよ」
頬を寄せられ、レティア姫はますます固まった。
(素っ気無くしていたら何かしてくれると思ったけどワインを渡されて終わりは予想外だ。恥ずかしがり屋の甘え下手から私の望む事をしてもらうのは難しいか)
頬ずりしたり、首や耳に軽いキスをして久々の妻を堪能しながら(固まってて反応が無いな)とユース宰相は心の中で大きなため息を吐いた。
「おや、お休みなさいませ……」
恥ずかしい、とレティア姫はユース宰相の胸を押して体を離した。更にいそいそと布団に潜り込んで体を丸める。
(久しぶりに触られたから恥ずかしい……)
(せっかく慣らしたのに元に戻ってしまったな。それにしてもレティアのスイッチの入れ方が未だに分からない)
互いに背中を向けて横になった夫婦は、小一時間伴侶の気配にそわそわしながら、眠りについた。
☆★ 1ヶ月後 ☆★
ユース宰相の我慢は限界に達しそうである。レティア姫から甘えてもらう作戦として、自分からあまり近寄らないようにしていたが、効果ゼロ。
一方のレティア姫はというと、突き飛ばしたことに対して夫が怒っていたり、拗ねていないと判断したので平常運転。
ここ数ヶ月よりも随分とスキンシップが減ったことを「自分のペース、牛歩に合わせてくれている」と胸をポカポカさせていた。
ソファに並んで座り、それぞれ読書中。就寝前の息抜き時間。レティア姫が最近お気に入りなのは煌国の小説「月の姫」である。
ユース宰相が今夜選んだ本は「囚われの青薔薇姫は溺愛される」だ。最近発売した最新刊第5巻である。
(最早私達の話とはまったく別作品だな。なぜレティアがあの男に囚われて口説かれ続ける話を読まなければならない)
現実でも恋敵である「ルイ・メルダエルダ」という登場人物の小説内での行動に、ユース宰相はイライラしている。
アルタイル王族には重婚が認められている。婿のユース宰相とは異なりレティア姫は望めば数多の恋をし、数多の夫を得ることが可能な立場。なので、結婚したからと言ってユース宰相の気が休まる日はない。
そもそもまだ諸外国に対しては「婚約」と発表されている2人。余計に気は休まらない。
(人気次第で相手役が入れ替わるのか? そうしたら出版社に抗議してやる。だいたいあの男はいつ諦める。今月もまた来訪してくるし、本当に目障りだ)
隣で不機嫌な夫の様子や、その心境なんてつゆ知らず、レティア姫は「月夜のかご姫」の内容に涙を滲ませていた。
(切ない。切ないわ。初恋と親孝行の板挟みなんて……)
ハンカチで涙を拭うと、レティア姫は小さく息を吐いた。
(失恋とはとても辛いものですし……。かご姫可哀想……)
「レティア? 泣いたりしてどうした? その本は悲しい話なのか?」
「ええユース様。まだ半分読み進めたところなのですが……」
レティア姫は軽く「月夜のかご姫」のあらすじを説明した。
とある月夜、竹林に籠に入れられて捨てられていた赤子がいた。その「かご姫」は拾ってくれた老夫婦、幼馴染み達と生活していたが、城へ召し上げられることになった。義父の出世も絡む奉公である。
レティア姫がカール令嬢のツテで手に入れた、アルタイル王国より東の地、煌国辺りに古くから伝わる書籍の序章の終わりはそのようなあらましだ。
「想いを押し殺し、相手のために突き放して去るなんて辛くてならないでしょう」
「ふーん。そう。ロクサスと自分に重ねたってこと」
ユース宰相があまりにも冷えた声を出したので、レティア姫は驚き、目を丸めて隣に座る夫の顔を覗き込んだ。ユース宰相はすごぶる不機嫌そうな表情である。
「まさか。あの、ユース様?」
