約束 2
細いけど意外と幅の広い肩や長い腕は、服を着ている時より、大人の男の人に見える。
準一の肌の温もりがこんなに心地いい。
今までの誰よりも、あたしの心は穏やかに満たされていた。
ああ、そうか。
だから、何度しても誰としても、あたしは満たされなかったんだ。
この安らぎは好きな人とでないと得られないものだったんだな・・・。
今まで自分が経験豊富だと思っていたのに、その単純な事実に気が付き可笑しくなった。
準一も最初はただ、あたしを人形のように抱いていたが、やはり気になるのか、少しづつ手があたしの胸の方に移動していく。
オドオドしたその仕草は隠れてイタズラしようとしている子供みたいで、あたしは近寄ってきた彼の手を掴んで思いっ切り自分の胸に押し付けた。
「・・・!」
「遠慮しなくていいよ。好きな人が触ってくれたら嬉しいんだから」
「・・・」
「準一はするの怖いと思ってるかもしれないけど、好きな人とだったら全然別モノなんだから。だから、怖がらなくていいんだよ」
「・・・」
「準一とだったら、あたしは嬉しいの。だから、触って?」
準一はあたしを背中から抱き締めて、髪に顔を埋めた。
その大きな手を、あたしは自分の胸にしっかり押し付ける。
あたしがどんなに胸が高鳴って、どんなにときめいているのか、彼が感じるように。
やがて、押し殺したような彼の嗚咽が聞こえてきた。
抱き締める腕に力が入り、手が小刻みに震えている。
あたしの首に押し付けられた彼の頬から涙が伝って、肩を濡らしていく。
準一は泣いていた。
今までの辛かった事、悲しかった事、怖かった事を体から押し流していくような、そんな泣き方だった。
子供に返ったようなその泣き顔は、初めて会った中学生の時と変わらない。
整った白い顔が涙で濡れて、女の子みたいだ。
あの時、あたしも子供で彼を助けてあげることができなかった。
彼がいなくなっても、探す事さえできなかった。
でも、今は違う。
あたしはもう子供じゃない。
今度はあたしが彼を助けてあげなくちゃ。
「・・・泣いてもいいよ。抱いててあげるから」
体の向きを変えて、準一と向き合う姿勢で、あたしは準一を抱き締めた。
準一は抵抗しなかった。
パニックになる事もなかった。
ただ、母親に抱かれる子供のように、あたしの胸に顔を埋めて泣き続ける。
きっと、彼に必要だったのは、こんな風に肌に甘える事だったんだろう。
虐待を受けてた母親からは、受ける事ができなかった温もり。
今なら、あたしが彼に与えることができる。
声を出さずに、準一は泣き続けた。
子供の頃に泣けなかった分まで泣いてるみたい。
あたしはそんな彼が愛しくて、彼を胸に抱いたまま何度も囁いた。
「・・・好きだよ、準一」
時間の許す限り、あたしは布団の中で準一を抱き締めていた。
一頻り泣いた後、彼はあたしの胸の中で眠ってしまった。
やっとお母さんを見つけた迷子のように、安堵した穏やかな寝顔だった。
無情にも時は流れていく。
ビジネスホテルの窓から見る景色がどんどん闇に包まれていくのを、あたしは哀しい気持ちで眺めるしかなかった。
できるなら、今夜は彼と一緒に過ごしたい。
でも、明日は仕事がある。
心配して待っている家族がいる。
準一がこれから先2年間、大阪で頑張るように、あたしもしっかりしなくっちゃ。
2年後に彼に相応しい女になっているように。
時刻が9時を回った時、あたしは眠っている彼の額にキスして、ベッドから飛び出した。
思いを断ち切るように、床に散らばった服を着ていく。
準一はまだ目を覚まさない。
あたしはその寝顔を見つめて、微笑んだ。
さっきまで準一が使っていたメモ用紙に、メッセージを走り書きする。
『家族に心配かけたくないので、今日は帰らなくてはなりません さよならは言いたくないのでこっそり帰るね ケータイ持ったら連絡して 2年後にもっといい女になってるようにあたしも頑張るよ』
彼を起こさないように、あたしはそっとホテルから出た。
別れを惜しむともっと辛くなるだけだ。
でも、もう迷子になることはない。
あたし達には、2年後の約束があるんだから。
不思議なほど穏やかな気持ちで、あたしは冷たい夜の街に出た。
◇◇◇
コインパーキングから車を出して、国道に入るかという頃、カバンの中からケータイのメール受信音が聞こえた。
・・・準一が起きたかな?
あたしは気になって、ハザードを出して路肩に車を寄せる。
メールの発信元は思った通り、準一のお兄さんの番号からだった。
あたしの胸がドキンとする。
逸る心を抑えてメールを受信した。
そこには、デジタル化された準一の言葉が書かれていた。
『今日はありがとう
みっともないとこ見せてしまって申し訳ない
でも 本当に嬉しかった
パニックにならなくてこんなに落ち着いたのは初めてだった
好きな人だったら全然違うということがよく分かったよ
これから2年間 オレ 頑張るから待ってて下さい
必ず迎えに行くから
その時はミユキのお父さんに自分の声で挨拶するよ
さよならはオレも言いたくないので言いません
代わりに』
メールはそこで切れていた。
・・・代わりに何だ?
書き損ねたのかと思っていたら、手に持っていたケータイから突然着信音が響いた。
発信しているのは準一のケータイだ。
あたしは着信ボタンを押して、慌てて耳に押し付ける。
そこから聞こえてきた呼吸のような、内緒話のような、風邪を引いているみたい恐ろしくハスキーな声!
「準一?今の声、準一なの!?」
必死で喉の奥から搾り出すようなその声は、確かにこう言った。
「み・ゆ・き!す・き・だ!」
それは、しゃがれていて、喉の奥から出る息のようで、声と呼べる代物ではなかったかもしれない。
でも、あたしにとっては紛れも無い、準一の第一声だった。
8年ぶりに出た声は、最初にあたしの名を呼んだ。
もう今日何回目か分からない涙を流しながら、あたしは大声で彼に応えた。
「あたしもだよ!待ってるからね!」
あたし達はもう迷子の子供じゃない。
本当に大切なもの、温かいものを知っている。
でも、もし、また迷った時には、きっとお互いに見つけ合う事ができるだろう。
あたし達には、共通の思い出と、未来という絆があるんだから。
準一との約束の日に向かって突進するかのように、あたしは勢いよくアクセルを踏み込んだ。
次回、最終回です。




