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第1章「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」13

 果てのない暗黒の中で、彼女の思い出が回想される。何度も、何度も。


 ――そうだ。

 私は、希望なんてどこにもない状態で生きてきた。

そのまま、何もかもが終わると思っていた。

希望がないなら、必然、絶望もない。だから泣き続けて生きていけばいいと思っていた。そのまま涙が枯れれば、何もかもがなくなるから。


でも、そこへあの子はやってきて、私に笑顔を勝手に寄越した。

そのせいで、私は彼女に呪いをかけられた。

希望なんてものを見なきゃいけないようになって……そのせいで、この世界が素晴らしいものだと思わなきゃいけないようになってしまった。その時は嬉しかった。でもあの時の自分は愚かだった。


 今なら分かる。あの子が、あの子が悪いんだ。

 私に何もかもを与えるだけ与えて、最後には逃げてしまった。そうして、半端な希望を奪い去って、完全な絶望を私に投げつけた。


 だから私は許せない、あの子が。あの子が。


 ――……本当に。


 ――《《本当に??》》


 私が最後に手に取ったのは、あの赤いマフラー――。



「奥義――『疾風怒濤シュトゥルム・ウント・ドラング』!!!!」

 チヨが腰でカタナを構えたまま、叫んだ。

 それから間もなく。彼女の姿は、消えた。

 いや、違う。

 その瞬間、時間の流れが変わる――ように見えた。少なくともチヨにとっては。

 彼女は消えた。

 そして、無数の斬撃を、化け物の胴体に真四角に刻み込んで地上へと降り立った。

 そのまま彼女は倒れ込んだ――しかし。

 その切り取られた緩慢な時間の中で彼女は。その腕を振るった。振るい続けた――あまりにも、長い一瞬。彼女の動きは精密を極め、そのカタナの動きはまるで流水の如く。そして始まる――斬撃、斬撃、|斬撃、斬撃、斬撃、斬撃、斬撃、斬撃、斬撃《ズババババババババババババババという、ひとつながりのあまりにも長く鋭く、そして甲高い音の連鎖。その間に行われたことを目撃できる者は誰も居なかった》。


 ――そうして今、地上に降り立ってくずおれたチヨが居る。

 その真上の陰の只中で、化け物は――。

 胴体の中央部を、何重にも切り裂かれていた。幾つもの亀裂が生じて、そこから幾重にも折り重なった煙が噴き出し、肉の焼ける匂いが漂った。その、更に奥。触手と肉をかき分けた部分の中で――あるものが露出していた。

「……エスタ!!」

 シャーリーが叫んだ。そこに居たのは眠り姫。目を物憂げに閉じて、その場に固定されている。ようやく、その姿が顕になった。

 ――それが、合図だった。

「行くわよ」

 ミランダは地上に降り立って、グロリアの首元を掴んだ。唐突に。彼女は「えっ」という言葉を言おうとした。だが既に遅く、空中へと飛び出していた。「ちょっ――」ミランダは黙っている。前方を見る。化け物の姿――その中央部に眠る少女。既に周囲の肉の再生は始まっている。だが、明らかに遅い。これまでよりもずっと。チヨによる斬撃が、あまりにも多量に刻まれていたのだ。

 ……グロリアがそれ以上のことを言う前に、既にミランダが彼女を空中へ運び込んでいた。化け物はチヨの攻撃を受け、姿勢を崩し、その場で倒れそうになる。それだけで大地が揺れて、更なる阿鼻叫喚を地上にもたらす。「こっちに倒れてくるぞおおおお!!!!」「来ないでぇッ!!!!」


「ちょっとあんた!? 何考えて――まさかとは思うけど、」

「……グロリア。貴女。私にあることないこと好き放題言っていたそうじゃない?」

 ……ミランダの低い湿った声が、グロリアの耳朶を打った。そこには怨嗟が篭っている。

「はぁ!? なんのことよ――」

「とぼけるんじゃないわよ。フェイから聞いたわよ……『30過ぎのおばあさん』? 『菜園でも育ててろ』? その語彙力はその馬鹿みたいにでかい胸から来ているのかしら?」