「いや、別に。いや、別にではない。気にしない涼しい顔も出来るが、私は君のことだと心が狭くなる。本に夢中も良いが、たまには私に夢中になってくれる気はないか? ほら」
待っていても無駄。ユース宰相はそう判断して本をテーブルへ置き、両腕を軽く広げた。
レティア姫がおずおずとユース宰相に身を寄せ、そっと体を預ける。
「いや、そうじゃなくて」
「へっ? あの、そうじゃなくて?」
顔を上げたレティア姫に覆いかぶさると、ユース宰相は彼女をソファの上へ押し倒した。
身を竦め、顔を紅葉のように真っ赤に染めたレティア姫の視線が泳ぐ。
「これだといつもと同じだろう?」
そう告げると、ユース宰相はレティア姫の体を持ち上げて体を反転させた。2人の体勢が逆転。レティア姫がユース宰相の上に乗る形になった。
「私は君だけのものだからな。ほら、好きにすると良い。練習、練習」
待っていても甘えてこないなら、そういう状況を作るだけ。
ユース宰相はその結論に至って目を瞑った訳であるが、この作戦は彼の期待を裏切り、夫婦喧嘩の火種になることになる。
「練習……?」
レティア姫の声が低かったので、ユース宰相は目を開いた。彼女はしかめっ面をしている。
「レティア?」
「そうでございますね! 私はいっぱいいっぱいなのに、ユース様は平気で、ちっとも緊張なんてしなくて……」
ペシン、とレティア姫の右掌がユース宰相の胸を叩いた。
「私には一つ一つが忘れられない思い出で、こんなに緊張したり、恥ずかしくてならないというのに……。ユース様からしたら単なる揶揄いとか遊びですものね!」
(えっ。何かスイッチが入ったというか入れてしまった……? 何故怒る。この可愛げのない顔は見たくないのだが……)
目を釣り上げたレティア姫はユース宰相の上から降り、更にソファから床へと降りてスッと立ち上がった。
「寂しがらせたら……。ユース様は平然としていられるからですよね。嫉妬したというように見せたり、心にもないことは言わなくて構いません」
プイッとそっぽを向くと、レティア姫は部屋から飛び出してしまった。
(うげっ。この時間に出て行くとは、エトワールかカールのところに籠城か? エトワールならともかくカールだとなんか面倒な予感……)
ユース宰相は慌ててレティア姫の後を追った。ところが、廊下で彼女を慕う蛇達、セルペンスに阻まれてしまった。
両足に何匹ものセルペンスに絡まれて、ユース宰相は途方に暮れた。そのうちセルペンス達はユース宰相のズボンを咥えて引っ張り始め、彼は部屋へと逆戻り。
ユース宰相は(この蛇達がレティアの後押しなら、顔を見たくない、会いたくないってことだよな)とソファに突っ伏し、死んだ魚のような目で落ち込み続けた。
(甘えてくるレティアを堪能して癒されたかったのに、何故こうなる)
ユース宰相の作戦失敗の理由はレティア姫が最近愛読している「月夜のかご姫」であった。
初恋を諦め、愛情深く育ててくれた父母のために帝の側室が暮らす夕顔の局へ奉公することを決意したかご姫と、幼なじみえい太の別れ話のシーン。
かご姫に強く迫り愛を語り、全力で説得するえい太。身を引きちぎるような思いでそれを振り払うかご姫。そういう内容。
そう、レティア姫はユース宰相にもそのように愛情を示されたい気分だったのだ。
レティア姫のペースに合わせるのは少々辛くて寂しい。嫉妬する姿を見せる。我慢出来ないというように自分に迫ってくる。
それが全部演技で、本心ではないことに傷ついた上に「練習」と告げられ、夫は今まで何人もの女性と「練習」していたという事実を思い出してヤキモチで憤慨。という流れである。
