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第2章「フールズ・ゴールド」①

  朝の冷たい空気で、シャーリーは目を覚ました。薄暗い部屋の中身体を起こすと、その場でしばらく動か――。


 頭痛。頭の中で鐘が鳴る。

 視線は苦しみを伴いながら宙をふらふらと彷徨う。

 そこで見る。膝下。しわくちゃになったシーツ。それから。

 豪快な寝息を立てながら自分の隣に転がっている、豊満な肉体。いっぱいに広がる、豊かな金髪。

――……裸。

「……」

 彼女はそのまま、室内を走査する。

 綺麗好きな彼女らしく、よく整理された室内。

 ……室内…………????

 うん。服が転がっている。露出度の高い上下に、ド派手な下着。それから、ピザの空き箱にビール缶の亡骸。無数に。床に敷かれたカーペットの一部に、黄土色のシミ。いくつも。

「……――」

 頭が痛い。

 ……そのままカーテンをめくる。

 外は決して明るいとはいえない。だが光はそこにあった。帯になって部屋の中に差し込み、それらの情景を明確に映し出す。外では車の音。クラクション。人々の行き交う声、声、声。ガラス一枚を隔てて、喧騒がこもりがちに聞こえてくる。

光の粒が舞い、その先にあるものを再び見せつける。


 ……隣に、裸の女。金髪と大きな胸。豪快ないびき。

 心地よさそうに眠っている。


 それから、光の差し込む中で、彼女は自分の服装を見た。

 服装を。

 服装。


 なんのことはない。

 彼女も、何も身につけていなかった。


「……」

 自分を見る。それから女を見る。

 数度繰り返す。言葉が出ない。

 やがて隣で動きがある。

 女が起き上がり、半身を彼女に向ける。眠たげな眼がこちらを見て、よだれの垂れた口がふにゃりと曲がる。金髪がゆさゆさと揺れて、女はその言葉を発した。

「……おはよ、シャーリー。昨日はその……すっごかったね」

「……」

 彼女は女を見つめた。

 女は――にいーっと、口を曲げて……慈愛に満ちた笑顔を作る。

「……――ぎ」

 ――こみあげてくる。


 こみ上げてくる。彼女の中で総てがこむら返りを起こしながらせり上がり、喉元にまで激動する。吐いた息が戻らない。何もかもが、何もかもが……彼女の口から溢れ出す。


「……ぎゃああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」


 汚れたアパートメントの外壁。陰気な霞に包まれたストリート。大勢の人々、姿形の違う様々な者達で溢れ返る街並み。モロウ。テロド。エンゲリオ。フェアリル。車のクラクションが鳴り響き、その隙間を小さな動物の姿をした者達が駆け巡る。路上では身体を機械にした者達が応急修理の屋台を開き、その横では身体を変形させた者がパフォーマンスで日銭を稼ぐ。美しい姿の者達が着飾って通っていく。上空に昇っていくにつれて、喧騒は小さくなる。翼を生やした者達がビルディングの上層を雲とともに飛んでいく。更に上へ、上へ。

彼女の叫びは、部屋中を引き裂きながら溢れ、そして窓の外へ飛び散って拡散した。

これが、シャーロット・アーチャーの目覚めだった。



シャーリーは『諸々の事情から』、アンダーグラウンドにおける生活拠点を、イースト4thストリートの安アパート3階に定めた。

一階があまりお行儀がいいとは言えない雑貨屋、更に隣には赤茶けたレンガ壁のタトゥーショップ。もれなく大量のポップアートのおまけ付き。スキッド・ロウにもほど近いそんな環境の中で生活するのは当然ながら初めてであったが、あの日以降何らかの踏ん切りが自分についた彼女にとっては、どのような場所であれ以前のような節度と清潔さを保った上で生活するだけの覚悟と意志の力があった。

……しかしながら。未だ彼女はこの街の住人としては、あまりにも多くのことが未経験だった。随分と遅くに処女を失った女子学生のように。


「いやぁ~~~~~~~あっはっは、そういう反応来ると思ってたわ~~~~!!!!」

 グロリア・カサヴェテスはこの世の全てを吹き飛ばすかのような豪快な笑いとともにそう言った。ダウンタウンは相も変わらず暗いが、彼女の口調は常に快晴である。そしてその強い日差しは、サングラスもなしにまっすぐ照りつける。シャーリーに向けて。無論彼女としては。しかるべき反応をする必要があった。

