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歴史小説シリーズ

作者: 一齣 其日

武田氏家老小山田信茂が、現織田家当主にして武田討伐総大将織田信忠の前に参上した。武田勝頼を討ち果たし、ほとんど武田攻めが終わりを迎えた段階の時だった。

かの男は武田滅亡直前にて勝頼を裏切り、城へと迎へ入れなかったという話を、信忠は聞いた。これもまた、生き残るための策の一つだということは、重々承知できた。

しかしながら、自らの利益のために、主人を容易く裏切る行為が、清廉な信忠には共感できぬものがあった。

「小山田信茂……か」

陣の奥にて、かの男の処遇を信忠は考える。

普通ならば、そのまま家臣にしてしまうのが得策ではある。武田の有力な家臣である小山田信茂が、織田の家臣となれば甲斐平定にも役に立つであろう。

「だが……」

かの男は、裏切り者である。

信忠にとって、裏切り者というのはどうしても受け付けないものがあった。というよりかは、このような裏切りが、ひどく矮小に見えて仕方がないのだ。

「信忠様、いかがなされましたかな」

思案する信忠の前に現れたのは、今回の武田攻め参謀を担った、滝川一益である。織田四天王の一人であり、智略に優れた男であった。

「一益か……。お主、小山田信茂のこと、どう思う」

「ああ、あの裏切り者でございますか」

一益のその言葉から、どこか軽蔑の念を抱いている印象が伺えた。一益は少しの間考えるそぶりをする。すぐには発言しないのが、この男の癖だ。

「それがしはあまり好きませぬな」

「……そうか」

信忠は、押し黙る。そして、改めて思案する。自分の腹としては、決まったも同然であるのに。

「信忠様、一つ意見させて頂いてよろしいか」

一益は信忠の前に出ると、鋭い眼光を向けた。

「よい、申してみよ」

「はっ」

一度頭を下げてから、一益は朗々と語り出す。

「某は、小山田という男、斬るべきかと存じます。かの男は武士らしく戦いもせず、主を見捨てて裏切り申した男です。いずれまた、我らが窮地に陥った時も同様のことをするでしょう。それに、信忠様はそれを重々ご承知の筈です」

かの男との戦いにおいて。

一益は、最後にそのようなことを付け加えて、信忠の前を後にした。

一人残された信忠の脳裏には、一益の言葉に出てきた男が現れる。

彼の父、信長を二度にわたって裏切り壮絶な最期を迎えた、かの男。


戦国の梟雄と呼ばれた男、松永久秀である。


信忠の父、信長を二度も裏切りそして最後は、信貴山城の戦いにて彼の愛用の茶器である平蜘蛛釜とともに爆死した、かの男。

初めてその男にあったのは、父信長に拝謁した帰りのことだった。大仏殿を焼いた、将軍を殺した、そんな聞いていた噂とは裏腹に、物腰は穏やかであったのを覚えている。

「お主が、上総介殿の息子か。聡明な顔つきをしておる」

そんなことを言われて、その手が幼き信忠の頭に伸びる。戦さ場を幾度もくぐった、大きな手だ。そして、彼の目が、まっすぐ自分を見据えた。

ここで、信忠は見た。久秀の中に灯る野心の目を。

この男は、どうしようもない野心の炎を燃やし続ける男。そんな感覚を幼いながらも、数々の戦を幼少より信長に付き従って見ていた信忠は理解した。

どこまでも、どこまでもこの男は野心家だ。しかし、立ち去っていくその背中は、見事にその野心を隠しきっていた。

その時、少年は身の震えるのを感じていた。圧倒的な野心の炎が、

そして数年後、少年は男となり、その野心家と対峙する。

久秀の最期は今でも信忠の目に焼きついている。

耳をつんざく爆音。

燃え上がる血煙。

そして、高笑い。

野心の炎は最後に大火となって、消えていった。

燃え落ちた信貴山城には、久秀の首はおろか、髪一本として見つかることもなかった。若き青年の信忠にとって、これ程の男は見たことはない。これほどの死に様は、一人の男として、尊敬の念すら覚えていた。