「あんった――そんな言いがかり信じてるっての!? あたしはそんなこと――」

 ――と。

 ここで。グロリアの中に、一筋の思考が通り過ぎる。

 (……でもこのまま反論するのも、それはそれで癪よね)

「……ハッ」

 グロリアは吹き出して、自分を吊り下げているミランダを見上げて、言った。

「そうよ。そう言ったけど? それが何か? ぜーんぶ事実じゃないの」

「――……」

 二人は見つめ合った。片方はゾッとするほどの無表情。もう片方は、小馬鹿にしたような笑み。


「――今ので吹っ切れたわ。そのまま落ちて死ね」

 ミランダは、グロリアを手放した。


「ああああああ!!!!!!!」

 真下に化け物が居る。落ちていく、落ちていく。グロリアは絶叫する。その顔が直下にある。叫び、悲鳴を上げながらも、彼女は空中で姿勢を制御する。ミランダはふん、と鼻息を一つだけ鳴らして空中で背を向ける。グロリアは叫ぶ。その大きな口が、すぐ下になる。そこに、顔が向くように――。

「てめええええええ、高さ考えろおおおおおおお!!!!!!!!」

 その叫びとともに。

彼女の身体が金色の粒子に包まれていき……化け物の内部へと、沈み込んだ。彼女の姿は見えなくなった。

 ……それから。

 化け物の脚が、地面へと沈み込んだ。彼は身をかがめる。その腕を振るう――鈍い動き。地面が揺れて、周囲が一瞬だけ静寂に呑み込まれる。そのまま彼は長く呻きを残し……間もなく、走り始める。再び……ビルを巻き込みながら。途端に、大勢の人間の悲鳴が彼の足元で炸裂する。彼はその身体を先程までと同じように狂い悶えさせながら咆哮し、その身体を揺らした。巨体が商業ビルにぶつかった。その次に、茶色のタイルを持つ銀行へと衝突。窓ガラスが吐き出される。震撼する。恐慌が広がる。蟻のように人々が逃げていく――。

 ガリガリと火花を散らしながら、化け物が進んでいく。逃亡する人々から見れば、それは薄い暗がりの霞の中で大きな影が暴れ狂い、向こう側へと消えていくように見えた。だがその視点もすぐに、同じように逃げていく人々に呑み込まれ、中断されていく。

 ――そしてそれは、予定された動きでもあった。その先に、キムが居る。

 ただそれまでと明らかに違うのは、化け物の進み方にあった。彼は確かにそれまでと同様、苦しみながら進撃していたが……その両腕は、胴体にあった。ざっくりと開いたその傷を、自分の両腕で抉り続け、常に開いた状態で保持していた。それは、グロリアが化け物の内部に『侵入』したことによるものだった。それを知る者は数人しか居ない。

「……やれば出来るじゃない」

 ミランダは静かにそう言って、ほんの少しだけ唇を上に向けた

「おい……行くぞ」

 チヨがバイクを駆動させる。彼女は傷だらけだったが、その苦痛を表面に出すことはしなかった。あくまで平然と、なんでもないように振る舞っていた。

「……はいっ!!」

 シャーリーは彼女の言葉に従ってバイクの後方へ飛び乗った。そして移動開始する――化け物に追いすがるのは、あっという間だ。その傷口に、エスタが居る。

 すぐそこまで迫っていた。彼女も……そしてキムも。


 ――激震の中、彼女の意識が浮上してくる。

(――そうだ。怖かったのは。怖かったのは、自分だ)

 バイクの駆動音が遠くの彼方から響いて、その存在が浮上する。まるで水底から浮かび上がるかのように。

(元々2つに別れてたものが、再び2つになってしまう……そんな現実がもう一度やってくることが怖かった。でも、シャーリーは来てくれた。怖くて仕方なかったはずなのに。来てくれた。私のところへ)

 そこから地に降り立って、自分に向けて駆けてくる存在を感知する。してしまう。彼女は自然と眉根を寄せて、苦悶を形作る。本人にさえ気づけない変化。彼女は今、確実に目覚めようとしていた。

「エスタッ!! ――そこに、そこにいるんだよね!?」

(どれだけ傷ついてボロボロになっても。ああ……ああ、なんて優しくて。なんて愚かなんだろう。あなたが私を思うたび、あなたの身体は擦り切れていく。きっと私はあなたを遠ざけるのが一番なのに。でもあなたは、私に寄り添うことであなたで居てしまう。そう言ってのけてしまった)