「……ッッッっ、何が『来ると思ってたわ』なんですかッ!!!!」

 シャーリーは今……裸身にシーツを胸元までしっかり巻きつけながら、顔を真っ赤に茹で上げたままグロリアを睨んでいる。無論涙が滲んでいる。口が震えてうまく言葉が出ない。

「これは一体ど~~~~~~~~~いうことなんですか説明してください!!!! 説明を!!!! してッ!!!! くださいッ!!!!」

「いやぁ、あっはっは……参ったなあこりゃ、あはは!! めんご!!!!」

「めんごじゃ!!!! ないですッ!!!!」

 そう叫んで枕をグロリアに叩きつける。ばすんばすん。

「いたたたた、ちょっと、ちょっと待ちなって、」

「何を!!! 何をしたんですかッ!!!!」

 さながら子犬に噛みつかれる大型犬の風情。そこへ、洗面所の方から声が聞こえる。

 ……裸の男と、女だった。仲睦まじく寄り添いながら、その姿を現す。

「な……――」

「グロリア、一体何を騒いでるんだ?」「世界の終わりかと思ったわよ」

「あ、起きてたの。おはよー、コーヒー淹れて」

「なあああああああああああ!!!!!!!!!!????????????」

 シャーリーはそこで再び沸点が限界を突破した。激情が体内から溢れ出して居場所をなくして、その全てが今グロリアに叩きつけられる。混沌と恥辱のカクテル。

「ちょ、痛い、痛いってば、やめなよ、」

 ばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすんばすん。

「けっけだもの、けだものおおお!!!! 最低ッ!!!!!!!! ボクは、ボクはああああああっ、」

 後ろでその男女が散らばった服を着ている。そこに居るのが当然のように。シャーリーはそれが気に入らなかった。というより何もかもが気に入らなかった。現状の全てが受け入れられなかった。何故なら。

「……ボクはッ……こんなッ、そんなことッ…………今まで一度もッ、したことないのにッ!!!!」

 ――叫んだ。顔を赤一色に染め上げて、全身を貫く羞恥に耐えながら。

「……――」

 しかし。

 グロリアは何も言わなかった。ゆっくりと目を開けると、呆けたような顔をしてこちらを見ている彼女が見えた。豊かな髪の毛はすっかり乱れて、その周囲に小さな羽が舞っている。シャーリーがその反応を不審に思い始めると……。

「………………ぷ」

 彼女は、吹き出した。

「ッ、あっはっはははははははははは、ひいいいーーーっ、ひひひッ、あははははっ」

「なんでッ、なんで笑うんですかッ!!」

 シャーリーは当然茹でダコである。その抗議を見たグロリアは、更にひきつけを起こしたように爆笑する。

「いやだって、だって!! あははははっ、そんな勘違い、ひひっ、そんなこと思ってるなんて面白すぎてッ……いひひひひひひ、あははははははッ、やっぱ可愛いわあんた、イチゴちゃんだわ!!!!」

