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きれいな月に触発されて。  作者: 荒縄ーあらなわー
1/1

綺麗な月に誘発されて。①

‘’I Love You’’を「月がきれいですね」と言ったのは、夏目漱石だった。

 蝉たちの鳴き声で僕は目を覚ました。

でも、起き上がらずに天井を見つめ、しばらくしてまた眠りに落ちた。

 夏休みが始まって約十日。このような怠惰した日常を送っていた。まったく僕は何をやっているんだと思うものも、一向に改善はしない。蝉たちがこの姿を見たら、さぞ怒るだろう。考えてみると一番時間の大切さを知っているのは蝉たちかもしれない。

 五分くらい寝たつもりだったけれど、気付けばもう日が真上に昇っていた。

「休みって怖いな」なんて二度寝を正当化いや、休みのせいにしながら食事を済ませ、読書することにした。

 僕は本を読むことはあまりなくて、最近になって読むようになった。理由は中三になって同時に受験生になった。その為の勉強の一環として読書をすることに決めた。コツコツは勝つコツだと担任も言っていたし、きっと力になると思っている。

 僕は今までマンガしか読んでこなかったから、小説とか作家には全く知識も関心もあまりない。せめて知ってるのは夏目漱石とか太宰治とか、他には芥川龍之介とか、授業で出てきた中の一部。多分、片手で数えられるくらいしか知らないと思う。そんな僕でも、やっぱり、夏目漱石だよなぁ.とか言って最初の十ページくらいで後悔するほど馬鹿じゃない。あらかじめ調べて、今読んでいる本に辿り着いた。マンガでお世話になっている近所の本屋も小説を買うとなると、初めてのお使いに来たような胸騒ぎと、どことない不安を感じた。そして、今に至るのだけれど、いまいち進まない。首をかしげることはないけれど、読書は疲れる。

「んー、やっぱ慣れないなぁ。」そう呟き、一息ついて一旦閉じた本を広げたけれど、スマホの通知に神経を持っていかれ、本をまた閉じることになった。通知を確認すると看護師をしている母からのメッセージが届いていた。

 「起きてる?起きてたらお願いなんだけど、お父さんのおつまみ買ってくるの忘れちゃったからさ、買ってきてくれないかなぁ?」

僕は「めんどくさい」と返そうか、「今、勉強してるから無理」と返そうか、またまた「今、読書してるから無理」と返そうか迷ったが、迷った末、外の空気を吸うのも悪くはないかなと考え、いいよと返事をした。続けて「お金は頂戴」とも言った。

 部屋着から着替えて、カレーの匂いが漂う一階に向かった。階段の終着点には母がお金をもって待っていた。母は「起きてたのねー。じゃあ、よろしくねー。」と少し嬉しそうに言って、鍋の前に戻っていった。

 日が傾いているのにも関わらず、外は気が狂いそうな暑さで、「くそぉ、失敗したぁ。」と後悔した。なおも蝉たちは絶えず鳴いていた。「暑い暑い。」って、わかりきっていることをつぶやきながら足を進め、挙句の果てにSNSにも「外、暑い」と呟いていた。

 進んで行くと、木陰のベンチで元気に世間話をしている二人のおばあちゃんたちを見つけた。「こんにちは。」とよくこんな暑い日に外にいられるなぁと思いながら、挨拶をしたが、「あら、慎ちゃん。お買い物かい? そんな垂れた声出して、若いんだから暑くてもシャキッとしなさいよ。」と笑いながら説教された。

「はは、買い物頑張りますー。暑いんで、体調気をつけてくださいねー。」

「はいはーい、心配しないでー。お買い物頑張なよー。」

 若者に劣らないその声は僕の足を軽くした。

 やっとの思いでスーパーにつくと、小学生くらいの子が「まーまー、あいすぅ。」と言って、大泣きしていた。近くにいた母親は「ほらほら、みっちゃん。お家帰ったら違うの食べよー?」と頭を撫でながら慰めていた。地面を見ると、アイスが落ちて、溶けていた。   

