第一話 プロローグ 前篇
よろしくお願いします。
「前方、2時の方向、俯角小に呼吸音!これ…絶対あいつよ!」
頭に特殊なヘッドホンを装着した、ピンクの髪の少女が叫んだ。
彼女があいつと呼ぶのは、深海に棲む多数の触手を持つ巨大な魔物だ。
この海域では、何隻もの商船が奴のせいで行方不明になっている。
俺たちの倒すべき敵だ。
マナトゥム沖の深海域での捜索は今日でもう5日目になる。ここは完全に奴の活動領域のはずだった。
「間違いない?」
俺は思わず身を乗り出した。
俺の座席は艦橋後方、皆を見渡せる位置にある。
「間違えるわけないわ!私、奴の呼吸音を間近で聞いたことあるんだから!」
そう。彼女はかつて、この巨大な怪物に遭遇したことがあるのだ。
千年杉の幹よりも太い触手に締め上げられて、ギシギシと軋みをあげる大型船の船底部屋。何が起こったかもわからずに震えながら、外の様子を知ろうと彼女は床に耳を付け、この恐ろしい呼吸音を聞いたのだという。
水深はすでに100ピエに達している。音をひそめて微速前進中。
目指す相手はほぼ前方、俺たちよりさらに深みにいるらしい。
「魔力反応はどう?」
俺は左隣の席に座る少女に聞いた。
「ありませんわ」
プラチナブロンドの髪を丁寧に結い上げた少女は、注意深く確認しながら答えた。
目標までの推定距離は5000ピエ以上。
水中の音の大小だけでは正確な距離を知ることはできない。
こちらの存在を隠匿したまま敵までの距離を測るには、魔力探知できるまでに近づくか、三点測量的な技術を応用する必要がある。
「限界まで潜るとして、あとどれくらいいけるかな?」
船体を構成するアダマンチウム鋼殻は水温や魔素濃度によって耐圧性能が微妙に変化する。
専門家の意見が必要だ。
「もってあと30。それ以上は無理」
癖のついた灰色の髪の少女がぶっきらぼうに首を振った。
「奴にはもう少し浮いてきて貰わないとダメだな…」
俺は少し考えてから言った。
「下げ舵10」
「アイ・サー。ダウン10度」
一段低くなった前席で操舵桿を握る、黒髪の少女が復唱する。
濡れたように艶やかな長い黒髪。てっぺんから覗く彼女の小さなつむじは微動だにしない。
俺は彼女の操舵に全幅の信頼を置いていた。
「奴の呼吸音、キープしてる?」
「大丈夫。方向は2時のまま。鼓動も聞こえるよ」
動かないのは眠っているのか…。
「了解。位置の変化を知らせて」
「わかった」
ピンクの髪の少女はヘッドホンに手を当て、目を閉じて集中し始めた。
深度計の針が、ゆっくりと回っていく。
同時に水圧計の針が上昇しはじめる。
針は耐圧限界を警告する黄色い領域にさしかかりつつあった。
厚い雲に覆われた魔の海。
ここは静寂の支配する冷たい世界だ。
窓は無いから外を直視することはできないが、100ピエの海中はほぼ暗闇に違いない。
この場の全員が、固唾を呑んで重い沈黙に耐えていた。
前のめりに体重がかかり、鼓膜が少しツンとする。
「3時。俯角中セクションに移るよ」
この艦の音響探査は2つの指向性マイクを移動させる仕組みになっている。
水平面を1時から12時までの12等分した区画、垂直面を仰角・俯角それぞれ大中小の計6等分した区画に分け、合計72のセクションを指向性マイクで走査することで音源の方向を三次元的に探査するのだ。
敵が動いていないと仮定すれば、音源方位の角度変化とこちらの移動距離から敵までの距離がわかる。
「暫定距離、1800ですわ」
すぐさま計算尺を滑らせたプラチナブロンドの少女が、奴までの距離を概算した。
思ったより近い。
1800なら十分魚雷の射程だが、奴は素早い。
確実に狩るには至近にまで寄せる必要がある。
「…」
俺は水圧計を睨んだ。
耐圧限界はレッドゾーンに近い。
ちらりと投げた視線に、灰色の髪の少女がため息をついた。
「あとで整備、手伝って」
「…わかった」
機関手の許しは出たようだ。
「もう少しだけ潜るよ。下げ舵5度、面舵。奴の正面に向けて」
「アイ・サー。下げ舵5、面舵」
復唱とともに、前のめりの身体がゆっくりと戻っていく。
ギシギシと船体が軋む音がした。
「よーそろー3時」
これで奴と真正面に対峙することになる。
機関を止めたまま、まるで漂流するように、少しずつ、少しずつ、息を殺して奴に近づいて行く。
「噴流音!目標、動いたよ!」
静けさを破る声に、背筋がびくりとした。
やはり気づかれたか。
…どうする?
指示を待つ皆の視線が俺に集まった。
俺は無言で頷き、言った。
「探針音!連打して」
「探針音了解っ」
保護カバーのついた赤いボタンが押しこまれた。
…コーン、コーン、コーン。
短く鋭い音が、静寂の海に響きわたる。
寝床を侵されて、驚いてこのまま逃げるのか。それとも怒りに我を忘れて襲ってくるのか。
今まで何隻もの船を沈めてきた気性の荒い奴のことだ。
多分答えは決まっている。
「来たっ!こっちに来るよ!」
「距離600。魔力反応が出ましたわ!」
「魔法防御展開、頼む!」
「…頼まれました」
プラチナブロンドの髪の少女はにこりと笑い、コンソールの水晶玉を白くきれいな指先で包み込んだ。
小さな詠唱とともに、彼女の身体がぼうっと青白く光り、やがてその光はこの狭い艦橋の中を満たしていく。