純情な乙女心
アルタイル城の地下神殿から続く、海洞窟。そこは、あまりにも幻想的な空間。
大理石のような、それも青と白のマーブル模様の岩が形成する鍾乳洞。
砂浜に底まで見える澄んだ海があるので、レティア姫は海洞窟と命名した。
その海洞窟で、レティア姫は今日も悶々と悩み中。
膝の上には、小説「囚われの青薔薇姫は溺愛される」が置かれている。
(前回は、結婚式前にキスされたところまで……。それも、し……た……)
小説の続きを読んで、大人のキス(ディープキスという名称を知らない)の予習をするか、しないでおくか、レティア姫はグルグル考えている。
——姫、また繁殖期?
レティア姫の肩に乗る鷲蛇セルペンスが、彼女の頬をツンツンと突っついた。
「ち、違うわ!」
——繁殖期はお祭り! 歌って!
海から何匹ものセルペンスが現れ、ワラワラとレティア姫を囲う。
頭の中に響く「繁殖期はお祭り! 歌って」の大合唱に、レティア姫は呆れ顔を浮かべた。
「繁殖期ではありません。ですから、恋……。そういえば、セルペンスは恋をするの?」
レティア姫が両手を胸の前で器のようにすると、以心伝心というように、その上にセルペンスが1匹乗った。
——セルペンスの繁殖期は1年に1回のお祭り。姫が羨ましい。いつもお祭り
「そうなの? あなたは男の子? 女の子?」
レティア姫は、いつも自分の側にいるのは、セルペンスの子供だと推測している。
それはまさにその通りで、今砂浜にいる数十匹のセルペンスは全部子供だ。
——セルペンスは男で女。姫、歌って
海岸にいるセルペンス達が、グッと体を伸ばして、ゆらゆら 、ゆらゆらと揺れる。
「男で女?」
——歌って歌って
今度は歌っての大合唱。これはもう質問しても返ってこないな、とレティア姫は諦めた。
それから楽しげに揺れるセルペンスは可愛いな、と口元を綻ばせた。
「ええ。何の歌が良いかしら」
レティア姫は敷物の上に小説を置き、靴を履かずに砂浜へと進んだ。
セルペンス達が輪になってレティア姫を囲う。
——流れ星の歌!
「流星の祈り歌のことね。良いわ。きらめく星よ……」
レティア姫が歌うと、セルペンス達も合唱を始める。
(子供が生まれたら、こんな風に一緒に歌うのかしら)
「叶えて欲しい、あのこの願い、誰かの想い——……」
レティア姫は歌いながら、セルペンス達を撫でて回る。
(そういえば、結婚して半年以上、子供が出来る気配がないわ)
自分のぺたんこのお腹を撫でると、レティア姫はぼんやりと海を眺めた。
現在、妊娠中の義姉エトワール妃のお腹は、日に日に膨らんでいる。レティア姫は先日、彼女のお腹に触れさせてもらい、中にいる赤子が動くのを感じた。
それはレティア姫の人生で、始めての経験だった。
(ユース様との子供……。欲しいと風と鷲の神様に祈ってないからかしら? それなら、祈りにいかないと)
「セルペンス、歌の続きは礼拝の後ね。私、地下神殿でお祈りをしないとならないわ」
セルペンス達からの返事はない。レティア姫から離れ、楽しそうに海の中へ飛び込み始め、バシャバシャとはしゃいでいる。
レティア姫は荷物をまとめ、小説を隠し、地下神殿で「ユース様との子供を授けて下さい」と祈り、それからアルタイル城へと戻った。
それが、一刻程前の夕方のこと。
今、レティア姫とユース宰相は、夕食前の団欒を楽しんでいる。場所は食堂隣の談話室だ。
ソファで隣同士に座り、ユース宰相は夕刊のチェック、レティア姫はハンカチに刺繍をしている。
「ユース様、私とユース様の子を授けて下さいと、今日初めてお祈りしました」
レティア姫の発言に、ユース宰相は吹き出しそうになった。
「ん? 急にどうした?」
「妊娠する気配がないなと思って」
その発言に、ユース宰相はまた吹き出しそうになった。
「結婚したり、恋人同士になると、神様から子を授かるのですよね? エトワール様が、子供は授かりものって言っていました」
(性的な知識不足だけではなく、これも分かっていないのか)
どうしたものか、とユース宰相は読んでいた夕刊を閉じて、サイドテールへ置いた。
現レティア・アルタイル、元シャーロット・ユミリオン男爵令嬢はネグレクト気味に育てられた。
彼女は王都の病院で誕生。未婚の母の元に生まれている。
母親は病院に子供を置き去りにして失踪。偽名で、家族や父親の名前も全部偽り。身寄りのない赤子は孤児院送りになった。
ユミリオン男爵夫婦は、中々子供が出来ずにこの赤子を養子に迎える。
自分達の娘は、こんなにも素晴らしいという見栄を張る為に、二度の転居の際に年齢をカサ増し。
