少年よ、私を抱け
※虐待、ネグレクト、死をテーマにした作品です。ご注意ください。
春樹が図書館に逃げ込むようになったのは、高校二年の春からだった。
家に帰れば、義父の視線がある。母の冷たい沈黙がある。そして何より、自分が「いてはいけない存在」だという、言葉にならない重圧がある。
「面倒な子だね」
母がぽつりと言った言葉が、春樹の胸に突き刺さった。
それから、春樹は図書館に通うようになった。
市立図書館の三階、古い文学全集が並ぶ一角。そこは訪れる人も少なく、春樹にとって唯一の安息の場所だった。
そして、そこに彼女がいた。
司書の霞は、三十代半ばと思われる女性だった。長い黒髪を後ろで束ね、縁なしの眼鏡をかけている。彼女の佇まいには、静謐な美しさがあった。
「また来たのね」
霞は春樹を見ると、微かに微笑んだ。
「ここが落ち着くんです」
春樹は正直に答えた。霞は何も聞かなかった。ただ、紅茶を淹れて差し出してくれた。
それが、二人の始まりだった。
梅雨入りした六月のある日、閉館間際の図書館で、春樹と霞は初めて長い会話を交わした。
「春樹くんは、何から逃げているの?」
霞は唐突に尋ねた。春樹は驚いて顔を上げた。
「逃げてる、って分かるんですか」
「ええ。私も同じだから」
霞は窓の外を見つめた。雨が静かに降っていた。
「私は孤児院で育ったの。愛って何なのか、ずっと分からなかった。誰も私に、無条件に優しくしてくれたことはなかった」
春樹は息を呑んだ。
「でもね」霞は続けた。「私にはもう、時間がないの」
「時間が、ない?」
「膵臓癌。ステージ四。余命は、半年から一年」
霞は淡々と告げた。その目には、諦めではなく、静かな決意があった。
「死ぬ前に、知りたいの。愛って何なのか。本当に、誰かを愛することができるのか」
春樹は何も言えなかった。ただ、霞の手を握っていた。その手は、震えていた。
「私ね、怖いの。このまま何も知らないで消えていくのが」
春樹は気づいた。この人も、自分と同じように孤独なのだと。
「俺も」春樹は声を絞り出した。「俺も、何も分からないんです。でも――」
「でも?」
「霞さんと一緒なら、何か分かる気がする」
霞は初めて、本当の笑顔を見せた。
五月の半ば、春樹は学校に行かなくなった。
最初は一日だけのつもりだった。でも図書館で霞と過ごす時間が、あまりにも穏やかで、次の日も、その次の日も、足が学校に向かわなくなった。
「学校は?」
霞が紅茶を淹れながら、静かに尋ねた。
「...休みました」
「そう」
霞は何も責めなかった。ただ紅茶を差し出した。
「霞さんは、止めないんですか」
「止めて欲しい?」
「...いえ」
「なら、いいんじゃない。ここにいたいなら、いて」
春樹の目から、涙が一筋流れた。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎた。
春樹の携帯には、担任から何度か着信があったが、春樹は出なかった。留守電にも、形式的なメッセージが残されているだけだった。
六月初旬。
市立高校の職員室では、春樹の件が「問題」として扱われ始めていた。
「春樹くんの件ですが...」
放課後、担任の山下は生活指導主任の田口と、教頭の前に座っていた。
「一ヶ月の不登校ですね。」
田口が資料を見ながら言った。
「保護者には連絡を?」
「はい」山下は答えた。「父親は『仕事で無理』、母親は『主人に任せている』と。本人とも連絡が取れません」
教頭は眉をひそめた。
「困りましたね。ネグレクトの可能性もある」
「児童相談所に通報すべきでは?」山下が提案した。
教頭は即座に首を横に振った。
「ちょっと待ってください。通報となると、学校の管理責任も問われます。『なぜもっと早く気づかなかったのか』と」
沈黙が流れた。
教頭は咳払いをした。
「まず、形だけでも保護者面談を実施したことにしましょう。記録に『面談を試みたが、保護者の都合で実現せず』と残す」
「でも、実際には...」田口が言いかけた。
「いいんです」教頭は遮った。「こちらは働きかけた、という実績が必要なんです」
「本人への対応は?」
「とりあえず『様子を見る』ということで。夏休みまであと二ヶ月。その間に自主的に来れば問題なし。来なくても、夏休みで区切りがつく」
「...それで、いいんでしょうか」山下は小さな声で言った。
教頭は立ち上がった。
「いいんです。我々は手順を踏んでいる。それが大事なんです。では、保護者への『文書での通知』を作成してください。電話記録も残しておくように」
教師たちは顔を見合わせたが、誰も反論しなかった。
翌日、山下と田口は春樹の家を訪れた。
住宅街の一角にある、ごく普通の一軒家。チャイムを鳴らしたが、応答はなかった。
「いないようですね」
田口は時計を見た。
