恋愛小説は取扱注意
アルタイル城の地下には、限られた者しか行けない地下神殿と、世にも美しい洞窟がある。
その限られた人物、レティア姫は白と青のマーブル模様の洞窟内、白い砂浜に座り、ぼんやりと海を眺めていた。
城の地下から続く、レティア姫が海洞窟と名付けた場所は、彼女の隠れ家。
1人になりたい時、深く考えたいことがあるとき、息抜きなど諸々の理由で、レティア姫は「地下神殿で民への祈りを捧げる」職務のついでに、海洞窟まで足を運ぶ。
(今日からついに2巻。キスの続きがなんなのか、分かるわ)
レティア姫は両手で持つ小説「囚われの青薔薇姫は溺愛される」を、そっと開いた。
彼女の胸元から、ニュッと蛇が飛び出す。
鷲のクチバシのような頭部をしていて、毛羽立ったような鱗を持つ、鉛色の蛇。
——姫、また繁殖期?
「は、繁殖期⁈ ち、違うわよ! またって何⁈」
レティア姫は頭の中に響いてきた声に向けて返事をし、小説を閉じると、鷲蛇を両手で胸の谷間から引っこ抜いた。
——だって、繁殖期の匂いがする
「ですから、繁殖期ではなく、こ、恋の匂いと呼ぶのです」
——ここいの匂い。セルペンスは覚える。親から教わった名前と違うからすぐ忘れる
鷲蛇ことセルペンスはレティア姫の手からシュルリと抜け出し、腕を伝って肩に乗った。
——姫、歌って
「少し本を読んだら、いつものように歌うわ」
——セルペンスは泳いで待つ
レティア姫の肩から砂浜へ飛び移ると、セルペンスはそのまま海へ向かって行った。
青と白の混じった美麗な色彩の岩陰から、次々とセルペンスが現れて、海へと入って行く。
——姫はご機嫌ななめ。後でしか歌わない
——姫は今日も泳がない
——姫は怖がりだから泳ぐのが怖い
頭の中に次々と飛び込んでくるセルペンスの声に対して、レティア姫は(少し聞こえなくなれ。少し聞こえなくなれ)と懸命に念じた。
こうすると、少しの時間、セルペンスの声が聞こえなくなることを、レティア姫は最近学んだ。
聖なる蛇に愛される聖女。かつて王のように振る舞った、予言をもたらし戦国の世に、アルタイル王国を守ったルシル王妃の再来レティア姫。
そう国中で崇められているレティア姫、そして彼女の祖母にあたる、故ルシル王妃の真実は、単にセルペンスに好かれている、である。
アルタイル王族には、城に巣食う謎に満ちた鷲蛇セルペンスと会話可能な者が時折生まれる。
セルペンスは好きだから天候を教え、好いているから、守護をする。時に海産物や農産物に、光り輝く苔などの雨まで降らす。
謎の蛇と話せると隠していると、セルペンスに好かれている者は、神に愛されているとか、悪魔の使いなどと噂になる。
レティア姫は前者。祖母ルシル王妃に良く似た容姿に、王女という立場、そして彼女の秘密を知る者が「恵の聖女」の肩書きや、良い噂、祈りを捧げる仕事などを用意して「国を守る聖なる鷲蛇に愛される聖女」という印象を民衆に植え付けたからだ。
(ここはここで、騒がしいのよね)
聖女、と呼ばれて崇拝や畏怖の念を集めるお姫様の悩みが、大人のキスとは何? であるなどと、誰が思うだろうか。
しかし、レティア姫は真剣。深呼吸をして再び小説を手にして開く。
(1巻は、ユース様が私と婚約者のロクサス卿を婚約破棄させたところで終わったけれど……)
小説の冒頭は、豪奢なウェディングドレス姿になり、鏡の前で憂鬱な気分になっているレティア姫である。
(それにしても、もはや名前だけ同じで、別人の物語だわ。何これ、ユース様はこんな台詞、言わないわ)
目で文字を追いながら、レティア姫は小説の内容について、心の中で、ぶつぶつ文句を言い始めた。
(もう俺のものだ。逃げられない。逃がさない? 逆よ逆!)
