男爵令嬢、知らなかった事を知る1
最近、旦那様の帰宅が早い。けれども鞄が一つから二つに増えた。それで、夕食をサササッと済ませると、書斎にこもる。仕事を持ち帰ってきているようだ。今夜もそう。私がカシムと洗い物をしていると、スヴェンが厨房に顔を出した。
「シャーロットさん、紅茶を頼みたいです。俺とダフィに。ついでなので、兄上にも淹れて欲しいです」
「はい、かしこまりました坊っちゃま」
「うわっ! 坊っちゃま? そんな呼び方、止めて下さい」
「しかし、スヴェン様も嫌だと申されましたよね?」
「だから、スヴェンで良いって」
「でも、外でついスヴェンと呼んでしまったら困ります」
「カシムを見習って、オンとオフ、屋敷内と屋敷外で上手くやって下さい」
ヒラヒラと手を振ると、スヴェンは台所から去っていった。どこか、ユース王子っぽい動作。良く私にユース王子の話を聞いてくるし、憧れているのかも。
「今日焼いてもらった、かぼちゃのケーキを出しましょう。用意するので、シャーロットさんは紅茶の準備を」
「あのケーキで大丈夫かしら?」
「レシピ通りに作ったなら、大丈夫ですよ。私のレシピは中々評判が良いですから」
目を細めたカシムに笑い皺が出来る。こういう人がお父さんならば良かったなと思える朗らかな人柄。恰幅は良いけれど、威圧感は全然無い。父か……父や母今頃何をしているのだろう? すっかり存在を忘れていた。新しい任地先で、今度こそ、真面目に働いているといい。
「シャーロットさん?」
「なんだか幸せな生活で、少ししんみりしてしまって」
「ああ、分かります。私も妻を亡くして、仕事をクビになって、家を追い出された時のことを思い出すと……まあ、奇縁というか、世の中は奇妙です」
そう言うと、カシムは食器を洗いながら、軽い身の上話を始めた。私は興味があるので、ティーセットを用意したり、お湯を沸かしながら耳を傾けた。親子共々餓死するくらいならと、宝石泥棒をして捕まりかけた。しかし、その騎士に見逃してもらい、施しもうけたので、歯を食いしばって、やはりまともに生きようと決意したという。
「金が欲しくて、死ぬ思いで、他の国から宝石を仕入れてきたんです」
「もしかして岩窟龍国へ旅行した話しですか? ダフィ君が話してくれました」
「旅行では無かったんですけど、息子はそう思っているようです」
帰国後、この王都で宝石泥棒を見逃してくれた騎士と再会したらしい。
「住み込み従者にしてもらって、息子も学校に通わせてもらいました」
「その方、とても優しくて、面倒見の良い方ですね」
「ええ、後の騎士王子です。あの頃は出自を隠して、市民と暮らしていました」
「フィラント王子殿下ですか?」
あの無表情で、何を考えているか分からない王子がそんなに慈愛溢れる人物だとは思いもよらなかった。しかし、不意にエトワール妃の姿が脳裏によぎった。カシムとダフィに手を差し伸べるような王子には、あのようなお妃が似合う。
「ロクサス様はフィラント様の側近で、ほんの一時期、一緒に暮らしました。その縁で、ロクサス様は私を執事として雇ってくれまして」
「父さん、またその話? 遅いから見にきたら……辛気臭い話をするなよ」
「ダフィ、辛気臭い話ではない」
「じゃあ自慢話だな。あの騎士王子殿下や星の妃殿下と暮らしたことがある! って。フィラント様やエトワール様の品位が下がるから、やめなって」
肩を竦め、呆れ顔を浮かべると、ダフィは薬缶を持ってティーポットにお湯を注いだ。次はティーカップ。一度お湯を捨て、今度は茶葉を入れたティーポットにお湯を注ぐ。実に手際良い。カシムもさり気なく、切り分けたかぼちゃケーキを皿に盛っている。
「俺、絶対に王宮騎士になって、フィラント様の部下になるんだ。スヴェンは貴族騎士になれるから楽だろうけど、俺は絶対に見習い騎士から王宮騎士まで成り上がる」
「楽だろうけど? おい、ダフィ、聞き捨てならないな。貴族騎士は超難関だ。成り上がり伯爵家という出自も、むしろ不利だ」
