↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

少年よ、私を抱け

作者: 淡麗
掲載日:2025/10/05

※虐待、ネグレクト、死をテーマにした作品です。ご注意ください。

春樹が図書館に逃げ込むようになったのは、高校二年の春からだった。

家に帰れば、義父の視線がある。母の冷たい沈黙がある。そして何より、自分が「いてはいけない存在」だという、言葉にならない重圧がある。

「面倒な子だね」

母がぽつりと言った言葉が、春樹の胸に突き刺さった。

それから、春樹は図書館に通うようになった。

市立図書館の三階、古い文学全集が並ぶ一角。そこは訪れる人も少なく、春樹にとって唯一の安息の場所だった。

そして、そこに彼女がいた。

司書の霞は、三十代半ばと思われる女性だった。長い黒髪を後ろで束ね、縁なしの眼鏡をかけている。彼女の佇まいには、静謐な美しさがあった。

「また来たのね」

霞は春樹を見ると、微かに微笑んだ。

「ここが落ち着くんです」

春樹は正直に答えた。霞は何も聞かなかった。ただ、紅茶を淹れて差し出してくれた。

それが、二人の始まりだった。


梅雨入りした六月のある日、閉館間際の図書館で、春樹と霞は初めて長い会話を交わした。

「春樹くんは、何から逃げているの?」

霞は唐突に尋ねた。春樹は驚いて顔を上げた。

「逃げてる、って分かるんですか」

「ええ。私も同じだから」

霞は窓の外を見つめた。雨が静かに降っていた。

「私は孤児院で育ったの。愛って何なのか、ずっと分からなかった。誰も私に、無条件に優しくしてくれたことはなかった」

春樹は息を呑んだ。

「でもね」霞は続けた。「私にはもう、時間がないの」

「時間が、ない?」

「膵臓癌。ステージ四。余命は、半年から一年」

霞は淡々と告げた。その目には、諦めではなく、静かな決意があった。

「死ぬ前に、知りたいの。愛って何なのか。本当に、誰かを愛することができるのか」

春樹は何も言えなかった。ただ、霞の手を握っていた。その手は、震えていた。

「私ね、怖いの。このまま何も知らないで消えていくのが」

春樹は気づいた。この人も、自分と同じように孤独なのだと。

「俺も」春樹は声を絞り出した。「俺も、何も分からないんです。でも――」

「でも?」

「霞さんと一緒なら、何か分かる気がする」

霞は初めて、本当の笑顔を見せた。


五月の半ば、春樹は学校に行かなくなった。

最初は一日だけのつもりだった。でも図書館で霞と過ごす時間が、あまりにも穏やかで、次の日も、その次の日も、足が学校に向かわなくなった。

「学校は?」

霞が紅茶を淹れながら、静かに尋ねた。

「...休みました」

「そう」

霞は何も責めなかった。ただ紅茶を差し出した。

「霞さんは、止めないんですか」

「止めて欲しい?」

「...いえ」

「なら、いいんじゃない。ここにいたいなら、いて」

春樹の目から、涙が一筋流れた。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。

春樹の携帯には、担任から何度か着信があったが、春樹は出なかった。留守電にも、形式的なメッセージが残されているだけだった。


六月初旬。

市立高校の職員室では、春樹の件が「問題」として扱われ始めていた。

「春樹くんの件ですが...」

放課後、担任の山下は生活指導主任の田口と、教頭の前に座っていた。

「一ヶ月の不登校ですね。」

田口が資料を見ながら言った。

「保護者には連絡を?」

「はい」山下は答えた。「父親は『仕事で無理』、母親は『主人に任せている』と。本人とも連絡が取れません」

教頭は眉をひそめた。

「困りましたね。ネグレクトの可能性もある」

「児童相談所に通報すべきでは?」山下が提案した。

教頭は即座に首を横に振った。

「ちょっと待ってください。通報となると、学校の管理責任も問われます。『なぜもっと早く気づかなかったのか』と」

沈黙が流れた。

教頭は咳払いをした。

「まず、形だけでも保護者面談を実施したことにしましょう。記録に『面談を試みたが、保護者の都合で実現せず』と残す」

「でも、実際には...」田口が言いかけた。

「いいんです」教頭は遮った。「こちらは働きかけた、という実績が必要なんです」

「本人への対応は?」

「とりあえず『様子を見る』ということで。夏休みまであと二ヶ月。その間に自主的に来れば問題なし。来なくても、夏休みで区切りがつく」

「...それで、いいんでしょうか」山下は小さな声で言った。

教頭は立ち上がった。

「いいんです。我々は手順を踏んでいる。それが大事なんです。では、保護者への『文書での通知』を作成してください。電話記録も残しておくように」

教師たちは顔を見合わせたが、誰も反論しなかった。


翌日、山下と田口は春樹の家を訪れた。

住宅街の一角にある、ごく普通の一軒家。チャイムを鳴らしたが、応答はなかった。