「……――……????」

 目に涙を浮かべながらグロリアは笑うが、徐々にそれが引いていく。同時にシャーリーもその言葉に違和を抱く程度の冷静さを取り戻す。

「ひーっ、ひーっ……ゲホッ……ゲホ」

「あの……どういうことですか??」

「あらやだ、あんたマジに何にも覚えてないの?? 頭痛いでしょう??」

「……ええ、まぁ……」

 ――心に不安が灯り始める。だが、止めるには至らない。

 それから、グロリアは顛末を語り始める。

「あのね――……昨日のことだよ。あんたと一緒にあたし達は出かけたワケ」



シャーリーが第八機関に加入して間もない日のことである。

「……歓迎会、ですか?」

「そうだ。我々の城に加わる新たな戦士を迎え入れるための儀式でもある。君は喜んでお受けしてくれるかな?」

 アークロイヤルのアップルミントを燻らせながら、フェイ・リー室長は目の前で言った。

「……――!」

 断る理由などありはしなかった。

シャーリーは喜んで首を縦に振った。エスタを取り戻すということが途方もない目的と化してしまった今、彼女たちに対しては感謝以上のものを沢山抱いていたからだ。

……だが。

「よし、店の予約は出来ているか?」

「バッチリっスよ」

 キムが敬礼しながら言った。

「やっぱりね、そう言うと思ってたのよねぇ、じゃないとめんどくさいところだったわよ!」

 グロリアが、シャーリーに後方から抱きついた。大きな胸が背中に当たる。

「あの……????」

 シャーリーがふと抱いた違和感について尋ねる。

 するとフェイは、あっさりと答えた。

「ああ。――店の予約は数時間前に済んでいたんだよ。君が断る状況を想定していなかったものでね」

 ……そしてシャーリーは、その時点で逃げておくべきだったのだ。


 ダウンタウンのグランド・アベニューにあるダイナー……通称『テッドの店』。

 数日前の惨劇からなんとか持ち直した店内はいたるところに継ぎ接ぎの板張りが見受けられるが、カウボーイハットの髭面の男は気丈にもカウンターに立ち続け、店内を一望している。茶色のテーブルと椅子。ヴィンテージウイスキーやワイン。古びたシーリングファンにジュークボックス。ごきげんなサザン・ロック。その殆どが元の姿を取り戻し、店内は今活気で満ち溢れていた。

 ……――だが。

 今、軋みを立ててドアが開いた。

 すると、客達が一斉に、水を打ったように静まり返る。テッドもまたそちらを見た。そして、目を丸くして口を開いた。

 ……彼が。いや、彼らが顔を青ざめさせ、震え始めたのはそれから一秒後である。どこかでグラスが割れた。

「奴らが…………――」

 今。足音を立てて――。

 その女達が、やって来る。

 連なるシルエット。

「奴らが…………『嵐』が、来やがった――!!!!」

「やぁ諸君。久しぶりだね……――さぁテッド、かけつけ一杯、命の水をくれないか」


 ……シャーリーは知ることになった。

 フェイ達が……ダウンタウンで何と呼ばれているのかを。

 当然ながら、第八機関、ではない。それは――。


「……“LAのメイルストローム”が……――来やがった…………!!!!」

 客の一人が、そう言った。

「えっ……えっ…………????」

 事態を飲み込めていないシャーリーだけが首を左右に振る。だがフェイ達は一切を気にせず、店の奥へと進んでいく。

 ――シャーリーもまた、とりあえずカウンターに向かう。処刑を待つ囚人のように全身を震わせる男のもとへ。

 シャーリーは、やはり事態が飲み込めなかった。

 だが、皆が一斉にカウンターに座り、導かれるまま自分もそれに従って数十分後。

 ……彼女は、全てを理解した。


「あっはっはははははははははは!!!!!!ぎゃははははははははははははは!!!!!!!」

グロリアがカウンターの上に寝転びながら転げ回り、この世全てを掌握したかのように呵々大笑する。その状態でコナ・ビールの瓶を開け、上から注ぐ。黄金色の液体は彼女の口から漏れ、ダバダバと滝のごとく周囲に雪崩れていく。店主が悲鳴を上げる。「やめてくれ、もうやめてくれっ……」

「聞いてくださいよォ、あたしはねえ、あたしはねえっ…………グスッ、ぐすっ…………――」「分かるわよ、分かるわよぉぉぉ……」

キムとミランダがカウンターから離れ、何故か床の周囲に椅子を積み上げながら酒を飲み交わす。その周囲には無数の皿が散乱する。キムはテロド専用のコーヒーフレーバー飲料、ミランダはウォッカ・モスコフスカヤを牛飲している。とんでもないペースで。

「憤ッ!!!!」

その向こう側――広いテーブル席側では、チヨが乱闘を繰り広げている。店の一角を空けることで作り上げられた即席のリングである。小さなチヨに巨漢の男が挑みかかる。「嬢ちゃん、ヒック……そんな小さいナリで俺に勝てんのかい、ヒーヒー言わせてやるぜ……」「ひっく……――◯◯◯◯」

彼女も酔っ払っていた。彼女は小さいが22歳だった。千鳥足と、濁った半月状の目つきのまま男を挑発する――日本語で。その仕草がプライドに障ったらしく、男は額に青筋を立てながら突進する。だがチヨはするりと、流水のように男の懐に潜り込む。そして彼を掌底でふっとばす。

