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第1章「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」10

「チヨ。お前の仕事だ」

 カタナを構え、前方を睨んだままの少女に声をかける。銀髪の彼女は振り返ることなく無感情な口調でただ一言零す。

「遅いぞ」

 フェイがふっと口元を緩める。

「そう言うな。お前はミランダと共に予定したポイントまでこの色男を誘導。そこでキムが待っている」

「儂は了解した。ではミランダはどうする」

「何。私が檄を飛ばしておくさ」

「……御意。これより迎撃に移る」

「任せたぞ」

「当たり前だ」

 間もなくチヨは脚部を深く地面に沈み込ませ、重心を下へ下へと落としていく。その脚に『孔』が花開き、青白い光が充填されていく。フェイは微笑みを残したまま彼女に背を向ける。それは信頼の証。その反対側で、チヨもまた少し口元を緩めていた。彼女は――踏みしめた。駆けていった。一気に。まるではじけ飛ぶように。彼女の解放された力。彼女の――エンゲリオとしての力。硝煙の向こうにいる化け物に向けて、吶喊していった。

 フェイはシャーリーの目の前で、次なる指示を出す。電撃的に素早く。それこそが第八機関の本領。彼女は端末の先の、憂鬱な声を聞いて苦笑した。

「……ミランダ。そろそろ仕事にかかってくれないか」


「無理よ……難易度が高すぎるわ」

 デグチャレフ・カスタムを構えたまま、ミランダ・ベイカーは低く呟いた。彼女の居るビルはまだ化け物の脅威に晒されていない。もっとも足場が崩れ去ったところで、彼女には一切問題にならない。その背中に生える翼が、彼女の生存を助けてくれるからだ。しかし――彼女の心が、それをさせてくれるかどうかは分からない。

『我々の仕事はいつだってそうだったろう』

「……今回のは特によ」

 ……咆哮が間近に聞こえて、煙の中で巨大なシルエットが蠢いた。その中で幾つかの閃光が見える。それはチヨによる斬撃で間違いはない。ミランダは溜息を付いた……不可能だ、不可能な仕事だ……それを命令するフェイに腹が立つ、そして今こうして何もしていない自分にも腹が立つ、だから彼女は常に死にたいのだ――。

「どうせ無――『ちなみに、グロリアが言っていたぞ。ミランダの奴は今頃無理だ無理だと嘆きながら自己啓発セミナーの連中と一緒に痛々しい詩の朗読にでも洒落込んで、悲劇のヒロインを気取りながら髪の毛をひっつめて老け込んでいくんでしょうね、だって30過ぎのおばあさんなんだもの、人生にリスクは選びたくないわよね、せいぜい奥に引っ込んで菜園でも育ててればいいんだわ、だって30過ぎの――』ちょっと待って」

 そこで、ミランダの目がはっきりと開かれる。

「それ、本当にあいつが言ってたの。あの売女が」

『あぁ、そうだとも。お前の体たらくを伝えたら、それはもう臓物がひっくり返って一面に広がるほど爆笑してたぞ。あと、こうも言っていたな――あぁ、でも彼女を責めないであげて、だって何にもできない人って本当に哀れだもの――と……』

「……んんんんんんんん~~~~~~~…………ッッッ」

 彼女はそれから天に向けてのけぞり、奇声を発しながら頭をかきむしった。少しの時間が経過して――落ち着きを、取り戻した。

 ……その目は、まるで刃のように鋭く、胡乱に研ぎ澄まされ、前方の獲物に向けて据えられていた。その向こう側では、チヨが戦い続けているのが見える。

「……それで。私は何をすればいいの」

『当初の予定通りだ。お前とチヨで、キムの所まで誘導する。出来るか』

「当たり前。私を誰だと思っているの」

『……それは済まなかった。頼りにしてるぞ、鷹のホークアイ

「重畳」

 通信がそこで終了した。ミランダは長く細い息を吐いて、デグチャレフ・カスタム――第八機関上層部により、彼女自身のために生み出された対戦車ライフルを構えた。

 ……チヨは怪物と戦いを続けているが、彼女がその巨大で醜悪な肉を切り裂くたび、たちどころに身体が再生していく。以前よりもずっと強力で、厄介だ。そして、そのスケールの差はこちらから見ても歴然。遠い靄の向こう、巨大な人型の周囲を小さな虫が飛び回っているように見える。それを、遠い鐘のような重い音の連なりが彩っていく。

