鍵 2
準一が部屋の明かりを消すと、途端に目の前は闇になった。
もう彼の顔は見えない。
ノートの文字も当然見えない。
つまり、暗い場所では彼と意思疎通が全くできなくなってしまうのだ。
当然の事実に気が付いて、あたしは突然心細くなった。
声が聞こえなくて顔も見えなかったら、準一が何を考えているのかも分からない。
あたしの不安をよそに、ベッドに準一が入ってくる気配がした。
暗闇の中、彼の腕があたしの体に触れてドキっと心臓が高鳴る。
狭いシングルベッドであたしは壁にできる限り張り付いて場所を空けようと試みたが、見かけより体の 大きい準一が入ると否応無くお互いの体が触れ合ってしまう。
文字通りの暗黙の了解のもと、あたし達はお互い背を向け合って反対側を向いて横になった。
触れる背中から彼の体の温かさが伝わってきて、気持ちいい。
「準一?寝た?」
寝てないのは分かっていたけど、あたしは一応聞いてみる。
返事の代わりに、暗闇の中で彼がこちらに体を向けたのが分かった。
あたしも彼の方に体を向けて、今度は向き合う姿勢で横になる。
布団の中をまさぐると、彼の左手を発見した。
冷たくて骨ばった大きな手。
あたしはその手を右手でギュっと握り締める。
「いい?あたしが言った事に対してイエスだったらギュって一握り、ノーだったらギュギュって二回握り返して?分かった?」
すぐさま彼の左手があたしの右手をギュっと握り返してきた。
我ながら名案だ。
これでベッドの中でも何とか会話ができる。
「じゃあね、明日夕飯作ってあげようと思うんだけど、カレーライス好き?」
ギュっと彼の手が一回だけ強く握り返された。
カレー好きなんだ。
「じゃあねえ、カレー粉はバーモントカレーでいい?」
ギュギュっと二回。
甘口は苦手なのか。
「じゃ、ジャワカレーでいいかな? 辛口のヤツ」
ギュと一回。
え、あれ、結構辛いのに。
さっきは味のない豚肉食べてたのに、本当は辛党なのか。
「・・・あたしが突然来て迷惑だった?」
ギュギュっと二回。
良かった。
少なくとも嫌がられてはないみたいだ。
「準一・・・あたしの事好き?」
少しの間が開いた後、あたしの右手は彼の両手で包み込まれるようにギュウっと握られた。
「・・・大好きって事?」
もう一度、ギュウっと力が入る。
ほっこり温かくなるような幸福感。
それが彼の手から乾いたあたしの心に注入されていく。
「おやすみ、準一」
とても穏やかな気持ちになって、あたしは今までの人生で初めて満たされて眠りについた。
◇◇◇
ピピピピ・・・・
部屋のどこかで鳴ってる聞き覚えのあるケータイアラームの音。
その音で目が覚めたあたしは、一瞬自分がいる場所が分からず、ボーゼンとしたまま辺りを見回した。
ガランとした小さな白い部屋。
やっと準一のマンションに押しかけてきた事を思い出した。
家主である準一の姿はもうなかった。
あたしのケータイアラームが鳴るという事は8時なんだろう。
彼はとっくに職場にいて、仕事を始めた頃だ。
怒涛の週末は終わって今日は月曜日だ。
あたしも出勤しなければ。
ノブリンとの約束があった金曜の夜はたった3日前の事なのに、思い出すのも面倒臭いくらいに遠い昔の話に思われた。
いつものOL制服を着て、まだ床が半乾きのユニットバスで化粧をする。
長い間居候を続ける気はなかったけど、正直、他に行く当てなんかなかった。
しばらくはここにいるだろうと判断して、自分の化粧ポーチと歯ブラシを鏡の前の棚の上に置いた。
準一の歯ブラシの横に並べて立てたあたしの歯ブラシ。
新婚みたいで何だか気恥ずかしいのに嬉しくて、あたしは鏡に向かってキメポーズをとってみる。
昨夜のドキドキ効果で女性ホルモンが活性化されたのか、心なしか、今日のあたしは少女のような顔をしていた。
まるで、まだ初恋を知ったばっかりの中学生の時みたいに。