小忍ばざれば則ち大謀を乱る
かつて、南の地の3人の賢者が、迷える民を励まし、守り、北上し家を与えた。
村はやがて街になり、国となった。
初代国王は、古き聖なる血を引く、風と鷲の神の加護を与えられたウェントス・アルタイル。
ウェントス国王を支える真の友、賢者の末裔ホルミスダス・カンタベリとシンマクス・グラフトン。
レティア姫はアルタイル王国の歴史書を改めて読みながら、小首を傾げた。
ここは馬車の中。向かう先は、アルタイル王国城下街の南東隣、ミモリア街である。
間も無く正午。本日は、まばらな雲しかない青空が広がる快晴で、間も無く秋ではあるが、馬車内は実に心地の良い温度。
「んー、古き聖なる血。南と言えば、南の巨大要塞都市。古き、というのもあの要塞都市が大陸一の歴史を誇るらしいので分かりますが、聖なる血とは何でしょう?」
唇を尖らせると、レティア姫は目で追っていた文字を指でそっとなぞった。
南へ近寄ると、砲撃、銃撃、さらには酸が降り注ぐと言われており、南の国にある巨大要塞都市が存在しているのは、噂なのか真実なのか不明。
少なくとも、レティア姫が知る範囲ではそうだ。
彼女の隣に座るカール令嬢はすーすーと寝息を立てて、あどけない寝顔。
向かい側に腰掛けるユース宰相も、口を半開きにして、船を漕いでいる。
そして、レティア姫といつも共にある鷲蛇セルペンスも彼女の膝の上でトグロを巻き、目を閉じている。
なので、レティア姫の疑問に答える者は、馬車内には誰もいない。
(あら、みんな寝ているのね)
レティア姫は歴史書を閉じて、窓の外をぼんやりと眺めた。
(賢者ホルミスダスが設立したと言われているミモリア教会。楽しみだわ)
微笑みながら、レティア姫は小さく歌い始めた。
セルペンスが日頃から歌え、歌えと頼むので、レティア姫の趣味の1つは歌うことだ。
「くるくる、狂狂、何度も巡る……。あら、この歌。どこで聞いたのかしら?」
首を傾げながら、レティア姫は目を瞑り、身の内側から湧いてくる旋律に、懐かしい言葉を乗せる。
「謝っても許さない……」
うつら、うつら、とレティア姫は眠気に襲われた。瞼も重くなっていく。
「謝らないのも許さない……」
完全に睡魔に飲み込まれると、レティア姫は夢を見た。
懐かしくて、悲しく、熱くて苦しい、そういう夢。
彼女が目を覚ました時、夢の内容は忘却へ霧散し、涙だけが夢が存在したと証明するように、頬を濡らしていた。
「んっ……」
「おはようお姫様」
レティア姫が瞼を開くと、目の前にユース宰相の微笑があった。
(座っているから、まだ馬車の中よね。でも、暗い……)
彼女の濡れた頬を、ユース宰相はそっとハンカチで拭った。
城下街からミモリア街までの移動時間では、昼から夜になんてならない。なのに暗い。何かあった? とレティア姫はまだ眠くて、ぼんやりする意識で考察した。
「ミモリア街に到着し、今は教会内を準備中。悲しい夢を見たようだが、大丈夫か?」
問いかけに。レティア姫は無言でハンカチを受け取り、小さく首を縦に振った。
「どんな夢だったのか、全く覚えていません。なので、平気です」
「馬車は教会脇に停車している。これから君がするべき行動は?」
ユース宰相の骨張った手がレティア姫の頭をそっと撫でた。
「修道女について、控室で身支度をして待機。司教が迎えに来るので祭壇と聖像の間に立つ……」
「その通り。平気は本当そうだな。ははっ、怖い夢で泣いたとは思えない、可愛い寝ぼけ顔だ。もう少し起きろ」
いきなりチュッとキスをされて、レティア姫は背筋をピンと伸ばした。目を丸め、周囲を見渡す。
ユース宰相は馬車の窓の片方を伸ばした腕と、マントで隠している。
反対側は出入口で、そこにある窓には護衛騎士の背中が見えるのみ。
「ユ、ユース、ユース様」
大声を出すと護衛騎士が不審に思って振り返る。レティア姫はそう考えて、ユース宰相の耳に顔を寄せて小さな声を出した。