そのことにユース宰相は気が付きはしたが(私に夢中になって欲しかった。それは分かる。しかし私だってレティアに迫られたい……。照れだと分かっていても、また突き飛ばされたらと思うと自分からは辛い……)と拗ねた。
というより、胸を触ったら思いっきり拒絶されて突き飛ばされてからというもの、拗ね続けている。
先月、唇にキスしようとしたら押し返されたので尚更。
☆★
さて、レティア姫が逃げた先はユース宰相の予想通りでカール令嬢の元である。
彼女はカール令嬢の部屋に萎れ顔で来訪。
「レティア様、就寝時間にどうされました? そのように悲しそうなお顔で、ユース王子と喧嘩でも?」
部屋に招かれながら、レティア姫はコクンと頷いた。扉が閉まり、2人で並んでソファに座るとポソポソと事情を説明。
「つまり、痴話喧嘩ですか」
カール令嬢は呆れ顔で立ち上がり、レティア姫の両手を取った。
「ユース王子のことですから今頃落ち込んでいますよ。ほらほら、戻りましょう」
「ユース様が落ち込むだなんて……」
「賭けます? レティア様しか開けない蛇の隠し通路から覗いてみましょう。私が勝ったら白銀月国からの招待を受けてもらいます」
「カールさん、それはミラ姫と一緒に参加する予定の……」
「そうです。断固拒否して他の予定を入れようと画策しているユース王子を説得してもらいます」
手を引かれ、立たされたレティア姫は目を丸めた。
「大蛇連合国の社交場は政治経済だけでなく縁談の宝庫。行かせたくないようですよ」
ニヤリ、と笑うとカール令嬢はレティア姫の背後に回り、彼女の背中を押した。
「縁談の宝庫だなんて、私は……」
「ミラ姫に会えるからですよね? ですから私は是非白銀月国へ行っていただきたいです。一緒に観光もしたいですし、あの国で少々野暮用もありまして」
「はい。私のその目的はユース様も分かっていることで……」
「女心と秋の空。人の気持ちというのは雲のように形を変えるものです」
「まさか。ユース様がそのような心配をするだなんてあり得ません。ユース様は私を……。私よりもそんなに……」
レティア姫の情緒不安定の原因は、結局のところ夫であるユース宰相からの愛情と自分のそれの乖離だ。彼女は男心に鈍感であるし、ユース宰相も「妻のことで惚気る情けない姿」は隠している。誤解が生じるのは必然だ。
まあまあ、ほらほら、とカール令嬢に促されてレティア姫は蛇の隠し通路へ移動。
蛇の隠し通路は、レティア姫にしか開けない——正確にはセルペンスにしか開けない——扉から続く城全体に張り巡らされた通路である。
2人はそこを移動して、レティア姫とユース宰相が暮らす部屋の寝室へと出た。確認したので寝室にユース宰相は不在。
ほら、と促されてレティア姫は団欒室へ続く扉をそっと開いた。
ユース宰相はソファに腰掛けて、白ワインを飲んでいる。ぼんやりとした顔つきだ。
「晩酌中みたいです。落ち込んでなんていませんね」
「レティア姫は男心に関してはおバカさんですよね。どう見たって落ち込んで酒に逃げているではないですか」
「そうです? ユース様はお酒が好きでよく飲まれます。あのように政策か何かを考えるような表情で」
レティア姫はカール令嬢の「おバカさん」発言をスルーした。彼女にとって気になる発言ではなかったからである。
レティア姫はカール令嬢贔屓だが、その理由はこの友人っぽさ。というより、レティア姫はカール令嬢を側近ではなく友人だと思っている。
「政策ではなくレティア様をどう迎えに行くと貴女様の心を掴めるか考えているのですよ。政治の事だと妖しい笑顔か険しい顔付きです。あっ、今は拗ね顔ですね」
「拗ね顔?」
カール令嬢の顔を見ていたレティア姫は、ユース宰相へ視線を移動させた。