「やっぱりすげぇぞ嬢ちゃん!!」「はははは、ビッグ・ジムも情けねぇなぁ!! エンゲリオの面汚しだ!!」「タマついてねぇんじゃねぇのか????」彼女たちの到来に青ざめていた男たちも、今やすっかり『出来上がって』いた。というよりは、そんな風に仕立て上げられた、と言ったほうが良いか。全ては彼女たちが作り出した状況である。

 男は端に寄せられたテーブルの群れに頭を打って気絶する。チヨは自然発生的にレフェリーを務めていた魚眼の男に手を挙げられる。「……ふんす」

「あっはっはははははははははは、最高、最高よチヨ、あんた今最強に輝いてるわ!!! こっち来なさいよ、あたしのおっぱい揉ませてあげるから!! それとも別の所が良い???? あー楽しい、あっはっはははははははははは、あっはっははははははははははゲホッゲホッ……あっはっはっはっは!!!!」

グロリアは相変わらずカウンターの上で転げ回りながら酒を飲む。チヨはカウンターに座り、周辺に落ちていたウイスキーのボトルをひっつかんでラッパ飲みし、やがてその場でぶっ倒れる。それを見て、さらにグロリアが爆笑する。

「……」

 ミランダがやおら立ち上がり、唐突にグロリアを指差して急に言い出す。

「この地を汚すめぎつねめ、あらしと勝負しなさいよ脳味噌空っぽ女」

「なんなんスか???? 百合ですか百合、やっべーめっちゃ尊い、きてる、やれー、やっちゃえー、あははははは」

勝手に楽しそうなキムを差し置いて、グロリアはそんなミランダを指差しながら爆笑する。すると当然ながらミランダはブチ切れて、椅子をまとめてなぎ倒しながら前進し、にっくき金髪女に掴みかかる。だがその時の腕の振るいが、思わずチヨの後頭部に当たる。彼女は眠りから覚まされる。ゆっくりと顔を上げた彼女の顔は不機嫌の権化となって、そこには悪鬼羅刹が憑依していた。「誰だ……儂の眠りを妨げたのは……」そこで彼女は暴れ始める。その攻撃が客に直撃し、別の客の仕業だと思った男が別の男を殴り始める。怒りは連鎖して、乱闘が開始される。どこかで悲鳴が上がるがお構いなしだ。火を噴く男、蛇の舌を持つ者。片腕に鈍器の接続された男。大勢のフリークス達が店内で暴れ回る。

「あははははは、あはははははは!!!!」キムが嬉しそうに手を叩く。そしてそのさなか、店主が号泣している。「やめてくれ、もうやめてくれええええ……」

店内の陽気なBGMと共に、店の中がケオスに呑み込まれていく。まさにメイルストロームのように。全ては彼女たちが現れてから始まったことだった。

「……」

そしてカウンターでは、そんな騒動を見ながらちびちびとウイスキーを飲むフェイが居た。アベラワー・アブーナのロック(水割り)である。彼女はその喧騒には『一切』関わっていなかったが、目の前で起きている全てを楽しげに見つめていた……慈悲を湛えた、いつもどおりの涼しげな瞳で。

その隣に――シャーリーが居る。

「なんだこれ…………なんだこれ…………」

 あらん限りの困惑と苛立ちと憤怒とその他諸々の混沌とした感情のカクテル。もはや溺死寸前。その感情を知ってか知らずか――いや間違いなく知っている。フェイは聞いてくる。

「楽しくないか????」「楽しいわけ無いでしょう!! 店長さん泣いてますよ!!!!」

「なーに、いつものことだ。な??」

 カウボーイハットの男はさめざめと涙を流しながら静かに言った。その言葉は奇妙なまでに凪いでいた。しかしそれは死期の決まった男が窓から枯れ葉を見るようなものなのだ。

「ふざけんな……これで何度目だ……お前らが来るたびこれだ……時間だって、費用だって馬鹿にならねぇ……」

 そこでフェイは、くすりと笑って言った。まるで酔っていない。

「だが、お前は我々を追い出すことは出来ない。そういうからくりになっている。――なぁ?」

「…………勘弁してくれ。そいつを言われたら俺は、あんたに首輪を差し出す羽目になる」

 ……一体この男の何を握っているのだろう。

 想像すれば無数の嫌なこと――これまで見てきた街の光景から導き出される様々な可能性――が頭に浮かんだが、それ以上は考えないようにした。

 いずれにせよ、シャーリーが言うべき言葉は、次のひとつに集約された。

「……最低だ…………」

 頭痛がしてくる。酒を飲んでいるわけでもないのに。胃薬がほしい。もっと言えば今すぐこの場所から抜け出したい。だがそれは出来ない相談だ。ではどうすべきか。分からない――詰み。