すると、ユース宰相はこれ幸いにとレティア姫の首筋にキス。
「んっ……」
次はほっぺた。そして、即座に唇。
「ん? もう1回して欲しい?」
ユース宰相は空いている手でレティア姫の頬を包み、鼻と鼻をくっつけたまま。
「もうすでに……。こ、公務中で……んっ……」
「まさか。公務前の休憩時間だ」
「そんなの屁理屈……んんっ……」
レティア姫が両手で胸を押してもユース宰相は引かないどころか、キスを繰り返した。
(こんな強引なの……。ユース様が変……)
護衛騎士が後ろを向いて、窓から馬車内を覗いたら。そう考えるレティア姫にとっては、気が気ではない状況。
キスは嬉しく、反射的に目を瞑ってしまう。しかし、こんなの困るという理性が働くので、手で抵抗し、身も捩る。
「スリルのせいか、凄く可愛い顔。レティアはこういうのも好きか」
パッと体を離すと、ユース宰相はレティア姫の前の椅子の背もたれにしっかりとよりかかり、マントで隠していた窓から腕を離した。
肘掛けに右肘を乗せて、頬杖をつき、不敵な笑顔を浮かべる。
その態度でレティア姫は憤慨し、唇を尖らせ、ツンっとそっぽを向いた。
顔は真っ赤で、少し涙目。
「違います……。こんなの、こんなの見られたら……。ユース様。私の反応を見たくてわざと……」
レティア姫はぶすくれ顔で俯いて、小さな声を出した。更には上目遣いと無言で、ユース宰相に抗議。
眉毛は逆ハの字。明らかに怒っているという表情。
「まさか。見られるはずない」
小さい声を出してから、ユース宰相は左腕を出入口の方へ伸ばした。拳を握り、手の甲側でコンコココン、と少し強めのノック。
「サー・ノヴァ。レティア姫が目を覚ました。扉を開けてくれ」
護衛騎士が返事をして、扉を開く。
「この私が何の根回しもしないと思ったのか? これで少しは緊張がとれるだろう。ユース様のバカって、ため息をついたり、眉尻を下げる。公務だからと必死に笑う。それが、憂いを帯びた微笑みに見えるかもな」
レティア姫の手を取り、馬車の外へとエスコートする途中、ユース宰相はレティア姫にそう耳打ちした。
全てを理解したレティア姫は、それでもユース宰相の思惑通りの表情を作り、無事にミモリア教会で聖女らしい姿を市民に披露した。
☆★
レティア姫がミモリア教会の正十字架に向かって礼拝中。
ユース宰相は司教の隣でキリリと精悍な表情をしていた。
(我慢出来ずにやり過ぎた。だってあの態度に顔は燃えるし、我慢とか無理無理。いじけ顔にもグッときた。可愛いから甘やかしてきたけど、さっきのも良いな。夜も試してみよう)
ユース宰相の心の中の表情は表とは全く異なる。
彼の斜め後方に立つ、近衛騎士ダグラスは、ユース宰相がニヤケ顔をした瞬間に「閣下。虫が」とハンカチで彼の頬と口をパシンと押さえた。
「ありがとうサー・ダグラス。君はいつも気が利く」
「はっ」
ユース宰相はダグラスの真意を読み取り、慌てて笑顔の仮面を被った。
★☆
ミモリア教会で、聖女レティア姫が礼拝を行い、その後市民へ国宝である、奇跡の青薔薇の冠を触れさせてくれる。
街は沸き、教会には市民が押し寄せ、レティア姫のミモリア教会滞在時間は数時間に渡った。
パラパラ、パラパラと空から木の実が降った為、恵の聖女の噂に信憑性が増す。
しかし、いくら神聖視されようと、自らの使命だと公務に励む律儀さや、疲労を見せない気丈さを持ってはいても、彼女も単なる人の子。
成人したての18歳のレティア姫は、約10歳年上のユース宰相の公私混同の作戦に大変ご立腹。
宿泊するホテルの部屋で、ユース宰相に苦言を呈するも、言いくるめられそうになった挙句に、ベランダで迫られたものだから、火に油。
「ユース様の分からず屋!」
そう叫んで部屋を飛び出し、世話役のカール令嬢の元へ一目散。
