追跡 1
運命の時はやってきた。
あたしは「株式会社 テクノサービス」の看板が掛かっている雑居ビルの前に立ち尽くす。
名古屋には買い物ではよく来るが、こんな辺鄙な場所に来たのは初めてで、少し迷ってしまった。
会社の前は大通りになっていて、結構な交通量だ。
排気ガスの匂いが冷たい風に混じって鼻を掠める。
平日の名古屋は行き交う車に対して、通行人は少なかった。
時刻は朝9時。
準一の給料が振り込まれる時間だ。
あたしが差し押さえていなければ。
会社の場所だけ確認してから、あたしはビルの裏のコインパーキングに止めておいた車の中に戻った。
◇◇◇◇
1月20日、準一が年末まで働いていた派遣会社の給料日に合わせて、あたしは自分の会社に有給休暇願いを出しておいた。
その日までにあたしは必死で自分の仕事を終わらせた。
幸いな事に、あたしの会社も20日が給料日なので、ちょうど仕事が暇になる時期だ。
強引ではあるが、準一の給料を差し押さえて名古屋までおびき出すとは我ながら名案だ。
経理職ならではの発想に、人生何でもやっておくもんだと感心する。
今までの経験がこんなところで生かされるとは。
どんな仕事でも、長年やっていれば、それなりの専門知識は身に付くものだ。
保険会社の元外交員のおばちゃんが、保険金詐欺を企てる理由がよく分かった。
車の中で、あたしは張り込みをする刑事よろしく、缶コーヒーを開け肉まんに齧り付く。
名古屋までは車で30分くらいだったが、もしかして準一が先に行動を起こした時に備えて、あたしは7時からここに待機していた。
どんだけ暇なんだか、と自嘲してみるが、もう自分を抑えることはできそうになかった。
これが多分、準一と接触できる最後のチャンスだ。
失敗は許されない。
あたしは、次のカレーまんに口を付けながら、ケータイを握り締めた。
10時になって、冷え切っていた車内も太陽光線に照らされ、かなり温かくなってきた。
いい天気だ。
一月にしては、風がなくて穏やかな日。
車内で音楽を聴きながら、あたしはボンヤリと窓の外を見上げる。
雑居ビルの裏側が見えたが、ここからでは変化があったのかどうか分からない。
入り口に車を止められないのは盲点だった。
ここでは、あたしの街ほどどこでも駐車できる訳ではないらしい。
仕方がないので、あたしは時々外に出ては、準一らしき人間が会社の周りを歩いていないかチェックした。
そして、11時を回った頃。
いい加減イライラし始めていたあたしのケータイから着メロが流れ出した。
すっかり油断していたあたしは、その音に飛び上がって慌てて発信元を確認する。
登録しておいた「テクノサービス」の電話番号だ。
無我夢中でケータイをプッシュして、あたしは耳に押し付ける。
「はい、はや・・・本田です!」
「あ、お世話になります。私、テクノサービスの人事部、浅野ですが、奥様でらっしゃいますか?」
「はい! じゅ、主人から連絡ありました?」
「今、あったんですが・・・彼のお兄さんだと名乗る人からの電話で・・・」
困惑した女性の声に、あたしも思わず首を傾げる。
・・・準一にお兄さん?
そんなのいたっけ?
「そのお兄さんという方が、本田さんは結婚はされてないって言い張るんですよ。止めてたお給料をすぐに振り込むようにって怒ってらっしゃるんですが、どうなんでしょう?」
女性の言葉にあたしは青褪める。
もうバレてんじゃん!?
やっぱり人生は上手く行かないのか。
ってか、お兄さんって誰!?
今まで一度も聞いたことのなかった兄弟の存在に、あたしは自分の事は棚に上げて不審に思った。
だが、ここで認めたら負けだ。
こっちが妻だって確信がないように、向こうがお兄さんだって確信はどこにもないのだから。
ここは強気にばっくれるしかない。
「あたしは妻です! そのお兄さんこそ、本当のお兄さんなんですか? 彼に兄弟がいた話なんて聞いたことありません。そんな人に電話で言われただけで、振り込むなんて危険過ぎますよ!本人に手渡すべきです!」
「それが・・・本田さんは今、愛知県にいないらしいんですよ。どうやら、そのお兄さんの所に身を寄せてるらしくって、取りにこれないそうです」
愛知県にいない・・・?
その人のところに身を寄せるくらいだったら、本当にお兄さんなんだろうか?
何でもいいけど、振り込まれたら最後の頼みの綱が切れてしまう。
あたしはテンパって、電話口に向かって叫んだ。
「じゃ、あたしがその人と個人的に話つけます! その人の電話番号教えて下さい!」
女性は電話の向こうで、誰かと相談しているようだった。
しばしの沈黙の後、毅然とした声で彼女は言った。
「では、こうしましょう。あなたのケータイ番号を本田さんのお兄さんに教えます。彼から奥様に直接かけて貰えば個人情報の漏洩にはなりませんからね。話がまとまったら、またお電話下さい」
そう言った後、電話はプツリと切れた。
ツーツーという音をあたしはボーゼンとして聞いていた。
電話がかかってくる。
彼のお兄さんから。
恐らく、傍には準一もいる筈だ。
あたしの胸がバクバクと音を立て始めた。
それから5分も経たない内に、ケータイの着メロが再び車内に響いた。
見慣れないケータイ番号がディスプレイに現われる。
あたしは高鳴る胸を押さえつつ、震える指で着信ボタンを押した。