「いや~~~~~~~っっはぁ~~~~~~~~い!!!! どーーーーーしたのよおかわいこちゃん~~~~~~~~元気ないぞおおおおおおおお」

「うぎゃーーーーーー!!!!????」

 冷静な(つもりの)思考は中断される。素っ頓狂なほどに元気な声が聞こえてきたと思うと、後方からふわりとした髪の毛の感触。続いて、後ろから抱きつかれ、胸を鷲掴みにされて揉まれる。当然正体は……グロリアだった。

「ぎゃあああ、先輩ッ何やってんですかッ!!?? ちょ、くさっ、酒臭ッ!!」

「だってあんたがさぁそんな所にいるからあたしらこうやってさぁ、ぐっちゃぐちゃに……」

「というか、ボクを口実に呑みたかっただけなんじゃないですか!!??」

「んーそれもあるけど」

「あるのかよ!!!! おっぱいをつかむな!!!!」

「まぁいいからほら、こっち来なさいよ、あっはっは!!!! 今夜はこれからよォ!!!!」

 そしてグロリアはカウンター座席からシャーリーを引き剥がし、まるでサバトのごとく熱狂の中に居る酔客達のもとへ誘おうとする。そこには全身を真っ赤に染め上げた様々な姿の男達女達が暴れ狂っている。乱闘は未だ続いていた。グロリアは体よくそこから抜け出してきたわけだ……そして今、シャーリーをその中へ引きずり込もうとしていた。

 彼女は助けを求めてフェイの方を見た。だが彼女は、聖母のような笑みを浮かべながら、ただ一言、こう言っただけだった。

「強く生きろ」

「……――」

 ――……フェイに対する見方さえ、変わってしまった。

 この人も。

 ……いや、訂正しよう。

 この女も、結局は第八機関の人間なのだ。血も涙もないブギーマン。その中の一人に過ぎないのだ。

 頭の中で無数の罵詈雑言が渦を巻いたが、全ては無に帰していく。シャーリーは泣きそうな顔になる。人間だと思っていた存在が、いつの間にかエイリアンになっていた事実を突きつけられたように。孤立無援の戦場の只中に立たされる。 

 彼女は間もなく引きずり込まれる。だからこそ、その前に。

「ほらほらぁ、さっさと来なさいよ新人!! ベッドメイクの仕方から教えてあげるから!!!!」

 最後の抵抗をする必要があった。これから先、何が起きるか分からない。ならば、せめて正気だけでも――。

 そうしてシャーリーは、引きずられながら、水の入った瓶をひっ掴んで、口の中に流し込んだ。

「あっ――」

 気の抜けたその声は、フェイのものか、グロリアのものか。

 いずれにせよ、何もかもが遅かった。

 彼女は、ラベルを見ていなかった。

 ――視界が、急激に、歪む。

 ――足取りが、ふわふわに、なる。

 ……間もなくシャーリーの意識は裏返り、全ての理性が溺死した。


……。

…………。

「……いちばん、シャーリーーーー!!!! うたいまぁ~~~~~~~す!!!!!!!!!!」

「ひゅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、いいわよぉ新入りィ!!!!!!!!」

「あははははははは!!!!!!!!!!!あははははははは!!!!!!!」

 真っ赤な顔の少女が、店の中央で千鳥足。

 数分後。そこには、エアマイクでジュークボックスに合わせて何かを熱唱するシャーリーの姿があった。

 周囲のフリークス達の熱狂は比類なきものとなり、その中心にあって、シャーリーは更に己の正気を自らの手で削り取っていく。彼女は大声で歌いながら目をぐるぐる回す。呂律もろくに回らずに、へにゃへにゃになった口から意味不明な言葉が溢れ出す。