「――お前の力、出番だ」

「……はいっ!!」

 彼女の右腕が三度目の変貌を遂げる。巨大な腕となる。遠くまで、届く拳に。

 その変化さえ、今となっては――感知できた。

 彼女は変わった。自分のために、人でなくなってしまった。

 それをはっきりと知覚し、彼女の嘆きは体の外側に溢れそうになる。

(だからもう、私はあなたと一緒じゃなきゃ生きていけない。これは呪い。お互いにかける呪い。でも、これは……鎖でもあり、絆でもある)

 化け物は確実に進撃を続ける。ビルの壁面に壁を打ち付けながら、ダウンタウンを破壊していく。もはや報道ヘリでさえ愛想を尽かしてやってこない。被害は全てのストリートの三分の一以上を巻き込みながら広がっていく。悲鳴が聞こえるが、それさえも遠くに聞こえた。その中でシャーリーは右腕を構えた。その後方でチヨが……カタナを抜き去る。今、化け物は――エスタの居る場所は、彼女たちの、目の前。真っ向だ。

(ああ、だから、言ってしまう……この一言を、言ってしまう。あの時届かなかったこの手を、伸ばして……)

 シャーリーはその場で飛び上がる。チヨがその真下にカタナを差し込んで、バネのように……一気に、跳ね上げる。

「さぁ――取り返してこい」

「はいっ!!」

 そして空へ。

 チヨが尻もちをつく。ミランダが物憂げに見守る。フェイが、タバコを吹かす。

 ……間もなく。

 

 エスタが今、完全に目を覚ました。

「――《《シャーリーっ!!!! 私を助けてッ!!!!》》」


 その一言で――すべてが始まって、終わった。涙が、伸ばされた手が、はっきりと見えた。シャーリーには見えていた。空中に跳ね上がった状態で、はっきりと。右腕を引き絞る。化け物が目の前にいる。その動きは未だ機械のごとくいびつ。チャンスは今しかない。ぎりぎりまで――その機構を後方へ、後方へ。


 一瞬、彼女は空中で静止した。

 その時――十年前の光景が、二人の間で流れた。絶望とともに離れていく手。恐怖。逃げた自分。離れた相手。だが。今度は。

 ――今度こそは。


「……ッ」

 その腕が、限界まで引き絞られ、ゼラニウム色のマフラーが……風に揺られて、たなびいた。


 変わらない。あの頃と――何も変わらない。変えさせない。


「ッッッッッッ…………エスタアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!」


 その腕が発動して、彼女の機構が激しく作動した。拳の先が爆ぜるように射出されて、エスタに向けて猛然とまっすぐに突き進んだ。シャーリーは空中で姿勢を崩す。エスタはその大きな拳に身体を掴まれる。彼女は手を差し伸べて掴まった。彼女の身体を拘束していた触手が引きちぎられ、粘質の汁を垂れ流す。彼女が、離れる。


 ――次の瞬間には、シャーリーの拳はエスタを自分の体の手前へと引き寄せていた。


 空中で、二人の目があった。そして身体が触れ合って、今やシャーリーは完全にエスタを抱きしめていた。シャーリーとエスタ、それぞれの髪留めがほどけ、二人の髪が宙を舞い、流れる。瞳がお互いを見つめ合う。抱きかかえたのは左腕。エスタの細い身体の確かな熱がそこにはあった。一瞬の交錯で、二人は互いのすべてを見つめ合った。そのまま、刹那が幾つも過ぎ去って――終わった。

 

 ……時間が、もとに戻る。シャーリーは目を瞑って意識を失ったエスタを抱きしめたまま落下する。その下にバイク。チヨが二人を受け止め、そのままバランスを崩して、斜めにスライディングして停止する。三人が埃にまみれながらその場で止まる――ザザザと音を立てながら。

