↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

小さな大冒険

作者: 藤原 智
掲載日:2026/11/06

 分かれ道に差しかかったところで、足が止まった。


 右は、坂道だった。


 五年ぶりに帰ってきた町は、駅前に新しいドラッグストアができていたり、通っていた床屋の看板がなくなっていたりと、少しずつ変わっていた。

 けれど、この分かれ道は覚えている。左の道を行けば実家。右へ進むと、細い坂道が田んぼの方へ下っていく。


 ガードレールにかぶさる草まで、昔のままのような気がした。


「あ」


 短い声がした。


 坂の入り口に、子どもが四人いた。男の子が二人、女の子が二人。自転車は三台。

 俺と目が合った男の子が、慌てて隣の子の腕を引っ張った。


「ちょっと、誰か来た」

「えっ」


 四人が一斉に動いた。

 ひとりは電柱の陰へ、ひとりは自転車の後ろへ。残る二人は、隠れる場所を決められないまま、その場でしゃがんでいる。


 丸見えだった。


 笑いそうになるのをこらえて、坂道へ目を向ける。


 今も、禁止されているのか。


 俺が小学生だった頃、この坂を自転車で下りることは、学校で固く禁じられていた。

 夏休み前には、先生が黒板に簡単な地図を描いて、赤いチョークで大きなバツをつけたものだ。


「ここは、自転車に乗ったまま下りないこと。いいですね」


 俺たちは、声をそろえて返事をした。


 はーい、と。


 その何日か後には、駄菓子屋で遠征の準備を始めていたのだから、ひどい生徒たちだったと思う。


「食いもんは、多い方がいいよな」


 健太が、十円玉を数えながら言った。


「遠くまで行くかもしれないし」

「どこまで行くの?」

「まだ分かんない」


 真由に聞かれて、俺は棚に並んだお菓子を見上げた。

 坂の下に何があるのか、誰も知らなかった。家はみんな反対側にあったし、わざわざ歩いて見に行くのも違う気がした。


 自転車で、あの坂を下りる。

 その先は、着いてから決めればいい。


 小学四年生の俺たちには、それで十分だった。


「チョコは溶けるよ」


 真由の指摘に、健太が手に持っていた菓子を棚へ戻す。

 代わりに大きな袋のせんべいを取ったので、俺は首を振った。


「それ、かさばるって」

「でも、いっぱい入ってる」

「割って持ってけば?」

「最初から割れてるの買えばいいじゃん」


 三人で棚の前に座り込み、ああでもない、こうでもないと相談する。

 妹はその横で、両手にひとつずつ、棒つきの飴を握っていた。


「お兄ちゃん、どっちがいいと思う?」


 片方は赤くて、もう片方は黄色い。


「好きな方でいいよ」

「両方好きなの」


 困った顔をするので、俺は自分が買うつもりだったガムをひとつ戻した。


「じゃあ、二つ買えば」

「いいの?」

「明日、片方くれよ」

「赤いのは、わたしのね」


 妹は笑って、黄色い方を俺の前へ差し出した。


 その晩、買ったお菓子を床に並べ、小さなリュックに詰めた。

 底にはせんべい、その上にラムネ菓子。飴が折れないように、隅へそっと差し込む。


 妹は、詰め終わったリュックを背負って、居間を何度も往復した。


「まだ明日だぞ」

「知ってる」

「もう下ろせば」

「ちょっと練習」


 何の練習だよ、と笑った俺も、眠る前には自転車の鍵があるか、三回確かめた。


 翌日の昼過ぎ、約束の場所に三台の自転車が集まった。


 俺と健太と真由、それから妹。

 四人で顔を見合わせるだけで、なんだか笑えてきた。


 真由の自転車のかごから、水筒が二本のぞいている。

 健太はハンドルに小さな方位磁石を結びつけていた。


「これで、どっちに行っても帰れる」

「お前、使い方分かるの?」

「赤い方が北」

「で、家は?」

「……たぶん、あっち」


 俺が指さした方で、針は少しも動かなかった。


「まあ、帰るときに考えようぜ」


 そう言うと、健太も真由もうなずいた。


 坂の入り口まで、自転車を押していく。

 車の音がするたびに足を止めた。家の庭で誰かが動けば、しゃがんで通り過ぎるのを待った。


「もう行った?」

「まだ。おばちゃん、植木に水やってる」

「早く終わんないかな」

「しーっ」