ワイングラスをジト目で見つめている。
「拗ね顔ではなく、やはりお仕事の……」
「このままではレティア様はミラ姫と会えません。私と観光も、ユース王子とのデートもなし。可愛くおねだりしてユース王子から白銀月国行きの確約を取って来て下さい」
「可愛くおねだりだなんて、ユース様は私が何かしたからと考えを変えるような方ではありません。白銀月国からの招待の件は何か思うところがあるのでしょう。カールさんの邪推とは違う政治的な何かが」
はあ、と小さなため息を吐くとレティア姫は俯いてしまった。
ユース宰相の恋敵「大蛇連合国に属するドメキア王国国王宰相ルイ・メルダエルダ」を毎月快く受け入れている夫のことを思い出したからだ。
「レティア、ミラ姫と会いたいの。ユース様と異国の地でデートするのが楽しみ楽しみでしかたなくてカールさんに観光について沢山相談していたの。お願い。お、ね、が、い♡ちゅっ。そんな感じで頼んでくるように」
そう言うと、カール令嬢はレティア姫の寝巻きの襟を掴み、引っ張った。
「カ、カールさん⁈」
「私は白銀月国へ行きたいのです。痴話喧嘩なんてしていないで、とっとと頼んで来て下さい。ほらほら、送るので蛇の隠し通路を開く」
早く早くと急かされてレティア姫は蛇の隠し通路をセルペンスに開けてもらった。
レティア姫はカール令嬢に肩を抱かれ、自身の団欒室前まで移動。
「貴女様のおねだり、色仕掛けで白銀月国行きが決まれば私の勝ち。白銀月国からの招待を拒む理由に政治的な意図は無かったということです。これは賭けですからね」
コン、バーンと扉を開くとカール令嬢はレティア姫の手を引いてツカツカと室内に入った。
「後ろから抱きついておねだりですよ」
カール令嬢はレティア姫の耳元でそう囁くと彼女の近くからサッと離れて部屋を出て、扉を閉めた。
(よし、これでOK。他人の惚気なんて長々と聞いていたくない。それにしても良いタイミングで喧嘩してくれた。これで白銀月国行きは決定。ユース王子に貸し一つ。一昨日父上が持ってきた縁談を潰してもーらお)
ふふん、と鼻歌まじりで部屋へ戻ったカール令嬢の表情は上機嫌。
レティア姫はユース宰相の掌の上のようでその逆。そして、レティア姫を掌の上でコロコロ転がしているのはカール令嬢だったりする。
☆★
物音で振り向いたユース宰相とレティア姫の視線が交差する。
「セルペンスが邪魔するので、今夜はもう会いたくないのかと思ったが、戻ってきてくれて嬉しいよ」
先に口を開いたのはユース宰相である。ワイングラスを片手に困り笑い。空いている手で妻を手招き。
「ユース……様……。追いかけてくれたのですね。セルペンスが邪魔を? ですか……」
レティア姫が自身の体や周りをチェックしたが、セルペンスは1匹もいない。
待っても近寄ってこない妻の様子に、ユース宰相は更にヘソを曲げた。
(なんだ、可愛く甘えて謝るとかかと思ったが違うのか。カールに諭されて寝にきただけか。まあレティアは照れ屋過ぎるからな。それにヤキモチも、私に迫られたいというのも可愛いよなあ。やはり、こちらからしかないか)
決意はしたものの不満。ヤケ酒だ、とユース宰相はワイングラスに口を付けて中身を一気飲み。空いたグラスに手酌で白ワインを注いだ。
(勝手に怒って飛び出したのに追いかけてくれて、笑っておいでって言ってくれた……。後ろから抱きつく……。おねだり……。おねだり? でも賭けって……。白銀月国にも行きたいし……)
素直で単純なレティア姫は、カール令嬢の「ユース王子は今頃落ち込んでいる。拗ねている」を信じた。
手招きされて呼ばれたこともそれを後押ししている。