☆★ レティア姫の回想 ☆★
フィラント王子の部下、ロクサス・ミラマーレ伯爵の婚約者は、亡きルシル王妃と生写し。まるで蘇ったようだ。
そのような噂や、その他ひょんなことで、私の素性と出自調査がされた。
そして、調査結果と、国宝のいばらの冠を、アルタイル国王の血を引く娘は青薔薇に変える、という伝承を見事に再現した私は、17歳の時にアルタイルの第一王女レティアとして城へ招かれた。
20歳だと思っていたのに17歳。親にこき使われていた貧乏男爵令嬢。それがお姫様。
しかも、謎の蛇が話しかけてきたり、海産物の雨を「祝い」と贈られたり、まさに晴天の霹靂の事態にして珍事の連続。
そんな中、婚約者ロクサス卿との関係は継続予定だった。
議会の承認、レティア姫に関する色々なことが落ち着くまで、付き添いありの面会のみという日々。
日に日に私達の心の距離は離れていった。
ロクサス卿は王女に対して相応しい言動を取った。しかし、それは私からすると、急にとてもよそよそしい、線引きされた態度だっったから
謎の蛇に好かれていて、話せるなんて打ち明けたら、ますます距離が出来る。
今以上に畏れられ、もう以前のように接してもらえない。
セルペンスに怯える様子のロクサス卿に、拒絶されるのが怖くて、うまく笑うことも、秘密を打ち明ける勇気も持てなかった。
私は出会ったばかりでも、大人しくて優しいセルペンスに、とても心を許していたから特に。
そんな私に、ロクサス卿はとりたてて何も言わなかった。セルペンスが気になっている様子なのに、質問もなし。
会いたいと言ってくれるとか、手紙をくれるなど、何もなし。
私は私で、同じく、いくじなしで踏み出せず。
そんなある日、ユース様は付き添い無しで、ロクサス卿と2人きりになれる時間を作ってくれた。
結果、何も話し合えず、向き合えない私達の溝はより増した。
私がこの悩みを最初に相談した相手は、ロクサス卿の妹だった。
「恋の相談なら、ユース様です! 社交界の貴公子、百戦錬磨のユース様なら、的確なアドバイスをくれると思います!」
この言葉に対し、そうかも、とアドバイスを受けて、ロクサス卿の知人で、かつ私の世話係でもあるユース様に相談した。
「あの、ユース様……。せっかくロクサス卿と2人きりにしてくれたのに、その……」
ユース様は、私の話しに、黙って耳を傾けてくれた。
何も言わずに「それで? どうした?」と話しを促しながら。とても穏やかで、柔らかな雰囲気だったのを、とても良く覚えている。
「ロクサス卿に……セルペンスの事とか……話せないのです……怖くて……。雰囲気が……受け入れてくれなさそうで……」
百戦錬磨のユース様は、私にとって唯一の救いかもしれないと、私は礼拝堂で祭壇に縋り付くように、ユース様の膝前で、メソメソメソメソ泣いた。
「彼の中で……私はシャーロットじゃなくて……レティア王女殿下で……。あの、何て言って良いのか分からないのですが……。私が……私が信じて……歩み寄れば……。もしかしたら……」
「君は、ロクサス卿に受け入れてもらえないと思っているんだな」
「彼は……嘘が下手です……。それこそ、顔に描いてあります……。私と仲良くしてくれているセルペンスを、あまり良い目で見てくれません……」
「私に話したように、話せば良い。そんなに難しい事か? 伝えてみないと、何も始まらないぞ」
私はでもでもだって、を繰り返してジメジメ泣き続けた。
大好きなロクサス卿に受け入れてもらえない可能性。それはその時の私の中で、最も恐ろしい事だったから。
「細いな……。食べたいものはあるか?」
ユース様は不意に、私の腕に触れてそう口にした。
「えっ? 細いですか? 最近、太ったのですよ。エトワール様が、美味しいお菓子をあれこれくださるので」
「ああ、折れそうで心配になる。もっと食べろ。うんとだ」
「ユース様?」
その時のユース様は、なんとも言えない、悲しげな困り笑い。しかし優しい微笑だった。
「倒れられては困るし、悲しい。悩みで食べられないなら、いつでも話を聞くし、極力幸せに暮らせるようにする。私はアルタイル王国宰相だ。君が国の柱である限り、君の何もかもを守る」
大丈夫、大丈夫というように、ユース様は子供を愛おしむ父親のような目をしてくれた。
「君が過剰に遠慮がちなのは、育った環境のせいだ。エトワールは君の世話をしたくて仕方が無くて、ロクサス卿も、きっと君から話を聞きたくて待っている。彼は、不安を受け止めてくれる男だ」
「追いかけて欲しいとか……向こうから聞いて欲しいというのは……甘ったれですよね? 遠慮ではなく……臆病者のいくじなしで……。話しても、きっと益々……」
ひたすらメソメソ、いじいじ、ジメジメ泣く私を、ユース様はずっと慰めてくれて「ロクサス卿なら大丈夫だ」と繰り返してくれた。
頭に乗っていたセルペンスも、私の首に移動して「泣かないで姫」と頭部を耳にすり寄せて、慰めてくれた。
その後、ユース様はさっそくロクサス卿と何か話しをしてくれたのだ。彼の背中を押すような話しだったと聞いている。
☆★ 回想終了 ☆★
(もう俺のものだ、ではなくて、ロクサス卿と会わせてくれるのよ!)