 僕にもその子にアイスを買ってあげる優しさは十二分にあったけれど、もう一つ大事なものが足りなかった。心の中でその子に詫びる。


 店内の冷房は焼かれた僕の体にしみ、ずっとここに居たいという気持ちにひどく襲われた。でも、そういうわけにはいかない。冷房に癒されながら、刺身コーナーへ向かった。

 多くの刺身が並ぶ中で、そういえば、どんなものを買ってくればいいか聞いていなかったな。と、携帯を取り出し、母に電話したけれど「刺身なら、なんでもー。」と言われ、三秒で電話を切られた。仕方ないと溜息をつき、神さまの言うとおりにすることにした。

「どれにしようかな、天の神様の言うとおり。赤豆、黒豆、茶色豆。……よし、こいつだ。」

神様が言うにはタコがいいらしい。一つじゃ足りないかなと思った僕は、そのタコを二パックかごに入れた。

 そのあと、僕はもう少しこの涼しい空間に居たいという誘惑に負け、用もないのに店内をぶらぶらしていた。何が違うのか分からない色々なメーカーのうすしお味やコンソメ味のポテチ。簡単に作れるスイーツの商品が並ぶ棚で「まーまー、これかってぇー」とねだる幼児。多くのお酒が並ぶ棚で、うーうーと梅干しみたいな顔をしながら腕を組み、悩んでいるおじさん。タイムセール狙いのおばさんたちが集まる惣菜コーナー。イートインスペースで、疲れて口を開けて寝てしまっているおじいさんなど、店内をぶらぶらしているといろいろな空間というか世界が見えた。このスーパーだけでこれだけの世界が樹立されているんだ。全世界で換算したらどれくらいの世界があるのだろうと勝手に胸を膨らませていて、ふと気づくと期間限定のアイスの前に立っていた。ここも独自の世界を形成していた。そして、人間は限定に弱い。

 僕はすぐさまお金の計算をする。これだけはそこらへんの頭がいいやつより早い自信がある。結果、買えることがわかり、手に取り、レジに向かった。それにしても期間限定は高い。僕はアイスが溶けてはまずいと思い、雛の卵を守る親のようにドライアイスを丁寧に入れ、「溶けるなよ。」と思いを込め、駆け出した。

 空はすっかり赤く染まり、傾いた太陽は地面を赤々と照らしていた。暑さも少しは引いて、時々吹く風が快かった。その中、僕は風を切り、走っていた。自転車のタイヤが高速で回り、それがもたらす振動が快感だった。誰もいなくなり静かになったあの木陰のベンチのところまできて、ラストスパートだ。と、気合を入れなおした瞬間だった。 

「ガシャン!」と、激しい音がした。蝉たちも驚いたのか、一瞬鳴き声が止まった気がした。

 

 

  あの木陰のベンチから少ししたところ、自転車と共に倒れている人を見つけた。近寄ってみると、どうやら見た感じ、女子高校生みたいだった。

 走って近寄りながら、

「大丈夫ですか!」

と叫ぶ僕。大丈夫ではないことはわかっていたけれど、出くわしたことがない状況に、僕の心は酷く焦っていた。そんな僕に

 落ち着いて考えなさいと、どこからもなく声が聞えた。ぱっと周りを見たものの、倒れている彼女以外、誰もいなかった。どこか聞いたことのあるような、優しく、そして元気な力のあるような声だった。

「な、何とか、だ、大丈夫です。すみません…。」そう言って彼女は立ち上がろうとしたみたいだったけれど、足をひねってしまっていたのか、立つことができなかった。そうだ、落ち着くんだと自分に言い聞かせ、「ちょっと待っててくださいね」と一言いい、看護師の母へ電話をかけた。電話は一コール以内で繋がった。

