出会い 2
ドアの外から『ボンビー本田』少年は優しい笑みを見せた。
その笑顔は女の子みたいで、この人がさっきのドスの効いた声の持ち主とは思えなかった。
中学三年の男子にしては線が細く、顔色も青白い。
黒い髪はボサボサで、散髪している気配は見られなかった。
優しそうな少し下がった目尻が子供っぽさを増長させている。
本来、真っ白い筈の開襟シャツは黄ばんであちこち擦り切れている。
その半袖から伸びた細い腕は女の子みたいに青っちろい。
・・・本当に貧乏なんだろうか?
申し訳ないが、彼の第一印象は「発育不良児」だった。
「・・・女子ってすげえ事するな。制服汚れてるけど、どうする?保健室行く?」
彼は汚水でズブ濡れのあたしを、頭からつま先まで見て呆れた声を出した。
彼にとっても、あたしの第一印象は「濡れ鼠」だっただろう。
個室のモップや箒に挟まれて泣きながら出てきたあたしに、彼は手を差し伸べた。
初めて優しくされて、あたしは更に泣いてしまう。
彼はあたしの手を握ると、落ち着いた声で言った。
「・・・保健室行こうか?付き合うよ。」
◇◇◇◇
結局、その日、あたしは個人面談をキャンセルして帰宅する事になった。
雑巾臭い濡れた制服と、久し振りの登校で起った事件のショックで面接どころではなくなったからだ。
あたしの不登校の理由が明るみになって、保護者からクレームが来るのを恐れた担任は、今後は対策をするとしつこく言っていたが、もうどうでも良かった。
『ボンビー本田』少年は、家まで黙って付き添ってくれた。
さっきの罵声はかなり堂に入っていたが、彼が元来大人しくて無口な少年である事はすぐに分かった。
「・・・あの、同じクラスですか?名前は?」
9月の日差しを避けようと公園の木陰を歩きながら、あたしは初めて彼に話しかけた。
まさか、恩人に対して「ボンビーさん」とは呼べないだろう。
でも、学校に行ってなかったあたしは、彼の名前どころか存在すら知らなかった。
「同じクラスらしいよ。俺も7月になって初めて登校したから、今日が初対面。本名は本田準一。なんか、ボンビーで定着してるけどね・・・」
本田君はクスクス笑いながら、他人事みたいに言った。
笑うとこじゃないだろうに。
「どうして学校に来てなかったの?」
「ウチ、母子家庭で母親が別れた男からDV受けててさ。母親が逃げてる間、しばらく児童保護施設に入れられてた。男もいなくなったから戻ってきたんだけど、今、生活保護受けててマジ貧乏」
全然笑えない事を本田君はサラリと言って退ける。
聞いたあたしのほうが、どこに突っ込んでいいのか分からない。
ただ、彼があたしなんかよりずっと大人で、強い人だって事だけ分かった。
「林さん、明日から学校来るよね?」
彼は無邪気な顔であたしに笑いかけた。
女の子みたいな優しい顔に、薄茶色の瞳が綺麗だ。
あたしは急にドキドキして、慌てて頷いた。
「・・・本田君も行く?」
「母親がこのまま落ち着いてくれたらね。卒業まで一緒に頑張って行こうか?」
その後、家に着くまでの20分程、あたし達は手を繋いで歩いた。
骨ばった冷たい手は力強くて、あたしは引っ張ってくれる優しい本田君が好きになった。
とても自然の事のように、あたし達はその日から付き合い出した。
中学3年生だったあたし達が付き合うと言っても、一緒に登下校したり、放課後、図書館で受験勉強したりするくらいだった。
本田君に反撃された上、先生にも内申点を盾に釘を刺されたイジメっ子集団は、パッタリあたしを弄るのを止めた。
時期的にも受験勉強モードになっていて、皆、イジメをやるほど余裕がなくなっていたのも大きな理由だ。
やっとあたしに穏やかな中学生生活が戻ってきた。
イジメッ子ばかりでなく、あたしの前にも当然、受験という人生最初の壁が立ちはだかった。
そうは言っても、あたしの頭では大学進学が目的の普通科進学校に行くのは到底無理で、最初から合格圏内の商業高校を受験するつもりだった。
学校に来てなかった割には意外にも頭が良かった本田君は、普通科に進学希望を出していた。
「・・・学校離れちゃうね」
「大丈夫。美由紀の事、ずっと好きだから」
今思えば恥ずかしい台詞を、15歳の本田君は真剣に言ってくれた。
その言葉を15歳のあたしがどこまで本気で捉えていたのか分からない。
彼はあたしよりずっと大人で将来の事まで考えていたのに、あたしときたら彼氏ができて浮ついてるだけの、ただのバカ女だった。
彼との別れは唐突にやってきた。
冬休みが終わってから、彼が学校に来ることはなかったからだ。
彼の母親を追っていたDV男が戻ってきて復縁を迫ったが拒否され、仕返しに彼に暴行を加えたのだ。
1週間、監禁されたまま暴行を加えられた彼は瀕死の状態で発見され、そのまま母親と一緒に県外の施設に保護されたらしい。
もちろん、その行方は誰にも明かされなかった。
暴行した男も逃走したまま、逮捕されずに終わった。
あたしがそれを知ったのは、彼が住んでいた市営団地に住んでいる子が噂しているのを偶然聞いたからだ。
あくまでそれは噂で、正しい情報はどこにもなかった。
中学生だったあたしには、彼を探すとか犯人を捕まえるとか、大それた事はとてもできなくて、突然いなくなった初めての彼氏を想って泣くしかなかった。
やがて卒業し、高校生活が始まったあたしは少しずつ彼の事を忘れていった。