 しかし……それだけの話だ。何事も、不可能ということはない。

 彼女は構えて、トリガーに指をかけた。

 第一射は、チヨの攻撃の合間を縫うようにして放たれた。

……当然、フェイの言ったことは嘘である。


「――はぁ!? アンタそれ正気で言ってるわけ!?」

『本気も本気だ』

「バッカ……あたしの負担も考えなさいよッ!!」

『キムも大概だぞ』

「くッ……」

 グロリアは建物の影に隠れて、今彼女のすぐ近くで起きている『騒ぎ』から離れた場所でフェイと通話していた。電話越しの彼女の声は半笑いのように聞こえて、それが余裕のない状態のグロリアの気持ちを逆撫でした。ふざけるな、今の自分の状態は――。

「やはりそうだ!! 幾度となく訪れた世界の終わりの前触れ!! 一度消えて再び現れた、まさにそれこそ神の御業にほかならない!!」「そうだ、いよいよもって世界は終わるのだ!! アポカリプスナアアアアアアウッ!!!!」「ではその世界の終わりは誰が導くのか!!?? それこそ我々だ、神によって化身された我々にこそ相応しく――」

「いい加減に黙ってくれ!! こっちにも化け物は近づいてるんだぞ!! お前達だって逃げなければ無事では済まないんだ!!」「黙示録ごっこもいい加減にしてくれ!! ここには馬もイナゴも居ないんだ!!」「あ、馬は居るぞ。一課のトミーが……」「今その話は良いだろうッ!!!!」

 彼女のすぐ近くで起きている喧騒は、今回の『世界の危機』とは似て非なるものだった。


数分前より彼らは突如として現れて、ここで騒ぎ始めた。威圧的にペンキで彩られた立て看板や悪辣なディフォルメが施されたタペストリーを掲げながら、各々の姿を誇張する服装を持ってして、口々に終末論を囃し立てる――。

今、グロリアの近くで暴れている連中は、そんな『団体様』だった。何度となく目にしてきた連中だった。今ダウンタウンが危機とあって、大喜びでストリートに馳せ参じたというわけだ。この街では、これもよくあること。

対峙しているのは勿論ロサンゼルス市警察の諸君。へたに武力で刺激してはさらなる騒ぎが起きかねないとあっては、まるで手出しが出来ない。おまけに今回は――。

「いつもの連中はどうしたぁ、警察どもッ!!」「あぁ!? キーラ班長なら先日の騒ぎで入院中だクソボケ!! だから俺達がてめぇらの相手しなきゃならねぇんだろうが!!」

 歯並びの悪い痩せ型の男が、集団の先頭に立って血管がブチ切れるような勢いで叫んでいる。グロリアも彼のことを知っていた。そんな彼の腕にはざわざわと羽毛のようなものが広がっており、実際彼もまた我慢の限界に来ていることは明白だった。

「――……あぁもう、見てられない……」

 “ロットン坊や”なら、ここで何かとんでもないことをやらかすこともあり得ないではない。そもそも今グロリアのそばにいる警察とは、そういう連中だ。グロリアは溜息をついてから、フェイに対して返答する。

「……分かったわよ。あいつが来たら、やればいいんでしょ」

『そういうことだ。ところで、そちらが騒がしいが、何かあったのか』

「なんにもないわよ。ヨハネスブルグ並に平和」

『なるほど』

 そこで通信を切った。それからグロリアは、異様なまでの熱気を持った集団と、彼らに対峙する警察の間に入るように、建物の影から移動した。それから、口角泡を飛ばすロットン坊やの隣に立った。

