亀裂 1
穏やかな日々は瞬く間に過ぎていった。
初日だけはカレーライスを作ってみたが、人生は甘くない事が分かったので、翌日、残りのカレーを終わらせてからは、ホカ弁を二人分買って待っていることにした。
彼がマンションに戻るのは大体8時くらいだ。
定時が5時で2時間残業した後、帰ってくるのに1時間かかるらしい。
毎朝、原付をマクドナルドに停めて、そこで送迎バスに乗って隣の市の自動車部品工場まで通っていると彼は言った。
いつも彼がマクドナルドにいた理由がやっと分かった。
あたし達は丸テーブルで向かい合って弁当を食べてから、ベッドに寝そべって指を絡ませて遊んだ。
音のない部屋で、あたし達は指の感触で会話しながら、穏やかな時間を楽しむ。
プラトニックな関係だったが、逆にそれはとてつもなくエロティックで、そして肌を合わせるよりずっと心が満たされた。
土曜の夜にデートの約束をしたお陰で、何とかそこまでは置いてもらえる事になったが、父親に連絡する気は毛頭なかった。
遊びまくってた放蕩娘が、どのツラ提げて男の家に居候してますけど安心して下さい、なんて言えるだろう。
前から気になっていたが、準一は今でもあたしの事を穢れの無い箱入り娘だと信じている。
よそ様の大事な娘様を、親に断わりもなく囲っているのが心配で仕方ないんだろう。
だからと言って、彼の固定観念を訂正する勇気もなかった。
この前の団地に行った時のカミングアウトで、準一が男たらしだった母親に嫌悪感を抱いているのが分かったからだ。
『どうしてお父さんとケンカしたの?』
無邪気に聞いてくる彼に、あたしは返す言葉もなくて、適当に誤魔化すしかなかった。
もちろん、隠し事をしているみたいでいい気分ではない。
それが、少しづつあたしの心にプレッシャーを与え始めていた。
◇◇◇◇
『7時にいつものマクドナルドで待ってる 準一』
土曜の朝(既に10時だったので朝とは言わないが)、目が覚めると彼はもういなかった。
テーブルの上に置いてあったノートにそう書かれたメッセージを見て、今日が土曜日だった事を思い出す。
完全週休二日制の仕事のあたしは、準一がいない夜までの間、何をしたらいいのか分からない。
何しろ、ここにはテレビもビデオもパソコンもないのだ。
こんな時こそ掃除や洗濯をしてあげるべきなんだろうけど、家事全般に於いて彼が一人でした方が効率がいいことが判明したので、あたしはすっかりやる気を失くしていた。
カーテンを開けると、冬らしい清々しい寒空にすっかり昇り切った日の光が眩しい。
今夜は駅前のイルミネーションも、先週よりもっと増えてるだろう。
彼と二人で歩くクリスマス前の街並みを想像して、あたしは子供みたいにワクワクした。
その日、結局何にもする事が何もなかったあたしは、念入りに化粧してから早めにマンションを出た。
待ち合わせの7時にはまだ時間があったが、彼を待ちながら一人で街を散策するのも悪くない。
音のないマンションで一人でボーっとしているより、よほど有意義だ。
いつも通りコインパーキングに車を停めてから、あたしは駅の方に向かって歩き出した。
12月になって何となくお祭りムードの街を眺めるのは楽しい。
こんなしけた街にもサンタが来そうだ。
年末の忙しさと、今年の事はどうでも良くなっちゃう惰性的な雰囲気があたしは好きだった。
ゆっくり歩きながら、先週、準一と『付き合います宣言』をした噴水まで辿り着いた。
カップル達が並んで座るベンチの前を通って、噴水の縁にチョコンと腰掛ける。
もうそろそろ7時になってる筈だ。
今日は外食になるだろうと、ケータイでグルメ情報を検索し始めた時。
目の前に立ちはだかった人影に気が付いて、あたしは顔を上げた。
「林美由紀サンでしょ?俺の事、覚えてる?」
つぶれたような変に甲高い耳障りな男の声。
そこにはフードのついたベストに細身のジーパンを履いた、見るからにチャラい茶髪男があたしを見下ろしてヘラヘラしていた。
服装と声の感じから、あたしと同年代くらいに見えた。
細い釣りあがった目と薄い唇から見える歯並びの悪さがチャラい上にチープで、印象は醜悪そのものだ。
ニキビの痕が残る汚い肌は日焼けしていて、冬にはそぐわないみすぼらしさを醸し出している。
その顔には見覚えがあるような気もする。
でも明確な事は何も思い出せなくて、あたしは顔をしかめた。
「・・・そうですけど? どうしてあたしの事・・・?」
「知ってるよ。あんたこの界隈じゃ結構有名なんだよ。片田舎の駅前でウリやってるってね。俺のダチが声掛けたの覚えてない?俺もその時、傍にいたんだけど、気付かなかったかな?」
有名と言われて、あたしの頭にカッと血が昇った。
こんな所でナンパされてホテルに付いて行ったら噂くらいは立つかもしれないが、あたしは別にウリやってるつもりはない。
そもそも、この目の前の男が誰なのか思い出せなくて、あたしはぶっきらぼうに言い返した。
「・・・誰よ、ダチって。あんたなんか見覚えないけど」
「太田ってヤツ。オタクっぽくて、あんたが5万円巻き上げたヤツって言ったら覚えてるだろ? 名前も聞かなかったかもしれないけど」
その言葉に、あたしの顔からサーっと血が引いた。
あのオタク男!
父親のケータイに送られた写メに写ってたアイツだ。
その場にいたという事は、こいつがあの写真を隠れて撮ってたんだ・・・!
今まではまらなかったパズルのピースが、あたしの頭の中で音を立てて組み立てられていく。
でも、どうしてこの男が父親のケータイを知ってたんだろう・・・。
あたしの考えてる事を見透かすように、男はニヤニヤしながら勝ち誇った顔をした。
「どーしてか教えて欲しかったら、俺に付き合ってよ。情報料差っ引いて1万くらいでどう?」
「ふざけないでよ。あたし別に商売やってる訳じゃないし」
「じゃ、なんであの時は金巻き上げたんだよ?金払えば誰とでもヤるんだろ?」
「あんたにカンケーないし。ってか、マジキモいよ。あんたなんかとヤるわけないじゃん。顔見て出直したら?」
暴言を吐いて立ち上がったあたしの腕を男は無遠慮に掴んで、自分に引き寄せる。
並びの悪い歯を剥き出して、怒りに歪んだ顔をあたしに近付けた。
「おい、調子こいてんじゃねえぞ!?またオヤジにメール送って欲しいのかよ?」
「何それ? 脅迫してるつもり? メールでも何でも勝手にすれば? 誰があんたなんかと・・・!」
思わず出た平手打ちが男の頬を掠めて、火に油を注いでしまった。
キレた男の拳があたしの顔に向かって振り上げられる。
思わず目を瞑って肩を竦めたその時。
突然、あたし達の間に割って入った体に、男は突き飛ばされて尻餅をついた。
恐る恐る薄目を開けたあたしの目の前には、モスグリーンの作業着を着たひょろ長い背中が立ちはだかっていた。