 だが――。

「まだだッ――」

 化け物は止まらない。最後の抵抗をするかのごとく進撃を続けた。その脚をもつれさせ、足元の地面も、車も、何もかもを巻き添えにしながら、のたうつ触手に塗れながらも進んでいく。さながらそれは陸に打ち上げられた魚が最後の抵抗をするかのように醜く跳ね回る様を思わせる。「なんでまだこっちに来るんだッ!!!!」「逃げろ、逃げろ逃げろ!!!!」声が響く。進んでいく、進んでいく。ミランダが翼をはためかせながら降りてくる。彼女の腕の先に掴まっていたフェイも降り立って煙草の煙を口から吐き出す。化け物は進んだ。街中を煙と炎で溢れさせながら。「まだだ……だが、もう終わる」

 その先に、あるのは。その、猛進の先にあるのは。

 ――サウス・グランド・アベニュー。曲がりくねった道の先にあるストリート。そこには奇妙なまでに誰もおらず、大きな空白が空いている。海を割ったあの男のように。その空白の、中心にいるのは――。

「GYAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHHHH!!!!!!!!!!!!」

「さぁ――今だ、キムッ!!!! やれッ!!!!」

 そこに待っていたのは、崩れかけたビルを背にしたキンバリー・ジンダルだった。

 そして彼女の背後には、その建物全てが青白い電撃に包まれており、一つの巨大な雷の柱を形成していた。彼女は地に――正確には、アスファルトが剥離して剥き出しになった電線に手を当ててしゃがみ込んでいた。彼女は電気そのものを背景に置いて、ただそこで待っていたのだ。迫る化け物――ビル中に稲光が走り、帯電している。彼女はその場にしゃがんだまま、前を見ていた。口の端を曲げて、苦笑のような表情を浮かべ、鼻血を流している。「さぁッ!!!!」

 ……間もなく。

「インドラの!! 出血大サービスっスよッ!!!!」

 化け物が、青白い閃光に包まれた雷の柱へと――頭から突っ込んだ。


 ……グロリアはその瞬間に、彼の身体から抜け出した。

「どわああああああああああああッッッッッ!!!!」

 キムの目の前に飛び込んでくる――二人で、後方へと吹き飛ぶ。

 ……後ろを、振り返る。


「AAAAAAAAAAAAAAAAARRRRRRRRGHHHHHHHHHHH!!!!!!!!!!」

 間一髪――化け物はその瞬間に、雷の凝集されたその場所へと突撃し、その全てを全身に浴びた。


建物が崩れていく。彼の身体に青白い火花が散っていき、何もかもつんざく轟音と咆哮、悲鳴のような炸裂音が一帯に響き渡る。夜空がその場だけ異様なまでに明るく照らされ、何もかもの注目を集める。

逃げていたすべての者達が足を止めた。その光景に見入った。肉の焦げる匂いが漂う。化け物は悲鳴を上げ続け、その間雷撃は彼の身体を激しくいたぶり続けた。


 ……――数分後。

 電撃が消え失せて、化け物はその動きを完全に停止した。

「あ“~~~~~……危なかった……」「ぐ、グロリアさん、重い……っス」

身体中に焦げ跡を残しながら口から黒い煙を吐いて、その場に倒れ込む。周辺にビルやアスファルトの破片が舞い上がる。地面が大きく一度揺れ、倒れる余波に少しばかりの人々が悲鳴を上げた後は、一転して、静寂が訪れる。

「…………」

 グロリアとキムは立ち上がる。彼女たちの後方に、小さくチヨ達が見えた。

 ……足音が響く。

 二人が振り返る。

 フェイが歩いてくる。煙草の煙を口から吐きながら。

「――ご苦労だった。キム、グロリア」

 二人は唖然とした顔になって彼女を見つめる。そこには一つの了解があり、何かを察したゆえの反応があった。

「室長……」

「フェイ、あんた……」

わたし(フェイ)にも、たまには身体を張らせてくれ」

 そう言って、二人の肩を叩いて、化け物の前に立つ。

 沈黙――だが。


 突如として地面が揺れ動き、化け物の腕が急速に持ち上がった。その口の端から唸り声が聞こえ始めて、身体全体が鳴動を開始した。その場に居る皆の姿勢が崩れる。グロリアが舌打ちをして吐き捨てる。「まだ動くの――!?」

