小さな大冒険
分かれ道に差しかかったところで、足が止まった。
右は、坂道だった。
五年ぶりに帰ってきた町は、駅前に新しいドラッグストアができていたり、通っていた床屋の看板がなくなっていたりと、少しずつ変わっていた。
けれど、この分かれ道は覚えている。左の道を行けば実家。右へ進むと、細い坂道が田んぼの方へ下っていく。
ガードレールにかぶさる草まで、昔のままのような気がした。
「あ」
短い声がした。
坂の入り口に、子どもが四人いた。男の子が二人、女の子が二人。自転車は三台。
俺と目が合った男の子が、慌てて隣の子の腕を引っ張った。
「ちょっと、誰か来た」
「えっ」
四人が一斉に動いた。
ひとりは電柱の陰へ、ひとりは自転車の後ろへ。残る二人は、隠れる場所を決められないまま、その場でしゃがんでいる。
丸見えだった。
笑いそうになるのをこらえて、坂道へ目を向ける。
今も、禁止されているのか。
俺が小学生だった頃、この坂を自転車で下りることは、学校で固く禁じられていた。
夏休み前には、先生が黒板に簡単な地図を描いて、赤いチョークで大きなバツをつけたものだ。
「ここは、自転車に乗ったまま下りないこと。いいですね」
俺たちは、声をそろえて返事をした。
はーい、と。
その何日か後には、駄菓子屋で遠征の準備を始めていたのだから、ひどい生徒たちだったと思う。
「食いもんは、多い方がいいよな」
健太が、十円玉を数えながら言った。
「遠くまで行くかもしれないし」
「どこまで行くの?」
「まだ分かんない」
真由に聞かれて、俺は棚に並んだお菓子を見上げた。
坂の下に何があるのか、誰も知らなかった。家はみんな反対側にあったし、わざわざ歩いて見に行くのも違う気がした。
自転車で、あの坂を下りる。
その先は、着いてから決めればいい。
小学四年生の俺たちには、それで十分だった。
「チョコは溶けるよ」
真由の指摘に、健太が手に持っていた菓子を棚へ戻す。
代わりに大きな袋のせんべいを取ったので、俺は首を振った。
「それ、かさばるって」
「でも、いっぱい入ってる」
「割って持ってけば?」
「最初から割れてるの買えばいいじゃん」
三人で棚の前に座り込み、ああでもない、こうでもないと相談する。
妹はその横で、両手にひとつずつ、棒つきの飴を握っていた。
「お兄ちゃん、どっちがいいと思う?」
片方は赤くて、もう片方は黄色い。
「好きな方でいいよ」
「両方好きなの」
困った顔をするので、俺は自分が買うつもりだったガムをひとつ戻した。
「じゃあ、二つ買えば」
「いいの?」
「明日、片方くれよ」
「赤いのは、わたしのね」
妹は笑って、黄色い方を俺の前へ差し出した。
その晩、買ったお菓子を床に並べ、小さなリュックに詰めた。
底にはせんべい、その上にラムネ菓子。飴が折れないように、隅へそっと差し込む。
妹は、詰め終わったリュックを背負って、居間を何度も往復した。
「まだ明日だぞ」
「知ってる」
「もう下ろせば」
「ちょっと練習」
何の練習だよ、と笑った俺も、眠る前には自転車の鍵があるか、三回確かめた。
翌日の昼過ぎ、約束の場所に三台の自転車が集まった。
俺と健太と真由、それから妹。
四人で顔を見合わせるだけで、なんだか笑えてきた。
真由の自転車のかごから、水筒が二本のぞいている。
健太はハンドルに小さな方位磁石を結びつけていた。
「これで、どっちに行っても帰れる」
「お前、使い方分かるの?」
「赤い方が北」
「で、家は?」
「……たぶん、あっち」
俺が指さした方で、針は少しも動かなかった。
「まあ、帰るときに考えようぜ」
そう言うと、健太も真由もうなずいた。
坂の入り口まで、自転車を押していく。
車の音がするたびに足を止めた。家の庭で誰かが動けば、しゃがんで通り過ぎるのを待った。
「もう行った?」
「まだ。おばちゃん、植木に水やってる」
「早く終わんないかな」
「しーっ」
