期待 1
夕方6時の海岸線は、街灯もなくて、既に夜の闇に包まれている。
もと来た道を走っていくVOXYの助手席で、あたしは不貞腐れて黙っていた。
◇◇◇◇
携帯を切った後、彼はベッドにあたしを残したまま、さっさとバスルームに入ってしまった。
放置されて呆然とするあたしの耳にシャワーの音が聞こえてくる。
僅か5分後、彼は体を拭きながら出てきた。
まだ湯気が立ち上る体に、床に脱ぎ捨ててあったシャツを纏い、パンツを履く。
「ミユちゃんも、早くシャワー浴びて。10分後にここ出るよ。嫁が会社に確かめに行くって言ってるんだ。先回りして会社にいないと、嘘言ったのがバレちまう」
事務的にノブリンはあたしに通達した。
幻滅しまくったあたしは、思わず、彼にクッションを投げつける。
さっきまでのまったりした雰囲気が一気に消滅すると、目の前のこの男はタダのビール腹のオジサンだ。
「何よ、臆病者!その変わりっぷりは酷過ぎるんじゃない?」
意外に反射神経のいいノブリンは、飛んできたクッションを顔の前で難なくキャッチする。
「だから謝っただろ?頼むから早くしてくれよ。そもそもお前だって俺が結婚してるの承知で付き合ってたんだから、そこは協力すべきだろ?」
「変わり身が早過ぎだって言ってんの。それじゃ、何?あたしが体だけの女みたいじゃない」
ノブリンはウンザリした顔で宙を仰ぐと、クッションをあたしに投げ返してきた。
若くても運動神経のないあたしの顔に、クッションは直撃した。
「ミユちゃん、俺はこんな事で家庭を壊したくないし、今の仕事も失いたくない。協力してくれないなら、君をここに置いていく。支払いは済ませておくから、明日チェックアウトして自力で帰ってくれ」
「車もないのに、こんなトコからどうやって一人で帰れって言うのよ?」
「それが嫌なら、今から10分で用意して。でなければ置いてく」
揺ぎ無い彼の言葉に、あたしはショックを隠し切れず、溢れてきた涙をクッションで拭った。
この人とはもうダメだ。
あたしの金曜の夜が無くなってしまう事を確信した。
ノロノロとベッドから這い出てると、スラックスに足を通しているノブリンの横を通って、あたしはバスルームに向かった。
◇◇◇◇
「ミユちゃん、連絡は後日するよ。今日は嫁に詫び入れる羽目になるかもしれないから。このまま会社に直行したいから、駅前で降りてもらっていいかな?そこからだったらバスで帰れるだろ?」
不貞腐れているあたしのご機嫌を取ろうと、ノブリンは営業用の優しい声で問い掛けてくれる。
だけど、彼が何を言っても、もう無駄なのだ。
奥さんの出方次第で、あたし達は永久に会えなくなるのは分かっていた。
「・・・いいよ。バスが通ってるとこでテキトーに降ろして。あたし達、もう終わりでしょ?」
彼は言い難そうに、また頭を掻く。
「結果的にそうなる可能性は高いな。誤魔化し通せる相手ならいいけど、生憎、そういう女じゃないんだ、嫁は。悪いけどバレてたとしたら、もう会えないよ」
あたしの最大の恐怖が、彼の口からはっきり言い渡された。
彼はもう会えなくても、さほど困らないから、こんなに簡単に言い切れるんだろう。
捨て台詞の代わりに、あたしは意地悪な質問をした。
「ね、あたしと奥さん、どっちが好き?」
彼は返事もせず、無言で運転を続ける。
やがて、前を向いたまま、彼は言った。
「奥さん。今までもこれからも、ね。・・・ミユちゃんには悪いけど。でも、君もそうだろ?」
「何が?」
「俺じゃなくても良かったんでしょ? 退屈しのぎになれば」
あたしは黙ったまま、窓の外の真っ黒な海を見つめた。
・・・案外バカじゃなかったんだな、ノブリンは。
思ったより賢いこの男には、あたしの痛いパフォーマンスもお見通しだったんだろう。
結局、あたしは彼を転がしてるつもりで、実はからかわれてたんだ。
泣きたくなったけど、唇を噛み締め必死で堪えた。
視界に映る海が涙でぼやけていった。
やがて、車は駅前の繁華街に到着した。
タクシー乗り場でノブリンは停車させると、ロックを解除する。
さあ、降りろと言わんばかりだ。
「悪いな、ミユちゃん。また連絡するよ。とにかく俺はこのまま会社行くから。じゃな!」
あたしの足が地上に着いた途端に、彼は早口でそう言うと、ドアを内側からバン!と閉めた。
すごいスピードで走り去っていくVOXYを、あたしは呆然と見つめるしかなかった。
奇しくも、そこは昨日あたしが車を停めたコインパーキングの傍だった。
自然に昨日の本田君との一件があたしの脳裏に浮かび上がる。
あたしはバッグから携帯を引っ張り出して時間を確認した。
只今、土曜の夜七時。
確か、昨日はもっと遅かった筈だ。
マクドナルドに行けば、彼にまた会えるかもしれない。
会ってどうする?という心の突っ込みは無視して、あたしは再びマクドナルドに向かって歩き出した。
そもそも、本田君に会えるとは思っていない。
偶然は重なるモンじゃない。
二度起ったら、それは必然だ。
土曜の夜に一人にされるのは、虚しすぎて死にたくなる。
本田君がいればいい。
いなかったら、誰かテキトーなのを探すだけだ。
それだけの理由で、あたしは昨日の場所に向かっていた。
果たして。
マクドナルドの看板が視界に入ってきた時、あたしの胸はドキンと高鳴った。
まだ営業している隣の古着屋の店舗の前に、見覚えのある黒いスクーターが停まっている。
そこにいるであろう彼を求めて、あたしは足を速めた。