「まあ、訪問したという記録は残りましたから」
「ポストに手紙を入れておきますか?」
「ええ、『訪問しましたが不在でした。改めて連絡ください』と」
山下が封筒をポストに入れた。
「これで、こちらの義務は果たしました」
二人は車に戻った。誰も、本気で春樹を探そうとはしなかった。
同じ頃、学校ではスクールカウンセラーが報告書を書いていた。
「春樹くん、不登校。保護者との面談なし。本人とのカウンセリングも実施できず...」
彼女はペンを止めて、溜息をついた。
「こういうケース、多いのよね。結局、こちらができるのは『記録を残すこと』だけ」
報告書に記入する。
『継続的な見守りが必要。保護者との連携を引き続き試みる』
彼女は報告書をファイルに綴じ、引き出しにしまった。
「これで、私の仕事は完了」
六月中旬、山下は再び春樹の母親に電話をかけた。
「春樹くんのお母様ですか。担任の山下です」
電話の向こうから、疲れたような声が返ってきた。
『もう、学校には行かせますから』
「はい、でも一度、ご家庭の状況をお伺いしたく...」
『主人が忙しくて、私も仕事がありますので』
「では、お時間のある時に...」
『わかりました。また連絡します』
ぷつり、と電話が切れた。
山下は受話器を置き、記録用紙に丁寧に記入した。
「保護者に連絡。面談を提案するも、都合がつかず...」
田口が通りかかった。
「連絡取れました?」
「一応、電話は繋がりましたが...」
「なら、記録は残りましたね。それでいいです」
田口は満足そうに頷き、去っていった。
山下は記録用紙を見つめた。そこには、春樹という生徒の姿はなかった。ただ、「対応した」という事実だけが記されていた。
その日の夕方、春樹の携帯が鳴った。
図書館の閉館後、霞と二人きりの空間で。画面には「母」の文字。
霞が「出なくてもいい」と目で伝えたが、春樹は震える手で電話に出た。
「...もしもし」
母の声は、驚くほど平坦だった。
『学校から連絡があったわよ』
「...」
『私たち、忙しいの。めんどくさいことはしないで』
春樹は何も言えなかった。
『とにかく、めんどうかけないで。それだけ』
ぷつり、と電話が切れた。
春樹は震える手で携帯を持ったまま、動けなくなった。
霞が近づき、そっと春樹の肩に手を置いた。
「春樹...」
「俺、めんどくさいんだ」
その声は、絞り出すようだった。
「生きてること自体が、めんどくさいんだ」
霞は春樹を抱きしめた。
「違う。あなたは、めんどくさくなんかない」
春樹は霞の腕の中で、声を殺して泣いた。
大人たちの誰も、春樹を見ていなかった。
見ていたのは、書類と、記録と、自分たちの保身だけ。
でも霞だけは、春樹を見ていた。
一人の人間として。
その夜、霞は自分のアパートで一人、窓の外を見つめていた。
手には、病院からもらった診断書。「余命6ヶ月〜1年」
彼女は春樹の泣き顔を思い出した。
「私に残された時間で、できることは何?」
霞の目に、静かな決意が宿った。
「この子を、救いたい」
七月の終わり、春樹は霞のアパートを訪れた。
小さな一室には、本が溢れていた。ドストエフスキー、カミュ、太宰治。孤独を描いた作家たちの本ばかりだった。
「座って」
霞は紅茶を淹れながら言った。
二人は並んでソファに座り、しばらく沈黙が続いた。
「春樹くん」霞が口を開いた。「あなたは、何から逃げているの?本当のことを、聞かせて」
春樹は俯いた。喉が詰まった。でも、霞になら話せる気がした。
「義父が――」
声が震えた。
「義父が、俺に、手を出そうとしたんです」
霞は息を呑んだ。
「母は、見ていたのに、何もしなかった。次の日、母は俺に言ったんです。『面倒な子だね』って」
春樹の目から、涙が溢れた。
「俺は、穢れてるんです。面倒な存在なんです。生きてる価値なんて――」
「違う」
霞が春樹を抱きしめた。
「違うの、春樹。あなたは何も悪くない。穢れてなんかいない」
霞の腕の中で、春樹は子供のように泣いた。
「生きててえらいのよ、春樹」
霞は春樹の頭を撫でながら、何度も繰り返した。
「生きててえらい。ただそこにいるだけで、えらいの」
その言葉が、春樹の凍りついた魂を、少しずつ溶かしていった。
第四章 愛の形
霞の中で、何かが変わった。
「愛を知りたい」という願いは、「この子を救いたい」という使命へと変わっていた。
自分の命が尽きる前に、春樹に「生きる力」を与えたい。彼が自分の足で立てるように、支えたい。
霞は、春樹との時間を、全て彼の自立のために使うことを決めた。
「春樹、料理を教えるわ」
「掃除も、洗濯も。一人で生きていける力を、あなたに渡したい」
「そして何より、あなた自身を愛する方法を」
二人は、まるで母と子のように、そして恋人同士のように、限られた時間を過ごした。