「はーい?どーしたのー?」

「大変なんだ母さん。道で自転車で転んじゃった子がいて、それで、怪我してて歩けないみたいなんだ。どーすればいい?」

「落ち着いて慎ちゃん。状況は分かった。おうちにその子連れてこれる? 手当てするにも道じゃ危ないから。」

「分かった。連れてくよ」

 母のその声は今まで聞いたことのない、凛とした声だった。

「僕の母親、看護師で、手当てしてくれるみたいなんで、家に行きませんか?」

 彼女は少し悩んだあと、

「すいません、お願いします。」と答えた。

「歩けますか?」

「右足をひねってしまって、支えがあれば何とか。」

「分かりました。」 

 そう言って僕は、彼女に肩を貸し、自転車のかごから落ちた本を元に戻した。ついでに

「あの、すみません。荷物、かごに入れてもいいですか?」

「ああ、すみません。お買い物の帰りで。大丈夫ですよ。」


「色々とすみません。」

 彼女は俯きながら申し訳なさそうに謝った。

「いえいえ、大丈夫ですよ。謝らないで下さい。」

 僕は片手で怪我をしている彼女を支え、もう片方の手で自転車を引いた。自転車はチェーンが外れ、後輪がパンクしていて若干重かったけれど、少し前に無駄に筋トレをしていたから、言うほど大変ではなかった。時々吹く風は彼女の長い髪を揺らし、僕にシャンプーのいい香りを与えた。

 人見知りの僕は、自分から話しかけることが当然出来なくて、そこにあったのは絶えず鳴く蝉たちの声と風で揺れる木の音だけだった。彼女のほうに視線を向けると、不安そうで、例えるなら、雨の降りそうな空模様のようだった。うーん、馬鹿がばれてしまう。何言ってんだ俺。

 あーもう、そんな事をブツブツ言ってる場合じゃない。何やってんだまったく。何とか話をしないと焦った僕は思い切って、

「あの、結構激しい音だったんですけど、、一体何があったんです?」

「そんなに聞こえましたか…。私もよくわからないんですけど、急に力を失ったように自転車がバランス失って、私、力全然なくて、しかもそこそこスピード出てたので、抑えきれなくて、そのままガシャンと…。その後に自転車見たら後ろのタイヤがパンクしてて…」

「そうだったんですね、良かったです、車とか来てなくて。不幸中の幸いってやつですね。」

「はい、その通りで、ほんとに良かったです。」

 話が出来て少し安心したのか、少し微笑んで彼女はそう言った。


 元々、そんなに距離があったわけではないけれど、話をしながらだと若干早く着いたような気がした。

 家の前には、母が待機していた。

「慎ちゃんー、お疲れ様ー。ありがとねー。」

いつもの母に戻っていた。

「じゃあ、自転車預かるから、慎ちゃんはお嬢ちゃんをそのまま中に連れてってー。」

無言実行。返事を省略して僕は彼女を家の中へ連れて行った。

家の中は、スーパーほど涼しくは無かったが、

そこそこ涼しかった。彼女の口からも、

「ふぅ、涼しい。」とこぼれた。

 僕も他人とはいえ、安堵の息をもらした。っていうか、もう他人じゃないか。期間限定の高級アイスもドライアイスと念のお陰で、無事に安全地帯へ入れることができた。

 リビングのテーブルの上には、消毒液とかガーゼとか、手当てに使うものが綺麗に並べてあった。それらのものは彼女の怪我の状態に見事に一致するもので…。というか、何でわかったんだ?未来予知でもしたのか? と、中三の発想とは程遠い、幼稚な事を考えていると、心を読んだように母が言った。

「やっぱ、予想通りだったねー。暑いからそういう短いのだと思ってたのー」

 どうやら、女同士だから通じるものがあるらしい。まあ、確かに彼女はかなり短い、極端に言うとパンツが見えてしまいそうなズボンを履いていた。ファッションについて全く通じていない僕はその服装を見て、少し勉強になったな。と思った。