 声をひそめるほど、おかしくなる。

 妹が口を押さえて肩を揺らしたので、俺もつられて下を向いた。


 ようやく、人影がなくなった。


 健太が左を確かめ、真由が後ろを振り返る。俺は坂の下をのぞき込んだ。


 道は木立の間へ曲がっていた。

 その先は見えなかった。


 ひとつ唾を飲んでから、自転車にまたがる。


「乗れよ」


 妹が荷台に腰を下ろした。

 背中に、リュックごと体が触れる。小さな手が、俺のTシャツを両側からつかんだ。


「ちゃんと持ってろよ」

「持ってる」

「離すなよ」

「離さないってば」


 隣で健太が笑った。


「お前の方が怖がってんじゃん」

「怖くねえよ」


 真由は片足をペダルに乗せ、じっと坂の先を見ていた。

 口元だけが、にやにやしている。


 俺たちは、もう一度だけ周りを見回した。


 誰もいない。


「よし」


 健太が顔を上げた。


「みんな、いくぞー!」


 三台の自転車が、一斉に動き出した。


 最初のひと漕ぎだけは覚えている。

 その後は、足を動かさなくても進んだ。


 車輪の音が高くなる。

 頬にぬるく触れていた空気が、いきなり風になった。


「うおおおおおお!」


 健太の声が響いた。


「ヒャッホオオオオ!」


 真由まで叫んでいる。

 教室では聞いたこともない声だった。


 俺も、何か叫んだ。

 言葉になっていたかどうかは分からない。


 目から勝手に涙が出て、Tシャツが腹のあたりで膨らんだ。

 木の葉の向こうで日がちらちらと光る。さっきまであんなにうるさかった蝉の声が、もう聞こえない。


「お兄ちゃん、はやい!」

「つかまってろよ!」

「はやい、はやい!」


 背中で妹が笑っていた。


「あははははは!」


 あんまり楽しそうに笑うから、俺も笑った。


 曲がり角を抜けると、田んぼが見えた。

 緑の稲が一面に広がり、その向こうには、知らない屋根がいくつも浮かんでいた。


 まだ行ける。

 もっと先まで行ける。


 坂道は、どこまでも続いていた。

 ブレーキを握る手にも、風を受ける顔にも、後ろからしがみつく妹の指にも、力が入っていた。


 ただ下っているだけなのに、俺たちはどうしても笑うのをやめられなかった。


 坂の下で止まったとき、健太は自転車にまたがったまま、何度も空を仰いだ。


「すっげえ!」

「もう一回! もう一回行こうよ!」


 真由が言う。

 俺も振り返ったが、今度は上り坂になった道を見て、すぐに首を横へ振った。


「あれ上るの、無理」

「押せばいいじゃん」

「俺、後ろにこいつもいるし」


 妹は荷台から下りて、赤くなった顔を両手であおいでいた。


「わたし、おなかすいた」


 それを聞いたら、みんな急に腹が減った。


 用水路のそばの木陰で、リュックを開ける。

 せんべいは少し割れていた。ラムネ菓子のふたはなかなか開かず、健太が力を入れすぎて、二粒ほど草の中へ飛んでいった。


 みんなで探したけれど、ひとつしか見つからなかった。


 妹からもらった黄色い飴は、熱で包み紙にくっついていた。

 やっと剥がして口に入れると、甘い味がした。何味だったかは、もう覚えていない。


 水筒のお茶を順番に飲んで、また自転車に乗った。


 坂を上る代わりに、田んぼ沿いの道を進むことにした。

 どこかで左へ曲がれば、家の方へ戻れるはずだった。


 けれど、左へ曲がれる道は、なかなか現れない。

 ようやく見つけて入ってみると、川にぶつかった。


「橋は?」

「あっちじゃない?」


 川沿いに走った。

 橋を渡り、また左へ曲がった。


 見たことのない倉庫があった。

 畑のそばに、青い屋根の小屋があった。


「ここ、知ってる?」

「知らない」

「俺も」


 健太の方位磁石は、相変わらず北を向いていた。

 それがどうした、と思い始めた頃には、もう笑う子はいなかった。


 水筒が空になった。


 妹の手が、Tシャツを引っ張った。


「お兄ちゃん、おうち、まだ?」

「もう少し」


 何度か同じことを答えた。


 昼間、あれほど高いところにあった太陽が、いつの間にか家々の陰へ沈みかけていた。

 真由は自転車を降りた。健太も黙って、それに続く。


 俺も妹を降ろして、四人で歩いた。