ユミリオン男爵夫婦は、幼い頃は養子を大事に育てていたけれど、実子が生まれたことで、養子を疎むようになる。
娼婦や奴隷として売られなかったのは、シャーロットが家のことを何でも行い、類稀な記憶力で父親の代わりに書類仕事をこなせたからだ。
(無理もないか。母親はアレで、学校に通ったこともなく、お互いを大事にする妹以外で、まともな人間関係を築けたのは、去年王都に上京してからだもんな)
ユース宰相はレティア姫の方を向いた。彼女は自分のお腹を両手でさすっている。
「出産って、長い時間がかかって、とても痛いのですよね? 小さなおへそから、大きな赤ちゃんが出てくるなんて、信じられません。私、生まれてくる赤ちゃんって、こう、このくらい小さいと思っていました」
レティア姫は手で卵大の丸を作った。
彼女はエトワール妃のお腹を触った日に、クラウス王子が生まれた時の話しも聞いて、それで出生児の大きさや重さを知ったのだ。
ユース宰相はもはや項垂れそう。
「母がアリスを産んで、1ヶ月程して家にアリスを連れ帰って来た時、一気にスクスク成長するのだなって驚いたんです」
幼い頃の自分は、おかしな誤解をしていたでしょう?
そういうようにレティア姫はユース宰相に笑いかける。
「レティア。君自身の出自について、どう思う? 君の生母は子の誕生を祈ったと思うか? 産んで直ぐに捨てたんだぞ」
「えっ? 急にどうされたのですか? 先代国王陛下が街で愛人を作って、別れて、その後に私の本当の母は妊娠を知ったのですよね?」
レティア姫の回答に、ユース宰相は否定も肯定出来ない。
ただ、この考え方は合っている。彼女の考察を聞きたいから頷いておこう、と首を縦に動かした。
「国王の子を産めば妃になれると思ったのでしょうね……。2人で子を望んで、でも授かる前に別れて……。でも実はもう妊娠していた。もう要らなかったから、産んで捨てた……」
レティア姫は悲しげなため息を吐くと、ぼんやりとした表情になった。
(この考えも、おおよそ合っている。頭が悪い訳ではないから、統合性が取れている。その分、疑問を抱く隙間が無いな。こうやって基本的に立派な大人なのに、どこか少女というチグハグな人格が出来上がったのか)
親に3歳サバ読みされていて、親にこき使われながら妹を大切に世話していたレティア姫は、同じ18歳の女性よりも当然大人びている。
上京後、家政婦のような生活をしていたし、トラブルがあってレストランで働いていたこともある。
ユース宰相は意を決して、レティア姫の耳元に顔を寄せた。
誰かが正しい知識を教えないとならない。アフターケア役の女性は沢山いる、と考えながら。
「子供はヘソからは生まれない。結婚式典の夜に私とすることを繰り返すと、子供が出来ることがある。絶対ではない。だから神様からの授かりものだし、逆に望んでいなくても妊娠することがある」
レティア姫はこの台詞に固まった。
「この件に関して君が無知なのは、育て親のせいだ。仕方ない。女性は良い環境で育てば、適切な年齢の時に、おぼろげな知識を与えられる」
ユース宰相は立ち上がり、ポンポンとレティア姫の頭を撫でた。
☆★ しばらく後 ☆★
「サシャはその、どうしたら子供が出来るか知っていたりする?」
湯浴み中、レティア姫は意を決して、髪を洗ってくれている侍女サシャに問いかけた。
サシャは元エトワール妃付き侍女で、年が近いのと、レティア姫と共にある鷲蛇セルペンスに全く物怖じしないという理由で、王女付き侍女に抜擢された女性である。
また、少々怖いもの知らずで、誰かれ構わずお喋りするところがあるので、引っ込み思案な上に聖女の肩書きや鷲蛇セルペンスの影響で、まだ国内に友人がほぼいないレティア姫の友人候補として人事異動させられた。
サシャは、初めはエトワール妃と離されるなんて嫌だと不満だったものの、今ではすっかりレティア姫と親しくしている。
2人の普段の話題は、ほぼスイーツについてだ。
レティア姫は甘いものを好まないユース宰相や、カール令嬢の代わりに、侍女達と頂き物のお菓子を堪能している。
「子供ですか? 運みたいですよ」
「運?」
「沢山して、たまたま授かるのだから運ですよ。だから子が欲しい人は神様に祈ります。急にどうしたのです? 結婚して半年なんて、まだまだ気にしなくて良いと思いますけど」
レティア姫の髪に蜂蜜を塗りながら、サシャは首を傾げた。
「沢山して? 何をです?」
レティア姫の、か細い声によるこの質問に、サシャは言葉を詰まらせた。
(えっ? どういうこと?)