「……あんたねぇ。ここで流血沙汰起こしたらあたしらまで面倒くさいことになるの。やめてくんない??」

「なんだぁ!? 民間人は――――……ッッッ、てめぇは第八のッ、」

「そーよ。ここで待機って話だったのに、うっさいのよあんたら」

「またてめぇらか、俺達の邪魔ばっかしやがって!!」

「邪魔はあんたらだっての。要するに、何? このうるさい連中をどうにかしたいってわけ?」

「何だ貴様は、我々の神聖なデモンストレーションを邪魔立てするのか」「いや待て、この女は、噂の第八の――」「あぁ何たることだ、ここに来てこの世界の救世主たる女性に――」

「……そりゃあ、そうには違いないが。お前に何が出来るっていうんだ」

 グロリアは腰に手を当てて、彼に向けて指を振った――“坊や、これからお姉さんがいいところを見せてあげるわ。”

「何を――」

「いい? 気持ちよくなるためにはね。相手のことを、考えなきゃ……駄目なのよ」

 そう言って彼女は――。

 対峙する集団のうち一人をおもむろに引き寄せて、相手の唇の間に、自分の舌をねじ込んだ。

「――ッ!?」

 相手が悶え、手足をバタバタと暴れさせる。周囲が一瞬にしてあっけにとられる。グロリアの身体が発光し、手足の先から粒子に変換されていき、相手の身体の中に吸い込まれていく。それから――光が、その相手の全身を貫いた。まるで魂を掌握されたように。

 光は、まず一人を貫いた。続いて、後方のもう一人。まるで矢のように――次々とそれは迸って、その場に居る者達を射抜いていく。一筋の光が走っていく。それはグロリアであるはずの光だった。誰もが皆自分の体に起きたことに気付かなかった。気づかないうちに、それは起きた。

 それから。

 あれだけ騒いでいた者達が、おもむろに口をつぐんだ。

 そうして、向かい合う警察の者達から、身を翻す。

 次の瞬間には、統率のとれた軍隊のようにその場から去っていく。地面に看板を捨てて、全ては夢で、ここでは何も起きなかったのだというように、列をなして歩き去っていく。

 彼らの顔には脂汗が滲んでいて、口はまるで縫い合わされたように閉じられている。視界は前方に固定されていて、苦しげな表情だけが浮かんでいる。

「……あいつ」

 警察の一人が呟いた。

「あいつが、あの精霊フェアリルが、やったんだ……」

 ――そう。それはグロリアの力だった。

 一瞬で、大人数の身体のコントロール権を奪って、その場を離れさせていったのだ。

 呆然とする警察を前に、混交とした者達が去っていく、去っていく……。

 警察を前に大立ち回りを演じていた者達が我に返り、第八機関の人間に手を出されたことを知って、今更先程までの行動に戻ることも不可能だと悟り、全ての気勢を削がれるのと、グロリアが全身を汗で濡らしながら、よろよろと警察のもとへ戻ってくるのは、それから十分ほど後だった。

「お、おい……大丈夫か」

「ばーか。こんなもんじゃないのよ、あたしら第八機関ってのはッ……ゲホ、まだ、世界を救っちゃいないでしょ?」

 彼女は目の下にあざのようなものを浮かべながらも、強い笑みを浮かべていた。


 ――同時刻。

 キムもまた、厄介な連中に絡まれていた。といっても今度は、警察だった。

「だーかーら。作戦に必要なんでスよ。だからここのビルの電力を使わせてもらうって、そういう話じゃないっスか」

「馬鹿を言わないでくれるかい、オタクちゃん……使った後はどうする、どうなる?」

「まぁ、一生使い物にならないっスね。廃墟にするしかないでしょう」

「それが問題なんだけどな……」

 彼女たちが今居るのはサウス・グランド・アベニュー。

先日、怪物の『素体』が猛威を奮った場所に他ならない。当然ながらいまだその場所には瓦礫が飛び散り、建物にヒビが入っており、中には地震が過ぎ去ったかのように崩れかけているものもある。