声をひそめるほど、おかしくなる。
妹が口を押さえて肩を揺らしたので、俺もつられて下を向いた。
ようやく、人影がなくなった。
健太が左を確かめ、真由が後ろを振り返る。俺は坂の下をのぞき込んだ。
道は木立の間へ曲がっていた。
その先は見えなかった。
ひとつ唾を飲んでから、自転車にまたがる。
「乗れよ」
妹が荷台に腰を下ろした。
背中に、リュックごと体が触れる。小さな手が、俺のTシャツを両側からつかんだ。
「ちゃんと持ってろよ」
「持ってる」
「離すなよ」
「離さないってば」
隣で健太が笑った。
「お前の方が怖がってんじゃん」
「怖くねえよ」
真由は片足をペダルに乗せ、じっと坂の先を見ていた。
口元だけが、にやにやしている。
俺たちは、もう一度だけ周りを見回した。
誰もいない。
「よし」
健太が顔を上げた。
「みんな、いくぞー!」
三台の自転車が、一斉に動き出した。
最初のひと漕ぎだけは覚えている。
その後は、足を動かさなくても進んだ。
車輪の音が高くなる。
頬にぬるく触れていた空気が、いきなり風になった。
「うおおおおおお!」
健太の声が響いた。
「ヒャッホオオオオ!」
真由まで叫んでいる。
教室では聞いたこともない声だった。
俺も、何か叫んだ。
言葉になっていたかどうかは分からない。
目から勝手に涙が出て、Tシャツが腹のあたりで膨らんだ。
木の葉の向こうで日がちらちらと光る。さっきまであんなにうるさかった蝉の声が、もう聞こえない。
「お兄ちゃん、はやい!」
「つかまってろよ!」
「はやい、はやい!」
背中で妹が笑っていた。
「あははははは!」
あんまり楽しそうに笑うから、俺も笑った。
曲がり角を抜けると、田んぼが見えた。
緑の稲が一面に広がり、その向こうには、知らない屋根がいくつも浮かんでいた。
まだ行ける。
もっと先まで行ける。
坂道は、どこまでも続いていた。
ブレーキを握る手にも、風を受ける顔にも、後ろからしがみつく妹の指にも、力が入っていた。
ただ下っているだけなのに、俺たちはどうしても笑うのをやめられなかった。
坂の下で止まったとき、健太は自転車にまたがったまま、何度も空を仰いだ。
「すっげえ!」
「もう一回! もう一回行こうよ!」
真由が言う。
俺も振り返ったが、今度は上り坂になった道を見て、すぐに首を横へ振った。
「あれ上るの、無理」
「押せばいいじゃん」
「俺、後ろにこいつもいるし」
妹は荷台から下りて、赤くなった顔を両手であおいでいた。
「わたし、おなかすいた」
それを聞いたら、みんな急に腹が減った。
用水路のそばの木陰で、リュックを開ける。
せんべいは少し割れていた。ラムネ菓子のふたはなかなか開かず、健太が力を入れすぎて、二粒ほど草の中へ飛んでいった。
みんなで探したけれど、ひとつしか見つからなかった。
妹からもらった黄色い飴は、熱で包み紙にくっついていた。
やっと剥がして口に入れると、甘い味がした。何味だったかは、もう覚えていない。
水筒のお茶を順番に飲んで、また自転車に乗った。
坂を上る代わりに、田んぼ沿いの道を進むことにした。
どこかで左へ曲がれば、家の方へ戻れるはずだった。
けれど、左へ曲がれる道は、なかなか現れない。
ようやく見つけて入ってみると、川にぶつかった。
「橋は?」
「あっちじゃない?」
川沿いに走った。
橋を渡り、また左へ曲がった。
見たことのない倉庫があった。
畑のそばに、青い屋根の小屋があった。
「ここ、知ってる?」
「知らない」
「俺も」
健太の方位磁石は、相変わらず北を向いていた。
それがどうした、と思い始めた頃には、もう笑う子はいなかった。
水筒が空になった。
妹の手が、Tシャツを引っ張った。
「お兄ちゃん、おうち、まだ?」
「もう少し」
何度か同じことを答えた。
昼間、あれほど高いところにあった太陽が、いつの間にか家々の陰へ沈みかけていた。
真由は自転車を降りた。健太も黙って、それに続く。