サシャはうーん、と唸った。
社交界の貴公子、女好き王子ユースは聖女の体に溺れて他の女性とはしなくなった。
聖女レティア姫は凄いらしい。是非とも相手をしてみたい。
レティア姫は魔性の力で、皆で共有していたユース王子を独占している。
サシャの知る社交場での噂はこれである。
恥ずかしがり屋で奥手のレティア姫にぞっこんのユース宰相、というのはサシャの知るところ。なので、噂の真実は男達の語るものの方だと推測していた。
「その感じ、サシャは知っているのですね。私、ずっと何も知らなくて……。その……」
レティア姫はモニョモニョと、これまで誤解していた妊娠にまつわる知識を語った。
それから、ユース宰相にそれを話して訂正されたこともだ。
「はず、恥ずかしくてなりません。妻、まだ恋人? みたいなものですが、旦那様に娘に教えるようなことをさせたなんて……」
レティア姫は花びらの浮かぶ湯船に沈んでいった。半身浴から、口元まで湯に浸かった状態になる。
「恥ずかしいですか? 高貴な身分の女性だと、初夜直前まで何も知らない方も多いそうですよ。それで伴侶になった夫が手ほどきをするとか」
結婚してもう半年以上経ちますが、とはサシャの立場では言えず。
いや、聞く絶好のチャンス! とサシャは意を決した。
レティア姫とユース宰相の話しは、あちこちで中々役に立つ。
「2人のここだけの話し」は彼女の好きなデザートを多くゲットする手段の一つ。
未婚女性の多くは、こぞってお姫様と、彼女を優しく包むようなユース王子の話しにウットリする。
(レティア姫にベタ甘のユース王子が、未だにレティア姫に手を出していない理由は、絶対に話しのネタになる)
王家に関する悪い噂を流せば、それが嘘でも真実でもクビになるが、そうでなければ問題ない。
ペラペラお喋りの自分に対して、強く叱責する者がいないのがその証拠。と本人は思っている。
実際、その通りである。
「そうですか。それなら、良かった……」
レティア姫は湯船から体を少し出した。
「それで、新たな疑問なのですが、赤ちゃんがおヘソから生まれないのなら、どこから生まれるのでしょう? サシャは知っています? ユース様は特に教えてくれなかったので、まだ知らなくて良いことなんですかね?」
「はい。知っています。何回か出産を目撃しましたし、正式に立ち合ったこともありますから。あのー、レティア様って毎晩ユース王子と何をしているんです?」
切り込んだサシャに、レティア姫は「んー」と考えるような声を出した。
「ユース様と? 別々の事が多いです。ユース様は大抵、手紙の返事を書いたり、何かの書類を確認しています。私はその間、似たようなことや刺繍、編み物、セルペンスと歌ったりですね。散歩とチェスをたまに2人でします」
「キスとかもしますよね?」
怖いもの知らずのサシャは、更に切り込んだ。
サシャの知るレティア姫は優しく、ちっとも怒らないから、まだ質問しても平気という判断。
聖女レティアにここまで踏み込む王女付き侍女は他にはいない。
話しかけられたり褒められて感激する侍女はいても、質問をする者は今のところ皆無。
強心臓とはいえ、サシャも多少は緊張し、胸をドキドキさせた。
レティア姫はサシャの質問に対し、真っ赤になって、湯船に沈んでいった」
「た、たまに……で……ブクブク」
語尾は湯の泡になって、消え去った。
レティア姫は顔を湯から出した。
(レティア様、なんかエトワール様の新婚当時みたい)
サシャは微笑ましそうにレティア姫を観察しながら、髪を梳かした。
湯の中で泳ぐ鷲蛇セルペンスが、レティア姫の肩に乗り、頬に頭部をすり寄せた。
「どうしましょう。子供は欲しいですが、おこさまキスの続きなんて、想像もつかなくて……。恥ずかしい行為だというのは知っているので……調べる勇気もなくて……。この調子で結婚式典の日が来たら……私、きっと溶けてしまいます……」
(レティア様可愛い。ふーん、結婚式典の日が本当の初夜ってことなのか。理由は何だろう?)