霞は春樹に、無条件の肯定を与え続けた。
「えらいね」「よくやったね」「あなたは素晴らしい」
その言葉の一つ一つが、春樹の心に積もっていった。
夏が過ぎ、秋が来た。
霞の体調は目に見えて悪化していった。体重は減り、顔色は青白くなった。
「入院しなきゃいけないかもしれない」
十月、霞は春樹に告げた。
「それまでに、伝えたいことがあるの」
十一月初旬、霞は入院した。
入院初日、担当の中年の医師が病室を訪れた。その後ろには、若い看護師が控えていた。
「霞さん」医師は穏やかな声で言った。「まずは痛みのコントロールから始めましょう。そして、できる限りのことをします」
「ありがとうございます」霞は微笑んだ。
医師は春樹を見た。
「ご家族の方ですか?」
「いえ」春樹は答えた。「友人です」
「そうですか」医師は頷いた。「霞さん、若い友人がいて良かったですね」
看護師が優しく言った。
「希望を捨てずにいましょうね。私たち、精一杯サポートしますから」
「お二人とも、諦めないでください」医師も続けた。「まだ、できることはあります」
霞と春樹は頷いた。
医師たちが去った後、霞は小さく呟いた。
「優しい人たちね」
春樹は毎日、学校が終わると病院へ通った。
霞の病室は、個室だった。窓からは、色づいた街路樹が見えた。
「春樹」
霞は痩せた手で、春樹の手を握った。
「私、幸せだったわ」
「霞さん――」
「あなたに会えて、あなたを愛することができて。私、初めて分かったの。愛って何なのか」
霞は微笑んだ。
「愛は、相手の幸せを願うこと。相手が自分の足で歩けるように、支えること。そして、いなくなっても、心の中に残り続けること」
「霞さん、まだ――」
「ねえ、春樹。約束して」
霞は真剣な目で春樹を見つめた。
「私がいなくなっても、生きて。ちゃんと、自分の足で立って。あなたには価値があるの。誰にも奪えない、あなた自身の価値が」
春樹は頷いた。涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「『星の王子さま』、読んで」
霞はベッドサイドの本を指差した。
「最後まで、読んで欲しいの」
十一月の終わり、霞の意識が混濁し始めた。
医師は春樹に告げた。「今夜が山です」
春樹は病室に残った。
深夜、霞は一瞬だけ目を開けた。
「春樹、そばにいて」
「ここにいます」
春樹は『星の王子さま』を手に取った。
「読みますね」
春樹の声が、静かな病室に響いた。
王子さまとキツネの別れの場面。そして、あの言葉。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
春樹がその一節を読み上げた瞬間、霞の呼吸が止まった。
モニターの音が変わった。
看護師が駆け込んできた。
「もう――」
看護師が春樹に声をかけようとした時、後ろから医師が現れ、静かに首を横に振った。
医師は看護師の肩に手を置き、廊下へと促した。
ドアの外で、看護師が囁いた。
「先生、でも――」
「いいんです」医師は静かに答えた。「あの子に、最後まで読ませてあげましょう」
「でも、患者さんはもう――」
「分かっています」医師は病室のドアを見つめた。「でも、あれは愛なんです。あの少年が、彼女に捧げる最後の愛なんです」
看護師は目を潤ませて頷いた。
「邪魔をしてはいけない。人が人を愛する瞬間を、私たちは守らなければならない」
医師はドアをそっと閉めた。
中から、震える声で『星の王子さま』を読み続ける春樹の声が、かすかに聞こえた。
春樹は、霞の手を握りしめたまま、最後まで読み続けた。
声は涙で震えていた。でも、止めなかった。
「大切なものは、目に見えない――」
春樹は本を閉じた。
そして、声を殺して泣いた。
悲しみと、感謝と、そして解放。
霞が残してくれたもの全てを、春樹は泣きながら受け取った。
春の日差しが眩しい。
春樹は、リュックを背負って、駅のホームに立っていた。
十八歳になった春樹は、家を出ることを決めた。
奨学金とアルバイトで、何とかやっていける。霞が教えてくれたことを、全て胸に刻んで。
ポケットの中に、一冊の文庫本がある。
『星の王子さま』。霞が遺してくれた、唯一の形見。
春樹はそれを取り出し、扉を開いた。
そこには、霞の字で書かれたメッセージがあった。
「春樹へ
生きててえらい。
そのままのあなたで、えらい。
星を見上げて。
私はいつも、あなたを見ているから。
霞」
春樹は空を見上げた。
青い空に、目には見えない星たちが輝いている。
「行ってきます、霞さん」
春樹は笑顔で呟いた。
電車が滑り込んできた。
春樹は、自分の足で、新しい人生へと歩き出した。
霞が残してくれた愛を、胸に抱いて。
誰にも奪えない、自分自身の価値を信じて。