「ショートパンツは涼しいし、スタイル良く見えるけど、怪我すると大変だから気をつけなねー。せっかく、白くて綺麗な肌なのに、傷ついたら台無しじゃんー。」

 母は、ノリノリで言う。

 それを聞いた彼女は目をはっと開き、気を付けます。と少し俯きながらぼそっと言った。恥ずかしかったのか、耳に紅葉を散らしたように真っ赤に色づいていた。

 それにしても、母の仕事の速さには少し驚いた。いつもは大雑把だけど、やはり仕事となるとスイッチが入るというか、バイクに乗ると人格が変わる。的なやつなのか。仕事は人を生き生きさせる。その仕事姿を見て、不安になる僕がいた。

「他は…。あ、足ひねっちゃったんだよね?」

「はい、結構痛みます。」

「そっかー。赤く腫れてるわけじゃないから、骨折とかではないと思うんだよねぇ。ちょっと待っててねー」

 このまま、何もせず立って見ているのは何となくまずいんじゃないかと考えた僕は

「母さん、手伝うよ。何すればいい?」

と仕事を求めた。

「おおっ。その言葉を待ってた!」

母のテンションがまた上がっていく。

「じゃあ、ビニール袋に氷を入れて、水入れてくれるー?」

「はいよー」

 楽しそうというか、一生懸命に仕事をする母を見て、冷え切った僕の体もあったまって、今ならなんだって出来るという錯覚に襲われるほどだった。

 母に言われた通りに作業をして、届ける。

「慎ちゃんー。次のステップよー。」

 そう言って母はタオルを持って来た。

「じゃあ、これ片付けてくるから、それ、足に固定してあげて。」

へ? と、?と!が心の中で渦を巻いた。母を引き留めようとしたものの、もういなかった。

 はぁ。と彼女には聞こえないように息をついて、

「じゃあ、失礼します。」

 第二ステップへと駒を進めた。氷水を入れたビニール袋を彼女の肌に当てると、よほど冷たかったのか、はっ。っと声が出た。僕の寿命は縮まりそうだ。

 彼女のかすかに聞こえる呼吸の音や呼吸で膨らんだり、しぼんだりする肺。呼吸に応じて動く少し大きな胸は、僕の鼓動をすぐさま加速させ、体内の血液が全て沸騰しそうなくらい体が熱くなっていた。そして、顔が彼女の耳のように赤くなっていくのも感じた。

「こ、こ、こんんんででどうかな?」

こんな近くに女子がいると状況に緊張して、口がうまく回らない。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます。」

お互い、敬語というのが余計に緊張感を与える。

これ以上、このポジションにいると、蒸気機関車に劣らないくらいの煙が鼻や耳から吹き出そうだったから、さり気なく、後ろに退いた。

 ちょうど、母も戻って来て、この状況を打開できたと思って胸をなでおろしていたが、すぐに新しい試練が僕を襲う。

 「慎ちゃん、せっかくだしちょっと二人でお話ししなー。私、ちょっと見たい番組予約してくるからさー。」

 僕は心の中で発狂した。

 母はもちろん僕のコミュニケーション能力が致命的なことは知っている。僕は、何でこんなことをするのかと聞きたかったけれど、そこにはもう母の姿はなかぅた。そして、二人の間に静寂が訪れる。少しずつ空気が張りつめていく。このままじゃ、まずいことはわかっていたけれど、口が全く動かない。何度も口を開こうとしたけれど、無駄に終わった。静寂はなおも続いている。聞こえるのは外の蝉たちの声とぶぉぉというエアコンの音だけ。そんな中、