そんなビルの一角の前にキムは立っていて、その向かい側にはラフな黒いスーツを着こなした浅黒い肌の優男。その胸にはLAPDの印があり、指先が機械の鈍色に光っていた。

「どのみちここは使い物にならないっスよ」

「そういう問題じゃないんだけどねぇ……」

「いいからいいから、リカルドさんは避難誘導とか色々あるでしょ? そっちやってくださいっス」

 諭すような口調でキムは言った。少し離れた場所で轟音が響いて、少し遅れてから咆哮が地面を揺さぶった。「あいつ、かなり近いぞ!!」「逃げたほうがよくない????」

 口々に人々が言う。そこにはまだ大勢のアウトレイスがごった返していて、騒動を遠巻きに眺めている有様だった。警察は彼らを安全な場所に誘導しなければならない。

 ……電話がかかってきた。キムが受け取ると、フェイの声が聞こえる。

『キム。所定位置に居るか?』

「あ、大丈夫っス。ここまであいつが来るんスね?」

『そうだ。その前にグロリアが奴に潜り込んで、眠り姫を“抉り出す”。リスキーだがそれが最適だ。奴は時間が経過するごとに強靭になっていく』

「了解っス。フルパワーで行きますよ」

『頼む』 

 通信終わり。キムは身を翻して、瓦礫だらけのビルの敷地内にずんずん入っていく。当然警察はそれを黙って見ているわけにはいかない。

「ああーっと! ちょっと何やってんの!! 一体何する気なんだい!!」

「ここにね、これがあるんスよ」

 キムが指差したのは、ひび割れたアスファルト――その奥に、束ねられ、奔っている電線がある。リカルドはそれを見て、それから彼女の立っている場所を見た。そして、彼女がこれまでやってきたことを彼なりに思い返した。

 ……彼の顔は、青ざめた。

「ちょ、ちょっと待て――まさかとは思うが」

 キムは、あっさりと笑ってから、断言した。

「はい。ここに化け物がやってきます。あたしはここに巨大な電磁シールドを形成して、奴を完全に受け止めるっス。そうして動きを止めたスキに、トドメを刺せば、化け物は元の姿に戻る……というわけっス」

「……っ」

 ――途方も無いことを、目の前の少女は簡単に言ってしまった。リカルドは頭を押さえながら、ふらふらと、2,3歩ほど後ろに下がる。小さく言葉を零す。

「それじゃあ、やっぱりこの一帯は……」

「まぁそうですね。ここに化け物が向かってくるわけっスから。今よりもっと酷いことになると思います」

 きっぱりと。

「簡ッ単に……そんなこと言ってくれるなよっ……駄目だわ、涙出てきた……」

「大丈夫っスよ~。リカルドさん達は巻き込まれないっスから」

「そういうことじゃないんだよ……何かあれば矢面に立たされるのが俺達ってことを、君らはすぐ忘れるじゃないか……勘弁してくれ……」

 彼は頭を抑えていた。本当に参っている様子だった。

 ……地面がもう一度、揺れた。

 近づいている。

化け物は、確実にここに近づいている。

「ほらほら、リカルドさんもぼーっとしてる場合じゃないっスよ。ここの人達も早く避難しないと!」

「ああ……そうだな。君の上司に伝えておいてくれ、『地獄に堕ちろ』と」

「了解っス。満員の場合は?」

「アルカトラズが空いてると言ってやりな……」

 それからリカルドはキムに中指を立てた後、自分の後方に待機していた者達に一斉に指示を出した……鉄面皮の部下たちは、雷に打たれたかのように一切に動き出す。

「LAPDだッ!! 貴様ら今すぐここから離れろ、方角はグランドパークだ!! 我々が誘導する方向に向けて動け、わかったな!!」「お前ら警察があいつら倒さねえでどうすんだ、何やってんだお前らはぁッ!!」「うるせえええ!! 納税者扱いしてりゃつけあがりやがって!!」「公僕が市民に銃向けんのか!? ユーチューブに上げるぞコラぁ!!」「いいからさっさと……――あああ、また近づいてるぞ、早く、早く逃げろおおお!!!!」