 後輪のそばを歩く妹のサンダルが、ときどき道路をこすった。


「お母さん、怒るかな」


 妹が言った。


「……怒るかもな」


 真由が鼻をすすった。

 健太は方位磁石をほどき、ポケットへ突っ込んだ。


 遠くで、夕方の放送が鳴っていた。

 いつもなら家で聞く音楽だった。


 その音が終わるまで、俺たちは一度もしゃべらなかった。


 知っているお寺の屋根を見つけたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。


「あそこ、見て」


 俺が指をさすと、真由が顔を上げた。


「あっ」


 健太も気づいた。


「お寺じゃん!」

「ここ、知ってる!」


 足に力が戻った。

 自転車を押す腕にも、もう一度、力が入った。


 角を曲がる。

 見覚えのある塀があった。犬が吠える家があり、通学路で毎日見ていたカーブミラーがあった。


 帰れる。


 妹が俺のシャツの裾をつかんだまま、早足になった。


 家の前に、パトカーが止まっていた。


 その向こうには消防団の軽トラック。

 玄関にも庭にも大人がいて、誰かが俺たちを見つけると、大きな声を上げた。


「帰ってきたぞ!」


 その声で、全員が振り返った。


 母さんが走ってきた。

 妹が手を離し、その胸に飛び込む。


 俺は、自転車のハンドルを握ったまま立っていた。


 健太の父ちゃんがいた。

 真由のお母さんもいた。

 制服の警察官や、消防団の法被を着た近所の人たちまで、みんな汗をかいていた。


 俺たちを、捜していたのだ。


「どこまで行ってた!」


 父さんに言われて、俺はうつむいた。


「……坂の下」

「どこの坂だ」

「学校で、下りちゃ駄目って言われてる……」


 最後まで言う前に、拳骨が落ちた。


 痛かった。


 隣では健太も頭を押さえ、真由はお母さんの前で泣いていた。

 妹も母さんにこつんとやられて、また泣いた。


 俺たちは四人並ばされ、大人たちに頭を下げた。


「ごめんなさい」


 声がそろわなかったので、もう一度謝った。


「ごめんなさい」


 警察官のおじさんが、俺たちの顔を順番に見た。


「みんな、けがはないか」


 四人でうなずく。

 おじさんは息を吐いて、膝に置いていた帽子をかぶった。


「そうか。無事でよかった」


 消防団のおじさんにも、近所のおばさんにも、何度も頭を下げた。

 母さんたちも、俺たちと一緒に謝っていた。


 健太と真由が連れて帰られた後、玄関で靴を脱ごうとして、うまく片足が上がらなかった。

 父さんが腕をつかんでくれた。


 さっき殴られたばかりなのに、その手を握ったら、急に涙が出た。


 きゅ、とブレーキの音がした。


 顔を上げると、電柱の陰にいた男の子が、そっと自転車を引き寄せていた。

 隠れても仕方がないと気づいたらしい。


 俺はもう一度、坂道を見た。


 こんなに短かったのか。


 あのときは、どこまでも下っていけると思っていた。

 俺は、手に持っていたペットボトルを鞄にしまった。


 四人がこちらを見ている。

 ひとりの女の子が、男の子の自転車の荷台に、ちょこんと腰を下ろした。


 俺は何も言わず、親指を立てた。


 男の子が目を丸くする。

 隣の子と顔を見合わせ、それから四人が、ぱっと笑った。


「いってきまーす!」


 誰に言うでもないような、大きな声だった。


「おう。夕方には帰れよ」


 俺が言うと、もうひとりの男の子が、片手を高く上げた。


「はーい!」


 ペダルが回る。

 三台の自転車が坂へ乗った。


「うおおおおお!」

「ヒャッホー!」


 女の子の笑い声が重なる。

 荷台に乗った子が、前の子の服をぎゅっとつかんでいた。


 たちまち小さくなっていく背中を、俺はしばらく見送った。


 風が吹いた。

 草が揺れて、坂の下から、もう一度だけ笑い声が届いた。


 今の君たちは、気づかないだろう。

 自転車で坂道を下るだけで、最高に楽しいと笑える日は、もう二度と来ない事を。


 そして、いつか思い出すだろう。

 どこまでも坂道が続き、世界中が輝いて見えた、小さな大冒険を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。