「じ、自己紹介、しませんか?軽く。せっかく、なので。」

彼女は小さい声でそう言った。声さえ小さかったものの、その声は僕の心に流れ込んできた。

「しましょう、自己紹介。」

 相変わらずの敬語で答えた。

「じゃあ、僕から――。」

 あれ…。さっきは凍っていたように動かなかった口が勝手にそう言っていた。あぁ、どうしよう。チラッと彼女の方を見ると、足首の氷水の入ったビニール袋を手でも支えながら、少し微笑みながら僕の方を向いていた。

 逃げ場がないと分かった僕は今度こそ自分の意志で口を開いた。そして、心臓の鼓動は更に加速していく。太鼓の達人の連打ゾーンを叩いているように速く、細かい。

「僕は、原田慎也っていいます。中学三年です。えーと、部活とかは何もやってなくて。あ、学校はすぐそこの南高に通ってます!」流れがめちゃくちゃだ。わかっていたけれど、ここで止まったら、口が固まって動かなくなりそうだと思ったから、続けようとしたけれど――

「ええ!?南高に通ってるの!?」

 初めて聞いた彼女の大きな声に、そして、タメ口に、度肝を抜かれた。彼女も自分の声に驚いたのか、下を向き、いつもの声で「大きな声出して、ごめんなさい。」とつぶやくように言った。

 でも、彼女のその声は僕の心の雲を飛ばしてくれた。

「大丈夫。でも、急にどう――。」

 最後まで言いきる前に彼女が言った。その時はもとの口調に戻っていた。

「実は、私も南高に通ってるんです。」

 衝撃だった。こんな偶然もあるものなのかと。彼女もそんなような顔をして、そう言った。でも、どこか何かの覚悟を彼女の視線から感じた。いや、気のせいかもな。

「ごめんなさい、自己紹介止めちゃって。続き、お願いします。」

「ああ、はい。えーっと、あ、趣味はこれといったものはないんですけど、ゲームとか。あとは、寝ることですかね。」

「寝ることが趣味なんて、面白いですね。」

 彼女はくすくすと笑いながらそう言った。馬鹿にされているなと感じたけれど、何故か少し嬉しかった。これまでの状況にやられて、遂にドエムになってしまったのか。ああ、そうでないと信じたい。

 彼女が悪いわけではないが、彼女と話していると、同じ空気を吸っていると、調子が狂う。落ち着こうと意識したものの、ウルトラマンよりもたなった。

「じゃあ、次は私が。」

 彼女は軽く深呼吸して。

「私は、遠藤月光と言います。月光とかいて、つきひと読みます。」

 かっこいい、可愛いと思う僕をおいて、間髪入れずに彼女は口を開く。

「学校は、その、慎也君と同じ南高校に通っていて、部活は美術部に入っていて。趣味は風景を描くことと読書です。」

 僕は、こんな偶然ないと思った。母は味方してくれなかったけど、神様は僕の味方をしてくれたみたいだ。でも、この状況がなかったら、彼女が読書好きだと知ることもなかった。母には心の中で感謝をしよう。

 僕は、彼女に本について教えてもらおうと思って、頑張って話を繋げる。

「読書が好きなんですね!。どんな本読むんですか?」

 思わず、テンションが上がる。

「何でも読みますよ。現代のものから、夏目漱石とか芥川龍之介とかの偉人たちの

ものも。」

 彼女は少し嬉しそうに答えた。

「すごいですね。僕、最近読書始めたっていうか、本を読むようになったんですけど、なかなか進まなくて、なんか面白いと思わないっていうか…。読み始めたばっかりだからなのか。それとも、選んだ本が悪かったのか。こういう経験ってありますか?」

 僕は、素直に読書に対する悩みを彼女に訊いてみた。直後、いきなりこういうこと訊くのはまずかったかな。変に思われたかな。と不安に思ったけれど、彼女はさっきと同じように少し嬉しそうに答えた。

「お話って曲みたいなものだと私は思うんです。だいたいの曲ってAメロ、Bメロっていうのがあって、サビになるわけじゃないですか?それと同じだと思うんですね。読んでいくうちにサビが来るんですよ。すいません、なんかうまいこと言えないんですけど。」

