安らぎ 2
このマンションに来てから気が付いた事。
それは静けさだ。
声を発しない準一と一緒にいると、当然の事ながら、話しているのはあたしだけになる。
それはつまり、あたしが喋っていない間は静寂の時が流れるという事だった。
ガランとしたこの狭い部屋には家具がなかった。
唯一、置いてあるのは備え付けのクローゼットのみで、テレビもラジオもない。
おまけに電話で話せないからという理由で、準一はケータイさえ持っていなかった。
この平成の現代において、これだけ電化製品の少ない家は初めて見た。
だけど、音はどこにでもある。
声やテレビの雑音がなくても、黙っていれば窓の外から川の水音が聞こえるし、車のエンジンの音が遠くで響いているのが分かる。
準一と一緒にいる時のこの静かな安らぎに、あたしは心地良さを感じていた。
今まで沈黙が苦手で、くだらないバカ話で無理矢理盛り上がってた事が嘘みたいだ。
ボンヤリと川の音に耳を傾けていると、ベッドに準一が入ってきた。
部屋の明かりを消そうと弄っているリモコンを、あたしは手を伸ばしてパっと奪い取る。
「ね、準一。まだ早いし眠くないから、お話しよ?」
まだ眠りたくなかった。
彼の顔をもっと見ていたくて咄嗟に出た嘘だった。
返事の代わりに、準一は笑みを見せてコクンと頷く。
・・・彼も同じ気持ちだったのかな?
都合のいい想像をして、あたしは嬉しくなった。
あたし達は狭いベッドにお互い向かい合って横になった。
至近距離に彼の顔が来て、あたしの心臓は勝手にドキドキと音を立てる。
彼も緊張しているのか、黙ったまま視線を泳がせていた。
間近にきた彼の顔をじっくりと観察する。
細いけど、しっかりした首筋から肩にかけてのライン。
細面の顔の骨格に、整った顔立ち。
睫毛の長い黒目がちの目は少し下がっていて、これが女の子っぽい印象を強めている原因になっている。
あたしは手を伸ばして、その頬にそっと触れてみた。
準一は触れた瞬間、ビクっと体を硬直させた。
でもそれは一瞬の事で、やがて犬のように目を伏せて、あたしのされるがままになってくれた。
どこまで許されるのか分からないまま、あたしは少しづつ手を移動させて、彼の形のいい唇に触れた。
閉じた唇の奥で、彼の喉が鳴る。
あたしと同じくらい準一も緊張しているのが分かって、あたしはまた嬉しくなった。
「・・・ね、準一も触って?」
思い切って言ったあたしの言葉に、彼は緊張した面持ちでコクンと頷いた。
不器用そうな大きな手が差し出され、そっとあたしの頬に触れる。
彼の手の感触をもっと感じたくて、あたしは思わず目を瞑った。
骨ばった大きな手が頬を滑り、睫毛に触れ、髪を撫でる。
そっと目を開けると、優しい目であたしを見ている彼の顔があった。
今なら。
今ならもしかすると大丈夫かも。
突如、そう思ったあたしは思い切って前から言えなかったお願いを口にした。
「・・・キス、して?」
準一は前みたいに、ゴメンとは言わなかった。
その代わり、さっきまでの優しい笑みがスっと消えて、真面目な顔に戻った。
再び喉の奥が鳴って、緊張で触れている手が強張る。
あたしはその手を掴まえて、ギュっと握った。
それに勇気付けられたのか、彼は意を決した面持ちで顔を上げて、ベッドから体を起こす。
ゆっくりと彼の顔が近付いてきて、あたしは慌てて目を瞑った。
キスは目を瞑らないとできないと思い込んでいた子供の頃みたいに。
目を閉じて待ち構えていたあたしの唇に、彼の唇の先がちょっとだけ触れた。
少し間が開いてから、再び、唇がチョンと触れる。
鳥の啄みのような小さなキスをもう一度してから、彼はあたしから離れた。
そっと目を開けると、元の位置に戻って硬直している彼の顔があった。
きっと、今の彼にできる精一杯をしてくれたんだ。
期待したものとは違ったけど、あたしは初めての彼からのキスに胸が熱くなった。
「じゃ、今度はあたしがしていい?」
あたしが言うと、彼は可哀相なくらい緊張で固くなった。
これ以上は無理!って顔が言っている。
それが何だかかわいくて、あたしは笑いながら強引に接近して、彼のおでこにチュっとキスした。
あたし達はその後、狭いベッドに寝そべって昨日のイエスノークイズの続きをした。
手を握って返事をするのは確かに名案だったが、イエスかノーかの選択しかできないのでこちらも聞き方を考えなければならない。
それでもノートなしで意思疎通ができるのは嬉しかった。
「明日もカレーでいい?ご飯炊いておくからさ」
準一は苦笑しながら、ギュっと一回握った。
「じゃあね、昨日も聞いたけど、あたしの事好き?」
ずうずうしくも同じ質問をしてみると、彼も昨日と同じように両手でギュウっと握り締めてくれる。
あたしは安心して、布団に潜り込んだ。
「・・・ありがと。これで安眠できるよ。おやすみ」
準一は優しい顔であたしを見下ろして、そして部屋の明かりを消した。
闇に包まれた部屋で、あたしは川のせせらぎと彼の穏やかな呼吸を聞きながら眠りについた。