両手を胸の前で重ねて指を少々弄りながら、レティア姫は悩み続けた。
(抱きついて嫌がられたら……)
そんなの悲しいと涙ぐみ、レティア姫は思い至った。
(私なんてこの間突き飛ばしたわ。今日なんて叩いて……。ユース様も悲しかった? 気にしていないと思ったけど、気にしていた? 叩いたことを謝らないと……)
そろそろと足を動かすと、レティア姫はゴクリと喉を鳴らした。両手をギュッと握り締める。
(いつもならこっちを向いてくれるもの)
『たまには私に夢中になってくれる気はないか?』
その言葉を思い出して、レティア姫は勇気を振り絞った。大きく深呼吸をして、ジワジワユース宰相へ近寄り、そっと両手を伸ばした。
「あの、ユース、ユース様……。叩いたりしてすみませんでした……」
えいっ! とレティア姫は特大の勇気を出してユース宰相の背後から彼の首に腕を回した。ギュッと力を入れる。
(うおっしゃあ! じゃない。カールの入れ知恵だろうな。唆されたというか、利用されたんだな。つまり、あいつに何かさせられるのか。また面倒事を押し付けられるのは御免だ。覗き見しているかもしれない。ここは耐えよう)
デレッと鼻の下を伸ばして、即座にレティア姫の唇にキスしそうになったが、ユース宰相はジッと耐えた。真顔でワインを飲み続ける。
「怒っています?」
レティア姫が心配そうにユース宰相の顔を覗き込む。ユース宰相はチラリと出入り口の扉がピッタリと閉じられていることを確認した。
(ん? いないか? いなそうだな)
「ユース様、すみません。あの、その。他に何をして欲しいですか? その、後ろから抱きついて欲しいのは聞きましたけど、甘えて欲しいとはどのような?」
「んー、別に。君が極度の恥ずかしがり屋なのは分かっている。期待していない。まあ、おいでって手招きしたから隣に来てくれると嬉しいのは分かるよな?」
期待していない。その言葉はレティア姫を戸惑わせた。ユース宰相が振り向いて、頬にキスしようとしてきたので思わず避ける。
(期待していないから、練習なんてふざけた感じで頼んだの?)
(えっ。なぜこの状況で嫌がる。揶揄われた腹いせに、押したり引いたりしてこいってカールに言われたのか?)
やや切なげな表情で見つめ合う2人。レティア姫の頭の中に、彼女の小さな分身が2人登場した。
(避けたりするから悲しそうよ! キスよレティア! 自分からキスするのよ! 心変わりしたのではないかと誤解されるわ!)
(自分からキスなんて無理よ無理! 心臓が口から飛び出してしまうわ!)
攻めぎ合う自分自身にレティア姫が固まっていると、ユース宰相は顔をテーブルの方へ戻して、ポンポンと自身の隣を叩いた。
「喧嘩なんてしたくなかったのに、嫉妬したり、勝手に怒ったりすみません。デ、デート。白銀月国でのデート、楽しみにしています……」
レティア姫は「えいっ」ともう一度ユース宰相に首に腕を回して抱きつき、彼の頬にキスもした。その後バッと離れて小走りでソファの前へ移動。
目を瞑り、勢いのままユース宰相の膝の上に座ると再度首に腕を絡めた。全身を真っ赤に染めて硬直。
(はず、恥ずかしい……)
(白銀月国でのデート? 何故ここでそのような単語……。カールのやつ、白銀月国行きを棄却する予定だと、どこからか嗅ぎつけやがったな。で、今夜のレティアに何か吹き込んだ)
「畜生、何か面倒事を押し付けられる」と内心舌打ちしながらも、ユース宰相は本能に任せてレティア姫の柔らかな肢体を両手で楽しんだ。抱きしめて、腰や背中を撫でる。
「レティア……」
「ユース様……。レティアにはこれが精一杯です……」