「いないようですね」

田口は時計を見た。

「まあ、訪問したという記録は残りましたから」

「ポストに手紙を入れておきますか?」

「ええ、『訪問しましたが不在でした。改めて連絡ください』と」

山下が封筒をポストに入れた。

「これで、こちらの義務は果たしました」

二人は車に戻った。誰も、本気で春樹を探そうとはしなかった。


同じ頃、学校ではスクールカウンセラーが報告書を書いていた。

「春樹くん、不登校。保護者との面談なし。本人とのカウンセリングも実施できず...」

彼女はペンを止めて、溜息をついた。

「こういうケース、多いのよね。結局、こちらができるのは『記録を残すこと』だけ」

報告書に記入する。

『継続的な見守りが必要。保護者との連携を引き続き試みる』

彼女は報告書をファイルに綴じ、引き出しにしまった。

「これで、私の仕事は完了」


六月中旬、山下は再び春樹の母親に電話をかけた。

「春樹くんのお母様ですか。担任の山下です」

電話の向こうから、疲れたような声が返ってきた。

『もう、学校には行かせますから』

「はい、でも一度、ご家庭の状況をお伺いしたく...」

『主人が忙しくて、私も仕事がありますので』

「では、お時間のある時に...」

『わかりました。また連絡します』

ぷつり、と電話が切れた。

山下は受話器を置き、記録用紙に丁寧に記入した。

「保護者に連絡。面談を提案するも、都合がつかず...」

田口が通りかかった。

「連絡取れました?」

「一応、電話は繋がりましたが...」

「なら、記録は残りましたね。それでいいです」

田口は満足そうに頷き、去っていった。

山下は記録用紙を見つめた。そこには、春樹という生徒の姿はなかった。ただ、「対応した」という事実だけが記されていた。


その日の夕方、春樹の携帯が鳴った。

図書館の閉館後、霞と二人きりの空間で。画面には「母」の文字。

霞が「出なくてもいい」と目で伝えたが、春樹は震える手で電話に出た。

「...もしもし」

母の声は、驚くほど平坦だった。

『学校から連絡があったわよ』

「...」

『私たち、忙しいの。めんどくさいことはしないで』

春樹は何も言えなかった。

『とにかく、めんどうかけないで。それだけ』

ぷつり、と電話が切れた。

春樹は震える手で携帯を持ったまま、動けなくなった。

霞が近づき、そっと春樹の肩に手を置いた。

「春樹...」

「俺、めんどくさいんだ」

その声は、絞り出すようだった。

「生きてること自体が、めんどくさいんだ」

霞は春樹を抱きしめた。

「違う。あなたは、めんどくさくなんかない」

春樹は霞の腕の中で、声を殺して泣いた。

大人たちの誰も、春樹を見ていなかった。

見ていたのは、書類と、記録と、自分たちの保身だけ。

でも霞だけは、春樹を見ていた。

一人の人間として。


その夜、霞は自分のアパートで一人、窓の外を見つめていた。

手には、病院からもらった診断書。「余命6ヶ月〜1年」

彼女は春樹の泣き顔を思い出した。

「私に残された時間で、できることは何?」

霞の目に、静かな決意が宿った。

「この子を、救いたい」


七月の終わり、春樹は霞のアパートを訪れた。

小さな一室には、本が溢れていた。ドストエフスキー、カミュ、太宰治。孤独を描いた作家たちの本ばかりだった。

「座って」

霞は紅茶を淹れながら言った。

二人は並んでソファに座り、しばらく沈黙が続いた。

「春樹くん」霞が口を開いた。「あなたは、何から逃げているの?本当のことを、聞かせて」

春樹は俯いた。喉が詰まった。でも、霞になら話せる気がした。

「義父が――」

声が震えた。

「義父が、俺に、手を出そうとしたんです」

霞は息を呑んだ。

「母は、見ていたのに、何もしなかった。次の日、母は俺に言ったんです。『面倒な子だね』って」

春樹の目から、涙が溢れた。

「俺は、穢れてるんです。面倒な存在なんです。生きてる価値なんて――」

「違う」

霞が春樹を抱きしめた。

「違うの、春樹。あなたは何も悪くない。穢れてなんかいない」

霞の腕の中で、春樹は子供のように泣いた。

「生きててえらいのよ、春樹」

霞は春樹の頭を撫でながら、何度も繰り返した。

「生きててえらい。ただそこにいるだけで、えらいの」

その言葉が、春樹の凍りついた魂を、少しずつ溶かしていった。

第四章 愛の形

霞の中で、何かが変わった。

「愛を知りたい」という願いは、「この子を救いたい」という使命へと変わっていた。

自分の命が尽きる前に、春樹に「生きる力」を与えたい。彼が自分の足で立てるように、支えたい。

霞は、春樹との時間を、全て彼の自立のために使うことを決めた。

「春樹、料理を教えるわ」

「掃除も、洗濯も。一人で生きていける力を、あなたに渡したい」

「そして何より、あなた自身を愛する方法を」

二人は、まるで母と子のように、そして恋人同士のように、限られた時間を過ごした。