レティア姫は小説の登場人物に、完全に自分達の姿を重ねてしまっていた。
(あの男は権力に屈し、君を捨てた⁈ もう2度と会わせない⁈ 逃げ出したのは私よ! ユース様はずっと私達2人の背中を、それぞれの背中を押してくれていたわよ! 何よこの小説。王室恋愛小説なのに、私の話しなのに、嘘ばっかりね)
1巻と同様に、プンプン怒りながら、レティア姫は小説を読み進めた。
腹が立つのに読む理由は、物語の世界観に引き込まれているから。
この小説の作者の前作はベストセラー。年頃の乙女がこぞって読む人気作。
その作者が、次の作品は是非今話題の王室恋愛を取り扱ったものを、と依頼されて生み出した小説。
素直で割と単純なレティア姫が感情移入するのは当然である。
(ユース様は私に対して、とっても優しくて、穏やかよ。ごくたまに変で少し酷いけど。なのに何よ、この高圧的で自分勝手な男性。俺を見ろ。俺を見るしかないって、ユース様は私にこんな事を言わなかったわ! 人の心は縛れない。君はいつでも自由。ユース様はそう言うのよ!)
怒りながら、レティア姫は読書を続ける。
(このように惹かれたのは初めてで……。夜を閉じ込めたような髪……。何もかもが俺を誘うって、誘ってないわよ。でも、ここは素敵ね。実際は、色気のない青臭い小娘……。色気のない……青臭い……)
レティア姫は以前ユース宰相が、彼女のいないところで、他者へそう話していたことを思い出し、深いため息をついた。
偶然聞いたユース宰相の自身への評価に追い討ちをかけるように、彼女に対してこう口した男性までいて、それも思い出し、更に深く深く息を吐く。
『いや、まあ、ほら、清楚可憐な乙女とは真逆の魅力ですから、気にしなくて良いと思います』
レティア姫は「色気のない青臭い小娘は正当評価」と認識し、心の中でネチネチ、ウジウジ気にしている。
そのせいで、誘惑的だ、魅力に逆らえないなどと口説かれる小説内のレティア姫に、羨望の念まで抱く。
(そんな。溢れる想いを胸にしまっておけないだなん……むり、無理矢理キス⁈ 手首を強く掴んで……。これが、世間で噂されている、レティア姫のファーストキス……)
小説の展開に茫然とすると、レティア姫はページをめくる手を止めた。
顔を上げて、周りを眺める。誰も知らない、美しい海洞窟がレティア姫とユース宰相の、思い出のファーストキスの場所。
(私は誰にも話しをしていない。ユース様も喋っていないってことよね。この小説のキス、全くのデタラメだもの)
ぼんやりしながら、自分の唇をそっと指でなぞり、レティア姫は「はあ」と甘ったるい息を吐いた。
(一生忘れないようなキスをしようと思っている……。それで、そうしてくれたっていう話しをしないとならないわ。恥ずかしくてならないけれど、ユース様の優しさを広めたいし、彼の名誉を守らないと)
よし、今度どこぞの貴族に何かの会に招かれたら、断らずに出席しよう、とレティア姫は決意した。
自分の夫が、女好きで、寄ってくる女性とすぐ関係を持っていたというので、どこの誰がその相手の女性か分からない。嫉妬でイライラしそう。そういう理由で、レティア姫は基本的に社交場への出席を拒否している。
他にも、自分に与えられた仕事に励むことや王女としてのレッスンを優先し、息抜きは知らない人ばかりの中社交場ではなく、家族やセルペンスとの交流が良い。そのような理由もある。
聖女に擦り寄りたい貴族の相手なんてしなくて良い、とレティア姫の兄達も、文句を言わないどころか、レティア姫が社交場へ出ず、何かの会を主催しないことに賛成している。
(続き……)
決意を胸に秘め、再び小説を読み始めたレティア姫。再び物語に夢中になる。
(俺を愛する努力をするから、あの男に栄華を。そう言ったな。努力すると言うのなら、俺のすることを拒むな……。やめて下さい……。……。唇を押し開いて、入ってきた舌が……)
その文章で、レティア姫は固まった。バクバクする心臓に、急上昇する体温。
小説を閉じて声にならない悲鳴を上げる。
「っ——……」
小説を膝の上に置くと、レティア姫は両手で頬を包んだ。
(しっ、舌⁈ キスの続きって舌が入ってくるの⁈)
先週のキスを思い浮かべ、レティア姫は赤くなった。
しかし、ユース宰相が他の女性と、この「大人のキス」をしたことがあると言う事実に、今度は青くなる。
(し、舌が入って……どうなるの? よ、読んだら分かるけど……)