 そこで、フェイは……。

 更に、前に出た。

 それから、煙草を口から離す。目の前で、再起して動き出そうとする化け物。黒焦げになり、崩れた肉を引きずりながら……濁った咆哮を上げる。

「哀れな……今、元に戻してやる」

 フェイは呟いてから、後ろを振り返る。そこにはシャーリーと……エスタが居る。彼女たちに、声をかける。

わたし(フェイ)も、選ばれた一人だ」

 反応を確かめることもなく、再び前を向いた。更にもう一歩。煙草を指で摘んで、前方へと差し向ける。その先端に灯った橙の火を彼女は見つめた。そして。

「――『魔星封印・108シーリング・ワンオーエイト』」

 その言葉と共に、煙草が複雑な幾何学模様を描きながら飛翔。後方へ橙のラインを流しながら化け物の元へ飛んでいく。その光は彼の身体をその模様で包み込み、縄のように拘束する。そして、締め付ける。化け物が苦悶の唸り声を上げる。

光が更に強く、強く締め付ける。その光の模様そのものに意味があるようだった。彼はやがて喘ぐように上を向いて、更に咆哮する。

彼の体の内側にまで食い込み、そして彼自身から溢れ――場が、橙に包まれる――。


 ……数秒後。

 フェイの手元に煙草が飛び、戻った。すると後方には、橙の規則性のある軌道を体表面に刻印された化け物が倒れ込み、光の中へと包まれていった。


「――眠れ」

 ……それから間もなく。

 光は収縮し、化け物は見えなくなった。

 そこから出てきたのは……。

 ――只の人間。数日前、建物の前で暴れるさまをシャーリーに見せつけていた、あの筋肉質の男だった。ほぼ無傷に近い身体のまま、そこに横たわっていた。化け物は姿を消していた――というより、男の暴走が、停止した。彼は本来の姿を、ようやく取り戻したのだ。

 フェイの、力によって。

 ……彼女は彼の方を振り向くことなく、再び煙草を口に咥えた。先端から、一筋の煙が立ち上る。

 そのまま彼女は、なんらかの思いに耽った。

 更に数秒。

 フェイは、チヨ、グロリア、ミランダ、キム、そしてシャーリーとエスタを振り返って、言った。

「諸君。――これにて、任務完了だ」



――……スタ。


――――…………エスタ。ボクの声が聞こえる?


 そして少女は、目を覚ます。


 頭に走る鈍痛を知覚しながらゆっくりと目を開ける。おぼろげだった輪郭が次第にしっかりと結ばれ、ひとつの現実を目の前に焼き付ける。彼女は、少女を見た。

「シャーリー……?」

 ……幼馴染の顔が、そこにあった。

 髪がほどけ、泥だらけになった顔。安堵した表情がエスタを見つめた。

 そこで――すべてが分かった。

 彼女の心が震えて、涙がこぼれそうになる。真実の全てが、彼女の中に一斉に押し寄せる。少しだけ目を移動させると、膝枕をする彼女の右腕が傷だらけで、袖がなくなっているのが見える。それが何を意味するのか。その右腕で、何をしたのか。

「私を……助けたの……??」

 震える声で、言った。

「うん」

 大切に思ってやまない彼女は、あっさりと頷いた。

 エスタは縋るように上体を起こして、彼女に抱きついた。その背が震えて、いくらでも言葉が心の中に溢れた。それでも、実際に口に出たのは僅かだった。

「私はまた……あなたに……背負わせてしまった……ッ、私は――」

「どうってことないよ。友達を助けられたんだから、それでいい」

 彼女はそう言って、エスタの背を優しく撫でた。痛々しい右腕で、それが更に彼女の内面を掻き立てたが、同時にひどく落ち着いていく自分も居た。それさえもエスタには悲しかった。