恥ずかし過ぎる、とレティア姫はユース宰相の首から腕を離し、胸に手を置いて軽く押した。
「断じて……嫌なのではなくて……。っん……」
唇を唇で塞がれ、レティア姫はユース宰相のシャツを軽く掴んだ。
念願叶ってレティア姫から誘われたユース宰相の理性はヒビ割れ。何度も何度も妻の柔らかな感触や体や髪から香る甘い匂いを堪能した。
ソファにそっと押し倒されると、レティア姫は懸命というようにユース宰相の首へ三度目の腕回し。
更には唇が離れたときに自らキスしにいった。
これによりユース宰相の理性のヒビ割れは更に悪化。
「レティア……。可愛い……。もう一回……」
熱視線に切なげな表情で「んっ」とキスをせがまれ、レティア姫は数分後にユース宰相にチュッと軽くて短いキスをした。
それを合図にユース宰相は少々激しいキスの雨を降らした。
その後レティア姫を熱を帯びた瞳でジィッと見つめ、彼女の頬を撫で、髪をかきあげ、反応や表情を確かめて楽しむ。
「本当に可愛い……。レティア…… もう一回……」
これを何度か繰り返した結果、レティア姫の脳味噌は沸騰。彼女はのぼせてしまい、意識を朦朧とさせてしまい、深夜に医者を呼ぶ大騒ぎとなってしまった。
のぼせた原因がイチャイチャによる緊張と興奮なんて言えばレティア姫の自尊心が傷つくと、ユース宰相は「レティアは1人で長風呂した」という言い訳を用意。
念のために客間で女医とともに寝る事になったレティア姫は侍女達に長扇であおがれながら「やらかした……」と落ち込んだものの、夫が去り際に「君に夢中になり過ぎた。すまない」と耳打ちされて、内心デレデレ、ウキウキ。
時折真っ赤になって、医者や侍女に心配を掛けた。
☆★ この後のユース宰相 ☆★
恥じらいながら、そっとドレスを脱いで、もじもじするレティアは————いやダメだ。
服を着せたい。優しく包み込んで、君が大切だからまだ早いと、真っ赤な頬にキスだけで終わらせよう。
一生の思い出になる素晴らしい結婚式の夜に、愛を囁きながらスマートにリードするのが理想的。
でも今日みたいに、キスのおねだりをされたら——……するな。キスする。ユース様もっと、もっと、もっと、もっと、キスして抱きしめてと甘えられたらやはりドレスを脱いでもらって——……。頭真っ白。
「うわお、鼻血が出た! たらーって多分鼻血! ディオク、ディオク、ハンカチある?」
ベッドに座り、上を向いてディオクをバシバシ叩く。寝巻きなのでポケットにハンカチは入っていない。
薄明かりなので見えないけど、いきなり鼻水は出ないだろうし、匂いが血だ。
これ、やっぱり初夜なんて無理。今夜より過激なキスも怪しい。本人の前で鼻血なんて死ぬ程嫌だ。
「もう何なんだよ! 寝かせてくれよ! 鼻血なんて何を想像したんだよ! 自分の部屋に帰れ」
ディオクはサイドテーブルの引き出しから羊皮紙を出して、私の顔面に押しつけた。
「痛くて固い」
「煩い!」
何度目かの沈黙。羊皮紙をちぎり、垂れてきた鼻の方へ突っ込む。キスの想像で鼻血なんて自分でも情け無い。
寝ないと困るなと目を閉じる。レティアの顔が浮かばないように、羊はやめて、汚い髭面男を想像する。
汚い髭面男が1人、疲れ切ったリチャード兄上が1人? リチャード兄上の髭を剃り、さあ行くぞと言われて……。
家族で散歩ですか? ユース様、後でこっそり2人きりになりませんか? というレティアが1人出てきた。見たことのない水色の爽やかで可憐なワンピース姿で愛くるしい笑顔。
「うわああああ、可愛い————!」
「煩い! いい加減寝ろ!」
このようにユース宰相は義理の弟ディオク王子の部屋で彼の睡眠を妨害。それは空が白むまで続いた。