Ⅱ , 感覚
再び視界が開けたのは,どのくらい後の事だろうか。
俺は,大の字に寝転がって空を見ていた。
雲一つない,澄み切った青だ。
突然,身体が沈み始めた。俺は水に浮いていたのだ。必死に浮き上がろうとするが,身体が動かない。息をしたい。だが水はそれを許さない。
水面がどんどんと遠くなり,光が届かなくなっていく。
やがて辺りは真っ暗になり,水面だった方向に星が見えてきた。下降しているのか,それとも上昇しているのか。もう分からなくなっていた。
苦しい。もうずっと息をしていない。
いや,本当は一瞬なのかもしれない。俺の持っていたはずの時間感覚は破壊されてしまったのだ。わからない。この苦しみはいつ始まったのか。
そもそも,俺は俺が存在し始めた時からずっとこの暗闇の中にいたのではないか。ずっと俺は苦しかったのではないか。
そうだ,別にこれは特別なことじゃない。
ずっとこうして暗く苦しいところにいたんだ。
星は消えた。
…苦しみとは何だ?
わからない。何もわからない。これはなんだ?何をしている?
俺はここで何をしている!
もがけ!抗え!ここは危険だ!
死 ぬ ぞ !
俺に語りかける俺。それは他者ではなく自身だ。一つであるはずの『俺』という存在を,俺は俺と分かち合っている。
思い出せ!
何を?
闇を!
星を!
水を!
光を!
どうやって!
(知りたいかい?)
その時,俺は初めてこの空間で音を聞いた。しかしその声は他者ではなく,とてもよく知っているものだった。その声の主はわからないが,とにかくその声は俺にある光景を思い出させた。
涙する女ー
その途端,俺の苦しさは復活し,息をしたいという願望が生まれた。
(身体を動かしてみろ)
動く。手が,足が,頭が!
必死に上を探す。
どっちへ行けばいい!
(こっちだよ)
光が見えた。俺は光に向かって突っ込んだ。
どんどんと光は強くなり,自分が水の中にいたことを思い出した。苦しさは増し,早く息をしたいと願う気持ちは俺に焦燥感を与える。
そしてついにー
俺の顔は大気のもとにさらされた。
息をする。
息とはこんなに心地よく,生命に満ち溢れた行為だったのか。
吸って,吐く。その繰り返し。
それだけのことだが,この行為は何にも代え難い。大気のエネルギーと自己とを結ぶ唯一の方法が呼吸なのだ。
息という行為を堪能した俺に,また声が語りかけた。
(水に手をつけ)
俺は声の指示通り水面に手をついた。すると,水は急に硬さを帯びて俺の身体を支えるようになった。それはまるで硝子のようだった。だが,それよりもずっと強い。それでいて,俺が触れているところからは絶えず波紋が生まれていた。
身体全部を水から引き揚げたとき,あることに気がついた。身体が濡れていないのだ。
不思議という感覚を取り戻した俺の目の前に一人の男が現れた。その男は,俺の姿をしていた。