「でも……そのせいで、あなたはもう――人間じゃ、なくなったのよ」

 シャーリーは一瞬押し黙る……その表情に影がさして、笑みが消える。

 だが、次の瞬間には。

「――おそろいだね。あはは」

 困ったように眉を曲げて、エスタに笑いかける彼女が居た。

「――ッ……!」

 ……エスタの中で再び思いが膨れ上がり、弾ける。

 涙が溢れて、彼女と彼女の肌を、衣服を濡らしていく。抱きしめる。強く強く。その肌のぬくもりを感じる。変わっていない。十年前から、何も変わっていない――。

 後悔と、懺悔と、安堵と……それからもっと多くの、沢山の感情。流れ込み、外側に漏れ出ていった。

「痛いよ、エスタ」

 彼女は最後の一言に、全てを込めた。

 結局、伝えるべきことは謝罪でもなければ、贖罪でもなかった。

 ――ああ、これだけだった。

「…………ありがとう、シャーリー……」

「……――!」

 シャーリーはその言葉を聞いて、腕に力を込めた。その言葉と、ぬくもりを全身に感じながら。

 彼女もまた、零れそうな涙をなんとか堪えながら、小さく言った。

「…………うん」

 赤いマフラーが、二人を包むように垂れ下がっていた。

 十年前の、あの頃と同じように。


 そんな二人を、少し遠くからフェイが見つめていた。

 煙草を口から離し、煙を空へと吐き出す。

 長い息をして――その場で、ぐらりと倒れる。

 ――ところを、抱きとめられた。金色の豊かな髪が目に入る。

「……馬鹿ね。頑張っちゃって」

 フェイはくすりと笑いを漏らして返答する。

「意地の張れぬ組織の長など、何の意味もない」

「……ほんと、馬鹿」

 フェイの口には……血が滲んでいる。煙草を持つ手が、震えている。

 グロリアは彼女を抱きとめたまま、悲しげな表情を浮かべていた。

 抗えない夏の終わりを見つめるかのような、どこか遠くを眺めるような表情――。


「お疲れ様っス、ふたりとも」

 キムが、チヨとミランダにそう言った。

「……地面に倒れながら言われてもね」

「えへへ……今回は流石にハードでしたっス……」

 彼女は瓦礫まみれの地面に横たわって動かない。メガネのフレームも歪んでいた。しかし、その疲労の顔の中に、一つの達成感のようなものが滲んでいた。

 チヨは相変わらず何事にも無関心な様子で座り込み、遠くを見つめている。傷だらけ。

 ミランダは外傷こそ目立たないものの、明らかな疲れが見て取れた。

「…………休暇がほしいわ。全く冗談じゃない」

「同意する」

 キムは苦笑して、力みながら上体を起こす。

「まぁ、でも……これで、一件落着――」


『それでこそ――それでこそです、シャーロット・アーチャー!』


 その声はあまりにも突然に響き渡った。耳朶を打つ声の主はあまりにもはっきりとしていて、皆が気付いて上空を見上げた時には、とっくに事態が始まっていた。

「――」

 誰もが空を見上げた――めりめりと異様な音が聞こえた。ガラスを無理矢理引き裂こうとするような、人間の悲鳴の如き音。そこにある光景。

 ハイヤーグラウンドの影、暗黒の空に銀色のヒビが奔り、ダウンタウン全体をまるでベールのように覆っていく。そして今、そのヒビが割れていく。赤い空間が見え始め、その奥から顔を出す者が見え始めた。血でもなく、花でなく。昼でなく夜でもない空間。発狂しそうなまでの原色の赤――そんな空間が裂け目の奥から顔を出し、その場に居る誰も彼もの目に映った。事態の収束を建物の中で待っていた人々も窓を開けてそれを見た。その場から少し離れた所に居た警官たちも空を見上げた――それから、フェイ達が、見た。

「ディプス――」

 ……そう、顔を出したのは誰もが知るその男。今、赤い空間のすべてを覆うような巨大さでその姿を見せていた。直径を考えるだけでも正気を失うほどの巨大さで、空を包み込んでいる。彼はそのまますべての人々を見下ろしながら、あの笑い声を出した。

 ――声は、シャーリーに向けられていた。はっきりと。

『君は予想通り! 僕の期待を上回ってくれた、だがまだ! まだ足りないッ! 僕の倦怠は――こんなものでは満たされないッ!!』

 その声と共に亀裂から飛び出し、地上へと伸びてきたのは、異様なまでに白い幾本もの腕。触手のようにのたうち、空間を彷徨いながら、彼女らの居るその場所へと猛然と伸びてくる。