「あっ!」
「どうしました? サシャ」
「対外的には婚約中だからですか? 初夜がまだなのは」
2人きりの上に、レティア姫がちっとも怒らないので、サシャにはもう怖いものはなかった。
「デートを重ねて、色々と大事に積み重ねて、一生に一度の輝かしい祝いの日を初夜にしようと、その、ユース様が言ってくれまして……。私もキスもまだだったので、恥ずかしく……賛成しま……ブクブク」
レティア姫はまたお湯の中に沈み、語尾を消し去った。
(えっ、それは衝撃的。あのユース王子が……)
サシャは蜂蜜を塗って梳かし終わったレティア姫の髪を、お湯で洗い流しながら、ぼんやりした。
これまで、サシャはレティア姫と食べ物(主にデザート)の話しをしていたので、思わぬ新婚生活の内容に驚きを隠せなかった。
寄ってきた可憐な蝶を食べない蜘蛛なんているか? いない。でっ、毒がありそうなら食べない。
捕食物は、それなりに吟味するさ。味じゃなくて、毒があるかないか。なので、味への拘りなんてそこそこさ。
食欲、睡眠欲、性欲は自然現象。減れば満たすだけ。フィラントが堅物なんだよ。
これが、サシャの聞いたことのある、遊び人ユース宰相の台詞。
王子達と兄弟同然に育ったユース宰相は、国王陛下に頼まれたのもあり、本当の兄弟になる為にレティア姫と政略結婚に持ち込んだ。
その結果は意外な展開で、ユース宰相は聖女レティア姫の体に溺れて骨抜きになり、女を釣る為に参加していた社交場から姿を消した。
サシャはこの噂を信じていて、婚約破棄させられたレティア姫は、女あしらいの上手いユース宰相にコロコロ転がされ、失恋の痛みを忘れ、ユース宰相にあっさり惚れた。
多くの者が、サシャと同じような事を考えている。勿論、噂は他にも数多ある。
(これは誰も想像してなさそう……)
サシャはこの超極秘ネタは、下手すると身を破滅させる、と心の中にしまうことにした。
ユース宰相が溺れているのがレティア姫の体ではなく、本人そのものだと、何が地雷になるか分かったものじゃない、という生存本能が働いたからだ。
(おヘソから生まれないなら口? そうだわ。そうよ。お腹と繋がっているもの。だから舌を入れるの⁈ 私、もう男女の営みについて、もう殆ど知っていたのね⁈)
サシャに髪を洗われながら、レティア姫はまた見当違いの誤認識を持った。
☆★
レティア姫が湯浴みを終えて、身支度も済ませて、隣のリビングにしてある部屋へ移動すると、既にユース宰相がソファでくつろいでいた。
なので、侍女サシャはそそくさと退室。
これから朝までは、何もない限り、レティア姫とユース宰相の2人だけの時間になる。
読書中のユース宰相の姿を捉え、レティア姫はふと気がついた。
(あのキスシーン、初夜の前だったわ。し、舌を入れるのは違う? もっと何かあるの? まさかっ)
レティア姫は自分のおヘソ辺りに手を当てた。
(おヘソにも舌を? おヘソは赤ちゃんがいる場所に一番近いわ。だから、何か関係あるはず)
んー? とレティア姫は首を傾げた。
(キスの方が恥ずかしい気がするわね)
明らかに自問自答している雰囲気のレティア姫をチラリと見たが、ユース宰相は知らんぷりすることにした。
(色々考えた結果、私に何を聞いてくるのか気になるから放っておこう)
そう、読書中の小説に集中する。
ユース宰相が読んでいるのは、レティア姫も愛読中の「囚われの青薔薇姫は溺愛される」だ。
(ああっ……。やあっ……。ユース様。ユース様。ユース様。ユースさまあ……。もっと……)
彼はレティア姫がユース宰相に熱烈なキスをされて「ユース様」と連呼するシーンを繰り返し読んでいた。
湯浴み前の準備運動として。
「ん? レティア。のぼせたのか? 座って休むと良い」
「いっ、いえ。あの、少々きゃんがえごとで」
言葉を噛んだレティア姫は、湯浴み後で上気させている頬を、更に赤らめた。
「君はいつも可愛いな」
立ち上がり、小説をローテーブルに置くと、ユース宰相はレティア姫に近寄った。