俺も妹を降ろして、四人で歩いた。
後輪のそばを歩く妹のサンダルが、ときどき道路をこすった。
「お母さん、怒るかな」
妹が言った。
「……怒るかもな」
真由が鼻をすすった。
健太は方位磁石をほどき、ポケットへ突っ込んだ。
遠くで、夕方の放送が鳴っていた。
いつもなら家で聞く音楽だった。
その音が終わるまで、俺たちは一度もしゃべらなかった。
知っているお寺の屋根を見つけたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。
「あそこ、見て」
俺が指をさすと、真由が顔を上げた。
「あっ」
健太も気づいた。
「お寺じゃん!」
「ここ、知ってる!」
足に力が戻った。
自転車を押す腕にも、もう一度、力が入った。
角を曲がる。
見覚えのある塀があった。犬が吠える家があり、通学路で毎日見ていたカーブミラーがあった。
帰れる。
妹が俺のシャツの裾をつかんだまま、早足になった。
家の前に、パトカーが止まっていた。
その向こうには消防団の軽トラック。
玄関にも庭にも大人がいて、誰かが俺たちを見つけると、大きな声を上げた。
「帰ってきたぞ!」
その声で、全員が振り返った。
母さんが走ってきた。
妹が手を離し、その胸に飛び込む。
俺は、自転車のハンドルを握ったまま立っていた。
健太の父ちゃんがいた。
真由のお母さんもいた。
制服の警察官や、消防団の法被を着た近所の人たちまで、みんな汗をかいていた。
俺たちを、捜していたのだ。
「どこまで行ってた!」
父さんに言われて、俺はうつむいた。
「……坂の下」
「どこの坂だ」
「学校で、下りちゃ駄目って言われてる……」
最後まで言う前に、拳骨が落ちた。
痛かった。
隣では健太も頭を押さえ、真由はお母さんの前で泣いていた。
妹も母さんにこつんとやられて、また泣いた。
俺たちは四人並ばされ、大人たちに頭を下げた。
「ごめんなさい」
声がそろわなかったので、もう一度謝った。
「ごめんなさい」
警察官のおじさんが、俺たちの顔を順番に見た。
「みんな、けがはないか」
四人でうなずく。
おじさんは息を吐いて、膝に置いていた帽子をかぶった。
「そうか。無事でよかった」
消防団のおじさんにも、近所のおばさんにも、何度も頭を下げた。
母さんたちも、俺たちと一緒に謝っていた。
健太と真由が連れて帰られた後、玄関で靴を脱ごうとして、うまく片足が上がらなかった。
父さんが腕をつかんでくれた。
さっき殴られたばかりなのに、その手を握ったら、急に涙が出た。
きゅ、とブレーキの音がした。
顔を上げると、電柱の陰にいた男の子が、そっと自転車を引き寄せていた。
隠れても仕方がないと気づいたらしい。
俺はもう一度、坂道を見た。
こんなに短かったのか。
あのときは、どこまでも下っていけると思っていた。
俺は、手に持っていたペットボトルを鞄にしまった。
四人がこちらを見ている。
ひとりの女の子が、男の子の自転車の荷台に、ちょこんと腰を下ろした。
俺は何も言わず、親指を立てた。
男の子が目を丸くする。
隣の子と顔を見合わせ、それから四人が、ぱっと笑った。
「いってきまーす!」
誰に言うでもないような、大きな声だった。
「おう。夕方には帰れよ」
俺が言うと、もうひとりの男の子が、片手を高く上げた。
「はーい!」
ペダルが回る。
三台の自転車が坂へ乗った。
「うおおおおお!」
「ヒャッホー!」
女の子の笑い声が重なる。
荷台に乗った子が、前の子の服をぎゅっとつかんでいた。
たちまち小さくなっていく背中を、俺はしばらく見送った。
風が吹いた。
草が揺れて、坂の下から、もう一度だけ笑い声が届いた。
今の君たちは、気づかないだろう。
自転車で坂道を下るだけで、最高に楽しいと笑える日は、もう二度と来ない事を。
そして、いつか思い出すだろう。
どこまでも坂道が続き、世界中が輝いて見えた、小さな大冒険を。