「……!」

 フェイが駆け出して、煙草を口から離した。伸びた腕は、地上のある一点をはっきりと狙っていた。まるで滝のように降り注ぐ。しかし、彼女は……。

「ッ――」

 口から血を吐いて、その場で崩れ落ちる。後方からグロリアが駆け寄り、彼女を支える。フェイはなおも前を向く。

「あわわわわ、何何何何……」

 キムは震えながらチヨの後方へと逃げ込み、腕にしがみつく。彼女はすぐさまカタナを構える。その時には既にミランダは懐から拳銃を取り出し、腕に向けて放っていた。そう遠くはない。それで十分だった――が、当たらない。いや、当たっていたはずだった。全てすり抜けていた。「えっ……」戸惑う声。

 シャーリーは咄嗟に、エスタを自分の後ろへと隠して、庇った。だが、その手は彼女をすり抜けた。その感覚が彼女の中に走ると、戸惑いと動揺と……――目を、見開く。戦慄する。

「エス、――ッ…………」


 腕は――エスタを掴んでいた。

 いや、彼女の中の、何かを。

『そう、全ては……今ここで始まる……!!』

「嫌だ――……わたしが、《《わたしが、裂ける》》!!」


 それがエスタの叫びだった。シャーリーは振り返った。そこには気を失い、倒れ込む彼女の身体があり、前方には腕に掴まれ、絡め取られた状態でシャーリーから引き剥がされるエスタが居た。その身体は透き通っていた。質量が感じられなかった。彼女は手を掴んだ。ぞっとするほど、何も感じなかった。そこにあるのは無だった。エスタの顔がシャーリーをとらえた。恐怖に満ちていた。その瞬間――シャーリーは、右腕を起動させる。左腕で、彼女の手を掴んでいた。右腕でも、掴もうとした。

 だが、全てはすり抜けていく。彼女の身体は腕に掴まれたまま、急速に亀裂の向こう側へと引きずり込まれていく。それは時間にして数秒だった。その僅かな間に何かが出来る者など、誰も居なかった。チヨは駆け出して、ミランダは腕に狙いをつけていた。だが、何一つとして叶う暇がなかった。シャーリーはエスタの名を叫んだ。叫び続けた。彼女の左手がほどけて、縁が消え失せようとしていた。

「エスタッ――エスタっ!!!!」

 そして彼女は……言った。最後に、その言葉を残した。

「シャーリー!! 何があっても、私は!! あなたの、――」

 その手が、シャーリーの赤いマフラーを撫でて、そして、離れた。

 ……間もなくエスタは無数の腕に拘束されて天へと昇り、赤い空間の向こう側へと消えていく。

「……」

 シャーリーは。

「ッ、うあああああああああああ!!!!!!」

 叫び、その亀裂に向けて腕を伸ばした。ぎりぎりまで、伸ばせる限り。機構がきしみを上げるが、意に介さなかった。伸ばした、伸ばした。だが――届かない、届かない。エスタが見えなくなる。声が響く。

『彼女の“魂”だけを奪った! 取り返して欲しければ、僕の望む存在に君がなってください――君こそが、僕の倦怠を破壊してくれる存在になるでしょうから!!』

「ふざけんな、ふざけんなっ――ふざけんなッ!! エスタを、エスタを返せぇッ!!!!」

 シャーリーは天に叫ぶ。エスタはグロリアに支えられながらディプスを睨みつける。だが彼は彼女など目に入っていなかった。シャーリー以外の誰にも興味を持っていなかった。

『これから君と……彼女たちが! この街の危機を救うたび! 彼女の魂の欠片を返してあげましょう! そうして8ヶ月後、僕が与える最後の試練を乗り越えた時、君に彼女の最後のパーツを返し! エスタ・フレミングは復活する――その時まで君は、力を蓄えておくといい!! はっはっはっはっは!!!!』

 彼の高笑いは空間の中で響き続け、鐘の音の如き余韻をその場に残していった。銀色の亀裂はゆっくりと閉じ、赤い空間が見えなくなっていく。シャーリーの伸ばされた腕は宙に置かれたまま、目的を失った。そして、そこには静寂だけが広がる。ディプスは、居なくなった。