松永久秀と小山田信茂、裏切り者としてはなんら変わりないのであろう。

しかしだ。信忠にとっては、何かが違うと思っていた。言葉に言いようのできない、何か。


際して、小山田信茂が拝謁する。信忠は未だ決断に渋る様子で、小山田信茂を前にする。

「かの者が小山田信茂であります」

一益が淡々と信茂を紹介すると、信忠まじまじとその男の顔を見る。

その眼を、見る。薄く、どこか浅い、その目を。

そこに、炎はない。

ああ、そうか。

信忠は喉にすっと物が通った感覚がした。

信忠は一益に対して、目配せをする。それをわかっていたかのように一益は頷くと、周りの兵士たちに指示を出す。

「この者共らを捕らえろ!」

その時の小山田の顔は、動揺に溢れていた。訳も分からず槍を突き立てられ、喚き騒ぐ。

「な、なぜ私がこのようなことに!穴山も裏切って、織田方についたではないか!」

小山田は浅かった。勝頼を裏切り織田方に勝頼を討たせやすくさえすれば、織田の家臣となれるのだろうと思ったのだろう。事実、彼が言うように同じ武田家重臣の穴山梅雪は、武田方を裏切って徳川についている。

だが、彼は許されない。

「穴山梅雪は我らが調略において、こちらについた。しかしお主は、我が身可愛さに主である勝頼を裏切り、我らについた! いずれそういう男は、また我らも裏切るであろう! そのような不忠の者は、この織田の軍門にはいらぬ……見よ。あれが勝頼の、首だ!」

あらかじめ隠されていた幕が降りる。そこにあったのは、勝頼の首が納められていた首桶だった。

小山田は、目を見開き、何かを恐れるように喚き叫んだ。勝頼の霊でも見ているのだろうか、それは小山田にしか、わからない。

そして、信忠はその姿に、かつての炎を見なかった。


あの男は、奴とは違う。


「連れて行け!」

信忠が鋭い声を上げると、兵士たちが小山田を連れて行く。未だに勝頼の霊に怯えているのか小山田は泣き叫んでばかりであり、もはや元武田家重臣の面影はどこにもない。

信忠は、そんな彼を冷たい目で見送った。

そして、小山田信茂は処刑された。


信忠は、空を見ていた。月がぼんやりと虚ろとなっている、空。

「信忠様、何をご覧になってるのですかな」

一益はどこからともなく、信忠の前に現れる。

「今日のご裁断、あっぱれでした」

「あっぱれ、か」

信忠はふっ、と笑うとまた空を見た。何かを探すように、空を見た。それに続いて一益もまた空を見上げる。星が瞬いている綺麗な夜空だ。

「あの日、赤い星が見えた」

ふと、信忠は言った。

「松永弾正が死んだ日、赤い星が瞬いた。酷く、美しいとわれながら似合わないことを思ってしまった。そして、あの炎だ。大きな音あげて、そして城は焼けた。松永の首はもはや見る影もなかったが、その代わりに、死に様があの星と同じように、綺麗だった」

それは、まるで憧れめいた口ぶりだった。一益も、その言葉に少々の危なさを感じ取ったのか、

「信忠様」

と、ひと声かけたところで、口から出かかっていた言葉を押し込んだ。

信忠のひどく美しい笑みに、気圧された。

「……やはり、『俺』はあの男が未だに忘れられない。いつか、父の前で見たあの男の目が、忘れられない。あの男には、炎があった。燃え滾っている、炎だ。しかし、今日顔を見せた小山田には、そんな炎は欠片もなかった」

「炎、ですか」

「……あのような炎が、もしかしたら今も昔も、俺の憧れなのかもしれない」

変な話だ、と信忠は吐きすてる。傍で聞いていた一益は黙ったままだ。ただ笑みだけを綻ばせて、まだ色々と用が残っているということで引き下がる。

再び一人になった信忠は、夜空を見上げる。いくら見ても、あの緋色の星は見えない。何も、見えない。


「……あの炎は、俺にはあるか」


その言葉は、春風に乗って、どこへともなく飛んで行った。


この三ヶ月後、信忠は本能寺の変の折に、二条城にて明智軍と戦い、自害する。

死に花を一輪咲かせて、彼が憧れた炎の中で散っていった。

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