カール令嬢の世話係、の名の下に今回の祈念に帯同した女学生、レティア姫と共に育ったアリスと彼女の親友にして、元婚約者ロクサス卿妹オリビアに「今夜は3人で寝ましょうね」と微笑みかけた。
ソファで読書をしていたアリスとオリビアは、突然部屋を訪れたレティア姫に、予定より早いと首を傾げた。
レティア姫を部屋に招き入れたカール令嬢は「何か喧嘩か」とすぐに察し「どうせ痴話喧嘩」と結論付け、何も聞かずにソファに腰を下ろした。
それで、読みかけのレティア姫宛ての手紙の検閲という仕事に戻る。
「お姉様、怖いお顔よ。ユース様と何かありました?」
義妹アリスの問いかけに、レティア姫はぶすくれ顔をした。
「そうです。ユース様が少々変なのです」
アリスとオリビアはくっついて座っていたが、間を開けて、レティア姫の手を取った。
着席を促されて、レティア姫はアリスとオリビアの間に腰を落とした。
「少々変? 何があったのですか?」
オリビアの問いかけに、レティア姫は苦笑いを浮かべた。
「その愉快そうな顔。うっかりするところでした。お喋りオリビアには話さないわ。アリスにもね」
「「えー」」
急に部屋へ飛び込んできたのに、とアリスとオリビアが言い返す。
カール令嬢はチラリと3人を見て「楽しそうだから放置」と無視した。
この状況で、姫君への言葉遣いがなってないと注意する程、不躾ではない。
「それより、2人の支度をしましょう。カールさんに予約してもらったレストラン、とっても素敵なテラスがあるのよ」
まずはアリスね、とレティア姫が立ち上がる。
「逆よお姉様。私達、お世話係補佐ですもの。ねっ、オリビア」
「ええ、アリス。クラスメートや友達には秘密のお仕事よ」
アリスとオリビアは顔を見合わせて「ねー」と笑い合い、立ち上がった。
生まれに育ち、見た目も全く違うのに、気の合う双子のような2人に、レティア姫は口元を綻ばせた。
「あら、たまには私もお世話係をしたいの」
3人は鏡台へ移動。レティア姫はまずアリスを鏡台前に座らせた。
「また少し背が伸びて、大人びた顔立ちになったわね、アリス」
「お姉様、さすがに1週間では変わりませんよ。ねえ、オリビア」
「そうですよ、お姉様。この間のピクニックでも同じことを言っていたわ」
クスクス笑われて、レティア姫は頬を染め、はにかみ笑いを浮かべた。
「そう? なんだか年寄りみたいね、私」
クシを手にすると、レティア姫はアリスの暗い落ち葉色の髪をそっと手に取った。
(艶々。良かった。いつも通り、酷い目には合ってなさそう)
ろくでもない親を捨て、血の繋がらない姉と生きる決意をしたアリスは、とある貴族の屋敷で侍女をしながら女学校へ通っている。
正確には預けられて女学校へ通わせてもらっている、だ。
それが「恵の聖女レティア姫」がアルタイル王家に忠誠を誓い、治世に役立つ駒になるための交換条件。
また、アリスが姉と接点を持ち続けられるための条件でもある。
姉の名でのさばらず、大人しく学業に励むのなら、豊かさと教養を与えて、大好きな姉にも会わせる。逆なら親と一蓮托生。
レティア姫の義両親、つまりアリスの両親は田舎へ追放され、爵位を取り上げられ、現在は農作民である。この事実を、レティア姫とアリスは知らない。
両親は、王都へ入れば死罪の烙印まで手首に押されている。
手配したのは全てユース宰相。
彼がまだレティア姫に恋慕を抱いていなかった頃の話しだ。
彼女を婚約者と結婚させてやろうと根回ししていた頃のことでもある。
理由は国の為、敬愛する国王陛下の為。
聖女の衣を着せたレティア姫は、国政に大変有益。婚約者ロクサスは元々目を掛けていた官僚。人質アリスも預け先の動向チェックに使える。便利駒が3体増えた。
それが、元々ユース宰相がレティア姫に対して抱いていた感情。
人は、人と深く関わることで、考え方や接し方が変わる。時に人生を大きく変化させる程に。