「いぇーーーーーーい!!!!!!!!!!」

「いいぞおおおお、やれやれえええ!!!!」「ぎゃははははははははははははは!!!!!!!!」

 グロリアは大喜びで手をたたき、期待の新人の勇姿ちたいを見守っている。彼女はとうとう巨漢のモロウ達に胴上げをされながら、ますます勝手に楽しそうになっていく。数分前の彼女からは想像もつかない姿だった。そしてそんな状況のすぐ後ろ側で、ミランダがグロリアの背中を延々とぽかぽか殴り続けて呪詛を吐いている。当然彼女も完全に出来上がっているので、何を言っているのかは分かったものではない。ただ分かるのは、グロリアはまるで気付いていないということだ。そして更にその横で、チヨとキムが会話にならない会話をしている。「オウムガイって良いですよね……」「そうだな。しもつかれが食べたい……」

 フェイはといえば――踊るシャーリーの様子を見ている。

「参ったな……ああなるとは流石に予想外だ。オスカーを狙えるぞ」「お前……あの子、アレでいいのか……?」

 店主がげっそりとした顔で聞いた。彼女は彼の方を向いてにっこりと笑った。何も言わなかったが、その顔にはこう書かれていた――“どうしよう、これ”。

 ……間もなくシャーリーは、錐揉み回転しながらその場で仰向けの大の字になって倒れた。

「あははは、あはははは……」

 笑顔で、楽しそうに。


――更に、数時間後の深夜。

店の中はすっかり静まり返り、うめき声だけが響いている。死屍累々。極彩色の怪物たちが折り重なるように倒れ伏し、身動ぎを続ける。店の明かりが生白く店内に灯り、外の暗さとの激しい陰影を形作る。どこかで夜の鳥が鳴く声がした。

その中で店長だけが、黙々と――葬儀の際の神父のように、店内の片付けをしている。割れた皿にガラス、何かわからない食べ物のカスや吐瀉物。倒れているものたちの合間

を縫うようにして箒を掃く。その中には、隅に蹲っているミランダや、隣同士でもたれあいながら寝ているキムとチヨが居る。

「……んんっ、あー、ふわっ……」

グロリアが乱れた髪をかき上げながら起き上がる。頭痛がひどいのか地球の終わりのような表情をしている。酔いは多少醒めているらしかった。隣でへらへら笑いながら倒れているシャーリーを小突きながら、カウンターで背を向けているフェイを見る。まだ彼女は酒を飲んでいる。

「んん……あたし、この子…………送ってくわ」

 ……フェイはグロリアを見る。

「大丈夫か?」

「だいじょーぶだいじょーぶ。あはははは」

「そうか」

 フェイはそれ以上は何も言わなかった。何か言いたげにも見えたし、それ以上言うことは無いようにも見えた。いずれにせよ今のグロリアは脳の半分が死んでいたので、関係がなかった。

「この子の部屋にぃ~♪ 連れて帰るだけ~♪ ドナドナドーナ~~♪」

 シャーリーを起こす。それから気持ちよさそうな顔でいびきを掻いている彼女を店の外へと引っ張っていく。部屋の隅ではミランダが、そんな二人を見つめながら何かをブツブツ言い続けている。呪い殺さんばかりに。キムとチヨは溶けるかのように一つになって寝ている。フェイはまだ酒を啜っている。

そしてグロリアの後方に、ぞろぞろと別の者達。彼女の取り巻き。間もなく店内は、音量の小さくなったジュークボックスの音色と、重々しい酒の匂いで溢れ返る。


 ……それからのいきさつは簡単な話で、ぐだぐだのグロリアに引きずられてアパートの自室へと向かっていたシャーリーは、その道中に突然起き上がり、回らぬ舌で何やらわけの分からないことを言った後、公園にある噴水の縁を綱渡りの如くふらふらと歩いた挙句に落下して水浸しになり、そこでしばらく笑い続けた後再び眠りに落ちたとのことだった。それから酒浸り一行はようやくアパートに到着し、グロリアの一握りの理性は濡れたシャーリーの服を全て脱がせるまではなんとか持っていたらしかった。


「さて……呑み直すか」

 ……グロリアは知らないままだった。

フェイが彼女たちの後方をしばらく尾行した後、店に戻ったということを。

ついでに言えば、我らが室長は恐ろしく酒が強かった。


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