 その場で大規模な暴動でも起きかねない勢いで、警察が雑踏を整理していき、強引に経路へと案内していく。これではどちらが正しい側か分かったものではない――おそらく、他の街から来た者からすれば。

 キムはその様子を見ながら苦笑し、改めて崩れかかったビルの群れに向き合った。

「……」

 彼女はジーンズのポケットから何かを取り出して、握りしめた。それは小さな、象の形に彫られた石だった。

「……大丈夫。あたしは大丈夫」

 その言葉をマントラのように唱えて、彼女は背筋を伸ばした――。



「それって……どういうことですか」

 地響きと咆哮が聞こえてきた。その中で、シャーリーはフェイの背中に聞いた。いささか身勝手な、場当たり的な苛立ちもそこには含まれている。

「言った通りさ」

「それが分からないんです。だってあなたたちは正義の味方だって言ったじゃないですか……この街で暴れてるような人達とは、まるで……まるで違った。少なくとも、ボクから見たら、そうだった!!」

 懇願するかのような口調で――そして、彼女の中に、これまでの時間が凝縮されて流れていく。共に過ごした時間は僅かだが、あまりにも濃密な二日間であったのだ。

「だから……ボクと同じだなんて言われたって……そんなの、信じられません」

「ところが、そうでもないんだなぁ」

 フェイは、翻ってシャーリーの方に向いた。それからいつもの、あの超然とした笑みを浮かべた。

「わたし(フェイ)の仲間はね――皆、決して消えない傷を心の中に抱えているんだよ」

 ……その顔に僅かな陰りが浮かぶ。遠くで音が聞こえた。それはまるで、霧笛のように響く。


 ――目の前で怪物が暴れ狂っている。すぐ傍だ。気紛れを起こしてこちらに腕を振るってくれば、無事では済まない――そんな距離で、彼女はデグチャレフ・カスタムを構える。それから照準を、その巨体から僅かに先の場所に合わせる。彼女の瞳周辺が『ざわついて』、羽毛が生じる。その瞳が、鋭い鷹の目へと変貌する――……彼女は、引き金を引いた。

「ある者は――過去に大切な人間を失った」


 ……化け物が僅かにたたらを踏んで、身体の向きを変化させた。ミランダの銃撃が効いたのだ。そのまま、痛みから逃れるようにのっそりと歩みを進める。その下で地面は陥没し、車は跳ね上がって悲鳴を上げる。少しの移動でこれだ――もはや天災といえる。だが、化け物の腕の上に、まるで水面の波紋の如く佇む和装の少女は平然としていた。それから再び構えて、カタナを振るう――……肉が裂けて、ばっくりと切り口が開く。だがまだ足りない。まだまだ――足りない。肉体の中央では未だに少女が囚われていて、目を覚ます気配がない。ならば――まだまだ、斬撃を打ち込む必要がある。彼女は、地面に降り立って、カタナを構え直す。

「またある者は――消えない過去の罪に怯えている」


『中継を繋いでいますッ!! ――怪物は現在、ウエスト6thストリートから移動を始めましたッ――何故でしょう、まるで苦痛に呻いているようです、あっ、向きを変えた……ビルに化け物の腕がまたぶつかりました!! たちどころに上半分が崩れていきます……しかしその身体に……なんだあれば……銃撃? 斬撃!? 分かりませんが――なんらかの攻撃を何者かに受けています、そして、身体の向きを変えて移動しつつありますッ!! ……ああ、またビルに被害が――物凄い煙と炎です、ダウンタウンは現在あらゆる場所が悪夢のような惨状に見舞われています!! これではまるでゴジ――』


 ……ヘリが飛んで行く。金髪の女はそれを見て、僅かに汗を流した。なるほど、きつい仕事だ。しかし、やらない理由はない。やらなければ、あの腹立たしい年増女の思うがままだ。それに、愛しの彼女の願いだ、聞き入れないわけにはいかない。彼女は、笑みを作った。