(ユース様。陛下や国政が1番大切なのに、全く、どうして見られたら困ることをするのかしら)
ユース宰相に脅されたり、振り回された過去を思い出しながら、レティア姫は小さなため息を吐いた。
(見られないからって、いくら他から見えないベランダだって、外なのに。馬車だって、いくら根回しをしていたって……)
「お、お姉様。また怖いお顔よ」
「えっ? あら嫌だ」
「分かったお姉様。あれでしょう? ユース様が注目の的だったから、ヤキモチね」
「お姉様、旦那様の時もちょこちょこヤキモチ妬いていたものね」
ニヤニヤ笑いを浮かべるアリスとオリビアに、レティア姫は腰に手を当てて抗議した。
「大人を揶揄うんじゃありません」
「ああ、レティア。愛しのレティア。この瞳には君しか映らない。だからこの宝石のような目にも、俺だけを映したい」
「その夜、青薔薇姫の真珠のように白い柔肌に、真紅の薔薇が咲き乱れたのだった」
大袈裟に、歌うように告げると、アリスとオリビアは「きゃあきゃあ」騒ぎ始めた。
この2人は、女学院での演劇発表会が大成功してからというものの、時折演劇風に語り出す。
特にレティア姫を揶揄ったり、楽しませたい時に顕著だ。
「ま、まあ! 2人とも! それは私とユース様の偽小説ですね! 2人の年で、は、はれ、破廉恥な書籍を読んではなりません!」
「破廉恥ってお姉様……。読んだの?」
「読んだの? 私達の歳って、もう13歳よ」
興味津々そうな2人。レティア姫はブンブンと首を横に振った。
「カールさんから報告を受けただけです。読んだのはカールさんです。勿論、彼女が読んだのは仕事の一環ですよ。私や王家の名誉毀損にならないか、内容チェックをしたのです」
「カールさんが破廉恥だと言ったのですか?」
「あのくらいで?」
へえ、とアリスとオリビアがカール令嬢を見る。
とばっちりを受けたカール令嬢は、手紙の検閲作業の手を止めずに、しれっと返答した。
「破廉恥ではなく、レティア様には刺激が強い、と申しました」
「そうよね。お姉様って初心ね。結婚するまでキスもダメってくらいお堅いし」
「お姉様がお兄様と恋人だった時、お兄様も惚気ていました。可憐で働き者。気立てが良くて身持ちが堅い。しかしキスくらいしたいが……。いや、彼女の為だしな。ああ、シャーロッ……」
「オリビア、アリス! レストランへ連れて行きませんよ!」
レティア姫の叱責に、アリスとオリビアは涼しい顔。
「ユース様が迎えに来てくれますもの」
「王子様が迎えに来てくれますもの」
ねー、と顔を見合わせて笑い合う2人に、レティア姫は降参。
「小娘達、楽しむのは良いが、早くしないとレティア様に世話してもらう時間がなくなるぞ」
カール令嬢が告げた時、コンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。
「レティア様、揶揄われるのはその性格と顔に出易いからで、慕われているからです。何があったのか知りませんが、夕食前に仲直りしては? このノック、きっとユース王子ですよ」
カール令嬢は親切心でそう告げたのではない。
(レティア様が妹分達と寝るとなると、絶対にあのバカ王子が面倒なことをする)
という、気持ちからである。勿論、好きな相手と喧嘩をしていても良いことはない、という親切心が無いわけでもない。
「私は居ないと告げて下さい。ユース様に丸め込まれるのは嫌です」
レティア姫はそう言うと、鏡台の下に隠れた。実に子供じみた行動。
しかし、ドレスの裾が丸見え。頭隠して尻隠さずとはこのことである。
(ユース様のキス魔。破廉恥男。慣れてるからって、余裕だからって……)
レティア姫がご機嫌ななめな最大の理由は、結局のところ嫉妬だった。
涼しい顔に慣れた様子で手を出すことや、キッチリ状況把握をしている点などが、レティア姫をモヤモヤ、イライラさせている原因。
まだ悟られていない。しかし、そのうち見抜かれる。