頭を抱え、しばらく自問自答した後、レティア姫は読書の続きはせず、岩陰に紙袋にしまった小説を隠した。
ここへ来られる人物は、今のところ、レティア姫とその家族のみである。しかも、レティア姫が同伴しないと無理。
羞恥に混乱、そして嫉妬で悶々としながら、レティア姫は城へ戻った。
その日の晩、レティア姫は自室の勉強机に向かって、今月届いた招待状を眺めながら、出欠について苦悩。
その後ろ姿を、ソファに腰掛けて、会議資料に目を通すユース宰相は、時折確認していた。
(レティア、今日はずっと上の空だな)
夕食からレティア姫と共に過ごしているユース宰相は、会議資料を目の前のローテーブルへ置いた。
「レティア、何かあったか?」
「ふ、ふぁぅえ⁈ にゃにもありません!」
勢い良く振り返ったレティア姫の顔は真っ赤。
(この過剰な照れ反応、こないだのキスを思い出していたのか? 可愛いな。それに面白い。慣れないように、またしばらくキスしないようにしよう。揶揄いたいけど、薮蛇になるのは困るから我慢だな)
「ふーん。そっ。確かに何もなさそうだな」
ユース宰相は再び会議資料を手に取り、レティア姫から視線を外した。
「ユー、ユース、ユース様……あの……」
レティア姫が席を立ち、いくつかの招待状を手に持って、ユース宰相の方へ移動。彼女の頬はまだ赤らんでいる。
「た、たまには、たまには社交場へ顔を出したいなと。ユー、ユース様と、お、夫のユース様と……」
「ん? ああ、分かった」
(夫って甘美な響きだな。しかし、どうした急に。わざわざ夫なんてつけて、どこかで嫉妬心を煽られたとか?)
「その、選んで下さい。読書をして寝るので、先にベッドへ入りますね」
はいっ! とレティア姫にいくつかの封筒を押し付けられたユース宰相は、そのまま彼女を抱き寄せようと腕を動かした。
(はっ! ここは今夜は私から。彼だって、私にそれを望んでいるって言っていたもの)
レティア姫の両手がユース宰相の上に乗る。彼女は勢い良くユース宰相の頬にキスをして、脱兎の如く寝室へと逃亡。
レティア姫には、まだ唇に唇をつける勇気は出せなかった。ほっぺたが彼女の精一杯。
部屋に残されたユース宰相。彼の手から、会議資料がバラバラと床へ飛散した。
(……なっ)
ユース宰相は大きく目を丸め、激しくなる動悸を抑えようと、右手で胸を抑えた。
声にならない声を出すと、ユース宰相は慌てて立ち上がり、会議資料を拾い集めた。
渡された招待状を寝巻きのポケットに突っ込む。
その次は、レティア姫の勉強机の上にあるメモ帳に走り書き。
【愛しの月の華へ。 資料を読んで、ディオクと仕事の打ち合わせの必要あり。泊まるかも。素敵なキスをありがとう。君からなんて初めてで嬉しい。 ユース】
伝言を残すと、ユース宰相は部屋を後にした。向かったのは、レティア姫の兄ディオクの政務室。
ディオク王子は、ユース宰相と兄弟同然に育った、ユース宰相と同じ国王宰相。
ディオク王子の政務室の扉をノック後に開き、中に彼しか居ないと確認すると、ユース宰相は扉を閉めて叫んだ。
「無理無理無理。何あれ、何なのあの生き物! 可愛いいいいい! ディオク! 死ぬ! お兄様死にそう! 私に死なれたら困るよな? 助けろ!」
駆け寄って来る兄、ユース宰相から逃げようと、ディオク王子は素早く立ち上がり、隠し扉に向かって駆け出した。
(うげっ。このユース兄上は仕事じゃない)
ディオク王子が隠し扉を開く壁の石に手を伸ばす。ユース宰相はもう彼のすぐ間近。
「くっ、来るなっ!」
「今夜は泊めてディオク! 清楚可憐な純情天使に手を出さなくて、泣かれたら死ぬ! でも手を出しても悶え死だ! 心破裂する! 死んだらレティアが泣く! 死にたくない!」
「だから、そのくらいじゃ死なない! 来るなこのバカ兄!」
ユース宰相に背後から抱きつかれ、逃亡に失敗したディオク王子の宝石のような瞳から、生気が失われていく。
これぞまさに、死んだ魚のような目。
(また寝られない……)
その頃、兄ディオク王子の憂鬱なんて、何にも知らないレティア姫は、ベッドの上にうつ伏せになり、手足をバタバタさせていた。
(今日こそ自分からさりげなくキス出来たわ。次は唇ね。私の羞恥心に寄り添ってくれているユース様の為にも、色々と慣れていかないと。今夜は頑張った。私、良くやったわ)
と、自分を褒めながら。