12.偽装
火曜日。出勤してすぐ休暇届を出すと、片野は訝しげに俺の顔を見た。
「珍しいな、平日のど真ん中に休みか」
「ええ、ちょっと用事ができまして」
「見合いか?」
にやりと笑う片野に、俺は眉根を寄せた。
「だといいんですけどね」
途端に面白くなさそうに顔をしかめる片野に、肩をすくめる。
「まあいいや。結婚が決まったら知らせろよな」
片野はそういいながら承認欄に印を押し、休暇はあっさりと了承された。
席に戻るとチャットツールに着信マークがついている。開けば雛原からだ。ちらりとモニターの上からのぞくあいつの頭を見て、アプリを開く。
『お見合いするんですか?』
『もし無理やりなら、協力しましょうか?』
『あ、この間のお礼の意味合いですから、勘違いしないでくださいねっ』
就業中の私語に目くじらを立てていた雛原とも思えないメッセージに、口元が緩む。おそらくあの時は婚約者の浮気の顛末や新しい見合いの相手の話で苛々していたのだろう。
『見合いじゃないから心配するな。明日明後日は休むから、何かあっても連絡すんなよ』
それだけ送ると、すぐに『了解!』のアイコンが飛んできた。
この日の仕事は実に順調に進み、俺は定時で上がった。
帰宅して、そういえば、とスマートフォンを出して妹にメールを入れる。先週末にパソコン一式を買ってやる予定だったのだが、雛原の騒動でのびのびになっていたのだ。
今週末ならこの騒動も終わってるだろう。買い物に付き合う旨のメールを送っておく。
妹の寮は今時珍しい携帯圏外だと聞いている。返事が来るのは早くて明日の朝だろう。
明日。
シュルトの店で何が始まるのか。
簡単に請け負いすぎたよな、と思いつつも今さらやめるとは言えない。乗り掛かった舟だ。
◇◇◇◇
「よく来てくださいました」
月曜日と同じ場所、同じ姿でシュルトは俺を待っていた。
今日は彼女はいない。見合いは今日の夜だ。それまで彼女は身を隠しているのだろう。
見合い相手は粘着質の男だと聞いている。
今の居場所も突き止められたくないのだ。突き止められてしまえば、見合いにかかわらず直接アプローチしてくるだろう。
それに――今夜の見合いを無事ぶち壊せたとしても、居場所を知られていては意味がない。こればかりは、セキュリティの高いマンションでも無駄なのだ。
セキュリティの高いマンションというが、それはあくまでも対人セキュリティである。空を飛び壁を上る妖怪には効果が低い。
だから、俺が住んでいるのはドライバー一本で鍵が開くようなアパートだ。それで十分なのだ。
「どうぞこちらへ」
先日と同じ通路を通るのかと思ったが、今日は店の片隅がカーテンで仕切られていて、ハンガーラックが置かれている。
促されてソファに座るとすぐに香りのいい紅茶が運ばれてきた。
「この後、ヘアメイク担当が来ますからお待ちください」
「……今日のスケジュール、聞かせてもらえますか」
まだ午前十時にもなっていない。あと十時間もどう過ごすというのだ。
「失礼しました。ヘアメイクの後、保護プログラムを受けてもらいます」
「保護プログラム?」
対面のソファに座ったシュルトは、紅茶のカップを取り上げた。
「ええ。先日もお話ししました通り、恭子を狙う男は執拗ですから、邪魔をする男――つまりあなたに標的が移るのは間違いありません。だから、あなたには別人になってもらう」
「別人……」
「それが保護プログラムです」
「具体的にはどういう内容ですか?」
「今回は短期だから顔を変えるまでは行いません。仮の記憶と性格をインプットさせていただきます」
「何……?」
仮の記憶と性格。俺が俺でなくなる……?
「名前も住所も、嘘のものを覚えていただきます」
「断る」
それは俺が思っていたかたちではない。俺は――俺のまま彼女を守れなければ、依頼を受けた意味がない。
「先日も言いましたよね? 姪の泣く顔は見たくないと」
「俺がその……粘着質の男に負けると?」
「ええ、姪は、恭子は男との相性を考えて、あなたを選んだのだと思っています」
「相性」
猫又との相性を考えて、俺が勝てると思う相手といえば、鼠しかない。ならば……旧鼠か。
俺の眉間のしわが深くなったのを見ていたのだろう、シュルトはため息をつくと目を閉じた。
「猫でも勝てない相手、です」
「窮鼠猫を噛む、か」
言葉の通り、猫をも負かす鼠。それが相手。なるほど、シュルトが用心する理由もわかる。
「君の正体に気が付かないはずはないのでね。あの男の神経を逆なですることになるかもしれません。恭子の件がなかったとしても、あの男は君に執着する可能性があります。だから、君の名も住所も明かしてはいけません」
「……いいですよ。俺は」
「そうですか、ありがとう」
シュルトは安心したように緊張した表情を緩めた、が俺は首を横に振る。
「保護プログラムはいりません。俺は、俺のままで彼女を守りたい」
「それは……認めません」
「彼女は俺を頼ったんですよ。――俺が別人になって、勝てるはずがない」
ほんの少しだけ挑発するように口元をゆがめる。
「それに、そこまでの執着男なら、たとえ俺の素性をごまかしたとしても俺にたどり着くと思う。その時に俺が何も覚えてなかったら、逆上するに違いない。……そうは思えませんかね」
まっすぐ見つめたシュルトの目が眇められる。そのまましばらく睨みあったが、先に視線を外したのはシュルトの方だった。
「必ず勝つと、誓えますか」
「誓えない内容は誓わないことにしている」
それに、彼女は泣かないだろう。俺がどうなったとしても。
俺が彼女を思っているのは一方通行だ。あわよくばと彼女との縁をつないだのも、俺の一存だ。
彼女は、俺を見ていない。俺の猫又である性質を見ている。ただの駒として。
だからこそ、俺は自分で勝たなければ意味がない。
「でも、負けるつもりはないけどな」
にやりと笑って見せる。
彼女の心を手に入れるには、負けてる暇はないのだから。




