10.憂鬱な月曜日
いつもの月曜日。
今日は打ち合わせが二件。次のプロジェクトに関しての説明会と、現在開発中の自社ソフトの進捗会議だ。
次のプロジェクトについては俺はほぼ関係ないのだが、一応全員参加とされている。進捗会議はさっさと終わったが、午後から始まった説明会は時間制限なしでかったるい。
居室の壁にかけられたモニターにパソコンの映像が映っている。
隣の開発室から椅子を引きずって流れてきた奴らに場所を明け渡し、自分の椅子を引きずって壁際に退くと、片野が一番隅っこに陣取っていた。
一番目立たない場所で、寝ててもバレない場所だ。
「片野さん」
「んー?」
すでに壁に体を預けて薄目になっている。
「俺、帰ってもいいですかね」
「だめ。今日のは全員参加ってなってただろ?」
「……場所変わってくれたら最後までいます」
「だめ。寝るのは俺」
「上司が率先して寝るってどうなんですかね」
「うるさいですよ、そこ」
雛原の声が飛んでくる。顔を向けると、机の向こう側からじろりと俺と片野を睨んだ雛原がいた。
「すみません」
しぶしぶ口を閉じると、雛原はくるりと椅子を回してモニターに向き直った。同時に、居室の明かりが落とされる。モニターに映し出された画面がまぶしい。
どうやら平常運転に戻ったようだ。思わずため息をつく。
「そういえば、雛原とホテル行ったんだって?」
俺だけに聞こえる小さな声で片野がつぶやいた。
「……下種い妄想はやめてもらえませんか」
「見たって子から話聞いたんだけどな」
「酔っ払いの手当てしただけですよ」
「昨日、二人でどこかから帰ってきたんだろ?」
誰かに見られていたのだろうか。それをさも愉快そうに口にする片野にイラッとした。
「別に。あんたに関係ないだろ」
「つまらん男だな。少しは俺たちに話題を提供しろよ」
「どこの有閑マダムだよ。黙って寝てろ」
「はいはい」
ポケットのスマートフォンが震える。遠くの液晶モニターを見ながらスマートフォンを取り出すと、ロック画面にはメッセージが届いていた。
時間と場所のURLだけのメッセージ。定時で上がれば十分間に合う。
眉根を寄せ、口元を引き締めると小さく息をつく。
面倒だと思わないわけじゃない。だが――あの時の噎せ返るほどのマタタビと、彼女のうなじが脳裏にフラッシュバックする。
目を閉じると、社長の声が右から左に抜けていく。
そのまますとんと闇に意識が落ち込んで、片野とともに雛原にたたき起こされるまでまったく前後不覚だった。
◇◇◇◇
「テツ、お前大丈夫か?」
定時になったからと引き上げる準備を始めたところで片野が椅子を転がしてやってきてひそひそとささやいた。
「別に何ともありません」
「あの時すっごい青い顔で起きてきたから気になってさ。……ほんとに雛原とは何ともないんだな?」
「大丈夫です。雛原の相談に乗っただけです。約束があるので失礼します」
時計を見上げると、さっさと居室を出た。
昨日は一日寝続けた。金曜日の夜に寝られなかった分を取り戻すように、土曜日の列車の中でも終点まで完全に落ちていた。
今朝も起きるのが辛かった。いつもならあっさりと目が覚めるはずが、体が重い。
もしかして、風邪でも引いたのだろうか。
電車を乗り継ぎ、約束の場所にたどり着いたのは約束の時間の五分前だった。
噴水の前に彼女はすでに来ていた。
「済まない、待たせたか」
「いいえ、大丈夫。――場所、移動しましょうか」
「ああ」
彼女に誘導されて路地を歩く。今日の彼女は紺色のスーツで、タイトスカートから延びるふくらはぎが実に見事なバランスを保っている。
暗い路地からとある雑居ビルに足を踏み入れた彼女の後を追うと、エレベーターの中で彼女は待っていた。
迷わず六階を押した彼女に、俺はエレベーター内の案内板を見る。六階にあるのはネットカフェだ。
エレベーターの扉が開いた途端、あのスパイシーな香りがした。幸い、マタタビの香りはしない。