「良い匂い。どれ、私も体を洗ってくるか。久々なので、君を沢山抱きしめてから、ぐっすり寝たい」
チュッとレティア姫の頬にキスをすると、ユース宰相は浴室のある隣室へ去っていった。
彼が告げたように、先週は東塔で別々のベッドで寝ていた2人。
(沢山抱きしめて? キ……スもするかしら……)
トトトっとソファまで駆け寄ると、レティア姫はソファにちょこんと腰掛けた。
両手を頬に当てて、スリッパを履いた足をバタバタ動かす。
彼女の爪先が、勢い余ってローテーブルの下に激突。
「っ——……」
涙を浮かべると、レティア姫は体を折り、ぶつけた右足の爪先を手で揉んだ。
痛みが引いてきて、彼女はふと気が付いた。
(この本……)
ローテーブルに置かれている小説「囚われの青薔薇姫は溺愛される」を目にして、レティア姫は体を起こしながら、そっと小説を手に取った。
(3巻……。ついに心を通わせ始めたレティア姫とユース宰相。しかし、青薔薇姫の力を狙う大国の王子が目をつけ……。あっ、しおり……)
ユース宰相は、小説を見つけたレティア姫にそのページを読ませて、沢山名前を呼んでもらおう、と目論んでいた。
小説のレティア姫とユース宰相が、いちゃいちゃキスをするシーンなので、読まれて構わないと考えて選んだページだ。
しかし、レティア姫の行動は彼の思惑通りにはいかなかった。
(大国の王子って……)
レティア姫はペラペラとページをめくり、大国の王子が登場するシーンを探した。
(あっ。やっぱり)
レティア姫が発見した大国の王子の名前は「ルイ・メルダエルダ」である。
この登場人物も実在する。
レティア姫に一目惚れした、北西の大国ドメキア王国宰相。大鷲賢者と呼ばれる権力者。
あれこれ理由をつけて、定期的にレティア姫をドメキア王国に呼んでいる男性。
レティア姫はルイ宰相からすると、あまり特にもならない小国の姫。更には横恋慕。なので止めろ、と周囲に散々反対されているが、そのせいでルイ・メルダエルダはかえって燃え上がっている。
人を傷つけることを苦手とするレティア姫は、申し訳ない気持ちを抱きながら、誠実にお断りしている。
(夜を閉じ込めたような髪に、甘く澄み通った声。美しいのに儚げで、支えて守らねばと思った。憂いを帯びた歌に、胸が痛む。星空乙女よ、何がそんなに悲しいのです。この台詞、ほぼ本当。ということは外交官か帯同した者が喋ったの⁈ ……いっ)
「いやああああ!」
つんざくようなレティア姫の悲鳴が響き渡った。
「レティア様!」
「レティア様!」
即座に入室してきたのは、今夜の夜間警備担当の近衛騎士2名。
2人が目にした光景は、ソファから立ち上がったばかり、というレティア姫。そして、本を閉じたばっかり、という体制。
彼女は涙目だが、2人の騎士が部屋を見渡しても、レティア姫以外には誰もいない。
「レティアどうした!」
次に部屋に飛び込んできたのは、まだ体に泡をつけていて、下半身を手に持つタオルで隠すユース宰相。
レティア姫の顔が動き、ユース宰相の姿を黒曜石のような瞳がとらえる。
大事なところは隠れているとはいえ、レティア姫が物心ついてから、初めて見る男性の全裸。
「きっ……きゃあああああ!」
今度の悲鳴は、どちらかというと嬌声。
レティア姫は本をソファへ放り投げ、両手で顔を覆い、イヤイヤというように頭を振りながら、騎士の1人、女騎士ミネーヴァの元へ駆け寄った。
「ユー、ユース様! 何でもありません! 戻って大丈夫です!」
レティア姫はユース宰相を一切見ません、という態度を示した。
「ミ、ミネーヴァも見てはダメです! 乙女の夢でもダメです! ユース様はわたくしの……」
レティア姫がミネーヴァの目を手で覆った時、彼女の視線はもう1人の騎士、青薔薇の騎士団員のマルクの表情をとらえた。
紅葉した楓のように真っ赤なレティア姫に惚けてしまったマルクの顔は、レティア姫には呆れ顔に感じられた。