 少し間をおいて彼女は続ける。

「だから、読み始めたばっかなら、もう少し読んでみて下さい。きっと来るはずです、サビが。」

「なるほど。よく分かりました。もう少し読み進めてみようと思います。」

「わかってもらえて良かったです。」

 僕は、読み進めてみてもそのサビが見つからなかったら。って訊こうとしたけれど、彼女を信じてみることにした。

そんな話をしていると、階段を降りてくる音が聞こえてきた。

「ごめんねー、お待たせー。」

 僕は、そっと胸をなで下ろす。

「あ、名前訊いてなかったね。」

 彼女は母のその言葉を聞くと、すぐに応えた。

「あ、紹介が遅れてすみません。私、遠藤月光と言います。月光って書いて、つきひです。」

母は、目をきらきらさせて

「わぁ、とってもいいー。可愛い名前ねー。だから、顔も可愛いのかなぁ?」

 口の減らない母は、調子に乗ってそう言った。彼女は言葉に詰まっているようだった。

「母さん、やめてあげなよ。」

 僕は、呆れ顔でそう言った。でも、確かに彼女は可愛かった。今までは恥ずかしくて、少し下を向いて話していたけれど、改めてみて、その横顔は白く、まるで空気が綺麗な日の月のようだった。

「慎ちゃんー。おーい、もしもーし。ぼーっとしちゃって。どうしたのー?」

僕は、その言葉で我に返る。それを見た母は、にやっとして僕のことをみてくる。この顔は本当はわかっているという顔。こういうとこが僕は気に入らない。というか嫌いだ。

 母は、僕の嫌そうな顔を当然と言わんばかりに無視して、彼女に話しかける。

「月光ちゃんはどーする?もうそろそろ六時半になるけど、足、少しは良くなったかなー?自転車もあるし、どうせならおうちまで送って行くけどー?」

 そういった直後

「いや、やっぱ送ってくよー。けが人だし、悪化しちゃったら大変だからさー。」

「いや、ここから家までそんなに距離ないので大丈夫です。散々、迷惑かけてしまいましたし…。」

母は、彼女の肩に手をのせて応える。

「いいの。私はこれでも一応医者だよー?怪我人を助けてあげるのが仕事だからさー。」

 彼女は母のその言葉に

「ほんとにすみません。お言葉に甘えさせてもらいます。」

「その言葉を待ってたー!」

 母はおもちゃを買ってもらった子どもみたい喜んだ。そして、テンションは更なる高みへとレベルを上げた。

「あ、そういうと自転車だけど、」

 そう切り出して続ける。

「実はさ、うちのお父さんが学生の時に自転車競技部でね。まぁ、私も同じだったんだけど、お父さんはメカニックって言って、自転車の整備とか、修理とかやってて、結構詳しいんだー。私は全然だけどね。だから少しみてもらおうかなーって思ってるんだけど、どーかなー?見た感じ深い傷もなさそうだし。」

「そうなんですか、迷惑でなければ…。」

そう答える彼女を見ながら、なんか、母親と話してから、なんていうか素直になったな。と思っていた。そして、僕もこれくらい話せたらなと自分の無力さに改めて気付いた。

「でも、お父さんいつも帰ってくるの遅いんだー。確か、明日は休みだったはずだから、みてもらうのも届けに行くのも明日になっちゃうけど、いいかなー?」

「はい、大丈夫です。よろしくお願いします。」

「それじゃあ、良かったー。」

「じゃあ、いこっかー。ほら、慎ちゃんもぼうっとしてないで行くよー?」

僕は口を閉じたまま、玄関へ向かった。


 外はさっき帰って来た時よりも赤みをまして、それに染められた雲たちは半熟卵の黄身のようだった。さっきより強くなった風が、なおも鳴き続けている蝉たちの声の波をさらに揺らし、ビブラートがかかっているように感じた。