「……」

 周囲は今だ呆然としていた。あまりにも突然の出来事。何もかもが嵐のように過ぎ去っていった。

 静寂。暗闇と、街の音と、光だけが残される。

 シャーリーはその場に膝から崩れ落ちる。フェイが彼女に近づいていく……。

「ッ……――うあああああああああああッッッ!!!!」

 彼女は右腕で地面を殴りつける。アスファルトが陥没し、周囲に煙を起こす。

 轟音が消えて、その場で彼女は叫ぶ。

「上等だ――ボクはもう、迷わないっ……二度と、二度とだ!! 絶対にエスタを取り戻す、絶対にッ……!!!!」

 彼女は立ち上がって、後方へと歩む。

 そこには意識なく、人形のように横たわるエスタの身体。

 シャーリーはしゃがみ込んで、その頬を、髪を撫でた。その口の端に、僅かばかりの寂しげな笑みが浮かんで、言葉にならない何かを呟いた。

 ……しっかりと抱きかかえて、歩き始める。そこに魂がなくとも、熱があった。彼女が生きているという、確かな事実があった。

 ――“何があっても、私は、あなたの”。

 その最後の言葉が、シャーリーの中でリフレインし続ける。心臓の鼓動のように。

 彼女は、歩いて行く。瓦礫を、崩れたビルを背にして。


 その場に警察の部隊がやってきて、怪物が暴れていた最後の区画を封鎖し始めたのは、それからすぐ後だった。お早い手並みだった――実に慣れている。

 黒と白で塗り分けられた厳しい車両が幾つも往来の真ん中を塞ぎ、その両端を強面の男たちがまるでシールドのごとく固めている。その手前には、これまた大量の人の群れ。カメラやメモを持った者達も混ざっていて、熾烈な争いを開始する。

「だからお前達は入ってはならんと言っているだろうがッ!! とっとと出て行けッ!!」「そんな馬鹿な話があるか、たしかにここで化け物は暴れて――そして消えた!! 何があった!!」「いいか、そんなに教えてほしけりゃ言ってやる……『何にもなかった』、それが答えだ!! 理解したならとっとと昨日のNBAの速報記事でも書いてくれ!!」「ふざけるな、はぐらかすのもいい加減にしろ――」野次馬というべきか、烏合の衆の一人が警察のガードをかいくぐってその奥に行こうとする。「逃がすかッ!! このクソ野郎が!!」そこへ人員が飛び込んで彼を羽交い締めにする。「ぐえッ……これが公権力のやることかッ!! 俺は市民だぞ!!」「ここではこれがやることなんだよ、お前さんもよーく知ってるはずだ!!」「いいぞ、やれやれ!!」「ギャハハハハ!!!!」


 シャーリーが、フェイ達のもとへ歩いてくる。

「……もしかしたら」

 今、彼女たちは一つの場所に居た。グロリアも、ミランダも、キムも、チヨも、そこに居た。その言葉は、全員に対して響いた。

「これから、始まるのかもしれない。我々の、本当の日々が」

「フェイ……――」

「……なんてな」

 彼女はふっと笑おうとしたが笑えなかった。

そんな奇妙な表情のままコートを翻し、煙草の煙を後方へ残す。

 シャーリーと、対面する……。


『さて、今夜のロズウェル・ナイト・ショウもここまでだ! なにやらダウンタウンは騒がしいようだけど、夜は誰にでもやって来る……ではここでフェアウェル・ミュージックといこうか……皆、この曲とともに、思い思いの時間を過ごしてくれ! ――』


 長い夜が過ぎていく。視点は、彼女たちの上へ、上へ。ダウンタウンの至る所から煙と炎が上がっている。化け物の通った場所が巨大な獣道となってストリートが蹂躙され、多くの場所で建物が半壊または全壊の憂き目にあっている。その周辺を、途方に暮れたアウトレイス達が亡霊のように彷徨っていく。車や瓦礫が街中に散らばっている。全てを元に戻すには、あまりにも多くの時間がかかりそうだった。

 ――街のすべてが小さなジオラマになり始める。空を飛ぶ人々を除いて。そして、闇の中の無数の小さな灯りさえ遠くに消えていき、一つの凝縮された灯りになっていく。


 藍色に包まれた暗い世界の中で、確かに輝いている、たったひとつの光。

 その街の名を、アンダーグラウンド。

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