心が狭い。嫉妬丸出し。呆れられた! とレティア姫は慌ててミネーヴァの目から手を離した。それで、身の置き場がない、というように縮こまる。
ミネーヴァは内心大笑いしたかったが、レティア姫を揶揄うとユース宰相が怖いと、澄まし顔をして、軽い会釈だけにしておくことにした。
「あー、虫か何かいたか? ミネーヴァに任せられそうなので戻ろう」
くるりと体の向きを変えると、ユース宰相は身を縮め、少々震えながら隣室へ消えた。
「サー・ミネーヴァ。サー・マルク。何でもありません。その、叫んだりして、すみませんでした」
「虫退治は必要ありませんか? 襲われたような声でしたけれど……」
レティア姫は遠慮がちな性格だと知っているミネーヴァは、彼女の顔を覗き込んだ。
「いえ。あの。よ、呼んだ本の内容が恐ろしくて……つい……。すみません……」
「ああ。ホラー小説を読んでいたのですね。怖いシーンは、ユース王子と一緒に読むと良いですよ」
後半の台詞を、少々大きめの声で告げると、ミネーヴァは「失礼します」と退室。部下マルクがまだ惚けているので、彼の耳を鷲掴みして引きずって。
(言えない。小説なのに、ユース様以外の人に無理矢理キスされたのが嫌で叫んだなんて……)
レティア姫はとぼとぼソファへ戻り、ソファに放り投げた小説を、元の位置へ戻した。
それから、ユース宰相の蔵書が並ぶ本棚の前へ移動し、ホラー小説を捜索。
ユース宰相が現在部屋に置いている本は、仕事に使う資料用の書籍ばかりで、創作物は皆無。レティア姫は諦めて本当のことを話すと決意した。
ほどなくして、寝巻き姿のユース宰相が部屋に戻ってきた。
「叫んですみません。その、あの、ユース様が呼んでいた小説を読んで……。私がルイ宰相にキ、キス、キスを無理矢理され……」
「はあ?」
ユース宰相は珍しくレティア姫の前で大きめの不機嫌そうな声を出した。
「そ、創作物に……」
「ははっ。嘘偽り本でも嫌とは、そんなに一途に私を想ってくれて嬉しいな」
サッと笑顔を作ると、ユース宰相はレティア姫に向かって腕を広げた。心の中では眉間に青筋を立てているが、演技は彼の十八番である。
「本当に可愛いなレティアは。ミネーヴァにも私のユース様って。そうだ。私は君のものだ」
ほらほら、おいで、と手招きをされて、レティア姫は俯きながらトトトッとユース宰相に駆け寄り、それからおずおずと抱きついた。
その次は、ギュッと抱きつく。そのレティア姫をユース宰相が優しく抱きしめる。
(物は試しだ)
ユース宰相はダメ元で「んっ」とキスをねだってみた。
予想的中。レティア姫は「もう1回言って……」と甘い声を出し、更にはユース宰相の唇にそっと唇を重ねた。
おまけに「もう1回、ユース様」と何度か繰り返し、ユース宰相の脳味噌を沸騰させた。
☆★
ちなみに、この日の夜、またしても犠牲になったのはディオク王子である。
根回しして築いた種々の対ユース宰相バリケードを破られ、一晩中睡眠妨害された。
「何あれ、何なのあの生き物! 可愛いいいいい。かーわいいーー」
「俺に抱きつくな! 気持ち悪い顔をするな! 本人に言え!」
「可愛いくらい言ったさ。当たり前だ。四六時中愛を囁く。なるべく格好良くだ。こんな姿を見せられるか」
ディオク王子にひっついたり、枕をぶつけたり、ユース宰相は寝れなくて暇だからとやりたい放題。
「あー、気持ち悪い。吐き気がするよディオク君。こんな甘酸っぱい初恋みたいな気持ちを抱くなんて、気色悪い男だ」
「その通りだ。だから黙れ。帰らないのはもう分かっているから、頼むから寝てくれ」
「努力はしている。目を瞑ると、羊を数えても、髭面男を数えても、ヤギのうんこを数えても、可愛いレティアが出てきて私の睡眠を妨害するんだ」
ディオク王子は耳を塞ぎ、ユース宰相を蹴飛ばした。
似たようなことを繰り返し、気がつけば朝。
腹が立つので、ディオク王子はしばらくレティア姫を地方視察に出す計画を練ることにした。付属品のユース宰相も消えて快眠。それが目的。