スヴェンが出入り口から顔を出した。ダフィは蒸らし終わった紅茶をティーカップへと注いでいく。
「まっ、それだ。俺達って前途多難だな」
「まっ、真面目に生きてれば良い事があるさ」
2人は同時にかぼちゃケーキを手で掴み、紅茶の入ったティーカップを持って、去っていった。なんか、あっという間だった。それに、見た目は全然違うのに、改めて兄弟みたいだなと感じた。あの二人はいつも仲良し。スヴェンはわざわざ、ダフィと通いたいからと、庶民の学校へ通っている。代わりなのか、家庭教師がついていて、ダフィも一緒に学んでいる。旦那様は、多分ダフィも弟と思っている。前にカシムが、そう言って有り難がっていた。
「2人とも、フィラント様に憧れて騎士になりたい、騎士になると」
心配そうな表情をした後、カシムは私にお盆を渡してきた。上に乗っているのは、二人分のティーセットとお皿。かぼちゃケーキも二切れ乗っている。
「あの、これ……」
「旦那様、夢中になると休むのも寝るのも忘れるので、上手く息抜きさせてきて下さい」
「息抜き?」
「そうです。オリビア様とアリスさんの紅茶は、私が用意します」
ほら、早く行けというように、背中を押された。息抜き? 厨房を出て、廊下を歩き、裏階段を上がる。
「こちらを使うと、汚れますよ」
「大丈夫です。いざというときの為に慣れておかないと。練習です」
使いなさいと言われている玄関ホールから二階へ続く表の階段でも良いのだけど、物を持って狭い階段を登る訓練も必要。お客様を招いたときなんかに、堂々と談話室や表の階段を使う訳にはいかない。この二ヶ月、この屋敷にお客様が訪れたことはない。でも、もうすぐオリビアの誕生日で、パーティをするかもと聞いている。
急だし、一歩一歩軋む木の板。この階段、抜けたりしないよね? 無事に二階に到着。ロクサス卿のいる書斎までゆっくり歩く。ヴィクトアのレッスン通りの歩き方。常日頃意識しろと言われている。書斎前まで来ると、お盆を片手で持って、扉をノックした。
「旦那様、紅茶をお持ち致しました」
急に胸がドキドキし始める。いつもこう。この書斎へ来るのは、とても緊張する。開けようとしたら、扉が開いた。ロクサス卿が「ありがとう」と微笑んだ瞬間、私の胸が跳ねた。ロクサス卿と顔を合わせると、粗相をしないか心配になるのか、ソワソワ、ソワソワしてしまう。
「失礼します」
「そんなにかしこまらなくても」
「いえ、礼儀はとても大切です」
「まるでヴィクトリアさんみたいな事を言うな」
テーブルに近寄り、背筋を伸ばす。スカートで見えなくても片膝をつくように腰を落とす。親指以外は揃えて離さない。この時に、指は伸ばさずに自然な形にする。常に笑顔。
「甘い物もかぼちゃもお好きだと聞いたので、かぼちゃケーキを焼きました。休憩がてら、お召し上がり下さい」
「丁度一区切りついたところなんだ。美味しそうだな、ありがとう」
優しい、労わりの声。胸が温かくなる。こんな些細なことで感謝される生活は、本当に幸せ。あれ? と思った時、ロクサス卿は私がお盆に残したティーカップとお皿もテーブルに並べていた。
「話し相手がいると助かるが、どうだろう?」
問いかけられて、直ぐに顔が動いていた。縦に揺れる。
「なんて、少し強引だったか?」
ソファに腰掛けると、ロクサス卿はティーカップを持ち上げた。穏やかで品の良い仕草。こういう男性は、ダバリ村には居なかった。同じ貴族——といっても階級も職務も雲泥の差——の父とは、住む世界が違う人種だと強く感じる。
「お気遣いありがとうございます。何かご指示や、大事な話ですか?」
好意に甘えて、私はソファに座った。座り方も、ヴィクトリアの注意を思い出しながらだ。
「ん? え? いや……まあ、ああ、そんなところだ」
歯切れの悪い返答。私はさらに背筋を伸ばした。言い辛いということは、悪い事だろう。私かアリスが、何か迷惑をかけたに違いない。