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鍵 3

 つまらない日常が再び始まった。

 今日は締め日が終わったところだったので比較的暇だったが、する事がないというのも、それはそれで疲れるものだ。

 する事ないなら帰して欲しいくらいだが、社会人としてはそうもいかない。


「ねえ、金曜の夜は誰と会ってたのよ?」


 隣のデスクの悪友が周りを気にしながらコソコソと聞いてくる。

・・・こいつにはいい男できたら紹介するって言ったんだっけ。

 だけど、真面目で清純派の準一の事を噂話のネタにされるのは、あたしには耐え難い事に思われた。

 今まで付き合った男どもみたいなチャラ男と一緒にされたくない。


「誰とも会ってないって。最近いいことなんか何にもないもんね」


 パソコンを見つめたまま、あたしは無表情を装った。

 いいことはある。

 準一が帰ってくる場所にあたしも帰る。

 それだけの事があたしの心をポカポカと暖めていた。

 首にペンダントみたいに提げた鍵を、あたしはお守りみたいにそっと握りしめた。


 殆んど何もせずに終わった職場を、いつもと同じように定時きっかりにあたしは飛び出した。

 車を飛ばし、先日ノブリンと遭遇したスーパーでカレーの材料を買い込む。

 実家に住んでるくせに食費も入れず、それどころか車の維持費さえ親に払わせていたお陰で、あたしはそこそこ貯金があった。

 スーパーを一回りしてカレーの材料を買い込むと、隣接する100円ショップに突入する。

 陶器コーナーで自分用の茶碗やマグカップを一式買って、ついでに目についた小さな観葉植物もカゴに入れた。

 あの水浸しのユニットバスに少しでも清涼感を与えようと思いついたからだ。


 準一が帰ったら、あたしの作ったジャワカレーができてて、掃除がしてあるバスルームには観葉植物。

 びっくりした彼にあたしは満面の笑顔でこう言うのだ。

「お帰りなさい」って。



◇◇◇◇



 人生は本当にうまくいかない。


 夜8時の準一のマンション。

 実は生まれて初めてだったカレーライス作りに、あたしは躍起になっていた。

 作り始めたのは夕方の6時だった筈だ。

 なのに2時間経過した今でも、じゃがいもとにんじんの皮がようやく剥けたところだった。

 そろそろ彼も戻って来るのに・・・。

 カレーがこんなに難しいとは思っていなかった。

 彼が帰った時にカレーが出来上がっているという未来予想図は早々に破られた。

 

 掃除をするどころか、狭いキッチンの床にはジャガイモやニンジンの皮が散乱し、昨日より汚くなっている。

 何とか剥けたジャガイモとニンジンの破片を鍋に入れて加熱するが、電気コンロなので全然温まらない。

 そこで入れ忘れていた玉葱の事を思い出し、皮を包丁で剥いてみると物凄い刺激臭に涙が出てきた。

 思わず目を瞑った瞬間、滑った包丁が左手の指を掠めて、皮がスパっと削ぎ取られた。


「ぎゃああ!ち、血が出たあ!」


 オタオタしている間にも指は血で染まって、持っていた玉葱までも赤く色付いていく。

 タオルを探しに部屋に飛び込むと、今度は沸騰した鍋から熱湯が噴出し、コンロがジュウジュウと焦げた音を立てた。

 鍋の蓋を取ろうと慌てて伸ばした手に熱湯がかかり、思わず反射的にその手をパっと離す。

 手から離れた鍋の蓋は、重力のまま落下して、つま先を直撃。

 その痛さにあたしは悲鳴を上げた。


「・・・イったあああい!」


 つま先を押さえて蹲ったあたしの目の前で、玄関のドアがガチャリと音を立てて開いた。

 そこから見覚えのあるモスグリーンの作業着が現われるのが視界に入った。

 カレーまだできてないのに・・・!

 準一、帰って来るのが早すぎる!


「・・・?」


 準一はキッチンで蹲っているあたしを見下ろし、首を傾げて微笑んだ。

 ジャガイモの皮で遊んでるとでも思ったんだろうか。

 あたしはカレーさえもろくに作れない自分の不甲斐無さが情けなくて、涙が出てきた。

 尤も玉葱の強烈な匂いのせいで、さっきから泣きっ放しだったんだけど。

 蹲ってベソベソ泣き出したあたしの横に準一は黙って座った。

 床に散乱したジャガイモとニンジンの皮、血まみれの玉葱、沸騰し切ってる鍋の中には熱湯とジャガイモの破片。

 そして足を押さえて泣きながら床に蹲っているあたし。

 何をしていたか、語るまでも無い。

 一目瞭然というヤツだ。


「・・・ゴメン。カレーできなかった。帰ってくるまでに完成させようと思って頑張ったのに。お帰りって言ってあげようと思ったのに。汚しちゃってゴメン・・・」


 しゃくり上げながら、あたしは横に座った準一の肩に顔を埋めた。

 情けなかった。

 あたしが今までどれだけ何にもせずに生きてきたか、身を持って思い知らされた気がした。

 どんなに粋がっても、あたしは所詮カレーも作れないただの子供で、今まで一人で生きてきた準一に敵う筈もない。

 彼を手伝うどころか逆に仕事を増やして、迷惑かけてしまった。


 と、その時、いきなり準一が流血しているあたしの手を取った。

 ズボンのポケットからハンカチを出すと、手際よく傷口を拭いてギュっと押さえた。

 手を握られたまま正面から向かいあう姿勢になって、あたしは何故か緊張して硬直する。

 ちょっと女性的な準一の優しい眼差しが、あたしの胸に突き刺さるみたいだ。

 その唇が、ア・リ・ガ・ト、とゆっくり動いたのを見て、あたしの目から涙がポロポロ零れ落ちる。


「・・・でも、ダメだったじゃん。カレーできなかったじゃん。あたしって何にもできないんだよ?」


 準一は笑って胸ポケットからペンと手帳を取り出して、いつものようにペンをクルリと回しながら書き始めた。

 恥ずかしそうに見せたそのメッセージを見て、あたしは更に号泣した。



『帰ったらミユキがいた それだけでうれしい ありがと』



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