「ある者は、自分の出自を呪い」


 彼女は息を吸い込んで、精神を集中させた。こういうときにおすすめの方法があるのだとチヨに教わったが、どうもうまくいかない。やはり自分には自然よりも無機物が性に合っているらしい。配線に指先を触れさせて、僅かに光らせる――それだけで、流れ込んでくる力が分かった。なるほど、場合によっては――死ぬかもしれない。ぞっとしない――だが、それでもなお彼女には、命を賭してやるべきことをやる理由があった。

「ある者は――背中を追いかけてくる後ろめたさに抗い続けている……」


 フェイは、そう語った。

 シャーリーにはまだまだ分からないことがあった。それが多すぎた。

「それでもなお、皆立ち上がった。何故か、分かるか?」

 そう聞かれた。

「分かるわけ……ないじゃないですか。だってボクは……皆さんとは、違う……」

 それは一つの反感と、そして諦めだった。なるほど、たしかにフェイの言う者達――つまり、第八機関の皆はそんな苦しみの中で立ち上がったのかもしれない。自分よりも酷い境遇の中から抜け出して、今こうして活動しているのだ。素晴らしいことだ、立派なことだ。

だが――自分にそんなことが出来るなんて、まるで思えない。だって自分は――友人がほんの少し、前と違ったというだけで……周囲の世界が少しだけ以前と変化したというだけで逃げた……どうしようもないほどの弱虫で、情けない存在だからだ。ゆえに今、シャーリーにはフェイの言葉が反感をもって響いた。

「だからっ……ボクには何も出来ないんです――ごめんなさい、ごめんなさい……」

「――それは違う、シャーロット」

「エスタに……何も出来なくって――ボクはあまりにも……」

「――シャーリーッ……!!」

 フェイは。

 シャーリーの腕を、掴んでいた。そして、叫んでいた。

 その叫びは、一つの混乱から彼女を覚まさせるのに十分だった。彼女の話を聞くだけの冷静さを取り戻させるには十分だった。

「フェイ……さん?」

 彼女の表情に、もう笑みは浮かんでいなかった。そこにはある種の怒りすら浮かんでいた。もう煙草を吸うこともなく、あの余裕そうな表情も消えていた。彼女は、真剣そのものだった。遠くの音が断続的に響き続ける中、彼女は言った。

「いいか、シャーリー。君が何を思っていようと、君よりも少しばかりタフな日々を多く過ごしてきた者として言っておくぞ。我々と君の経験に差などありはしない。あるのは、その過去に対してどう向き合うか。そのプロセスだけだ。君は自分を呪う必要などないし、今からわたし(フェイ)がそれをさせない」

 ……彼女の言葉は、不思議なほどにシャーリーの胸に響いた。そこにあるのは真摯な彼女の思いだった。茶化しなどありはせず、思いがありのまま込められていた。だからシャーリーは、聞いた。聞き続けた。

「我々は確かに正義の味方かも知れないが、我々は空を飛べるわけでも無敵の盾を持っているわけでもない。強力なマシンを揃えているわけでもない……ただ我々にあるのは、『決して自分にとって大事なものを見失おうとしない』という思いだけだ。それはまた皆違うものだが……その信念だけは、絶対に皆共有している」

「大事な……もの……?」

「そう、大事なものだ。世界がどんな風に変わっても、周りがどう動いていたとしても、決して見失おうとしないもの。我々一人一人、過去に囚われながらも前に進もうとし続けて……高みへ昇っていけるのは、それがあるからだ。このわたし(フェイ)にだってある。本当は誰にだってあるはずだ。それを見つめ続けられるかどうか、全てはそれだ……それなんだよ、シャーリー」

「……――」

 彼女は肩を掴んで、自分をまっすぐに見つめていた。その視線がシャーリーの中に降りてきて、彼女の中に眠っている思いと、過去の記憶を呼び覚ます。

 ――大事なもの。

 どれだけ、何かが変わっても、決して変化することのないもの。

 誰にでも、あるもの。

「本当に――」

「……」

「本当に、そんなものが。ボクにも……あるんですか?」

 そうしてフェイは。

「あるさ。見つかりにくい所に、あるかもしれないがね」

 あっさりと、そう断言してしまう。

 シャーリーにとってそれは怖いことだった。何故なら今、彼女は記憶の内側を一瞬で旅した。その中で、一つの光景にたどり着いた。それは彼女に、痛みと苦しみを与えた。もはや呪いと言ってもいい光景のはずだった。だが……素通りできなかった。その光景は目に焼き付いて離れなかった。

 もしかしたら、それが……自分にとっての大事なものなのか?