「ここも……なのか」
「ええ。こっちは叔父がやってるの」
前と同じように出窓に向いたペアシート。隣の音は聞こえないようになっている場所で、自動的に目の前に置かれそうになったマタタビ入りの酒に俺は首を横に振った。
「今日は酒抜きマタタビ抜きで話をしたい」
怪訝そうな彼女にはっきり言うと、納得してくれたのか彼女は店員にアイコンタクトをし、店員はドリンクを下げた。
代わりにアイスティーが置かれ、後ろのカーテンが降ろされたところで俺は彼女から少し体を離して斜めに座りなおした。
「まず――今日俺をここに呼んだ理由を聞かせてくれないか」
「それはもちろん、あの時の約束のためよ。……覚えてるでしょう?」
「ああ、もちろん覚えている。だから、きちんと話を聞こうと思って」
あの時、マタタビの匂いと酒に惑わされた。心には充足感が広がっていたし、後悔してはいない。
だが、酔いが醒め、冷静になるとだんだん何でこうなったのかがわからなくなった。
一部分の記憶があいまいになっているせいもある。
じっと見つめると、彼女はあきらめたように目を伏せ、ため息をついた。
「……わかってくれてると思ってたわ」
細い指が頬にかかる髪をかき上げる。ちらりとあのほくろが見えてぞくりと背筋が震える。
「見合いをつぶしてほしいってのは了解しただろう?」
あの時。
彼女からそう言われた時、絶望と歓喜と嫉妬と怒りが同時に噴き出した。マタタビのせいだろう。感情が抑えきれず、暴れまわった。
彼女に一目ぼれしているのに、彼女の見合いの話を本人の口から聞かされた絶望。彼女に見合いを申し込める男への嫉妬、それをつぶしてくれと依頼された事への喜び、そして彼女を苦しめる見合い相手への怒り。
一も二もなく請け負った。そうするのは当然だと思ったからだ。
「……見合いの相手が大嫌いだからに決まってるじゃないの。それ以外の何が理由に必要なの?」
偽の婚約者になる。雛原の見合いをつぶしにあの町に行った先で出会った彼女から、まったく同じことを依頼されるとは思ってもいなかった。
頭が冷えてから考えてみれば、それは体よく彼女に利用されるだけの存在だ。
それでもいい、偽であろうと彼女の隣に立てるなら――そんなことを、マタタビに冒された頭で俺は考えていた。
俺は――心も体も欲しい。彼女からも求められたい。
「……とにかく、報酬はもう支払ったわ」
そうだ。すでに……受け取っている。それを見せつけるかのように、髪の毛をかき上げてはちらちらと黒子を見せる。あの時付けたキスマークはもうきれいさっぱり消えていた。
俺の思いを理由に拒絶できることではもうなくなっている。それに、彼女とのつながりを持てたのはある意味奇跡に近い。この幸運を手放すのは惜しかった。
「……約束は守る」
それだけ答えて口を閉ざす。
「ならいいわ。……日付は水曜日の二十時。ディナーになるわ。場所はKホテル」
「Kホテル? あんなところに入れる服なんて……」
ロビーにさえ立ち入るのに勇気がいる店だ。いや、用事があるときはジーンズとTシャツで遠慮なく入るけれど、今回は見合いをぶっ潰しに行くのだ。
相手になめられない格好をする必要がある。
「服なら任せて。ここに来てもらった理由もそれなの」
彼女はテーブルに置かれたベルを鳴らした。ほどなくやってきた店員に耳打ちすると、すぐに別の男がやってきた。
カーテンを開けて入ってきたのは、彼女によく似た、銀髪に青い瞳の美丈夫だった。
「叔父様。今日は無理をお願いしてごめんなさいね」
「恭子のためなら何でもないよ。――初めまして、私がこの店のオーナー、シュルトと申します」
深く頭を下げる男に、俺は目を丸くしたまま立ち上がり、頭を下げた。
「緋桜鉄と申します。お世話になります」
「鉄ね。じゃあこちらへどうぞ」
ちらりと彼女を見ると、微笑んだままうなずく。ついて行けということなのだろう。
逃げ道はない。観念して俺はシュルトの後を追った。