嫉妬心なんてほぼ無さそうな相手に、嫉妬深いと知られる。
今、彼女が嫌がっているのはそれだった。
☆★
レティア姫を迎えに来たのは、カール令嬢の予想通りユース宰相だった。
彼の手には小さな花束が2つと、大きな花束が1つ。
ユース宰相は2つの花束をアリスとオリビアへ渡した。
これは賄賂であるが、レティア姫の宝物を喜ばせるという意味も持つ。
鏡台下に隠れるレティア姫の所まで移動すると、ユース宰相はしゃがんで優しい声をかけた。
すまないと詫びて、レティア姫の背中をそっと撫で、許して欲しいと花束を差し出す。
花束は紫のカンパニュラに、青薔薇姫に因んだ白い薔薇を添えたもの。
カンパニュラは謝罪、9本の薔薇には「いつもあなたを想っています」という意味がある。
以前贈る花に意味を与えておくのは、男の自己満足。という会話をユース宰相として、花言葉の本を読んだレティア姫は、差し出された花束に込められた意味を即座に察した。
嬉しい反面、また慣れているというモヤモヤが彼女を襲う。
そうして、モヤモヤがイライラに変わり、レティア姫の口から「そんなものでは騙されません」という台詞が飛び出した。
ユース宰相が花束を置いて黙って去ると、レティア姫は素直になれば良かったと後悔し、鏡台下に潜り込んでしばらく出てこなかった。
☆★
ユース宰相の近衛騎士、ダグラスの宿泊部屋。
「ユース様、いい加減にして下さい」
2本目のワインボトルを開栓しようとしたユース宰相の手を、ダグラスが止める。
ユース宰相はぶすくれ顔でワインボトルを両手で握り、胸に抱きしめた。
「酒くらい飲ませろ。レティアが妹達とニコニコ食事して、めちゃくちゃ機嫌の良い可愛い姿を眺めて、その後街外れを散歩して……。夜は……」
ユース宰相はテーブルに突っ伏した。
ぶつぶつ「あんな怒り顔辛い……」と繰り返す。
「はいはい。それより夕食に行きませんか? ほら、ユース様の行きつけの酒場。あそこの甘辛鳥は最高で……」
「1人で行けば。なぜ謝罪の花束に怒る。妹達にも用意したのに。そんなものに騙されませんって、どういう意味だ……」
「何をしたのか知りませんが、上辺だけの謝罪だと見抜かれているんでは? 女の勘は鋭いですからね」
はいはい、とダグラスがユース宰相からワインボトルをとりあげる。
「夕食抜きで、万が一倒れたりすると陛下が迷惑しますよ」
「はいはいはーい。食欲なんて無いんだもん。一食くらい減らしても平気なんだもん」
机に突っ伏したまま、ユース宰相は軽く手を挙げた。その手を無理、というように横に振る。
「私は平気ではありません。甘辛鳥と名物看板娘を見たら、食欲も別の欲も出てきますよ」
ほら、行くぞとダグラスはユース宰相の上着を脱がした。
変装用の上着、スカーフ、メガネ、帽子、ズボンと、次々に渡していく。
「名物看板娘……。ああ、あの爆乳の……」
ユース宰相は勢い良く顔を上げた。
「おい、行くか! レティアに捨てられる! 浮気男は嫌いだとゴミを見るような目で捨てられる! 最悪だ!」
「えっ、あの店の爆乳看板娘にも手を出していたんです?」
「ん? おいダグラス、私は恋人や妻以外に自ら手を出したことがない。向こうから寄ってきて進んで皿に乗るから、それならと美味しくいただいてきただけだ。10年以上ずっとそうしてきた。だから手を出してない」
「政治駆け引き、策略や調査に必要があれば、おびき寄せてそう仕向けていたのに、どの口が……」
この台詞のほんの少し前に、コン、バーンと部屋の扉が開かれていた。
近衛騎士ダグラスは素早く立ち上がり、帯刀している剣の柄に手を掛ける。
「あー、タイミングが悪かったようですねレティア様」
訪問者はカール令嬢。そして、その隣にはレティア姫。
ダグラスは即座に着席し、会釈をした。
「ん? レティア?」