「わぁ、きれーだねー。」

 母は、その夕焼けを見て、子供のような声をあげ、その景色にみとれていた。改めて、僕も空を見上げた。やっぱ、綺麗だ。赤く照らされた雲を輪郭づける影は、それはもう綺麗で、美術の授業の時聞いた、絵画の美は影にありき。という言葉を直接に感じた。こういう感動的な景色を見ると、あぁ、今生きてるんだなって、生を感じる。

 三人の心を魅了し、僕に生を感じさせるその夕焼けは、僕たち三人の時間という概念を消滅させた。

「おっと、いけないー。見とれちゃってたねー。行こー。」

 そんな母の元気な声にひかれ、僕たちは車に乗り込んだ。

「じゃあ、月光ちゃん。道案内お願いできるー?」

 彼女はえーっと、と道案内を始める。

「あ、あそこに住んでるんだー。ほんとに近いんだねー。あ、信じてなかったわけじゃないよー?」

「はい。あ、そのオレンジ色の屋根の家です。」

「おっけー。」

 もうすぐ彼女の家に着いてしまう。僕は、今日起きたことを振り返る。自分自身に苛まれた影響で、彼女とは少ししか話せなかったけれど、我ながらいい会話ができたのでは?と質問を投げかけながらも、自身を褒めた。

「お母さん、いるかなー?自転車のこともあるし、一言挨拶あいさつしたいんだけどー。」

「いると思いますよ。」

「じゃあ、いこっかー。」

そう言って、母は車を降り、それに続いて僕たちも車を降りた。

 母が先導し、僕たちは隊長についていく兵士のように後ろについていく。

 オレンジ色の屋根に真っ白な外壁。きわめつけはターコイズブルーというのか、緑がかった玄関ドア。まるで、ヨーロッパに来たよな感覚た。

 母がインターホンを押すと、ピンポーンとかじゃなくて、カランカランみたいな、ベルの音がして、ついに母も

「すっごい、おしゃれなお家だねー。」

 とさっきみたいに、目を輝かせながら言った。

 おしゃれなベルが鳴りやむと、玄関のドアがゆっくりと開いた。

少し小柄な、女性が顔を出した。彼女の母親だろう。

「こんばんはー。」

 母は、いつも口調でそう挨拶して、今に至るまでのいきさつを順を追って説明した。もちろん、自転車のことも。全てを聞いた彼女の母親は扉を全開に開け、すみませんすみません。と頭を深く下げた。彼女も母親の隣に行き、母親と同じようにお世話になりました。と頭を下げ、僕をみて

「き、今日は、ありがとう。」

 と二度目のタメ口で、礼を言った。

「ううん、お大事に。」

 そう自然に声が出た。意識して言葉を出そうとすると、ダメみたいだ。

 母の自転車は明日お届けしますという言葉を後に、僕たち二人は車に戻り、ヨーロッパをあとにした。直後、

「ああいうお家いいよねー。今から立て直したいくらいだよー。」

 と夢見る母に

「無理でしょうが。」

 と応える僕。

「夢くらい見させてよー。」

 と母は言う。

「まぁ、確かにね」

と、適当に返した。

ウォルト・ディズニー・カンパニー創設者のウォルトディズニーは「夢を見ることが出来れば、それは実現出来る」という言葉を残した。だけど、僕はそうは思わない。夢は、叶わない夢のほうが多いことを僕は知っている。

 さっきまで赤く、綺麗に色づいていた空には、少しづつ黒が混じりはじめ、かすかに夜の始まりを感じた。

「お、どっか行ってたのか?」

 車から降りると、父が丁度帰宅した時だった。

「今日は帰り、早いんだね。」

と声をかけると、僕のその言葉を無視して、

「この自転車、どーしたんだ?」

 と、そう訊いてきた。

 今日あったことと自転車の修理のことを話そうとすると、

「おかえりー。今日早いねー。」

 と割って入ってきた。そして、その勢いで、僕が話そうとしたことを話し出した。僕的には話す手間が省けて、楽にはなったけれど、おいしいところをもっていかれ、僕は、悔し混じりの気分になった。

