亀裂 3
全身ずぶ濡れで水飛沫を撒き散らしながら、あたし達は人ごみを駆け抜けた。
道行く人の群れが、すごい勢いで走って行く異様な二人を遠巻きに見つめている。
恥ずかしかったけど、これだけ人目のあるところに出ればもう大丈夫だ。
いくら狂犬でも、ここまで追いかけて噛み付く事はできないだろう。
「準一、原付は明日取りに来ればいいよ。あたしの車で帰ろう」
マクドナルドの方向に向かって走る準一を制して、あたしはそう言った。
大量に冷水を含んだ服は、急速にあたしの体温を奪っていく。
裾から滴る水はあたし達の走った跡を点々と残していた。
残念だけど、今夜はもうデートどころじゃなさそうだ。
準一は無表情のまま、あたしを見てからコクンと頷いた。
その顔に、いつもの優しい笑みはなかった。
少し棘のあるその表情に、あたしはさっき男に言われた事を思い出して憂鬱になる。
準一に問い詰められたら、もう話すしかないか・・・。
諦めに似た脱力感があたしに襲い掛かってきた。
◇◇◇◇
コインパーキングに停めてあったあたしの軽自動車に乗り込み、マンションに戻った時、時計は八時を回っていた。
クシャミをしながら濡れた服を全部脱いで、洗濯機の中にポンポン放り込む。
歯がガタガタ鳴るほどに体は冷え切っていて、あたしは全裸のままでユニットバスに飛び込んだ。
温かい湯を浴びて、あたしはやっと人心地つく事ができた。
咄嗟の事とは言え、自分の浅はかな行動に自己嫌悪になる。
準一がいてくれたから何とか逃げて来れたものの、あたし一人だったら殺されそうな勢いだった。
狂犬みたいに吠えたてていた同級生の顔を思い出して、あたしは身震いした。
曖昧な記憶だが、彼は確か三年生の時、隣のクラスだった。
5万円巻き上げて一回だけ寝たオタクは、どうしても思い出せなかった。
あたしが覚えてないだけで、オタクも同じ中学だったのかも知れない。
そう考えれば、アイツが父親のケータイに写メ送る事はそう不思議じゃない。
あたしの父親が地元じゃ有名な大手自動車部品メーカーの重役だった事は、小学校の時から知られていた。
もちろん、自分から友人に言った事は一度もない。
なのに、入学した時には「ホラ、あの会社の重役の娘さん」みたいな呼ばれ方をされた。
あたしがイジメの対象になり易かったのは、持ち前の生意気な性格プラス「金持ちの娘」に対する周囲のやっかみも少なからずあったのだ。
準一もそれを知っているから、あたしの事をいいトコの箱入り娘だって思い込んでるんだろう。
当のあたしが知らないだけで、準一もあたしに関する噂を聞き及んでいるに違いない。
父親の名前から会社の所属部署まで当時の同級生は知ってるんだから、父親のケータイを調べるのは可能な筈だ。
何しろ重役なので公式役員名簿みたいなのは冊子になって発行されている。
探偵でも使えば、案外手に入るのかもしれない。
あの狂犬に再会してまで、今更、知ろうとは思わないけど。
この年になってまで、こんなにあの頃のシガラミに苦しめられるとは思わなかった。
何と言っても、田舎の小さな街は人の出入りが少ない。
小学校の同級生が中学、高校とやっと離れてから、同じ会社でバッタリなんてよくある話だ。
あたしは表現し難い閉塞感と焦燥感を感じた。
この街を出たい・・・。
あたし達の事を誰も知らない場所で、準一と二人で生きていけたら・・・。
そんな考えが漠然と頭に浮かんだ。
あたし達の過去を払拭するには、それしか方法はないように思われた。
「お先。準一も入る?濡れてない?」
ユニットバスのドアをバン!と開いて、あたしは白々しいほど元気にそう言った。
準一はいつものスウェットスーツに着替えて、ベッドにもたれて座り込んでいる。
あたしの声にチラリとこっちを見たが、首を横に振って視線を逸らせてしまった。
・・・怒ってる。
理由は分かってる。
箱入り娘だと信じてたあたしが、お金巻き上げて男と遊んでたんだって聞かされたところなんだから。
トラウマになるほど嫌っていた彼の母親と同じ事を、あたしはしていた。
もう嫌われて当然だ。
言い訳もしようがなくて、あたしは溜息をついてバスルームからノロノロ出てきた。
ベッドの縁にもたれて座っている彼の隣に、あたしは少し間を開けて座る。
体に触れるのさえ嫌だって言われたら、ショックで泣いてしまうかもしれない。
「準一・・・、怒ってるよね? あたしの事キライになったでしょ? 付き合うの嫌になったなら、正直に言ってもいいよ」
「・・・」
彼は黙ったまま、ぼんやりと正面を見つめている。
あたしも同じ方向を見つめながら、構わず話し続けた。
「ここにいるの、今日までって約束だったもんね。寂しいけど準一が嫌になったんなら、あたし出て行くよ。そしたら、もう会わないし」
「・・・」
「嘘つくの嫌だから正直に言うね。あたし準一と出会うまで、結構遊んでたんだ。お金に困ってた訳じゃなくて・・・何ていうか、現実逃避みたいに。毎日退屈で、辛くて、出口が見えなくて寂しかった。病的にセックスにハマっちゃうんだ。準一と同じくらい、あたしもぶっ壊れてたんだよ」
「・・・」
セックスと言う言葉があたしの口から出た時、無表情に聞いていた彼の横顔がチラっとこっちを見た。
ここまで開き直って告白してしまうと、もう後は楽だった。
嫌われて、追い出されても仕方ない。
そう覚悟を決めたあたしは寧ろ気が楽になって話を続けた。
「準一に会ってから、デートして・・・ここで一緒に暮らした一週間すごく楽しかった。このままずっと一緒にいたかったけど、準一があたしを受け入れられなかったら仕方ないよね。でもあたしは、準一の事好きだから。ずっと忘れないから・・・。今まで、ありがとう」
気が付いたら頬を涙が伝っていた。
涙で同情買う気はなかったが、これで準一と別れる事になると思うと胸が締め付けられた。
慌ててジャージの袖でゴシゴシ顔を擦ったその時、彼の腕があたしの肩をグイっと引き寄せた。
一瞬、何が起こっているのか分からなかった。
あたしの体はフワっと抱き上げられ、気が付いたらベッドの上に押し倒されていた。
「・・・準一?」
呆然とするあたしを見下ろして、準一はあたしの上に馬乗りになっている。
そして、黙ったままスウェットスーツの上着を頭からガバっと脱いで捨てた。
剥き出しになった彼の上半身を見て、あたしは思わず息を呑む。
その細い体には、一面、赤く引き攣れた火傷の痕が広がっていた。