護衛とは違い、反応の遅いユース宰相が、ゆっくりと扉の方へ体の向きを変えた。
(……今の会話、聞かれていた? いや、既に知られている話だ。納得してくれるかどうかは分からないが、過去は変えられない。変えられるのは未来だと、そう必死に伝えた)
恐る恐る顔を上げたユース宰相の目に飛び込んできたのは、彼が苦手な愛しのお姫様の小憎たらしい怒り顔。
ムスッと顔をしかめて、眉尻を上げた可愛さのかの字もない上目遣い。いわゆる睨みだ。
「……お休みなさいませユース様。ば、爆乳の方とどうぞ楽しくお過ごし下さい」
かなり棒読みでそう告げると、レティア姫はくるりと体の向きを変えた。
「レティア様、仲直りすると……」
「人の心は縛れない。そう申したのはユース様です。それで、それはもっともな話しです。約束したので信じるだけ。見に行くくらいユース様の自由です」
そう告げると、レティア姫はカール令嬢の腕に手を添えて、歩き出した。
早く立ち去りたい、我慢出来ないというように足早だ。
「レティア。わざわざ許しに来てくれたのか」
ユース宰相は酔いで少々覚束ない足をなるべく早く動かし、レティア姫を追いかけた。
気を利かせたカール令嬢が、サッとレティア姫から離れる。
「嫌がることをして悪かった」
ほら、おいでというように、ユース宰相は素早くレティア姫の腰に手を回し、自分達の客室へと向かった。
廊下で喧嘩するのはみっともないので、レティア姫も素直に従う。
部屋に入ると、ユース宰相はそっとレティア姫を抱きしめた。
「それで、浮気して良いとは傷ついたが、本心か? 逆の立場だと、私は絶対に嫌だが。見に行くだけでもな」
ユース宰相がレティア姫の顔を覗き込むと、彼女はしかめっ面に涙を浮かべていた。
「嘘です。ユース様は私と違ってヤキモチなんて殆ど……。私ももっと広い心を持とうと思いまして……」
「ははっ。顔に無理だと描いてある。レティア、私は君のものだ。この間、沢山伝えたのにもう忘れたのか?」
レティア姫の涙をポケットから出したハンカチで拭いながら、ユース宰相は彼女の頬に軽いキスをした。
「私は?」
レティア姫の不機嫌の理由は、グルグル回って、変化していた。
嫉妬深いと知られるのが嫌、から始まり、もう知られていると落ち着き、ユース宰相は自分を決して縛らず、嫉妬もしないな。という思考に至っていた。
それで、彼女は急に不安になった。
丁寧な謝罪の言葉に、美しい花束を贈られたのに、可愛げのない態度を示して、呆れられ、下手したら嫌われたかもしれないと。
レティア姫は不安で胸が張り裂けそう、というような悲しげな顔で、ポロポロ涙を流した。
(私はって、急にどうした。あれか。前に言った人の心は縛れないって言葉、突き放されたと感じていたのか。何この生き物。可愛い過ぎるんだけど。こういう愛情を求める女は生活の邪魔になるから絶対に関わらなかったのに……。本当、イカれた……。レティアだと滅茶苦茶可愛い……)
即座にレティア姫の涙の理由を考察したユース宰相は、彼女を抱きしめる腕に力を入れた。
「私は? 君の心が私に向いている限り、君は私のものだ」
耳元で欲しい言葉を優しい声で告げられたレティア姫は、ユース宰相のシャツをギュッと掴んだ。
「レティアは……。ばく、にゅうでは……ありませんよ……」
(ヤキモチもか。可愛いなあ。胸の大きさが気になるとか、それも本当に可愛い。なんでも可愛い。いや、冷酷無慈悲な目や怒り顔は嫌だな……。爆乳ではないって、それは分かるが、実際のサイズは知らないしな)
ユース宰相の手は、半ば無意識にレティア姫の胸に伸びていた。
先日、清楚可憐な純情天使の胸はまだ揉まない。我慢する。と決めたのに。
「ひゃっあ……やっ……」
(ん? 今めちゃくちゃ可愛い声がしたな)
ユース宰相は自分の手が何をしたのか認識した。
(思ったよりある? ドレス生地が厚くて邪魔だな。ボタンを外して……っておい!)
