亀裂 2
・・・こんなの、アリ?
盾になるかのように、あたしの前に立ちはだかるモスグリーンの作業着。
突如現われたその背中は、間違いなく準一だった。
黙っているけど、殺気立った気配が彼の背中から伝わってくる。
あたしの脳裏に、中学校で初めて彼と出遭ったあの日の事が浮かんだ。
あの時も準一はあたしを助けてくれたんだっけ。
細いけど頼もしい背中の後ろに匿われて、あたしは感動で目頭が熱くなる。
中学校の事が脳裏に浮かんだその瞬間、あたしはハッと思い出した。
準一に体当たりされて地面に座り込んでいるこの男の正体・・・!
「てめぇ・・・、ボンビー本田?」
あたしが口を開く前に、そいつが準一のあだ名を口にした。
突然、聞き覚えのあるあだ名を呼ばれて、動揺した準一の背中がビクっと揺れる。
あたしは準一の後ろから顔だけ出して、もう一度その男の顔を確認した。
間違いない。
名前までは覚えてないけど、こいつ、東郷中で同じ学年にいたヤツだ。
クラスは一緒になった事がなかったので印象は薄いけど、確かに顔に見覚えがある。
あの時はこんなチャラい雰囲気でなくて、寧ろ、あのオタク男と同じような地味な少年だった筈だ。
高校デビューしたのか、まるっきり別人の今の風貌とあの頃の面影はリンクしなかった。
一方、名前を呼ばれた準一は、どうしても思い出せないように首を傾げたまま、彼の顔を凝視していた。
無理もない。
あの頃、『ボンビー本田』は色んな意味で有名人だったが、当の本人は在学期間僅か4ヶ月でそのまま来なくなってしまったのだから。
皆は準一を知っていたが、彼が覚えている同級生は殆んどいないだろう。
醜悪な顔を歪ませて、そいつはお尻についた埃をパンパンと払いながら、ゆっくり立ち上がった。
上目遣いに準一の顔を睨みつけてから、再びニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべた。
「何だよ、やっぱりボンビー本田じゃん。林とヨリ戻ってたのか。腐れ縁というか、ウリやってたモン同士、お似合いじゃん? この女が何やってたか知ってて、今でも付き合ってんのかよ? それともお前も客か?」
男の言葉に、準一の顔が強張ってカッと紅潮したのが分かった。
あたしは耳を塞ぎたかった。
準一が学校に来なくなったあの当時、彼のそれまでの境遇についての噂は流れていた。
性的虐待を受けていたのではないかという憶測は、耳年増の女子生徒達には実しやかに語られていたのだ。
まだ子供だったあたし達は、本来の意味は分からずとも、準一がされていた事は何となく想像していた。
先週、彼が団地でカミングアウトしてくれた時、あたしが驚かなかったのは、あたしもその当時の噂を聞いていたからだ。
自分の噂が流れていたのを知らなかったのは、当人である準一だけだった。
準一が黙っていたので、男は更に調子に乗って唾を飛ばしながらペラペラ喋り続ける。
「林って金払えば誰とでもヤるんだ。お前がオッサンの相手してた時、いくらだったか知らねえけど、こいつは一晩5万だぜ? この前、俺のツレが払ったけど、お前もそのくらい払ってんのかよ?」
準一はあたしの顔を見下ろして、信じられないという顔をした。
彼の顔から『嘘だろ?』というSOS信号が送られてくる。
でも、現場を押さえられてるこの男に、どんな嘘をついても揚足を取られるだけだ。
あたしは何と言ったら分からなくて、黙って唇を噛み締めた。
準一が喋れない事を知らないこの男は、彼の沈黙を故意のものと勘違いした。
細い目を吊り上げて近寄ると、準一の作業着の胸倉をグイっと掴んで、自分の顔に近づける。
噛み付きそうなその顔は狂犬のようだった。
「オラ、悔しかったら何とか言えよ! それとも、ホントの事言われて言葉もないか? ボンビー本田のくせして女と付き合ってるなんて生意気なんだよ。金は払ってやるからそいつ一晩貸せよ。何なら、お前の相手も紹介してやっからよ」
準一は胸倉を掴まれたまま、狂犬の顔を見ていた。
その顔には表情が無くて、怒りの色さえ見えない。
苛められてる小さな少年のような彼を見ていられなくなったあたしは、思わず後ろから飛び出して、男に掴みかかった。
「いい加減にしてよ! あたしの事はいいけど、準一は関係ないでしょ?テキトーな事言って、そっちこそ調子に乗ってんじゃないわよ!」
「あんだと!? 俺とやる気か・・・あ!?」
狂犬があたしを捕らえる寸前に、あたしは渾身の力でそいつの胸元に飛び込み、ドーンと体当たりした。
その勢いで、あたしは男にしがみ付いたまま噴水までなだれ込み、揉み合ったままの姿勢で水中に転げ落ちる。
ドボーン・・・という水飛沫の音が響き渡り、あたしの体に冷たい水の感触が服越しに伝わってきた。
それに怯む事なくあたしは男にしがみ付き、その醜悪な顔を水の中に沈めてやった。
でも、優勢だったのはその一瞬だけだった。
男は物凄い力で水中から起き上がると、あたしの首根っこを掴んで、そのまま水中に力任せに顔から突っ込んだ。
鼻から水が入ってきて、あたしは水の中でむせて咳き込む。
その口の中にも大量の水が侵入してきて、溺れながら水中でジタバタと抵抗する。
あたしの脳裏に「死」という文字が浮かんだその時。
水中にもう一人分の足が乱入してきたのが見えて、あたしの体は強い力で引っ張り上げられた。
何とか水の外に顔が出て、あたしはゲホゲホと咳き込んで水を吐き出した。
腿まで噴水の水に浸かって、準一はあたしを片手で引っ張り上げながら、男に蹴りを食らわす。
もう一度、男が噴水の中にひっくり返った瞬間に、準一はあたしをすごい力で引き摺りながら外に出た。
まだゲホゲホ水を吐いてるあたしに逃走進路を指差すと、準一はあたしの腕を引っ張って走り出した。