 どこかではとっくに自覚しているのかもしれない。だが、シャーリーには確信が持てなかった。この混沌とした、あまりにも多くのことが起きすぎる街では、何かを信じ切るということはとても恐ろしいことのように感じられるからだ。故に今、彼女は頭の中に浮かんだ光景から、目を逸らそうとしている――。

「そんなこと……」

「君を脅迫しているわけではない。ただ、わたし(フェイ)は――かつての自分の過ちを、君には――」

 その時だった。


「ッぬゥああああッ!!!!」

 裂帛の気合と共に、チヨの黒檀のカタナが閃いた。あまりにも長い永遠の如き一瞬。それが光景を切り取った。切っ先は怪物の腕を真っ二つに滝のごとく裂いて、彼方へと切り飛ばした。そうして着地する。化け物は苦悶の咆哮を放ち、そこに更なる銃撃が撃ち込まれる――攻撃は止まらない。チヨもまた荒く息をつきながらも、斬撃を続ける。周辺には歪んだビルの群れとヒビが入り、ズタズタに裂けたアスファルト。捨て置かれた車や看板。雪のように地面を染めるガラス片。そして、間欠泉のように至る所から湧き出ている炎と煙。化け物が反応し、身を捩るたびに広がっていく被害。人々は一秒ごとに逃走によって淘汰され、破壊された街だけが広がっていく。だが、化け物は確実に、グロリアとキムの待つ場所へと誘導されつつあった。

 その肉の中で。

囚われた少女が、ぴくりと眉を動かす――。


「――危ないッ」

 上空に巨大な影。先に反応したのはフェイのことだった。彼女はシャーリーをかばう形で抱きかかえ、後方に飛び込んだ。すると間もなく、その巨大な物体は、びちゃりという粘性の音とともに地面へと落下した。

 煙が立ち込める。フェイの背中にぱらぱらと粉が落ちる。苦悶の声と共に、彼女が起き上がる。それから、下にかばわれていたシャーリーも身を起こす。

 二人が振り返ると、そこには巨大な下腕が落ちていた。蠢く赤黒い肉と、絡みつく触手のような部位。紛れもなく、あの化け物のものだった。

「これは……」

「ああ。チヨがやったらしいな。無事に進んでいるといいのだが」

 煙が晴れて、その姿が完全に顕になる。

「――……!!」

 シャーリーは立ち上がり、目を見開いた。全身が震えて、鳥肌が駆け巡った。自分の視界を疑った。口から何かを吐き戻しそうになる衝動。そのまま無意識に、よろよろと化け物の腕へと歩いていく。

 後ろで、フェイの声がしていた。だが、意に介さなかった。ああ、自分が今、目に見ているのは――。


 彼女は腕の前に座り込み、その赤黒く醜悪な腕の切断面に手を伸ばした。

 そのまま、濡れたその箇所から何かを引きずり出した。

 ――細く、長い何かを。

 シャーリーはそれが目に見えた。それが一瞬で、彼女の何もかもを変えた。

「……何を見つけた、一体」

 フェイが近づいてきて、問うた。

「これは……」

 全身から力が抜けて、シャーリーはその場に崩れ落ちた。だが、腕から引きずり出したそれは強く握りしめていた。

 フェイが覗き込んできて、何らかの表情を作った。

 同じような色をしているのに、見間違えなかった。

 はっきりと識別することが出来た。その色のことを、十年間覚え続けていた。


 彼女が手にしていたのは、かつてエスタに手渡した、あの赤いマフラーだった。

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