ユース宰相が見下ろすと、レティア姫の顔は真っ赤。目を丸めて固まっている。
レティア姫の胸元から、ニュッとセルペンスが頭を出し、ユース宰相をジッと見つめた。
ゴクリ、とユース宰相の喉が鳴る。
(レティアもだが、このセルペンスの様子。続けて良いのか、悪いのか分からない)
ユース宰相の脳内に幻覚レティアがポンポンと現れた。
天真爛漫な笑顔が素敵な純情天使のレティア姫。
少々露出気味の誘惑天使レティア姫。
(ユース様♡ 清楚可憐な純情乙女の私には、まだまだ、おままごとキスだけですよ)
(おこちゃまはもう卒業したのよ。うんと沢山キスしたもの。ねっ、ユース様♡)
(……。おい。両方出てくるな。私のレティアは今、どっちだ?)
2人のレティア姫(幻覚)は顔を見合わせて、冷めた目をした。
((レティアはレティアです。どっちなんてありません。答えを間違えてレティアを傷つけるユース様なんて嫌いです。さようなら、ユース様))
羽の生えた幻覚レティア姫は、2人とも氷のような眼差しを残し、パタパタと飛んでいった。
ちなみに、この思考の間、ユース宰相の手は男の本能に突き動かされて、普通にレティア姫の胸をやわやわと揉みしだいていた。
慣れた様子でレティア姫のドレスの胸元のボタンを外し、生で。
「レティ……」
「ユース様は慣れていて何とも思わないでしょうけど、私にはまだ無理です! すみません、無理です!」
レティア姫は思いっきりユース宰相を突き飛ばした。
彼女は脱兎の如く逃亡。
(む、胸……。胸ってあんなに触られるの⁈ そ、それに、すごく変な声が出た……。あんな変な声嫌がられる……。それに、突き飛ばしちゃった……)
うわああああん、ユース様に呆れられる、最悪嫌われると心の中で嘆きながら、レティア姫はカール令嬢の部屋に飛び込み、ソファに突っ伏した。
しばらくすると、きゃあきゃあ言いながら、足をジタバタ動かし、そのうち惚けた顔で、甘ったるいため息を吐き始めた。
悶えた挙句に惚け始めたレティア姫を、カール令嬢は知らんぷり。触らぬ神に祟りなし、と心の中で呟く。
しかし、2人の妹分はニヤニヤ観察して、何があったかこそこそと妄想話を始めた。
☆★
その頃のユース宰相はというと、自分達の客室に取り残された結果、床に四つん這いになり、雨が降る直前の空くらい、どんよりしていた。
(つい触っていたようだ。そのせいであんまり覚えてない。初めてはもっと楽しく触りたかったのに……。乙女の夢に相応しい甘い幸せな感じを演出するはずが……。その為に、これまでずっと我慢していたのに! キスを一通り教えてからだったのに!)
ゴンゴン、と床に頭をぶつけると、ユース宰相はしばらく動かなかった。
時間は巻き戻せない。やり直せない。とぶつぶつ、ぶつぶつ呟くユース宰相の姿は実に滑稽だったが、幸いその姿を見た者は誰もいない。
思いついた外伝エピソードは一旦ここまでです。あとは他の完結作同様に思いついたおまけ、外伝を、気まぐれ投稿します。
この外伝は3人称の練習も兼ねてみました。(しかし、合っているのか?)
恋物語シリーズの新連載もこれにて未定。感想はもちろん、リクエストもあればお願いしたいです。