ある秋の日
秋月 忍さまに捧げます
秋の夜は長い。
雲隠れする月の光は、薄ぼんやりと周りをぼやかしている。
笠井市之助は足早に歩いていた歩を緩め、寒そうに袖に腕を入れると、辻にある、しのや、と名が打った軒行灯のめし屋に入った。
小ざっぱりとした土間にちらほらと客がいるぐらいだが、活気のある雰囲気からめし時の煩雑を終え、一つ、息をついたといった所か。
笠井は隅に座ると、燗を一本と煮しめを頼んだ。
と、表から数人と足音と共に乱暴に戸を開けたかと思うと、バッと浅葱の色が目に入る。
笠井ほか、店の中にいた者全てが恐れおののいた顔をすると、チッと舌打ちをして、永倉さん、ここには居ねぇ、と前方の男が言い、店に入らず後ろに居た永倉と呼ばれた男は、いくぞ、と短く言ってまた走って行った。
何も騒動にならなかったことに安堵した雰囲気を見て、煮しめ半分に燗は全て飲み干した笠井は、勘定をし、戸外に出た。
元来た道を、ゆっくり歩いて行く。
二軒先を左に折れ鴨川に突き当たる手前の船宿に入った。
土間の奥にある階段を上がって手前の部屋に入ると、先客が居た。
「無事に帰ったな」
「なんとか戻りましたが…だんだらが目を皿のようにして探し回っていやがる」
「連中も必死だからなぁ」
「かと言ってくれてやる首なんざ一つもねぇ」
「だいぶ奴らにくれちまったからなぁ…」
「…返り討ちにせんで下さいよ…桂さん」
桂と呼ばれた男はふっと笑って、わかっているよ、と酒をあおった。
大柄な体躯に、笑っても眉間にしわが寄るこの男の剣は速い。速いがゆえにあまり抜かせないようにするのが笠井の任だ。目立ってもらっては困る。
次々と新撰組が維新の志士を粛正し気運を上げている今、笠井達はこの時をじっと耐え、本懐を遂げねばならなかった。
土佐の坂本と中村が死んだ事が痛い。何としても桂を生き延びさせなければならない。
笠井に宿る思いは一つ。
桂を生かす事のみ。
****
船宿を引き払い市中を二人並んで歩く。
京の北西にある岩倉の隠れ家までいけば、桂の身の安全は確保される手筈であった。
鴨川はすでに警らの目があり、市井に紛れて徒歩で上がるしかなく、笠井はどっしりと落ち着いた面持ちの桂に並んで気配を探りながら歩く。
「その気、おさめろ。まぎれん」
「…いつもはまぎれていますよ」
「離れるか?」
「寝言は寝て言って下さいよ」
笠井が軽くすくめて気配を変えると、そうだな、せめてそれぐらいにな、と桂が笑った。
下鴨神社の辻沿いにある茶屋に入り、遅い朝だか昼だかの飯がわりに団子を注文する。
茶屋の娘が元気の良い声で返事をすると、奥に下がっていった。
笠井が団子を二本、ほおばった所で浪人が一人入ってきた。
ぴり、という気配に、桂がゆっくりと三本目を平らげると、勘定をして先に立ち歩いて行った。
浪人は立ち上がらない。
(俺か…)
笠井は舌舐めずりをして三本目を腹におさめると、勘定、と言って盆に金を置き、手ぬぐいをするりと落として席を立った。
浪人の気配の前に、お客さん、お忘れっ、と茶屋の娘が走って追ってきた。
「店を離れれば、客じゃねぇだろ?」
「え?」
「おみよ、こっちだ」
笠井は適当に名を呼んだかと思うと、店の脇に連れ込み、おもむろに接吻をした。
悪く思いながらももがく娘を力で抑える。と、後ろでゆらりとした気配がしたが、男女の逢瀬を見て気配が戸惑う。
やがて鼻白むように息を吐いたかと思うと、浪人は辻を上がって行った。
笠井は気配が消えるのを待って腕を緩めると、ばしっと頬に手が当たった。むろん、敢えて受けた。娘は顔を真っ赤にし、小刻みに震えている。
「すまん」
短く詫びると、さらに大きな目に涙が浮かんで来たので、すまん、いずれ詫びる、と言い置いて笠井は逃げるように辻に出た。
足早に下鴨神社の脇を上がる。
前の浪人の気配を追うと、左に入って河川へ向かう脇道へと入った。
笠井は編笠を、さっと捨てた。
身をかがめ小走りに走ると、気配に気づいた浪人が慌てたように振り向いて抜刀する。
ギンっと笠井が振りかぶった大刀を横に受けた浪人が、ぎりぎりと顔を赤らめていく。本来は細いのであろう目がみるみる内に見開いていく様を見て、笠井は無表情にぐんっ、と力を込めた。
左肩から斜めに入った刃をずるりと抜き、たたらを踏んだ浪人の喉を突いて、絶命させた笠井は、ぶん、と血を払い、懐紙でさっと拭くと、編笠を拾い上げ、足早にその場を去る。
大通りに出た所で左から足並みを揃える気配があった。桂だ。
「…もっと先に行っていて下さいよ」
「なに、危なかったら助けようと思ってな」
「見ていたんですか……勘弁して下さいよ……」
「いい太刀筋だったなぁ」
「俺はあなたみたいに早くないのでね、力技です」
「いや、良いものを見させてもらった」
「その太刀筋好き、いつか命取られますよ」
不吉な事でも言って辞めさせたい笠井だったが、いや、不思議と運が強くてね、剣では倒れんよ、と桂はからりと笑った。
健脚の二人はその日の内に岩倉具視が隠れ住まう幽宅に到着し、歓待を受ける事になるのだが、その後、笠井が黙ってふらりと姿が消えるのを岩倉が桂に注進すると、
ああ、団子を食べに行っているので大丈夫ですよ、と訳もなく答えたという。
完
お読み頂きありがとうございます。
初めての時代小説でした。
お目汚し失礼致しました。
こちらを読んで頂いてる方は歴史好きだとは思いますが、念のため。
だんだら、とは新撰組の隊服を意味します。
桂、岩倉、共に実在した人物ですが、実際に桂が岩倉具視幽宅に行ったという史実はありません。ご承知おき下さい。