霞は春樹に、無条件の肯定を与え続けた。

「えらいね」「よくやったね」「あなたは素晴らしい」

その言葉の一つ一つが、春樹の心に積もっていった。

夏が過ぎ、秋が来た。

霞の体調は目に見えて悪化していった。体重は減り、顔色は青白くなった。

「入院しなきゃいけないかもしれない」

十月、霞は春樹に告げた。

「それまでに、伝えたいことがあるの」


十一月初旬、霞は入院した。

入院初日、担当の中年の医師が病室を訪れた。その後ろには、若い看護師が控えていた。

「霞さん」医師は穏やかな声で言った。「まずは痛みのコントロールから始めましょう。そして、できる限りのことをします」

「ありがとうございます」霞は微笑んだ。

医師は春樹を見た。

「ご家族の方ですか?」

「いえ」春樹は答えた。「友人です」

「そうですか」医師は頷いた。「霞さん、若い友人がいて良かったですね」

看護師が優しく言った。

「希望を捨てずにいましょうね。私たち、精一杯サポートしますから」

「お二人とも、諦めないでください」医師も続けた。「まだ、できることはあります」

霞と春樹は頷いた。

医師たちが去った後、霞は小さく呟いた。

「優しい人たちね」

春樹は毎日、学校が終わると病院へ通った。

霞の病室は、個室だった。窓からは、色づいた街路樹が見えた。

「春樹」

霞は痩せた手で、春樹の手を握った。

「私、幸せだったわ」

「霞さん――」

「あなたに会えて、あなたを愛することができて。私、初めて分かったの。愛って何なのか」

霞は微笑んだ。

「愛は、相手の幸せを願うこと。相手が自分の足で歩けるように、支えること。そして、いなくなっても、心の中に残り続けること」

「霞さん、まだ――」

「ねえ、春樹。約束して」

霞は真剣な目で春樹を見つめた。

「私がいなくなっても、生きて。ちゃんと、自分の足で立って。あなたには価値があるの。誰にも奪えない、あなた自身の価値が」

春樹は頷いた。涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。

「『星の王子さま』、読んで」

霞はベッドサイドの本を指差した。

「最後まで、読んで欲しいの」


十一月の終わり、霞の意識が混濁し始めた。

医師は春樹に告げた。「今夜が山です」

春樹は病室に残った。

深夜、霞は一瞬だけ目を開けた。

「春樹、そばにいて」

「ここにいます」

春樹は『星の王子さま』を手に取った。

「読みますね」

春樹の声が、静かな病室に響いた。

王子さまとキツネの別れの場面。そして、あの言葉。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

春樹がその一節を読み上げた瞬間、霞の呼吸が止まった。

モニターの音が変わった。

看護師が駆け込んできた。

「もう――」

看護師が春樹に声をかけようとした時、後ろから医師が現れ、静かに首を横に振った。

医師は看護師の肩に手を置き、廊下へと促した。

ドアの外で、看護師が囁いた。

「先生、でも――」

「いいんです」医師は静かに答えた。「あの子に、最後まで読ませてあげましょう」

「でも、患者さんはもう――」

「分かっています」医師は病室のドアを見つめた。「でも、あれは愛なんです。あの少年が、彼女に捧げる最後の愛なんです」

看護師は目を潤ませて頷いた。

「邪魔をしてはいけない。人が人を愛する瞬間を、私たちは守らなければならない」

医師はドアをそっと閉めた。

中から、震える声で『星の王子さま』を読み続ける春樹の声が、かすかに聞こえた。

春樹は、霞の手を握りしめたまま、最後まで読み続けた。

声は涙で震えていた。でも、止めなかった。

「大切なものは、目に見えない――」

春樹は本を閉じた。

そして、声を殺して泣いた。

悲しみと、感謝と、そして解放。

霞が残してくれたもの全てを、春樹は泣きながら受け取った。


春の日差しが眩しい。

春樹は、リュックを背負って、駅のホームに立っていた。

十八歳になった春樹は、家を出ることを決めた。

奨学金とアルバイトで、何とかやっていける。霞が教えてくれたことを、全て胸に刻んで。

ポケットの中に、一冊の文庫本がある。

『星の王子さま』。霞が遺してくれた、唯一の形見。

春樹はそれを取り出し、扉を開いた。

そこには、霞の字で書かれたメッセージがあった。

「春樹へ

生きててえらい。

そのままのあなたで、えらい。

星を見上げて。

私はいつも、あなたを見ているから。

霞」

春樹は空を見上げた。

青い空に、目には見えない星たちが輝いている。

「行ってきます、霞さん」

春樹は笑顔で呟いた。

電車が滑り込んできた。

春樹は、自分の足で、新しい人生へと歩き出した。

霞が残してくれた愛を、胸に抱いて。

誰にも奪えない、自分自身の価値を信じて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。