父は、今日の出来事を聞き、理解し、気合を入れて、彼女の自転車の修理に取り掛かった。父曰く、大した怪我はしてないらしい。僕が何となくの気分で「人にして例えると?」って、少し突っ込んだ質問をすると、父は梅干しのような顔をして、首をかしげ、結局返ってきたのは、わかんないやーだった。しかも、笑顔つきの。

 口には出さず、なんだよと思いながら、やることがなくなった僕は自室に向かった。キン、キンと、自転車を直している父が鳴らす金属音。母が鳴らすトントンというまな板の音。外から入ってくる、蝉たちの鳴き声は、そして、体重が移動するたび、軽く軋む床の音。それぞれ混ざって、不思議な、それでいてどこか心地いいハーモニーを奏でた。

 自室は暑かった。なにしろ、リビングとは違って、この部屋にはエアコンが付いていない。だから、毎年年季の入った扇風機と夏を過ごしている。母たちの寝室にはピカピカのエアコンがついているのに。これが親と子の、大人と学生の差なのか?世知辛いもんだ。

 扇風機を強でぶん回してから、何をしようかとしばらく考えた。強い風を送り出す扇風機と、全開の窓から入ってくる蝉たちの鳴き声で、さっきのハーモニーは崩れたけれど、その中にジューって音がしたから、母は、まだ夕飯を作っているんだろうなとも考えて、結局、あまり気分ではなかったけれど、本を読むことにした。

 あまり気分じゃなかったけど、意外にもすらすらと、目が次の行を求め、ショーケースの中に飾られているおもちゃをみつめる子供のように、まばたきするのも忘れるくらい、そこに広がっている、夢をみせる文字に集中していた。ページをめくる手も止まることはなかった。彼女のおかげなんだろうか。ここに来て多分初めて、読書が楽しいと、面白いと感じた。

 好きな教科の授業の終わりが早く感じるように、まあ、この時は読書が好きだと言い切れるほどじゃなかったけれど、ふと壁掛けのおしゃれなアンティーク調の時計を見ると、思っていたよりも時間が過ぎていて、少しびっくりし、無意識にスマホに手が伸びて、ロック画面には十分前に母からの「ご飯だよー」という、メッセージが表示されていた。メッセージに気付かなかったのは、初めてだ。ましてや、本を読んでいて気付かなかったのは。

 僕は本を閉じ、一階に向かった。向かう前、ちらっと目に映った藍色の空には、白く、こういったら月に失礼かもしれないけれど、糸のように細い月が、弱々しくも光っていた。

 一階に行くと、さっきより強くなったであろうエアコンのぶぉーという音と、テレビで放送されているニュースで、さっき聞こえていたあのハーモニーはなくなっていていた。母たちはスプーンでカレーライスをすくい、口に運んでいるところだった。

「もー、降りてくるの遅いー。またゲームしてたんでしょー?」

 母は、眉間にしわを少し寄せて、カレーライスがのったままのスプーンを持ちながら、そう言った。

「いや、本読んでた。」

僕は、ドヤ顔というか、どちらかというと決め顔で言った。それを聞いた母たちは言うまでもなく、すごく驚いたようで、眼球がぽろりと落ちてきそうなくらい、目を見開いていた。そして、父が僕を煽るように言った。

「ははっ。こりゃあ、明日もいい天気って言ってたけど、豪雨かなぁ。」

大した返事をすることなく、勢い良く鼻を鳴らした僕は、一生懸命にカレーライスを口に運んでいく。少しむしゃくしゃしていたのか、いつもなら辛いと感じるカレーライスもそう感じることはなかった。これは一種のランナーズハイ現象なのか。けれど、額に次第についていく汗は感じた。

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