8.マタタビ
本日二話同時更新しています。
互いに下の名前しか教えあわなかった。
彼女の言う店に着くころには、俺は彼女の放つ香りに完全にノックアウトされていた。
どこかビルの隙間でも連れ込めそうなところがあったらすぐにでも連れ込んでその唇と赤い舌を味わいたい。
だが残念ながらそんな隙間は現れず、彼女の言う店が見えた。
店の扉をくぐった途端――嗅ぎなれた匂いが俺の鼻をくすぐった。慌てて口と鼻を覆ったが、間に合わなかった。
「ごめんなさい、もしかして苦手な匂いだった?」
答えようにも口を開けない。彼女に宥められるように背中を押されて奥の席に座る。途中で客がいたような気がするが、見ている余裕はなかった。気を緩めれば、尻尾が出る。
その席はペアシートらしく、出窓のほうを向いて座った俺の横に彼女も腰を下ろした。運ばれてきたドリンクからもマタタビのにおいがする。
背後の布がさらりと下ろされた音がする。
「もう大丈夫。……偽装といていいわ」
偽装。
ただの人が知っているはずがない。目を丸くして隣の彼女を見ると、前に垂らした髪のせいで、首のところのほくろが見える。
そこに視線を奪われている間に、彼女は握っていた土産物の袋をテーブルに置いて手を伸ばした。
すっと外されたのは、俺の帽子だった。解放された耳が俺の意志に反してピンと立つ。
身を離して両手で耳を隠そうとしたのに、彼女は俺の腰に手を伸ばし、俺の右手は彼女にがっちり握りこまれている。
「素敵。……耳の先だけ白いのね。普段は一房だけ白いのかしら」
「……あんた、誰だ」
腰に置かれていた手がするりと離れ、尻尾のあたりをくすぐられた。マタタビだけでも理性が飛びかけてる俺は呆気なく尻尾を出した。
なんだこれは、俺の体が自分でもあきれるくらい呆気なく白旗を上げる。
「ここは付喪神ファミリーの経営する喫茶店で、わたしの実家なの。……ごめんなさい、ちょっと強引だったわね」
「なんのつもりだ。……誘拐でもするつもりか?」
すると彼女はふふと笑う。唇があまりに艶めかしい。
「まさか。……あなたのことが知りたくなっただけなの」
「っ……知り合ったばかりなのに、か」
少なくともこの女は俺より年下だろうと思っていたのだが……付喪神となると俺よりはるかに年上だ。
なるほど、と体の力を抜く。敵陣の真っただ中に引きずり込まれて抵抗できるはずがない。ゆらゆらりとしっぽを揺らす。
「会うのは初めてだけど、あなたに似た匂いは知ってるわ。……萌ちゃんのお兄さん、でしょ? 鉄さん」
「そういうあんたはあいつの教官サン、だな?」
彼女は微笑むだけで否定はしなかった。
「ふふ。……実は、あなたにお願いがあったの」
「お願い……?」
たぶん、このあたりから俺の意識はマタタビのせいで朦朧としてたんだと思う。
喉がカラカラになって、目の前にあったドリンクを啜ったあたりで視界に紗がかかる。音も水底にいるかのようにゆらゆらと揺れて聞こえる。
「実は……」
その時彼女に何を頼まれたのかははっきり覚えていない。安請け合いしたような気もする。
願いを引き受ける、と言ったときの彼女の嬉しそうな笑顔に、細かいことなどどうでもよくなっていたのは確かだ。
代わりに彼女のうなじのほくろにキスマークをつけさせてくれ、と頼んだことだけは覚えている。
渋られるかと思っていたのにあっさりと許可が出て、そのあとさんざん彼女の首筋にキスマークを付けた。きれいなキスマークがほくろを囲むように浮かび上がったのを見て、俺の心は満たされた。
これで、大阪に帰って彼女と会う口実ができたし、萌をはさんででないつながりもできたのだ。大満足だった。